ここんとこ読んだ本.
ハーシュコップ他『バフチンと文化理論』
ホルクイスト『ダイアローグの思想』
ワーチ『行為としての心』
ここんとこバフチンを中心に読み,言語論の部分の記述に使うはずだったのですが,大きく外れました.
ホルクイスト.そしてハーシュコップ.読んでもぜんぜんわからんかった.バフチンが様々な分野で多様に解釈・利用されていることだけ分かった.
で,それなら言語・教育に関係ある分野でバフチン使ってる人に絞ろうということで再読したのがワーチ.再読だけに,そして関連分野だけに,前の2人のよりは分かりやすかった.でも,訳者あとがきにもあるように,自論展開のための一つの概念としてバフチンを援用しているのであって,バフチン研究ではにゃい.そして,言語論というよりも,「道具としての言語」という立場を強調した行為論.これに沿うと,直接法による第二言語教室で交わされる言葉(第二言語)というのは,「道具」(物質的媒介物)として捉えられる.第二言語という道具を使って教師も学習者も何かしているわけだ.そこで使われている第二言語は学習者にとって他者の道具であるのだが,それに何とか自分の「アクセント」を住まわせようとがんばる.それによって他者の言葉が多少なりとも自分のものになる.しかし,そうして自分のものとした他者の言葉(第二言語という道具)が,本来期待されている道具の使用法どおりかどうかは分からないし,というか,多くの場合使用の仕方も意図も独自のものになってしまう.もし,「他者の言葉」=「母語話者の規範どおりの言葉(例えば日本人の日本語)」 であるとしたら,こんな風に学習者に自分なりの使い方をさせてしまうことは「間違った日本語」を学ばさせることになるのかねえ.面白いけどへんな「教室言葉」が教室内で流行するように.としたら,言語学習にマイナス効果?
しかし,バフチンらにそえば,もともと「規範的構造を持ち辞書的意味だけで成り立っている言語」は抽象化の産物で幻だとも捉えられる.さらに,教室で教師が切り売りして教えている「日本語」は,そんな抽象的な「言語」でもなくて,それをもとにさらに教えるのに便利なように作られた「人工言語」(ロメットヴェイト,ロトマン)ともいえる.
どっちにしたって,教室では「ほんとの言葉」は教えられないということだろうか....としたら,教室では何をしたらいいんだろ.
話はぜんぜん変わるが,日本語教育学会のページで来週の実践フォーラムの予稿集が公開されていたのでチェック.
・・・川口先生が,「personalization」という言葉をお使いになっていた・・・.
・・・外では1970年代にはやった言葉だけども,日本語教育には入ってなくて,で,私の結構自慢のキーワードだったのに・・・.
おろおろしている間に,世界はとっとと進んでいる・・・.
おお.今日は長いぞ.
ハーシュコップ他『バフチンと文化理論』
ホルクイスト『ダイアローグの思想』
ワーチ『行為としての心』
ここんとこバフチンを中心に読み,言語論の部分の記述に使うはずだったのですが,大きく外れました.
ホルクイスト.そしてハーシュコップ.読んでもぜんぜんわからんかった.バフチンが様々な分野で多様に解釈・利用されていることだけ分かった.
で,それなら言語・教育に関係ある分野でバフチン使ってる人に絞ろうということで再読したのがワーチ.再読だけに,そして関連分野だけに,前の2人のよりは分かりやすかった.でも,訳者あとがきにもあるように,自論展開のための一つの概念としてバフチンを援用しているのであって,バフチン研究ではにゃい.そして,言語論というよりも,「道具としての言語」という立場を強調した行為論.これに沿うと,直接法による第二言語教室で交わされる言葉(第二言語)というのは,「道具」(物質的媒介物)として捉えられる.第二言語という道具を使って教師も学習者も何かしているわけだ.そこで使われている第二言語は学習者にとって他者の道具であるのだが,それに何とか自分の「アクセント」を住まわせようとがんばる.それによって他者の言葉が多少なりとも自分のものになる.しかし,そうして自分のものとした他者の言葉(第二言語という道具)が,本来期待されている道具の使用法どおりかどうかは分からないし,というか,多くの場合使用の仕方も意図も独自のものになってしまう.もし,「他者の言葉」=「母語話者の規範どおりの言葉(例えば日本人の日本語)」 であるとしたら,こんな風に学習者に自分なりの使い方をさせてしまうことは「間違った日本語」を学ばさせることになるのかねえ.面白いけどへんな「教室言葉」が教室内で流行するように.としたら,言語学習にマイナス効果?
しかし,バフチンらにそえば,もともと「規範的構造を持ち辞書的意味だけで成り立っている言語」は抽象化の産物で幻だとも捉えられる.さらに,教室で教師が切り売りして教えている「日本語」は,そんな抽象的な「言語」でもなくて,それをもとにさらに教えるのに便利なように作られた「人工言語」(ロメットヴェイト,ロトマン)ともいえる.
どっちにしたって,教室では「ほんとの言葉」は教えられないということだろうか....としたら,教室では何をしたらいいんだろ.
話はぜんぜん変わるが,日本語教育学会のページで来週の実践フォーラムの予稿集が公開されていたのでチェック.
・・・川口先生が,「personalization」という言葉をお使いになっていた・・・.
・・・外では1970年代にはやった言葉だけども,日本語教育には入ってなくて,で,私の結構自慢のキーワードだったのに・・・.
おろおろしている間に,世界はとっとと進んでいる・・・.
おお.今日は長いぞ.