ようやく春休みがやってきます。
自分が児童・生徒・学生の頃以上にうれしい。
これで、「春休みにします」「春休みにしよう」ととっておいた数々のあれこれに来週から取り掛かれる!
さて、そんな束の間ののどかな休日、あわてて本を読みました。
庵他編『「やさしい日本語」は何をめざすのか』
元々私は「やさしい日本語」の考え方がどうも苦手だ。
思うに、日本社会というナワバリのようなものがそこにあることを前提としていて、かわいそうな弱い一人ぼっちのあなたもその中に入れてあげるね・入(はい)れるようにしてあげるね的な視点が、なんか違う気がして、距離を置きたくなるような、居心地の悪さを感じる。社会に対しても、言語に対しても、人間の能力に対しても、本質主義的な考え方が基盤にあるようで、どうも受け入れられない。社会は既存のもの・不変のものとしてあるのはなく、社会で生きぬいていくのにその社会のマジョリティの言語ができるかどうか(「やさしい日本語」の人たちが言っている意味での「できる」。つまり日本語教育が言う「言語習得」レベル)は二次的・三次的能力な気がする。
・・・って、「気がする」じゃ議論にならないのですがね。
そんなわけで、読んでいる間も苦手で、わずか3時間で読破した背景には壮大なる読み飛ばしがあったのであった。頼みとするのは執筆者の中に私の好きな研究者の方々がいらっしゃることで、その部分で息をつきながら読み飛ばし続けたのであった。
ところが、最後に不思議なことが起こる。
最終章の安田敏朗さんが、それまで「善きもの」として本書で様々な側面から構築してきた「やさしい日本語」論を、それだけでなく「やさしい日本語」そのものを、根底から否定する。それはもう、すべて。わたし的には、「そう、それが言いたかった!」といった感じであった。
が、そして本書はそれに対する返答のないまま、終わる。
まえがきから一貫して「やさしい日本語」の存在を「善」と規定して、その前提の上で、その構築のために検討を論述しておきながら、どうして反論しないのでしょう。
最終章を掲載したことには敬意を表明するけれど、一冊の本なのであれば、編者はやはり最後にまとめとして最終章をふくめて一冊の本としての主張をしっかり述べてほしい。
そうでないのなら、いっそ最終章は載せるべきではなかったのでは、とも思ったのでした。
で、「やさしい日本語」、どうするの?
自分が児童・生徒・学生の頃以上にうれしい。
これで、「春休みにします」「春休みにしよう」ととっておいた数々のあれこれに来週から取り掛かれる!
さて、そんな束の間ののどかな休日、あわてて本を読みました。
庵他編『「やさしい日本語」は何をめざすのか』
元々私は「やさしい日本語」の考え方がどうも苦手だ。
思うに、日本社会というナワバリのようなものがそこにあることを前提としていて、かわいそうな弱い一人ぼっちのあなたもその中に入れてあげるね・入(はい)れるようにしてあげるね的な視点が、なんか違う気がして、距離を置きたくなるような、居心地の悪さを感じる。社会に対しても、言語に対しても、人間の能力に対しても、本質主義的な考え方が基盤にあるようで、どうも受け入れられない。社会は既存のもの・不変のものとしてあるのはなく、社会で生きぬいていくのにその社会のマジョリティの言語ができるかどうか(「やさしい日本語」の人たちが言っている意味での「できる」。つまり日本語教育が言う「言語習得」レベル)は二次的・三次的能力な気がする。
・・・って、「気がする」じゃ議論にならないのですがね。
そんなわけで、読んでいる間も苦手で、わずか3時間で読破した背景には壮大なる読み飛ばしがあったのであった。頼みとするのは執筆者の中に私の好きな研究者の方々がいらっしゃることで、その部分で息をつきながら読み飛ばし続けたのであった。
ところが、最後に不思議なことが起こる。
最終章の安田敏朗さんが、それまで「善きもの」として本書で様々な側面から構築してきた「やさしい日本語」論を、それだけでなく「やさしい日本語」そのものを、根底から否定する。それはもう、すべて。わたし的には、「そう、それが言いたかった!」といった感じであった。
が、そして本書はそれに対する返答のないまま、終わる。
まえがきから一貫して「やさしい日本語」の存在を「善」と規定して、その前提の上で、その構築のために検討を論述しておきながら、どうして反論しないのでしょう。
最終章を掲載したことには敬意を表明するけれど、一冊の本なのであれば、編者はやはり最後にまとめとして最終章をふくめて一冊の本としての主張をしっかり述べてほしい。
そうでないのなら、いっそ最終章は載せるべきではなかったのでは、とも思ったのでした。
で、「やさしい日本語」、どうするの?