カトリック情報 Catholics in Japan

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ガザ、今から再建しても2040年までかかる見通し

2024-05-06 14:11:02 | 時事

 先週、木曜日に発表された国連の試算によると、今日戦争が終わったとしても、約7か月にわたるイスラエルの爆撃と地上攻撃で破壊されたすべての家を再建するには2040年までかかるという。

 国連開発計画によると、ガザ地区再建の費用は300億ドルから400億ドルと推定されている。 「この戦争が続く日ごとに、ガザの住民とすべてのパレスチナ人に多大な、そして増大するコストがもたらされる」とUNDP長官アヒム・シュタイナーは述べた。

 住宅建物の72%が全壊または半壊した。 10月7日以降、ガザでは発生した瓦礫の量は3,700万トンに上る。

 UNDPの報告書によると、ガザにおける社会建設(経済、教育、保健、インフラ)は40年分、後退した。 「40年間の努力と投資が水の泡になってしまった」とアブダラ・アルダルダリは嘆く。



9-3-7 護国卿という独裁者

2024-05-06 14:06:03 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
7 護国卿という独裁者

 一六五一年九月、クロンウェルは凱旋将軍としてロンドンに帰ってきた。
 しかし共和国政府はけっして安定したものではない。
 共和国の誕生以来、残部議会が権力をにぎりつづけ、軍の要望である即時解散をけり、その地位に執着していた。
 最高司令官であるばかりでなく、議会の一員であったクロンウェルは、軍と議会との協調をはかったが、成功しない。
 ついに彼は決意する。
 「きみたちは議会ではない。議員ではないといってるんだ。きみたちの会期を終わらせよう。兵士を入れたまえ。」
  一六五三年四月二十日、武装兵士が議場にはいり、議会を解散させた。
 クロンウェルは国王派や長老派が選出されることをおそれて、新議会の総選挙を行なわず、各州の教会から適任者を推薦させ、これを軍会議が検討して議員に指名する方法をとった。
 この議会は「指名議会」とも、「聖者議会」ともよばれ、政治上の要求では水平派の流れをくんでいる。
 そして、教会の財源である十分の一税を廃止するとか、「邪悪の迷宮で、あいも変わらぬ詐欺師の府」とよばれる大法官裁判所を廃止するとか、法律を改めるとか、いっきょに急進的な改革を行なおうとした。          

 このため有産階級のあいたに、ひじょうなセンセーションをひきおこした。
 おどろいたランバートら軍幹部は、議会内の穏健派にはたらきかけ、一六五三年十二月十二日、軍司令官クロンウェルにすべての権力をゆずることとして、議会を解散させた。
 一応、議会の自発的解散ということになっているが、事実上はクーデターにほかならない。
 ひきつづいて一六五三年十二月十六日、軍幹部の起草にかかる「統治章典」が成立した。
 「憲法なし」といわれているイギリス史上、唯一の成文憲法である。
 これによってクロンウェルは護国卿の地位についた。
 第一条に「立法上の最高の権限は、ただ一人の人および議会に召集された人民にある。このただ一人の称号を護国卿とする。」
 第二条に「人民に対する最高統治権の行使および政府の行政権は、護国卿に存する。」

 とあり、議会が最高権をにぎっていた「人民協約」と異なり、護国卿の立法、行政にわたる地位が大きくあらわれている。
 統治章典は護国卿の独裁を肯定したものとはいえないが、権力集中への道をひらくものであった。
 護国卿政権に対しては左右両翼からの反対が強かった。
 水平派の残党のほかに長老派、国王派にも陰謀があり、一六五三年、国王派のペンラドックの反乱が起こった。
 クロンウェルはこれを機会に独裁化の方向をとり、全国を十二軍区に分け、各軍区に軍政長官をおいた。各軍政長官は民兵を指揮するほか、租税の徴収、治安の維持、ピューリタンの禁欲主義的道徳の保持にあたった。
 競馬、闘鶏、曲芸、見世物が禁止され、居酒屋が監視され、日曜日にはロンドン市中祈祷と讃美歌以外の物音は、いっさい聞こえなかったと伝えられる。
 護国卿の地位を占めたクロンウェルは、外国からみれば、まぎれもない国家の元首である。
 「王の権力でも、彼の権力より大きいことはない」と評されるほどであった。
 一六五七年二月、議会でクロンウェルを王にしようという提案がなされた。
 軍政長官による軍事独裁よりも、このイギリス人になじみがある王と議会という伝統的体制に復帰したほうが安全であるし、かつ世襲制が導入されることにより、クロンウェル死後の後継者問題からおこる無政府状態を避けることができると、考えられたからである。
 議会は「謙虚な請願と勧告」という憲法改正案をつくって、クロンウェルに受諾をせまった。
 しかし、軍隊の反対が強い。軍隊から背くことのできないクロンウェルは、これを拒否した――
 「私は王の称号をもって、政府をひきうけるわけにはいにかない。」
 こうしてクロンウェルは王号こそ用いなかったが、このころ紫の礼服をまとい、黄金の笏(しゃく)を手にし、さながら王者のようであったという。
 しかし、彼は健康がすぐれず、一六五八年九月、インフルエンザのため世を去った。五十九歳。
 クロンウェルのあと、三男のリチャード(一六二六~一七一二)が護国卿になった。
 彼は父とちがって、議会と軍との対立をおさえる器量がなかった。
 そこで両者の対立がおこり、軍は議会を解散させ、一六五九年五月、リチャードは護国卿の地位をしりぞいた。
 このあとランバートらの軍がめざしたのは、軍事独裁の強化である。
 これに対し、スコットランド方面軍司令官モンク(一六〇八~七〇)が南下し、六〇年二月ロンドンにはいった。
 議会の自由を守るという口実である。
 モンクは元来、国王派であったが、第一次内乱のとき議会軍に捕えられてから、その指揮官になっており、いままた寝返ったのだ。
 そして彼は、オランダに亡命中のチャールズ二世と交渉するとともに、残部議会に長老派議員を復帰させて長期議会を復活し、王政復古への道をひらいた。



聖ドミニコ・サヴィオ証聖者     若者、青少年の保護の聖人

2024-05-06 11:17:47 | 聖人伝
聖ドミニコ・サヴィオ証聖者     若者、青少年の保護の聖人      記念日 5月 6日



 「罪よりもむしろ死を」これは少年聖人ドミニコ・サヴィオが7歳で初聖体を受けたときに立てた決心の一つである。実際、彼はイエズス、マリアに信頼し、利己心と戦い、聖ドン・ボスコの導きの決心を生涯守り通した。

 彼は1842年、イタリア、トリノ近郊のリバ・ディ・キエリの鍛冶屋の次男に生まれた。敬虔な両親に似て信心深く、5歳になるとミサ仕えをしようと、雨の日も風の日も毎朝教会に通い、その入り口にひざまずいて頭を垂れ、小さな手を胸に組んで戸が開くまで祈っていた。
 夕方、仕事に疲れた父親の顔を見ると、ドミニコは「おとうさん、疲れた?僕はいつもお父さんが元気でいるようにって、それから僕がよい子になるようにって祈っているよ」と言うのだった。小学校では勤勉で成績がよく、しかも信心深いので規定の11歳を繰り上げ、7歳で初聖体を許された。

 1852年、恩師クリエロ神父は10歳のドミニコのうちに司祭への芽生えを読みとり、念入りにこれを育てた。翌年の冬のある日、教室のストーブに石と雪が詰め込んであった。教師のクリエロ神父は怒った。犯人のいたずらっ子たちは怖くなって、おとなしいドミニコにその罪をなすりつけた。
 ドミニコはとんだ濡れ衣を着せられてびっくりした。最初は弁解しようとしたが、あとで黙っていたほうがいいと思い直し、皆にかわってさんざんにしかられた。しかしあとで全部はっきりした。「どうして最初自分でないと言わなかったんだ。」「先生、僕はイエズス様を考えました。イエズス様も不正な訴えをお受けになったのですから」少年ドミニコは人のために苦しむ価値をすでに悟っていたのだった。

 1854年、12歳の時、ドミニコはクリエロ神父の紹介で、青少年の教育を目的とするサレジオ会創立者ドン・ボスコに会った。その最初の出会いの印象をドン・ボスコは書いている。「すぐ親しみをもった。彼は私に、私は彼に・・・。」やがてドミニコはトリノ近郊のドン・ボスコの学院に入った。

 住み慣れた家や遊び仲間と離れてつらく感じるときとか、困難なときに、ドミニコは聖母の祭壇のもとにひざまずき、初聖体のときの決心を繰り返した「聖母マリア様、あなたに僕の心をささげます。いつまでもあなたのものとしてお受け取りください。一つの罪を犯すくらいなら、どうぞ僕を死なせてください」と。
 そして13歳のこの少年は、「僕が聖人になるのを神は望み給う。だから僕はそうならねばならない」という信念の旗を掲げて前進した。それにはドン・ボスコのすすめた方法、つまり「たえず平静な快活を保ち、信心と勉学の義務を怠りなく努め、友達といっしょに遊ぶのがよい」を実践した
 ドミニコはしばしば告解と御聖体の秘跡を受け、理由なく聴罪司祭を変えなかった。聴罪司祭を変えよと勧める友達があると彼はこう答える。「聴罪司祭は心の医者です。医者を変えるときは、その人への信頼を失ったときか、あるいは、もう病気のなおる見込みのないときです。僕はそのどちらでもないので変えません」と。
 14歳のとき「僕は聖母のために何かしたい。ときが無くならないうちに・・・」と考えたり祈ったりした末、仲間を集めて「無原罪の聖母の信心会」をつくった。この目的は、ドン・ボスコの手足となって、少年達を告解や、御聖体の秘跡に近づかせ、学院の生徒の道徳を向上させることにあった。
 たとえば、ドミニコは秘跡に遠ざかっている連中に近づき、ちょっとの休みの時間を利用してはなにげなくはなしかける。「土曜日いっしょに告解に行こうか?」相手はとっさに「そうしよう」と答える。ドミニコは、この「そうしよう」を忘れず、土曜日になると彼を誘ってドン・ボスコの許に連れていった。
 ある祝日に、一人の少年が一枚の新聞を学院に持ち込んだ。少年達は下品な絵や、わいせつ記事ののっている新聞を取り囲んで、げらげら笑っていた。ドミニコも何事だろうと近寄ってみた。彼は黙ってそれを取り上げ皆の見ている前で破った。
 「目は被造物の美しさを見るために神様から与えられたのだ。それにきみたちは霊魂を滅ぼすためにこんなものを見て喜んでいるのかい?」「別に喜んでやしないよ、見て笑っていただけじゃないか」一人がふくれっつらで答えた。「まさか笑いながら地獄へ行きたくないだろう?」「だけど君の言うほど悪いものではないじゃないか」「そうかなあ、こんなもの見慣れた人間だけだよ、そんなことを言うのは、きみ」真心からの忠告は皆の心にこたえた。彼等は黙って散っていった。
 だが、いつも忠告がすなおに受け入れられるとは限らない。ある日、ちょっと注意してやったひとりの友達から、ののしられたたかれた。ドミニコは怒りをじっと静めていった。「きみ、こんなことはもうしないでくれ、少なくとも他の人には・・・」また悪い言葉を口にする少年をいましめたり、石を投げ合ってけんかしている二人の少年を仲直りさせたりした。

 ドン・ボスコのすすめに従って、ドミニコはむち打ちや断食をあきらめ、その代わりに学校の規則を守ること、目と舌を慎むこと、侮辱を忍耐すること、暑さ寒さ、疲労病気を喜んで神の御手から受けることなどを自分の苦業とした。
 もともと身体の弱かったドミニコは、いつも忍耐づよく明るく生活していたが、絶え間ない精神の緊張と、熱心な勉強に精力を消耗し、とうとう肺炎の犠牲となり、1857年3月9日15歳の若さで神の御許に帰った。彼は死後、父に現れて、天国の光栄をうけていることを知らせた。

 教皇ピオ11世は、彼のことを「小さい偉大な聖人」、あるいは「精神の巨人」と呼び1933年に列福した。またピオ12世は1954年に列聖し、若者の保護者とした。

 聖ドミニコ・サヴィオは生前、特別な恵みを神からいただいており。まぼろしのなかで英国教会が、いつかローマ・カトリック教会と一致を見出すのをみて、それを預言したという。