おばば院生,その後

主婦から40代で大学院入学・博士取得。非常勤日本語教師を掛け持ちしてきた凡人母院生。縁あって大学の先生に。

このところ読んだもの

2007-07-28 00:06:19 | Weblog
ここんとこ読んだ本.

ハーシュコップ他『バフチンと文化理論』
ホルクイスト『ダイアローグの思想』
ワーチ『行為としての心』

ここんとこバフチンを中心に読み,言語論の部分の記述に使うはずだったのですが,大きく外れました.
ホルクイスト.そしてハーシュコップ.読んでもぜんぜんわからんかった.バフチンが様々な分野で多様に解釈・利用されていることだけ分かった.
で,それなら言語・教育に関係ある分野でバフチン使ってる人に絞ろうということで再読したのがワーチ.再読だけに,そして関連分野だけに,前の2人のよりは分かりやすかった.でも,訳者あとがきにもあるように,自論展開のための一つの概念としてバフチンを援用しているのであって,バフチン研究ではにゃい.そして,言語論というよりも,「道具としての言語」という立場を強調した行為論.これに沿うと,直接法による第二言語教室で交わされる言葉(第二言語)というのは,「道具」(物質的媒介物)として捉えられる.第二言語という道具を使って教師も学習者も何かしているわけだ.そこで使われている第二言語は学習者にとって他者の道具であるのだが,それに何とか自分の「アクセント」を住まわせようとがんばる.それによって他者の言葉が多少なりとも自分のものになる.しかし,そうして自分のものとした他者の言葉(第二言語という道具)が,本来期待されている道具の使用法どおりかどうかは分からないし,というか,多くの場合使用の仕方も意図も独自のものになってしまう.もし,「他者の言葉」=「母語話者の規範どおりの言葉(例えば日本人の日本語)」 であるとしたら,こんな風に学習者に自分なりの使い方をさせてしまうことは「間違った日本語」を学ばさせることになるのかねえ.面白いけどへんな「教室言葉」が教室内で流行するように.としたら,言語学習にマイナス効果?
しかし,バフチンらにそえば,もともと「規範的構造を持ち辞書的意味だけで成り立っている言語」は抽象化の産物で幻だとも捉えられる.さらに,教室で教師が切り売りして教えている「日本語」は,そんな抽象的な「言語」でもなくて,それをもとにさらに教えるのに便利なように作られた「人工言語」(ロメットヴェイト,ロトマン)ともいえる.

どっちにしたって,教室では「ほんとの言葉」は教えられないということだろうか....としたら,教室では何をしたらいいんだろ.


話はぜんぜん変わるが,日本語教育学会のページで来週の実践フォーラムの予稿集が公開されていたのでチェック.
・・・川口先生が,「personalization」という言葉をお使いになっていた・・・.
・・・外では1970年代にはやった言葉だけども,日本語教育には入ってなくて,で,私の結構自慢のキーワードだったのに・・・.

おろおろしている間に,世界はとっとと進んでいる・・・.

おお.今日は長いぞ.

夏休み

2007-07-26 09:16:08 | Weblog
先の投稿後,大熱を出してしまいました.楽しみにしていた学会にもいけず,4日間寝てたら頭は空っぽになるし,で,いま空白状態です.まったくの空白状態です.私は誰,状態です.授業を撮らせていただくことになっていたのもキャンセルになり,指導教員からも音沙汰なく・というか音沙汰せず,頭だけでなくて研究のスケジュールも空白です.

とはいえ,そろそろ身辺を整理して,後期に向けて準備しなければなりません.後期は九州の女子大で専門外の「現代日本語事情」と「日本語教育文法」のふたコマを担当します.試験アイテム作りのバイトもやってしまわなければなりません.日本語学校の成績付けもしなければなりません.
しなければなりませんが結構あるのに(仕事の少ない私にとって,大変ありがたいことです),どれもしておりません.
そして一番の問題は,これらと研究をどう折り合いを付けるか,です.研究を一番にもって来るべきだとは思うのですが・・・
ああ,頭は空白.心はうつろ...戻ってきて,私の研究意欲
でも,勉強してもしても,自分の足りなさだけが見えて,前に進めぬ...

居場所

2007-07-09 23:12:31 | Weblog
最近,一週間の暮らしの中で,日本語学校にいる時が一番おちつく.非常勤だけど,週に二日だけだけど,ちゃんと「私の机」(なんと一人に一台パソコンもある)があって,迎えてくれる学生たちと,一緒に頭を悩ませる同僚の先生たち,事務の人たちがいる.
そんなことが合わさって,何だろう,自分を迎えてくれる場所,自分の「居場所」があると感じるから.経済的にはほんとやってられない低賃金なんだけども,今,とても心の支えになってる気がする.

居場所がない,っていうのが,人間,一番きついのかも.
自分をちゃんともってる人なら,なくても平気なのかな.

ばふちん飛ばし読み

2007-07-06 23:57:55 | Weblog
現在は,ばふちん,読んでます.
といっても,大いに飛ばし読みです.
いったん『マルクス主義と言語の哲学』から読み始めて,
これじゃ埒があがらん,というわけで,ともかくバフチンの概要を掴むため,
北岡誠司さんによる解説本を読みました.(『バフチン 対話とカーニバル』)

・・・言ってることがほとんど分かりません・・・.

博士論文のベースになる言語論となるのか,ならないのか.
まだ未知数ですが,
結びつくにちがいないと信じて,読んでます.

・・・いまんとこ,単なる直感ですが・・・.

直感を侮ってはいけません.
きっと大丈夫なのだ.

詩を使ってみましたら

2007-07-05 12:13:15 | Weblog
昨日のボランティア実践クラス(というか,ほとんど「クラス」じゃあなくて,おしゃべり会になってますが・・・)で,へへ,谷川俊太郎の詩を使ってみました.

回を重ねるごとに身にしみるのですが,このクラス,ほんとうに,目的がないんです.
いえ,「自分のことを語る」というのが目的なんですが,「何のために自分のことを語るのか」というところの目的が欠落しているんですよね・・・.もちろん,それが日本語習得にプラスなのだ,というのが自説なのですが,だからって,即席のクラスのメンバーを前に自分のことを語る必然性はまったくないわけで・・・・.

しかし,そんなわたしの悩みもよそに,毎回,いざクラスを開くと,みなさん,しゃべるしゃべるしゃべる・・・.
いつも時間切れで終わりです.

ところで,今回の東京かぶれの私は,やっぱり谷川俊太郎の詩を使ってみたかった.
なんと言うか,ことばを感じてほしかったんですよね.私自身,驚きの体験だったから.俊太郎さんの,ぜんぜん気取らない(よく詩を朗読する人がするような誇張やジェスチャーのない),でいて腹に染み入るようなことばの響き.これがあってのことばなんですよねぇ.(最近かぶれたバフチンの考えでもあります.彼はことばの根源はイントネーションだ,といっています.この場合の「イントネーション」は音声学の用語じゃなくて,「声の上げ下げであって発話対象へのわれわれの態度〔喜び,悲嘆,驚き,疑いなど〕を表現するもの」.桑野隆訳『バフチン言語論入門』p.124でございました・・・)

で,「かっぱ」とかの言葉遊びの詩を用意しました.
で,ほんとは他のエクササイズとくっつけるつもりでしたが,時間が迫ってきたしなんとなく「詩の授業」の雰囲気だったので,来週使うつもりだった「生きる」を使いました.

「かっぱかっぱらった・・・」.
面白がってくれました.
でもどっちかっていうと,詩の朗読に至るまでの河童の話とかのほうが盛り上がりましたかな.

そして「生きる」
時間が十分取れなかったのと,私にどうもテレがあったのとで,どうもどうもだったのですが,語彙がいろいろなのにもかかわらず初中級段階の人たちでもすぐ理解して,しかも気持ちも理解していたようです.大人だもんね.
最後に,一人一文ずつ詩の続きを作文してひとまとまりにしましたが,わずか5分なのにそれなりにまとまりました.

4人の学習者(昨日は4人だけやった…)+日本人3人(日本人も「学習者」と同じ大事な「参加者」)で,こんなのができました.

生きるということ
いま生きるということ
それは自分が一人じゃないっていうこと〔韓国のsweet smileのSくん〕
それは自然を守るということ〔コスタリカのいけめん君〕
それは星がまたたいているということ〔東京タワーかぶれの私〕
それはおいしいものを食べるということ〔日本人のHさん〕
それはごはんを食べられるということ〔中国人のかわいい奥さん〕
それはもっと成長できるということ〔韓国のおちゃめなPくん〕
それは人に出会えるということ〔日本人のNさん〕

私の授業後の感想は,
なんとも脈絡のない・・・
だったのですが,
予期せず,クラス開講の頃から結構参加してくださっている日本人の方二名がふたりとも
「今日のクラスが一番よかった」
と言ってくださいました.

自分のクラスを外から見るのはやっぱり難しい.
あるいは見る視点によって,いかようにも見える.

ともあれ,
「生きる」は,やはり,照れる・・・
清水の舞台並みに,照れちゃう・・・・
てへへ・・・・・
だめだ,やっぱり.
照れながらやるのも,ありだろうかな・・・・・