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地獄について この無視された真理   ◆4、聖ドン・ボスコが見た出現

2017-04-27 05:31:00 | 天国・地獄
『地獄について この無視された真理』アロイジオ・デルコル神父、24

◆4、聖ドン・ボスコが見た出現

 この出現は夢の形になっているが、聖ドン・ボスコは特別な恵みによって、この出現をうけた。1868年5月3日の夜である。その前にも悪魔はガマの姿をとってドン・ボスコを長い間苦しめていたが、今度は、守護の天使と思われる道案内者が、かれを起していった、「さあ立って、わたしといっしょに来なさい」と。

 こうして、ふたりは非常に広い野原に入ったが、そこは完全に乾燥していて、砂漠のように、水の小さな流れさえもなかった。長いあいだ旅路はつづいたが、淋しかった。道は広く便利で、その左右に美しい花の咲いた垣根があった。はじめは、たいらな道のようにみえたが、実際は坂道で、ものすごいスピードで走るようになった。

 とつぜん、ドン・ボスコがふりかえると、オラトリオ(トリノ市の聖ドン・ボスコの学校)のすべての生徒と今まで見たことのない沢山の子どもたちをみた。よく注意してみると、子どもたちのなかには、次々にたおれるものがいて、遠くにみえた恐ろしい坂道に目にみえない力でひっぱられていた。ドン・ボスコは道案内者にきいた、

「あの子どもたちをたおすのは何ですか?」

「もう少し近づいてみなさい」

 よくみると、子どもたちは、沢山の"わな"の間を進んでいた。わなのあるものは、地面すれすれにあったがあるものは、空中にあって、頭の高さほどの所にもぶらさがっていた。でも、わなは見えにくかった。そのために、多くの子どもたちは、頭や、くびや、手、腕、足、脇などをわなにとらえられた。するとわなはすぐ、きつくしまり、子どもたちを急に下のほうにひっぱっていた。

 ドン・ボスコは、しらべるために、わなの一つを自分のほうにひっぱったが、それは動かなかった。それで、わなにそって行くと、恐ろしいほら穴のいり口についた。かれは、そのわなを強くひっぱった。すると、大きな、みにくい怪物が出てきた。怪物はその爪で沢山のわなのひもをにぎっていた。

「子どもたちを堕落させるものが誰かわかっただろう」と道案内者。

「よくわかりました。子どもたちを地獄におとすためにわなをかけるのは悪魔です」

 ドン・ボスコが、もう少しよくしらべてみると、わなの一つ一つに何か書いてあった。かれは読んでいった、傲慢、わがまま、不従順、ねたみ、不潔、泥棒、どんしょく、怠惰、いきどおり。

 いちばん子どもたちをたおすのは、不潔と不従順と傲慢のわなであった。不潔と不従順のわなは、徹慢のわなに結びついていた。

 さいわい道には沢山のナイフがうえられていた。多くの子どもたちは、上手にわなにかからないように歩いた。わなにかかったある子どもたちは、そのナイフのそばに行って、わなを切ったり、こわしたりしていた。ナイフは、罪のゆるしの秘跡と祈りと他の善徳と信心業のシンボルであった。また一本の大きな刀があって、それはご聖体のイエズスと聖母マリアに対する信心を示していた。

 それからドン・ボスコは、その坂遺をくだって、まっ黒い莫大な建物の前に出た。その建物には、非常に高い門があって、「あがないのみこみがない所」と書いてあった。やっぱり地獄の門にたどりついたのだと、かれは思った。

「ごらん!」と道案内者はドン。ボスコにいった。すると、ひとりの子どもが、恐ろしいかっこうをしておりてきて、地獄の門にぶつかった。すると門はすぐ開いて、その門の次に、同時に恐ろしい音をたてて、2つ、10、100、1000の他の門が開かれた。ちょっとの間、これらの門はみな、あけっぱなしになっていたので、その奥に遠く、大きなかまどの口が見え、子どもがそれに落ちると炎が出て、門は全部とじられた。

 それから、なん人かの他の子どもがその中に落ちてきた。

 恐ろしくなって見ていると、ひとりの子どもが他の子どもに押されてたおれてきた。

「ごらんのとおり、多くの人が地獄におちるおもな理由はこれです。悪い友だち、悪い本、悪い習慣」と道案内者は説明した。

 たおれる子どもが非常に沢山であるのをみて、ドン・ボスコは失望した声でいった。

「子どもたちのために、学校でわたしたちはこれほど働いているのに、こんなに沢山亡びるなら、わたしたちの働きは無駄ではないでしょうか?」

「あなたが今見ているのは、子どもたちの今の状態です。悔い改めないで、そのまま死ぬなら、必ず亡びてしまいます」

 そのとき、あと何人かの子どもたちが落ちてきて、かれらが門に入ると、門はすぐしまらなかった。

「さあ、あなたも、いっしょに入りなさい、沢山のことを学ぶでしょう」と道案内者がいって、ふたりははいった。向こうにつくと、一つの門がしまっていて、その上に「悪人は永遠の火に入る」と書いてあった。

 道案内者は、ドン・ボスコの手をとって、その門をあけ、ドン・ボスコを入れた。かれはものすごい場面をみて、いいようのないほど恐ろしくなった。おしはかることもできないほど大きなほら穴が沢山の山の中に入りこんで、ぜんぶ炎でいっぱいだった。地上でみる火ではなく、あまりの熱のために、すべては燃えて白くなっていた。壁も、床も、鉄も、石も、木も、石炭もみなまっ白だった。

 はかることも出来ない高温なのに何ももえつくさない。

 ドン・ボスコが恐れおののいて眺めているうちに、ものすごいスピードでひとりの青年が落ちて、非常にするどい叫び声をあげ、火の中に落ち、かれもまっ白になった。その青年をみて、ドン・ボスコはいった、

「この人は、わたしの隼徒の中のひとりじゃないか」

「残念なことにそうだ」と道案内者。

 そのあとで次々に、ほかの子どもが落ちてきて、その数がますますふえ、みんな、ひどい姿になった。

「でも、この人たちは、こんな所に来るのを知っていたのですか?」とドン・ボスコはきいた。

「知っていたとも、永遠の地獄に入ることを知っていましたよ。何回も何回も注意されたのに、罪をやめることを断ったのです。.つまり、自分で選んでここに来るのですよ。かれらは、神のおんあわれみが心を改めるように絶えず呼びかけているのに、頑固に断ったのです」と道案内者。

「今度は、あなたもその火に入ればいい」と道案内者。

「いやだ!いやだ!地獄に落ちるまえに神の審判があるのではないか?わたしは、まださばきを受けていないから、絶対に地獄の火に入りたくない」

「あなたは、地獄の苦しみにいる子どもたちを外から見るよりも、子どもたちを助けるために、あなたも地獄に行ったほうがいいんじゃないですか」と道案内者。

 こういわれて、ドン・ボスコはいった、

「わたしは、わたしの子どもたちを非常に愛していて、みんなが救われるようにしたいのです。でも、わたしも子どもたちも地獄に行かないたあには、どうすればよいのですか?」

「安心しなさい、あなたも子どもたちもまだ余裕があります。できるだけのことをするならば」と道案内者。

 こういわれて、ドン・ボスコはほっとして、「子どもたちを地獄の苦しみから救うことができるなら、どんな苦労でもします」といった。

「では、ここに入りなさい」と道案内者はいって、ドン・ボスコの手をとり、一つの大きなほら穴にいれた。想像もできないほど大きなホールみたいなものがあって、まわりに沢山の門があり、その門には中がみえないようにカーテンのようなものがあった。道案内者は一つのカーテンの前にとまった、そのカーテンに「第6戒」と書いてあるのを指さして、ドン・ボスコにいった、「多くの若者が永遠に亡びる理由は、このおきてを守らないからです」

「でも、告白したでしょう」とドン・ボスコ。

「そうです、告白したのです。でも、貞潔にそむいた罪をごまかして告白したか、あるいは、ぜんぜん言わなかったからです。あるものは、小さい時にそのような罪を犯して、あとで告白しても、恥ずかしさのためにいわなかったのです。あるものはまた、痛悔の心も、よい決心もなかったのです。わずかではあるが、あるものは、良心の糾明をするかわりに、神父さまを、どういってだませばよいかとしか考えていませんでした。神がなぜあなたを、あわれみ深くここに導かれたかを知りたいですか?」

道案内者がカーテンを開けると、オラトリオのなん人かの子ども、ドン・ボスコがよく知っていた子どもがそこにいるのを見た。驚いたことに、今よい生活をしている子どもたちもいた。

「この子どもたちが救われるように、どんなふうに、いいきかせたらよいでしょうか?」とドン・ボスコ、

「どこででも、不潔の罪をさけるように説教なさい」

 いま不潔の罪を犯していない人でも、あとで悪魔のいざないに負ける危険があるから、警戒させねばならないのである。ドン・ボスコは、道案内者の説明をきき、他のカーテンの中もみた。ちがった罪のために、そこに落ちた子どもたちが沢山いるのをみた。こうして、その大さなホールをしらべてから、長い長いトンネルを通って入り口のいちばん外側にある銅の門の所に来た。道案内者はいった、

「ほかの人の苦しみを見たでしょう、でも今あなたも少しぐらい地獄をためさねばなりません。この壁にさわりなさい」

 ドン・ボスコは、そうする勇気かなくて逃げようとしたが、道案内者は、無理にかれをとめて、「容赦なしにあなたも、ためさねはなりません」というと、ドン・ボスコの腕をつかんで、あの壁のぞばまでひっぱっていった、

「一回だけでいいから、さわりなさい。それは、外側の壁がこんなものであるなら、いちばん内側の壁はどれほど恐ろしいかをさとるためです。

 この外側の壁をごらん、地獄のほんとうの火がある壁から計算すれば、この壁は千番目です。ほんとうの火を取り囲む壁は千もあるからです。これらの壁は、1000尺度の厚みがあって、おたがいにくっついているのではなく、それぞれ10OOマイルのへだたりがあります。それでこの壁は、地獄のほんとうの火から百万マイルはなれていて、地獄の最低限度のはじまりにすぎません」

 こういうと、道案内者は、ドン・ボスコの手をとり、にきりしめたこぶしを無理に広げると、あの1000番目の壁の石におしあてた。ドン・ボスコは、耐えられないほどの激しい痛みを感じ、大きな叫び声をあげて、目がさめた。

 こうして、地獄の出現は終わったが、ドン・ボスコはその夜苦しくて、ずっと眠れなかった。朝になって、手をみると、手はほんとうにふくらんでいて、手の平の皮膚はぜんぶはがれてしまった。

ドン・ボスコは子どもたちに、この夢を話して、こうむすんだ、

「わたしは地獄をみたままではなく、恐ろしいところをやわらげて話しました。それは、きみたちを余りにも恐れさせないためです。でもわたしは、あのときに感じた恐ろしさのために、そのあといく晩も眠れなかったのです」と。

 こうして、地獄の出現は終わったが、ドン・ボスコはその夜苦しくて、ずっと眠れなかった。朝になって、手をみると、手はほんとうにふくらんでいて、手の平の皮膚はぜんぶはがれてしまった。

 ドン・ボスコは子どもたちに、この夢を話して、こうむすんだ、「わたしは地獄をみたままではなく、恐ろしいところをやわらげて話しました。それは、きみたちを余りにも恐れさせないためです。でもわたしは、あのときに感じた恐ろしさのために、そのあといく晩も眠れなかったのです」と。

幸福の秘訣はロザリオ

2017-04-27 05:29:11 | 格言・みことば
過去と似たような諸悪に対する対処法を探している私たちは、聖ドミニコがカトリック全世界に対してかくも多くの善を施すために使ったのと同じ祈りを使う権利がある。私たちは現代、私たちを苦しめている不幸が消え失せるのを見ることだろう。

教皇レオ13世 回勅『スプレーミ・アポストラートゥス』1883年9月1日

聖ジタおとめ    St. Zita V.

2017-04-27 05:27:39 | 聖人伝
聖ジタおとめ    St. Zita V.   記念日 4月27日

 聖女ジタはイタリアのモンテセグラディ村出身の貧しい両親の子と生まれた。父は早く世を去ったから、忘れ形見を育てる責任は、全くか弱い母の肩一つにかかった訳である。しかし信心深い彼女は、自分の言行を以て子供等に鑑を示し、彼等に敬虔を教え込む術をよく心得ていた。「祈り、且つ働け!」とは、ジタが幼いときから、母に殆ど口癖のように絶えず言われて来た言葉であった。それでジタはこの一句を深く心に銘記して、生涯忘れる時なく、聖徳を積む基礎としたのである。

 12歳になると彼女はルッカという町のさる高貴な家へ女中奉公に住み込んだ。あまりに謙遜で信心深い彼女の振る舞いは、始めかえって人々の軽蔑の種となり、随分邪険な取り扱いも受けたが、彼女は克己抑制、よく一切を耐え忍んだ。その内にその篤信、その従順、その忠実、その職務への熱心は、彼女に最後の勝利をもたらさずにはいなかった。人々はやがてジタを聖女の如く敬愛するようになったのである。
 ジタは忙しい中からミサ聖祭にあずかったり、祈りを献げたりするひまを作る為に、毎朝まだ暗い内から床を離れた。御聖体を拝領した時には、必ず主人一家の為にも祈ることを忘れなかった。彼女は彼等が奉公人である自分にとって聖い天主の代理者であると、硬く信じていたからである。
 夕方女中の務めを終えると、彼女は好んで聖書や信心書の類を読んだ。そしてどんなに暇な時でも決して自分の娯楽を求めなかった。彼女の最大の喜び、彼女の最大の慰めは、天主との霊交の外に無かったのである。
 仕事に取りかかる前に祈るのは言うまでもなく、働きの最中に於いても、ジタは絶えず天主の事を思うに努め、その為出来るだけしばしば短い射祷を唱えた。かくて彼女はその忠実さと勝れた責任感とで、その家の召使い一同の模範となり、いかなる命令にも不平や反抗がましいことは一切言わず、よくそれを果たし、塵ひとつも主人の家の物を私せず、また主人一族に対する悪口讒言などを決して聞き逃すことはなかった。

 ジタは憐れな女中の身分ながら、貧しき者悩める者にはいつも慈母のようであった。自分の得る乏しい報酬は殆ど残らずこれを貧民に施した。そして困窮の者を救う為には主人の許しを得て、自分の食べ物を節したことさえある。また主人の家の人々の着古した物などがあれば、衣服に事欠く人たちを喜ばせる為に、その破れたるを継ぎほころびたるを繕う労を少しも厭わなかった。
 この博大な貧民への愛には、天主も叡感あったのか、奇跡を以て報い給うた事も一再ならずあった。ある日の事である、病み衰えた一人の乞食がその家の門前に立て、一口の葡萄酒を求めた。しかしあいにく葡萄酒は少しもなかったので、ジタが仕方なく一杯の清水を与えると、相手はいかにも嬉しそうに舌鼓打って飲み始めた。見れば清水はいつのまにか、高価な葡萄酒に変わっていたのである。

 ジタはルッカ家にあること四十八年、終始変わらぬ誠を以て主人の家の為に尽くしたが、ようやく体力衰えて病みがちになるや主人は一切の仕事を免じ、ひたすら静養を免じた。しかしあくまで勤勉な彼女は「私が何もせずに死ぬのは耐えられません」と答えて、及ぶ限り仕事をやめなかったという。
 いよいよ永遠の安息に入る日が近づくと、彼女は感ずべき敬虔な態度で御聖体を受け、1272年4月26日、60歳を以てその生を終わった。彼女の墓に於いては無数の奇跡が起こり、為に教皇インノチェンチオ12世は、1696年ジタ列聖の盛儀を挙げられた。彼女は今も一般召使い奉公人達に保護の聖人として深く崇敬されている。

教訓

 「祈り、且つ働け!」とは聖女ジタ生涯のモットーであった。我等も祈りと働きをもって、忠実に我等の義務を果たそう。聖女ジタはかつて「天主を敬い、従順で仕事を愛し、之を忠実に果たすのは、奉公人としてこの上なく聖いことです」と言ったことがある。之は総て他人に仕える者の踏むべき道と言ってよい。この諭しをよく守るならば、必ずやあらゆる被造物の仕えるべき生死の支配者たる主から、報酬として永遠の幸福を与えられるであろう。