国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

届かなかった手紙

2006-12-29 09:29:36 | 国鉄思いで夜話
妄想特急第4話はお休みさせていただきます。

昨日12月28日は、20年前山陰線余部鉄橋から、「みやび」号が転落事故をおこし、6名の命が犠牲になった日でした。
 月日の流れるものは早いもので、当時郵政の部内訓練で研修中だった私は、家でくつろいでいました。
 インターネットもない時代、唯一のソースはテレビの報道だけ。

 余部で大変なことが起こったらしい、そして次々と流される映像はあの優雅な「みやび」がその姿をとどめぬ姿でした。
 「回送中の列車が強風にあおられて転落したらしい。」
とか、「かに加工工場を直撃して多数のことが亡くなったらしい。」

そういった報道がなされていました。

 現在、かに工場が跡地は整地されて、観音像が建立されており、事故の悲惨さを今に伝えている。

これは、「みやび」に乗車していてなくなったある専務車掌とその家族の物語である。
なお、この物語はフィクションです。

 12月も半ばを過ぎると、慌しさをましてくるものです。
 寺西さゆりさんは、来春結婚を控えて、準備に大忙し、お相手は父親の会社の同僚で大阪車掌区の中村さんという今年28才の好青年です。
 中村さんは、高校卒業後国鉄に就職し駅での勤務を経て憧れの車掌となり、昨年の夏には客扱い専務車掌(通称カレチ)に昇格したのでした。
 さゆりさんのお父さんは、車掌長として大阪車掌区では名物車掌で有名でした。

 さゆりさんのお父さんの名前は熊五郎(くまごろう)といいました。
 熊のようにおおきな体に小さな目・・・
 「熊さん」、「熊さん」区長以下先輩車掌や後輩にも慕われていました。

 大柄な体に不似合いな小さな目が親しみを感じさせるのか、お客様からの評判も上々で、よくお礼状などが「熊さん」宛てとどくのでした。
  
 12月17日、同僚である黒井次郎車掌長が、少し申し訳なさそうに話しかけてきました。
 「実は、今月の28日の「みやび」の乗務を代わってもらえないだろうか。」

熊さんは、ちょうどこの日は非番だったので、特に気にするでもなく
 
「いいよ、ちょうど非番だし・・・」

軽い気持ちで引き受けたのでした、
 
「ありがとう、それじゃ助役に勤務変更の旨伝えておくから。」

黒井車掌長は、当直の助役に勤務変更してもらった旨伝えてその日は明けだったのでそのまま帰りました。

 寺西車掌長は、その日は、特急「はまかぜ号」の乗務のため、慌てて荷物をまとめると
当直助役に点呼してもらいました。
 かっては、福知山・山陰線を経由する「まつかぜ」が山陰線のクイーンとして君臨していましたが、福知山線近代化のあおりで、大阪~城崎まで電化されたことで、直通列車は廃止、鳥取方面直通は「特急はまかぜ」だけになっていました。
  
 「助役 点呼お願いします。」
 「くまさん、それでは始めようか。
 「私からの伝達事項は特に有りませんが、日本海側では雪の予報が出ていますので、足元には十分気をつけてください。」
 「わかりました。
 
 指定席の販売状況などを確認して、寺西車掌長は今日の相棒である中村専務車掌と大阪車掌区をでて始発駅である新大阪駅に向かうこととなった。

 しかし、これが将来の息子、中村車掌との最後の乗務になるとは誰が想像したであろうか。
・・・・この続きはまた後ほど。

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