おばば院生,その後

主婦から40代で大学院入学・博士取得。非常勤日本語教師を掛け持ちしてきた凡人母院生。縁あって大学の先生に。

読んだもの

2015-02-08 17:37:16 | 読んだもの
ようやく春休みがやってきます。
自分が児童・生徒・学生の頃以上にうれしい。
これで、「春休みにします」「春休みにしよう」ととっておいた数々のあれこれに来週から取り掛かれる!


さて、そんな束の間ののどかな休日、あわてて本を読みました。


庵他編『「やさしい日本語」は何をめざすのか』


元々私は「やさしい日本語」の考え方がどうも苦手だ。
思うに、日本社会というナワバリのようなものがそこにあることを前提としていて、かわいそうな弱い一人ぼっちのあなたもその中に入れてあげるね・入(はい)れるようにしてあげるね的な視点が、なんか違う気がして、距離を置きたくなるような、居心地の悪さを感じる。社会に対しても、言語に対しても、人間の能力に対しても、本質主義的な考え方が基盤にあるようで、どうも受け入れられない。社会は既存のもの・不変のものとしてあるのはなく、社会で生きぬいていくのにその社会のマジョリティの言語ができるかどうか(「やさしい日本語」の人たちが言っている意味での「できる」。つまり日本語教育が言う「言語習得」レベル)は二次的・三次的能力な気がする。

・・・って、「気がする」じゃ議論にならないのですがね。


そんなわけで、読んでいる間も苦手で、わずか3時間で読破した背景には壮大なる読み飛ばしがあったのであった。頼みとするのは執筆者の中に私の好きな研究者の方々がいらっしゃることで、その部分で息をつきながら読み飛ばし続けたのであった。


ところが、最後に不思議なことが起こる。
最終章の安田敏朗さんが、それまで「善きもの」として本書で様々な側面から構築してきた「やさしい日本語」論を、それだけでなく「やさしい日本語」そのものを、根底から否定する。それはもう、すべて。わたし的には、「そう、それが言いたかった!」といった感じであった。

が、そして本書はそれに対する返答のないまま、終わる。



まえがきから一貫して「やさしい日本語」の存在を「善」と規定して、その前提の上で、その構築のために検討を論述しておきながら、どうして反論しないのでしょう。
最終章を掲載したことには敬意を表明するけれど、一冊の本なのであれば、編者はやはり最後にまとめとして最終章をふくめて一冊の本としての主張をしっかり述べてほしい。
そうでないのなら、いっそ最終章は載せるべきではなかったのでは、とも思ったのでした。


で、「やさしい日本語」、どうするの?






よむよむ

2011-08-27 17:53:28 | 読んだもの
衰えた頭で読み続ける。
10年前ならこの倍の速度で倍の理解ができたであろうに…と思いながら。。。

そんなわけで(どんなわけだ)
イヨンスク氏第2冊目『「国語」という思想』読了。出版年的には先に読んだ『「ことば」という幻影』のほうが新しいので逆に読んだわけになるのだが、出版年をさかのぼったほうが理解に良い時もある。
内容続きで、
次は関正昭『日本語教育史研究序説』へと読み続けることになった(した)。

実はそろそろ読書はストップして通信教材の細かい内容づくりに取り掛からなくてはならない。
9月12日から全15回の収録が始まる。
最初は日本語教育諸分野の概説(音声・文字・文法・習得論・教授法・研究法)でコースを作るつもりだったが、ちょっと違うものにしたいと考えている。とりあえず第3回目くらいまで作り、方向を定めておきたい。

1回実質50分でとのことなので、第1回はコース概要と日本語教育史、第2回は「「日本語」とは」でイヨンスクの著作を軸に明治以降の「日本語」「国語」史を踏まえながら「言葉」とは何かについて考えてもらう、第3回は文字の中でも特に明治以降議論の続いてきた漢字の在り方を中心にしてみた日本語を、第4回は明治以降議論されてきた言文一致ということから日本語の音声へ、

・・・言うは易しく行うは難し・・・・ぉぉ。。。

ビデオは相手がわからないので、まずどういう人を対象にするのかを自分の中でしっかり定めておかないとこっちが心理的にしんどい。
今月初めに参加させてもらった教師研修会で、各々の話す様子をビデオで撮影してグループみんなで見て検討する、という活動があった。その経験がとても役立っている。

よしっ。やるべ。


ところで、そうだ、先の本の内容だが、読み終わって、「日本語教育」という言葉がこわくなってしまったよ。

すごいなあと思うこと

2011-08-24 17:06:12 | 読んだもの
むかし、「洋書」を田舎で手に入れようと思ったら、それは素晴らしく大変であった。「洋書」にかぎらず、ごく普通の本でも、隣の市まで1時間電車、いえ、正確にはディーゼル機関車に乗って買いに行った女子高生であった。えらいぞ私。
大学でこの地方の中では都市に移住し、丸善だか紀伊国屋とかに入ったときには、檸檬の話を思い出しつつ、感慨深かったのであった。

そして、あれから30余年。今はほしいな、と思ったら翌日には届く。
古書でも「洋書」でもほとんど翌日手に入る。
なんてこった的にすばらしい。

水谷修監修『日本語教育の過去・現在・未来 第1巻社会』を飛ばし読みで読了。
その中の春原先生の「国際協力の時代から「移民国家論」の時代へ」にいろいろ考えさせられた。

「存在は意味からも形式からも優先してある。文法や文化コードは単なる暮らしの習慣であり、生活様式にすぎない。文脈も意味も形式も社会的実践の前には存在せず、社会的実践の過程で事後的に確認される。言語ゲーム論は、言語が普遍性をもった形式でも文脈から生成される意味の塊でもなく、言語は社会的実践の現場で生み出され、その都度、形式と意味が発見されるものなのだということを説明する。」(p.105)


そうこうしているうちに、昨日注文したイヨンスク『「国語」という思想』、馬渕和夫『五十音図の話』が届いた。
ともに静岡と福岡の古本屋さんから。

なんてこった。


ちなみに、わが故郷はいまだに電車は通っていません。
すごいなー。節電対策ばっちりや。

さっきネットを開いたら、「東北の冬まであと二か月」のことば。
こんなに便利な時代なのに、何もしていない私。だめだ。



さらに2冊。

2011-08-23 17:04:47 | 読んだもの
一日中雨だし、先の記事の状況下、さらに2冊、読みました。どちらも日本語教育概論系です。というか、日本語教育能力検定対策導入本ですな。一応、目を通しとかないと、と思い、お取り寄せして読んだのですが。。。


まず、先のイヨンスク『「言葉」という幻想』の流れで日本語学史のおさらいでアルクの「合格するための」シリーズの真田信治『日本語の歴史30』。以前の「よくわかる」シリーズのほぼ再収録だとはちゃんと書いてありましたが、良識として20年たってそれなりに修正して新たに出したのだろうと思っていましたが、そのままで、各章のおわりに「つけたね」という感じでちょこっと2000年以降の動向が付け足してあるだけでした…。何でこんなことするんだろう、アルク…。ほかの巻も買いなおしたのに…。ひどいよ…。

そして、もう1冊は遠藤織枝編『概説日本語教育』。アマゾンさんで高評価だったのに。なんといっても古すぎる。。。2000年に第1版なので、そこまで古くないかと思って買ったのに、引用・参考文献をみると1990年代前半までの文献、ならまだいいほうで、多くが1980年代の文献で書かれたものばかり…。しかも、内容が薄すぎる…。ひどいよー…。。

日本語教育の概論を限られた分量の中で説こうとすると、その守備分野の広さと変化の激しさで、どうしてもこういうことになってしまうのかもしれない。でも、「だから初学者向けにはこれでしかたがないんよ」というわけにはいかないんじゃないか。初学者の段階で現場に立ってしまうのが日本語教師の現状。しかも現場に入ってしまうと日々の殺人的多忙さで学習機会は限られてしまう。だからこそ、手に取れるものはしっかりした概論書であってほしい。


さて、そんな希望を持って、次は水谷修監修『日本語教育の過去・現在・未来』に入ります。これは「刊行によせて」からして期待大。

その前に息子その1にコーヒーを入れさせておる。

母の日々

2011-08-22 23:18:29 | 読んだもの
息子ふたりが寄生虫、いえ、帰省中で、家でまったりしているので、私もまったりしてしまい、学校にそんなに来なくてもいいらしいのをいいことに、自宅研修(怪しい…)中です。

娘っ子は無事、オーストラリアホームステイの旅をクリアし、明日から今度は修学旅行で沖縄です。ご苦労なこっちゃ。
息子その2は伊豆諸島でのもぐり(海に)の1週間の合宿の後そのまま東京で3日間の初バイト(競輪場で焼きそば作って売ってたそうだ…)をし、そのまま中国旅行に行ったあと成田からそのまま夜行バスでこちらに帰ってきてから、今度は友人と遊びまわった挙句、今夜は気分が悪くなって床に伏しています…。それはそうだろう。。。
息子その1はマイペースで母のご機嫌をとりつつ家でごろついています。

無為徒食の輩たち。しかし、母はなんだかとてもうれしくて、「まあ、そう早く東京に帰らんでもいいやん」というおおらかな気持ちで世話を焼いているのであった。
こうしておばか息子が作られていくのであった…。(かわいいんやけ、ええやん。)


そんな中、9月から通信制大学院用のビデオ教材の収録が始まります。
「日本語教育特論」という科目ですが、とりあえず「専門」のくせに知らないことが多いことに、いえ、知らないことだらけなことに絶望的になりそうです。
そんな中、今日読んだのは、イヨンスク『「ことば」という幻影 近代日本の言語イデオロギー』。世の中には本当に頭のいい人というのがいるのだなあ。。。ただ、「「言語」とは、現実的な発話を可能にするための一定の要素と規則の体系を指すのである。」(p.232)とためらいなく断言する一節には、おばかな私ではありますが、?です。。。
そんな中、(この接続詞が好きだよー)、浮かび上がったキーワードは「国語」「日本語」「母語」「公用語」。そして「言語」。このあたりのキーワードから授業の話を進めていけたらな、と考えていますが、役不足をひしひしと…。


しかし、私なりの授業ができるよう、がんばります。
せっかくの機会をいただいたんだから、おばかはおばかなりの日本語教育論をつくっていこうな、コアラよぉ。

娘っ子のオーストラリア土産。寄り目のコアラさん。



たんたんと

2011-03-24 00:53:17 | 読んだもの
日本中が大変な時に,それでも自己中な私は自分ちのことが頭の中心になっており,ああ,人間が小さいのだなあと思います。それでも確実にテレビを見る時間は半端ではなく,そうしてふと気づけばあと1週間で新年度!なのでした。

今日,研究室に移動させる自分ちの本の荷造りを始めました。
日本語関係の本・教科書は全部学校に移動させ,学会誌などはどうしよーかな,と思ったりしてめくっていると,時々ぼやけた頭にも「おもしろそ」と思うものがあります。

白川俊介(2011)「国境を越える人の移動に関する規範理論的一考察」『比較文化研究』95, 149-162.

Transnationalがテーマと言うことで読んだのですが,サンデル教授でおなじみになった政治的「正義」と関係するもののようでした。「社会構成文化」(societal culture)という概念がキー。この概念,Kymlickaという人の概念と言うことですが,案外,日本語教室の分析にも使えるんでないかなとか気になりました。

Teng-Huang YU & Chung-Hsiang LIU(2011) Transnational marriage in Taiwan: Multi-purpose Vietnamese ethnic stores and eateries, 『比較文化研究』95, 163-172.

南米移民研究にもヒントになりそうです。

も一つ。

小林亮(2010)「留学生の社会的アイデンティティと対日イメージとの関連について―ドイツ人留学生と中国人留学生の比較―」『異文化間教育』32, 64-79.

研究方法が使えないかなと期待している。

が,今日はもう遅いので明日読もう。

明日こそ,朝,ちゃんと起きなくては。

春休みも朝4時半に起きて勉強してお弁当作って学校の自習室に出かけていく娘の冷たい視線がこわいの。