国鉄があった時代blog版

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第24話

2017-03-26 21:30:28 | 国鉄関連_国会審議
大変申し訳ございません、かなり長い間更新していませんでした、3月5日以来の更新になります。
ここでは、北陸トンネルの事故の際日本海を運転していた機関士に対しての処遇を質問されており、その答弁となるのですが。

>○説明員(高木文雄君) お説のとおりでございまして、私どもも辻運転手のことについては、あくまでりっぱな行動であったということを考えておりますので、そういうことを前提として今後対処してまいりたいと思っております。

この発言を受けて、仮に有罪判決であっても身分保障をしていくことを改めて望むと言う発言をしています。
結果的には、機関士に関しては無罪ということになったのですが、歴史にIFは無いとはいえ、その責任の一端は組合側に,さらに国鉄当局にも帰属する問題となりました。
といいますのは、組合としてはトンネル内での照明点灯は幻惑されたりするので消して欲しいという申し出があり、国鉄当局としても消防側から設備の改修等を求められていたにも関わらず、その必要はないとして積極的に防災設備を行わなかったという不作為が有ったと言われています。

国鉄はその後、昭和48年8月に狩勝実験線で車両の燃焼実験【難燃化対策を穂底した場合とそうでない場合の燃焼状況など】を実験、翌年には世界初であろう走行中の列車の燃焼実験を行っています。

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*****************以下は、当時の国会審議の議事録になります************************

○目黒今朝次郎君 ありがとうございます。
 結審で判決でありますから予断を許しませんが、これは私は全国の動力車乗務員は言うに及ばず、車掌さんあるいは運転保安にかかわる関係職員が非常に注目をして見ておる判決であります。したがって、もし有罪判決があったという場合でも、いま総裁の決意表明に従ってさらにこれを守るための措置をしてもらう。同時に辻機関士の身分保障については、いままでどおり身分を保障して対応していくと、そういうお考えであるかどうか基本的にお伺いいたします。

○説明員(高木文雄君) 仰せのとおりに考えております。

○目黒今朝次郎君 ありがとうございます。
 それで、青函トンネルにも関係するわけでありますが、長大トンネルにおける火災事故、この問題については、北陸トンネル事故が起きたのをきっかけに国鉄側がいろんな試験をやったり、あるいはいろんな改良をやったり、そういうことで北陸トンネル事故が長大トンネルの火災防止及び火災時における運転取扱心得のまあいい意味で出発点になったと、このように私は理解をしていろいろな試験にも立ち会ったわけでありますが、こういう理解については間違いないかどうか、再度今後の問題がありますので確認したいと思います。

○説明員(高木文雄君) ただいまもお触れになりましたように、北海道の試験線であのような大規模な試験をいたしましたし、またマニュアルの変更等も行うということもいたしました。またその他いろいろな面において火災事故に対しての勉強は、まあ災いを転じて福となすと申しますか、あの事故を契機として相当研究が進んだわけでございまして、その意味で非常に犠牲は大きゅうございましたが、それなりの対処も相当進んだというふうに考えております。
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急行瀬戸のお話 第4部

2017-03-06 12:16:07 | 国鉄思いで夜話
さて、いよいよ今回は急行瀬戸のお話の最終回となります。
急行列車に連結されていた食堂車は、昭和47年の北鹿トンネル火災事故でその火元となったオシ17が他の列車からも外されてしまうこととなり、明らかにサービスダウンとなってしまったのです。
当初は火災の原因が特定されておらず旧式の石炭レンジを使っていたことから石炭レンジ=危険ということで運用から外されたのでした。
実際には、喫煙室下の床下電気暖房器の結線不良が原因でしたが新聞などは旧式の石炭レンジがその火元ではないかということで散々書いていたようです。

北陸トンネル火災事故が起こる前、国鉄では20系寝台車に代わる寝台列車として新たに12系客車をベースにした14系寝台客車を開発していました。
画像 Wikipediaから引用
車掌補(乗客案内)の不足を補うため省力化を図るとともに、583系電車で採用された70cm幅の寝台が好評であることから新型寝台車もその幅を確保することした14系寝台車が開発され発電電源装置を置くことで電源車が不要となり結果的に1両余分に連結できるので1車あたりの定員減を補えると考えたようです。
現車は昭和46年10月には先行試作車が製造され試運転を兼ねて急行「瀬戸(下り)2号 (上り)1号」に組み込まれていました。
12系と同様SG管を持つ編成であったことは言うまでもありません。
14系採用の急行瀬戸は寝台幅が広がったことで利用者には好評だったようですが、翌年の3月15日のダイヤ改正では特急化されるのですが20系客車に戻ってしまいせっかく14系で広くなったと喜んだ利用者はさぞがっかりしたでしょうね。

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参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第23話

2017-03-05 15:15:01 | 国鉄関連_国会審議
久々に更新させていただきます、今回は目黒今朝次郎(めぐろけさじろう)議員、日本社会党所属元動労所属の機関士で動労委員長を経て昭和49年(1974)の参議院選挙に出馬し当選しています。

今回の質問は、北陸トンネル火災事故の機関士に対する質問といことで、元動労の委員長らしい視点からの発言であります。
既に皆様もご存じだと思いますが、北陸トンネル火災事故は、食堂車オシ17の喫煙室付近から出火した車両がトンネル内の5km地点で停車したもので、煙にまかれて29名の乗客と指導機関士が死亡し、714名が負傷した事故でした。
このあたりのことは今後さらに私も調べてお話をさせていただきますが、ここでなされている質問は、福井地裁で審理されていた、北陸トンネル事故の裁判について検察側は機関士に対して「禁固二カ月」求刑したことに対して、当時の国鉄は当該機関士に対して2号俸の特別昇給(抜擢昇給)を行ったことに対して、国鉄としては仮に禁固刑がでても機関士を守る意思があるのかという質問をされています。
この機関士は、当時の運転取扱規程に従い、運転していたので何ら問題はなく、最終的には、福井地裁での判決は、無罪となっています。



> 北陸トンネル事故の乗務員に無罪判決 11/25
> 47年11月に北陸トンネル内で急行の〈きたぐに〉が炎上、死者30人、負傷714人(裁判所の認定は569入)を出した事故で業務上過失致死傷罪に間われていた機関士と専務車掌に対する判決公判が福井地裁で開かれ、無罪となった。

実際には1969年12月6日も青森発大阪行きの日本海で最前部電源車から出火して電源車を焼損で食い止めたという事故がありましたが、この際は機関士の機転で規則を無視したことで事なきを得たのですが、結局この乗務員は重大な規程違反を犯したとして乗務から外されることとなりました。
その後、長大トンネルの場合は速やかに脱出することの有効性が確認され、処分は撤回されています。

前置きが解説になってしまいましたが、お読みいただければ幸いです。

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************************以下は本文になります。****************************

   午後一時一分開会
   〔理事桑名義治君委員長席に着く〕

○理事(桑名義治君) ただいまから運輸委員会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、運輸事情等に関する調査を議題とし、質疑を行います。
 質疑のある方は順次御発言願います。

○目黒今朝次郎君 大臣にちょっとお伺いしますが、私も三年ぶりぐらいで運輸委員会に帰ってまいりましたので、国鉄再建論争あるいは羽田論争、いろいろあるわけですが、少し形式的になるかもしれませんが、前の石田運輸大臣、あるいは田村運輸大臣とか、福永運輸大臣、こういう各大臣と、国鉄論争とか総合交通政策で、この委員会で十分私も議論した数々の記録があるわけでありますが、そういうことについては、大臣としてはいままでの国会における委員会の答弁というものについてはこれを尊重し、確認して行う、こういうことについて、冒頭でありますから大臣の見解を聞いておきたいと、こう思うんです。

○国務大臣(塩川正十郎君) これはもう政府の施策というものは継続性を持っております。当然私といたしましても、前、元大臣がとられました政策並びに発言に対しましては、あくまでも責任があるものと思うております。

○目黒今朝次郎君 ありがとうございます。
 国鉄に関する問題等についてはいま衆議院でやられておりますから、その際に十分また論議するとして、きょうは当面の懸案事項について数多く見解を聞きたいと思いますから、私も簡単に質問しますから、答弁の方も簡単に結論だけお願いしたいと思います。
 まず第一点、安全にかかわる問題二、三お伺いいたします。
 一つは、北陸トンネル事故の問題については、発生当時私もこの問題を取り上げて当時の運輸大臣、国鉄総裁と大分やったわけでありますが、抜てき二号昇給というのは国鉄職員としては大変なおほめの措置だと思っておったわけであります。ところが、一九七四年の十二月の二十七日、これが裁判にかけられまして、以来六年間、大分法廷で争われてまいりました。で、一応結審になりまして、十一月の二十四、五日と言われておりますが、判決が出ると報道されております。
 それで、国鉄総裁にお伺いしますが、北陸トンネル事故の辻機関士の問題については、職員として尽くすべき点は全力を尽くしてやったんだ。したがって、自分の生命をかけてやったその措置について、二号俸の抜てき措置をしたんだと。そういう立場で、起訴されても国鉄側としては辻機関士を守ると、こういう精神で戦っていくと、取り組んでいくと、こういうことを表明されておるわけであります。今日結審になって禁固二カ月という求刑がされておるわけでありますが、今日の時点でもそういう気持ちが変わりがないかどうか見解を聞きたいと、こう思います。

○説明員(高木文雄君) お説のとおりでございまして、私どもも辻運転手のことについては、あくまでりっぱな行動であったということを考えておりますので、そういうことを前提として今後対処してまいりたいと思っております。
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急行瀬戸のお話 第3部

2017-02-23 23:36:06 | 国鉄思いで夜話
急行瀬戸のお話 第3部

しばらく開いてしまったのですが、今回も急行瀬戸のお話をさせていただこうと思います。
四国連絡の夜行急行列車として、「瀬戸」と「さぬき」という二つの列車ですが急行「さぬき」は寝台車主体の編成、それでいて「瀬戸」は座席車主体の編成でしたが、今では考えられませんが、いずれにも食堂車が連結されていました。
寝台車主体の「さぬき」にはオシ16が、座席車主体の瀬戸にはオシ17が連結されていました。
ただし、この2列車は昭和43年の白紙ダイヤ改正で瀬戸に統合されてしまいます。
あいにく昭和43年の時刻表が無くて昭和45年しかないのですがこれを参照しますと、下り列車基準で瀬戸1号(旧さぬき)瀬戸2号(旧瀬戸)であり、引続き「旧瀬戸」にはオシ17が連結され、「旧さぬき」にはオシ16が連結されています。

ここでオシ16について簡単に書いておきたいと思います。
ご存知の方も多いかと思いますが、オシ17もオシ16も旧形客車の台枠並びに台車を活かして軽量車体を組み立てたもので新製車が末尾0から始まるのに対して改造車でしたので7~始まる番号付けられていました。(オハネ17も同じ理由です)であり、オシ17がナシ20の基礎となった軽快な本格的な食堂車で「特急つばめ・はと」などに連結されていましたが、ナシ20がオール電化を達成したのに対して、オシ17は石炭レンジと呼ばれる昔ながらの石炭を使うレンジでした。
北陸トンネルでの「急行きたぐに」の車両火災事故で食堂車が火の元であったことから、石炭レンジがその原因ではないかと言うことで一斉に運用から外されることとなりました。
実際には、電気暖房の暖房装置の整備不良で過熱したことが原因であり、石炭レンジには非が無かったのですが、老朽化した時代遅れの危ない食堂車と言うことで復活することなくすべて廃車されてしまいました。

なお、オシ16は特急つばめなどに使われていたビュフェを全室に広げたような車両で、どちらかと言うと軽食並びにお酒を飲むためのバーと言う雰囲気だったようですが、こちらもオシ17同様急行列車の特急化が進んだこともあり昭和47年3月のダイヤ改正までに廃車されています。





昭和45年の時刻表でしばし時間旅行をお楽しみくださいませ。
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参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第22話

2017-02-15 12:25:23 | 国鉄関連_国会審議
画像 Wikipediaから引用

皆様こんにちは、本日も地味に更新させていただこうと思います。
本日も、鉄建公団が昭和58年頃に組織として廃止統合されることについてどのように考えているのかと質問がなされています。
鉄建公団は、実質的にほんの2003年まで旧国鉄(清算事業団を吸収する形で存続し、現在は「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」として「鉄道の建設等に関する業務及び鉄道事業者、海上運送事業者等による運輸施設の整備を促進するための助成その他の支援に関する業務を総合的かつ効率的に行う」ことを目的にして現在に至っています。
しかし、当時はそうした方針がまだ決まっていなかった、(建設途上のローカル線はその建設が凍結され、一部が第3セクター鉄道などで建設されることが決まったためその建設のために存続していった経緯はありますが、当時は本当に先行き真っ暗…そんな状況であったことが、下記の日本社会党広田幸一議員の質問等で伺えます。

>まず最初に、鉄建公団が整理されることについて、山地進鉄道監督局長に質問しています。
「運輸省にお尋ねしますが、これは昨年の十二月二十八日の閣議決定で、「昭和五十五年度以降の行政改革計画(その一)の実施」ということで出ておりまして、特殊法人の整理合理化、その中に「日本鉄道建設公団については、上越新幹線及び青函トンネルの本体工事が完了した時点(昭和五十八年度)において、他との統合等を図る。」

このことに対して大臣に念押しをしているのですが、統合することは考えているがその具体案は出てきていないということで、「いろいろと今後検討の余地がある、選択の余地もあるというふうに考え、各方面とも御相談をして最善の道を選びたいと、かように考えております。」と言う言い方で明言を避けていますが、その方針はまだ具体的に決まっていなかったのではないかと言うことが伺われます。

さらに、ここで、広田幸一議員の質問が続き、日本社会党では当時鉄建公団を設立するのは反対したと言っています。

> 「当時三十九年、私はいろいろ聞いてみますと、あのときはこういうものをつくるべきではなかったというようにわが党等は反対したようであります」

この辺は、今後当時の議事録などを探してみたいと思います。
鉄建公団は、元々は新線建設を輸送力増強に対して後回しにしていたことに対して当時の大蔵大臣であった田中角栄がしびれを切らせて作ったような経緯があります。
実際には、新幹線建設の資金調達で窮地に立った時に救ったのが田中角栄でありその辺をむげに断れなかったという事情も国鉄に有ったかもしれませんが、その後田中角栄は新潟に上越新幹線を敷設させるわけですから、田中角栄の政治力は良くも悪くも強大なものであったことも伺えます。
ちなみに、東北新幹線は国鉄の直営、上越新幹線は鉄建公団が建設しているのもその辺の事情を反映しているかもしれません。

さらに、質問は続き、東北新幹線の建設は、国鉄がしているけれども同じような問題が起こるのではないのかと質問をしており、高木総裁に回答を求めています。

> 「それから、東北新幹線はこれは国鉄がおやりになっておるわけでありますけれども、東北新幹線の場合も、やっぱり大なり小なりこの鉄建公団とは若干違います、内部的に違うと思うんですが、東北新幹線も五十八年ごろにそういう事態が起きてくる可能性があるかと思うんですが、この点についてもやっぱり同じようなことを心配するわけでありますが、この点について国鉄側の御見解をお聞かせいただきたい。」

それに対して、高木総裁は、現在の職員の多くは他の管理局などからの出向も多いので、東北新幹線建設後は地元に戻って在来線の改良工事などに携われたいという発言をされています。
「説明員(高木文雄君) 現在東北新幹線にはかなり多数の職員を振り向けております。そこの職員は非常に気の毒なんですけれども、ほかの地域から一定期間派遣をされておるという職員がかなり大ぜいいるわけでございまして、これが終わりましても私どもとしてはいささか現在、在来線の方のもろもろの改良等の工事が資金的に不足のためにおくれておりますので、東北新幹線が完了いたしました場合には、ぜひいまの資金量を在来線の方の整備拡充に振り向けさしていただきたいと思っておりますから、事業量としては東北新幹線完成後におきましても極度に減るということは予定をいたしておりませんので、私ども職員のいろんな意味での不安定ということは、この工事が終わりましても起こらないものというふうに考えておるわけでございます。」

ということで、鉄建公団についてはその処遇がまだ決まらないが今後検討するという形で質問は終了しています。


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************************以下は本文になります。********************

○広田幸一君 運輸省にお尋ねしますが、これは昨年の十二月二十八日の閣議決定で、「昭和五十五年度以降の行政改革計画(その一)の実施」ということで出ておりまして、特殊法人の整理合理化、その中に「日本鉄道建設公団については、上越新幹線及び青函トンネルの本体工事が完了した時点(昭和五十八年度)において、他との統合等を図る。」と、「統合等を図る」というふうになっておるんでありますがね、これは閣議決定でありますから大臣も御承知になっておるわけでありますね、運輸省としても御承知になっておるわけですが、大体廃止するとかどこかと統合するとかあるいは縮小するとかいうのが一般の場合だと思うんですが、ここに「統合等」と書いてありますのは、やっぱりいま私が言い、総裁の方からもお話があったようないろんないきさつがあって、ここではっきり言えないという事情があって私は「統合等」というこういう表現になっておると思うんであります。
 しかしこれは行政管理庁がそれぞれ調査をして、その資料に基づいて関係各省でいろいろと結論を出されたと思うんですが、運輸省としては、この問題について総裁の方から一つの考え方と要望が出たわけでありますが、運輸省としてどのようにお考えになっておられますか。

○政府委員(山地進君) いま仁杉総裁が言われたとおり、私どもも鉄建公団は優秀な技術集団であるということはよく認識しておる次第でございまして、いまのお話にありましたように「統合等を図る」ということにつきましては、いろいろと今後検討の余地がある、選択の余地もあるというふうに考え、各方面とも御相談をして最善の道を選びたいと、かように考えております。

○広田幸一君 総裁も、昨年不幸にしてあのような事態があってあなたも御苦労で総裁になっておられるわけですけれども、この問題は大きな問題ですからね、総裁のような偉い人はどこかに行くところがあるかもしれませんけれども、当時三十九年、私はいろいろ聞いてみますと、あのときはこういうものをつくるべきではなかったというようにわが党等は反対したようでありますが、それはそれとして現実にこういう事態が出ておるわけでありますから、ひとつ今後の問題として、もう二年、三年と言えばすぐたつわけですから、そういう皆さんのその技術が将来生かされるような方向で連絡をとって、ひとつ十分な努力をしていただくように特に希望しておきたいと思います。
 それから、東北新幹線はこれは国鉄がおやりになっておるわけでありますけれども、東北新幹線の場合も、やっぱり大なり小なりこの鉄建公団とは若干違います、内部的に違うと思うんですが、東北新幹線も五十八年ごろにそういう事態が起きてくる可能性があるかと思うんですが、この点についてもやっぱり同じようなことを心配するわけでありますが、この点について国鉄側の御見解をお聞かせいただきたい。

○説明員(高木文雄君) 現在東北新幹線にはかなり多数の職員を振り向けております。そこの職員は非常に気の毒なんですけれども、ほかの地域から一定期間派遣をされておるという職員がかなり大ぜいいるわけでございまして、これが終わりましても私どもとしてはいささか現在、在来線の方のもろもろの改良等の工事が資金的に不足のためにおくれておりますので、東北新幹線が完了いたしました場合には、ぜひいまの資金量を在来線の方の整備拡充に振り向けさしていただきたいと思っておりますから、事業量としては東北新幹線完成後におきましても極度に減るということは予定をいたしておりませんので、私ども職員のいろんな意味での不安定ということは、この工事が終わりましても起こらないものというふうに考えておるわけでございます。

○広田幸一君 終わります。

○委員長(黒柳明君) 午前の質疑はこの程度にとどめ、午後一時まで休憩いたします。
   午前十一時五十分休憩
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山陽新幹線と寝台夜行列車

2017-02-12 20:45:11 | 国鉄思いで夜話
東海道新幹線が開業したのは昭和39年10月、世界の四大馬鹿(ピラミッド・戦艦大和・万里の長城・新幹線)と言われたものの、恐る恐る蓋を開けてみれば大盛況、世界銀行から借りた借款8000万ドル(当時は三六〇円固定レートですので、)も約2880億円現在の物価で考えればさらに10倍程度と考えると2兆8000億円の融資を受けたことになっており、1981年には完済しているとのことですが、新幹線は、鉄道が斜陽化した産業であると言われていた常識を覆したと言えます。
さて、今回は東海道新幹線のお話ではなく、その後計画された山陽新幹線のお話です。
東海道線の別線として計画された東海道新幹線ですがその有用性から山陽区間に延伸して博多までを結び計画が出てくるわけで、昭和41年の当時の部内記事などを参照してみますと、将来は新大阪ら博多まで延長する計画が既になされています。
更に当時の最高速度200kmで運転すると東京~博多間は7時間程度となり昼行よりも夜行志向がたかくなるであろうということで、新幹線版夜行列車のダイヤも検討されました。
当時の計画では、新幹線版寝台列車は21:00~23:00頃までに東京を出発して博多に翌朝の7時から9時までに到着できるように、約10時間運転で計画が練られたそうです。



当時の計画では12両編成、かつ10分間隔で12本が運転できるとされていました。
なお、当時の計画を見ていますと、山陽新幹線の4区間程で下り列車は2時間以上停車する形となります。

この計画段階では、一部区間を3線とする計画で、交互に日によって閉塞区間を変えるなどの計画も検討されたようですがそうなると、日毎にダイヤを変更しなくてはならず大変手間もかかるといことで採用はされなかったようです。

そしてその駅間は単線区間となることから線路保守の横を200kmで通過するわけにはいかないので110km/hで通過するようにダイヤが検討されたようです。


当時は作る気が満々だったようで、実際に昭和48年には961形試験電車

6両編成の中に、食堂車や寝台車(大きな車両限界を利用して2段式寝台で通路を隔てて設ける方式で1区画6人を確保するB寝台や、
後年のロイヤルに近い形の寝台車であり他にも、ナロネ20のルーメットタイプ個室寝台や食堂車が試作されました。


食堂車は、新幹線博多開業時に36形食堂車として日の目を見ることとなりましたが、画像Wikipedia
新幹線騒音訴訟などに見られるように、住民からの反対運動などもあり計画はされていたものの新幹線の夜行運転は日の目見ることはありませんでした。

歴史にIFはありませんが、仮に新幹線による夜行運転が実現していたら、現在の夜行列車地図も大きく変わっていたのではないでしょうか。
九州ブルトレは、JR東海とJR西日本の共作で21:30頃から23:30頃まで5分おきに出発するなんて構図が出来ていたかもしれません。
また、新大阪からも同様に最終東海道新幹線を受けて,23:40~24:10頃までの間に鹿児島中央行きの夜行新幹線が運転していたかもしれません。

仮に、当時の住民運動で新幹線の反対をしていなければと言う仮定ですが・・・。

一部の画像は、交通技術昭和41年10月号から引用しました。

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参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第21話

2017-02-06 23:34:41 | 国鉄関連_国会審議
こんばんは、約2週間ぶりになりますが、参議院運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日のお話を始めたいと思います。
前回は、国鉄改革と関連して、新しい交通体系構築について質問された際、「国土庁、それから大蔵省、自治省などと集まっていろいろ議論をしていると」
と言った非常に歯切れの悪い答弁をしていたのですが、理想論でいくら言っても実際には、きちんとした答えを出せていないのが現状であり、この辺は広田幸一議員も判っているようで、現状では無理であろう、しかし、無理と言うってしまっては意味がなく、国鉄を何とかしなくてはいけないということは一般国民も理解しているであろう、しかし現状の国鉄再建はかなり難しいのではないかと言う
「国鉄の再建を図らなきゃならないという重大な時期に来ておると思うんですね。私たちそのことはわかるわけです。しかし、一方においてはこういうことが、政治的な絡みでもたもたしておるような状態を国民は一体どう見るだろうか。」
ということで、実際に国鉄改革法が議論を始めた昭和55年頃は本当に国鉄改革が出来るとは誰も思っていなかったというのが正直な感想かと思います。
そこで、下記のような発言になると思うのですが。
「とにかくいずれにしてもこの問題はいろんな国鉄再建と絡んだ問題でございますから、早急に結論を出していただくと。私たちは意見として言えば、いまの時点でこのようなものは泣いて馬謖を切るといいますか、やめるべきである。切る、凍結というかな、当分の間やるべきではないと、こういうふうに思います。」
ということで、思い切って止めてしまうことも必要であると言っておりますが至極正論だと個人的には思っております。
さらに、ここで注目すべき質問をしているのですが、鉄建公団のその後の在り方についてです。
鉄建公団は、当初は昭和58年頃に廃止されてしまう可能性があったことがここで示唆されています。
さて、質問の解説を加える前に少しだけ鉄道建設公団(現在の鉄道建設・運輸施設整備支援機構の前身)について簡単にお話をさせていただこうと思います。
鉄建公団は昭和39(1964)年)3月23日に日本鉄道建設公団法に基づき発足した特殊法人で、本来鉄道建設は鉄道敷設法に基づき国鉄が建設するものとされていましたが、独立採算制の手前地方ローカル線の場合は建設しても赤字になることが判っていたこと、更に輸送力増強などの投資に回す必要からローカル線の建設は遅々として進みませんでした。
それに対して、国鉄に代えて鉄道を建設する方式としたもので、田中角栄がかなり積極的に動いたと言われています。一説によればかなりの鉄道好き(鉄道ファンとと言う意味ではない)であったと言われています。
そこで、地方交通線を建設する、A・B線と幹線系のC・D線と分類し、A・B線は建設の後国鉄に無償譲渡、C・D線は有償譲渡し、年賦で公団に建設費を償還するという仕組みでした。
逆に言えば、A・B線は引き受けても赤字になる線路が殆どであり国鉄としても引き受けたくないのにと言うのが本音でしたが、政府に押し付けられてしまうということが多々あったようです。
それが、国鉄再建法の審議がが始まったとで原則的に工事は中止となり、昭和58年頃までには解散する方向に向かっていたようです。
実際に、路盤が90%近くまで完成して放置されてしまった未成線も多く、陰陽連絡として開通した智頭急行のように、その後高速化を含めた改修を図って、A・B線でしたが現在は重要な運用連絡線になった智頭急行の例などは例外中の例外と言えそうです。

上郡駅にて、JR西日本の運転手と交代する智頭急行の運転士

実際には、前述の智頭急行のように、地域による第3セクター鉄道として建設される事例があったため、鉄建公団自体は2003年(平成15年)に運輸施設整備事業団と統合されて、
「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」として現在も引き継がれています。
なお、この当時の鉄建公団の総裁は、9代目国鉄総裁に就任する仁杉巖氏です。

広田幸一議員はここで、下記のような質問をしています。
「これは鉄建公団の総裁にお尋ねをすべきかと思うんですが、いままで論議をしてきましたように、AB線それからCD線についても、国鉄、運輸省の方針としては、第三セクターが受けてくれるものはやるということなんですが、なかなかそういうところはこれから余り、出てくるかどうかわかりませんし、決着はどういうふうにつくかわかりませんが、いずれにしても、大勢としては工事を中止する、凍結をするということになると思いますし、それから鉄建公団が工事を進めておりますところの上越新幹線は、大宮の辺で少しもたもたしておるようでありますが、それでもあと一、二年もすれば完成するであろう、それから青函トンネルも五十八年ごろには終わるだろうと、こういうふうに聞いておるわけであります。」
といいうことで、昭和58年(1983年)には鉄建公団の仕事が無くなってしまうのではないかと、「総裁としてどういうふうにお取り組みになっておりますか、少し詳しく、希望とか意見もあろうと思うんですが、お答え願いたいと思います。」
と言う質問をされています。
それに対して、「昭和五十八年度に「他との統合等を図る」という決定がされております。」ということで、解散統合は示唆されているのですが、実際にはその後、第3セクター鉄道の建設や、その後の国鉄清算事業団(3年の時限立法で設立された清算法人)の業務を引き継ぐなどして2003年まで結局は存在していたのは承知の通りだと思います。
ただ、この時は方針だけはあるけれど実際にはどうなるか鉄建公団自体が見えていなかったということに驚かされます。

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*********************以下は、国会審議の本文になります。******************
○広田幸一君 局長としても非常に答弁のしにくい問題のようですが、いずれにしても国鉄再建法案というものがいま出て、きのうから衆議院で論議されておるわけでして、参議院に来るかどうかわかりませんが、とにかくいま国鉄の再建を図らなきゃならないという重大な時期に来ておると思うんですね。私たちそのことはわかるわけです。しかし、一方においてはこういうことが、政治的な絡みでもたもたしておるような状態を国民は一体どう見るだろうか。やるならやる、やらないならやらない、やる場合にはこうするとか、私はこういう報告書を見ますと、とてもやれるような状態ではない。局長にイエスかノーかと言ったら、私はノーと言われると思うんですよ。そういう質問しませんが、常識的に見ても、それは私が聞いたところでもノーという数字が出ておるんですから。しかし、それは政治的な絡みがあるわけですから。国鉄再建問題もやっぱり政治的な絡みもあるわけですからね。われわれも協力するところは協力しなきゃならぬと思っておるわけです。
 これ以上言ってもいい答弁はできぬと思いますが、とにかくいずれにしてもこの問題はいろんな国鉄再建と絡んだ問題でございますから、早急に結論を出していただくと。私たちは意見として言えば、いまの時点でこのようなものは泣いて馬謖を切るといいますか、やめるべきである。切る、凍結というかな、当分の間やるべきではないと、こういうふうに思います。
 それから、今度は話をちょっと百八十度転換をしまして、これは鉄建公団の総裁にお尋ねをすべきかと思うんですが、いままで論議をしてきましたように、AB線それからCD線についても、国鉄、運輸省の方針としては、第三セクターが受けてくれるものはやるということなんですが、なかなかそういうところはこれから余り、出てくるかどうかわかりませんし、決着はどういうふうにつくかわかりませんが、いずれにしても、大勢としては工事を中止する、凍結をするということになると思いますし、それから鉄建公団が工事を進めておりますところの上越新幹線は、大宮の辺で少しもたもたしておるようでありますが、それでもあと一、二年もすれば完成するであろう、それから青函トンネルも五十八年ごろには終わるだろうと、こういうふうに聞いておるわけであります。
 そうなってきますと、そういう仕事に従事しておる鉄建公団の職員というのは約三千数百おるように聞いておるわけであります。これは全体、役員の方も含めてかもしれませんが、そういう人たちがこれから五十七年、八年先になった場合にどこに行くのかという問題があるわけですね。私たちが聞いておりますのは鉄建公団の技術職員というのは世界的にも非常に技術の発達したといいますか、優秀な技術者のいわゆる技術集団であると、こういうふうに聞いておるわけでありまして、この人たちの技術を将来のこれからのいろいろな面における日本の経済の発展のために役立たせるべきであると、こういうふうに思っておるわけですが、こういう人たちが、もうあと二年したならばどこに行くかという問題が私は出てきておると思うのですが、この点について、最高の責任者でありますところの総裁としてどういうふうにお取り組みになっておりますか、少し詳しく、希望とか意見もあろうと思うんですが、お答え願いたいと思います。

○参考人(仁杉巖君) 先生御承知のとおり鉄道公団は、昨年の暮れに、昭和五十八年度に「他との統合等を図る」という決定がされております。いまお尋ねの総裁としての立場から申し上げますと、一つの公団あるいは企業体と申しますか、そういうものが、三年先と申しますか、そういう時期にどういうふうになるかよくわからないというようなことに立ち至りますと、現在三千三百程度の役職員がおりますが、その職員はもちろん、あるいはその家族にとりましても非常に不安になるということがございます。そしてまた職員そのもの、いま先生の御指摘にございましたように、大変総裁として申し上げるのは口幅ったいかもしれませんが、一生懸命でいい仕事をしている集団でございますが、その職員たちの士気をどういうふうに維持していくかということにつきましては非常に私ども困却をしているというようなことが実情でございます。
 事実私ども幹部が現地へ参りまして、あるいは本社の職員等といろいろ対話をいたしますと、やはり一番先に職員から出ますのは、五十八年度以降どういうふうになるでしょうか、総裁はどう考えているかというような話が出てまいるわけでございます。
 もう一つ私が非常に心配しておりますのは、こういう状況のままで時間が経過をいたしてまいりますと、公団には相当優秀な技術者、事務者、事務関係者がたくさんおるわけでございますが、そういう人たちの将来の展望の中から民間に転出していこうという、あるいは他に転出しようかというような傾向が出ないとも限らないということでございまして、現在公団が持っております優秀な技術集団としての能力がだんだん低下をするのではないかというような心配をしております。
 それで、こういう考え方がございますので、私は運輸省初め各方面にもいろいろ、五十八年度に政府決定のとおり他との統合、変貌をするということは間違いないと思いますけれども、それまでの間にだんだん仕事が少なくなってくるということによって職員の不安ないしは転出というようなことの事態の起こらないように何とか新しいプロジェクトにも参加をさしていただきたいということをお願いをしております。幸い皆様方のある程度御理解を得られまして、いろいろと御配慮をいただいておりますので、現時点におきましては職員一同も非常に張り切り、また他に転出するというような傾向も全然現在のところまだ見られていないということで、現時点におきましては皆一生懸命で業務に精励をし、上越新幹線あるいは青函トンネルあるいはAB線、CD線その他いろいろな仕事について一生懸命に精励をしているということでございます。
 今後の問題につきましては私の立場からなかなか申し上げにくいのでございますが、運輸省初め各方面からいろいろと御意見を承っておりますし、また御指導も得ておりますが、総裁といたしましては何とかこの鉄道公団の優秀な技術集団が、その力を保持したかっこうで、昭和五十八年度におきまして国益に役立つようなそういうような方向がとれるということをいたしたいということでいろいろ努力を重ねているというのが現状でございます。
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姫路発伊勢行き快速があった頃のお話 

2017-02-06 23:33:06 | 国鉄思いで夜話
伊勢と言うと近鉄と言うイメージが強いですが、・・・。画像 Wikipedia

その昔、姫路から伊勢神宮に向けて走る快速列車があったことをご存じの方はどれほどいるでしょうか。
私も実は知らなくて、Facebookで教えていただいて調べてみたら・・・本当にこんな列車が走っていたと知った次第。

昭和39年4月の時刻表までは、記述があるので昭和39年10月のダイヤ改正で廃止になったものと思われます。
なお当時の時刻は、上り列車が、姫路6:25に出発、終点鳥羽には12:11到着となっています。
途中の停車駅は、加古川・明石・兵庫・神戸・三ノ宮・大阪・京都・大津・草津・貴生川・柘植・亀山・下庄・津・松阪・多気・伊勢市・二見浦・鳥羽の順番に停車していました。
下り列車は、15:30に鳥羽を出発し20:53に姫路に戻るダイヤであり、日帰り可能なダイヤとなっていたようです。

姫路6:25始発の文字が見えると思います。1等車(現在のグリーン車)も連結された豪華な?普通列車でした。

姫路を6:25に出発、京都までは電気機関車で牽引、京都で蒸気機関車に交換されていたようです。

京都駅で8分停車の後、草津線経由で柘植・亀山を経て伊勢市(当時の駅名は山田)を目指します。



昭和40年7月の改正ではすでに運転されていません。
いまなら、現在ならJRと近鉄の組み合わせで6:33に姫路を新快速で出発、鶴橋で近鉄特急に乗り換えれば10:10には鳥羽まで快適に行けそうです。


全て調べきれていませんが、戦前から運転されていたようで。手元にある昭和15年の復刻版時刻表を参照しますと、姫路5:24 鳥羽着11:42で設定されています。
他にも不定期列車として京都始発で8:18 鳥羽着11:29と言う列車も設定されていました。



参宮線と言う名称が示すように、元々は伊勢神宮参詣のために設けられた線路で、元々は亀山駅~鳥羽駅間の線路でしたが、紀勢本線が全通した1959年に亀山~多気間は紀勢本線に組み入れられたため、参宮線は多気駅~鳥羽駅間のローカル線扱いになってしまいました。

現在は、JR東海の管轄路線ですが、国鉄時代は亀山駅を含めて紀勢本線・名松線・参宮線は天鉄局の管轄とされていました。
国鉄末期に参宮線の処分(今後の保守方針)と言う資料をちらっと家で見かけたことがあるのですが、(何かの折に父親が家に持って帰っていたのかもしれませんが)その資料では、参宮線に関しては線路の保守に関しては最低限とするといった書き込みが見られました。(線路種別は4級線?扱い)と言ったことが書かれていたと思います。

仮に、JR西日本が参宮線を運営していたとしたら、キハ120により細々と運転されるローカル鉄道になっていたかもしれませんが、JR東海が参宮線を伊勢神宮輸送の路線でありと言う本来の視点に立ち返って投資して行ったことにより、現在はキハ75による「快速みえ」が近鉄特急には及ばないもののそれなりの存在感を示してくれていると思っています。

画像 wikipedia

歴史にIFはありませんが、そうした意味では参宮線は積極的な投資でよみがえった路線と言えそうです。


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急行瀬戸のお話 第2部

2017-02-05 06:51:44 | 国鉄思いで夜話
急行瀬戸に白羽の矢

新幹線開業後も、急行瀬戸の役割は四国連絡の使命が残されていたわけで。新幹線岡山開業までは、大阪からの新幹線連絡が主流であり、特急「うずしお」の他に急行鷲羽(わしゅう)が走っていましたが、東京方面から乗換なしで宇野まで行ける列車と言うのは大変利用者にしてみれば有難いわけです。

新幹線は速くて便利ですが、乗換を考えなくても良いということで高速バス、特に夜行バスの需要が強いわけです。
そうした意味では、500km程度(在来線であれば6時間程度までの距離であれば夜行列車(寝台列車と言う意味ではなく、廃止になった急行「はまなす」のようなスタイルが一番使い勝手が良いのかなと思います。
さらに、東武が導入した新型特急のように分割して、2両・3両程度の単位でさらに地方都市まで乗換なしで運転出来ればと思ってしまいますね。

まぁ、この話は直接瀬戸のお話とは関係ないので別の機会にお話をさせていただくこととします。

さて、今回のお話では昭和41年の時刻表を基に急行瀬戸のお話をさせていただこうと思います。

まず最初に、昭和41年の時刻表を見てみますと、東京を20:30に出発し、品川・横浜・大船と停車しながら乗客を拾い、翌朝6:27には大阪駅に着きますので、東京~大阪間を利用するものにとっては非常に利用価値の高い列車であったことが伺えます。

大阪からは、三ノ宮・神戸・明石・加古川・姫路・岡山と停車し、岡山着は9:19

その後宇野線の乗り入れて途中茶屋町のみ停車で宇野には10:09、10:30の連絡船に接続しており,11:40には高松に到着していたようです。

なお、急行瀬戸の1時間前に東京を出発する「さぬき」という寝台専用列車も走っており、こちらは9:08に鵜の駅に到着、9:20の連絡線に接続、10:30には高松に到着していたようです。

なお、当時の格で言うと、「さぬき」は寝台車主体の編成で、A寝台(当時の名称では1等寝台B)とグリーン車(当時の名称では1等車)と食堂車以外は全てB寝台車(当時の名称では2等寝台)であったのに対し、瀬戸はグリーン車こそ2両(うち1両は自由席)とA寝台、食堂車、2等寝台1両以外の9両は普通座席車となっており、「瀬戸」よりも「さぬき」の方が列車としては格上と見做されました。

ということで、次回は昭和42年以降の動きを見てみたいと思います。
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急行瀬戸のお話 第1部

2017-01-29 15:13:52 | 国鉄思いで夜話
みなさまこんばんは、今日も少しだけ更新させていただこうと思います。
前回は、出雲でしたので今回は、その対となる列車として、「瀬戸」と取り上げてみたいと思います。

サンライズ瀬戸のルーツは昭和25年まで遡ることが出来るようです。
昭和25年10月のダイヤ改正で誕生し、当時の時刻表(復刻版)を見ますと、東京発広島・宇野行39列車 東京発 21:30→宇野13:10(広島到着は16:13)であることが伺えます、ただ当時は特急列車と急行列車(銀河)のみ愛称が与えられているにすぎず、多くの急行列車には愛称はありませんでした。

未だ、愛称は付けられていませんが、宇野・広島行きの列車があります。

編成を見ますと寝台列車も復活せず、座席車主体であることが伺えます。
愛称が急行列車にも設けられるのは、昭和26年12月からだそうです。
この際、初めて「せと」の愛称が与えられ、「あき」との併結運転が始まるそうです。
昭和26年には一時的に単独運転となったものの再び昭和26年11月から昭和31年11月までは「急行・出雲」と併結運転とされることとなりました。

昭和30年の時刻表から。単独運転であることが判ります。

1956年(昭和31年)11月19日国鉄ダイヤ改正)により、「せと」は単独運転になり、列車名は漢字の「瀬戸」になります、当時の時刻表を参照しますと、東京21:15発宇野12:03になっています。(当時、四国島内に準急でひらがなの「せと」があり、それを避けるためと思われます。

約1時間ほど速くなったと言えますが、15時間近くかけて運転していたことになり四国までは丸一日仕事になりそうです。
また、編成を見てみますと2等車(グリーン車)がスロ54自由席と指定席、各1両づつ、それ以外は普通車の編成となっています。

昭和36年頃には少しスピードアップして東京21:00発宇野11:14で1時間半ほどスピードアップしています、1等寝台車(開放式)が連結されたほか、食堂車が連結されており、復興が進み供食サービスが再開されたことが伺えます。

オロネ10&マシ35辺りでしょうか。食堂車&1等寝台開放室と言う豪華な編成に出世した「急行瀬戸」


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参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第20話

2017-01-20 10:45:28 | 国鉄関連_国会審議
皆様、長らく開けてしまいましたが再び参議員の国会議事録から再開させていただきたいと思います。

当初の整備新幹線計画

国鉄問題が議論されている中で、整備新幹線の建設が進められようとしている矛盾に対して日本社会党、鳥取県選挙区選出の「広田幸一参議院議員」が質問されているのですが、1980年(昭和55年)度4月現在でて五兆二千三百億円の費用が必要で、年間三千億円の赤字が出ると、運輸省が依頼をした運輸経済研究センターの試算で出てきている、更にこれを国鉄に押し付けるとなると、現状では国鉄の赤字路線を廃止したうえで、新たに年3000億円の赤字を生み出すものを押し付けるのかと、極めて正論を述べています。
さらに、これに対して運輸省としては、現在各省庁などと事務方で調整しているがなかなか難しい問題であると、問題に踏み込むことを避けているように思われます。

さらに、ここは注目すべき点かと思うのですが。

「北海道なんか、私この間行ってみましたが、あれを切られるともう五〇%は国鉄の輸送機関がなくなってしまって、北海道の開発はどうなるかというような問題を私は生に聞いてきたんですがね。」

実際、昭和55年当時の国鉄路線と現在のJR路線を比較すると、見事に線路が剥がされてしまっているというのが見てといることが出来ます。
最近)として転換される等、JRとしての路線はそれこそ大きく減少しています。

さらに、下記にも書いていますように。
国鉄は再建するための改革をこれから吸埋めよというなかで、こうした赤字を増やすものを更に押し付けるのはどうかと言う視点で質問しています。

「 赤字の国鉄をいかにしてここで再建をするかということで、国鉄も一生懸命にやっておるわけでしょう。こういうものをまた引き受けなきゃならぬわけですよ、国鉄としてはね。しかも、これから論議になると思いますけれども、いわゆる九十線という赤字路線、これを切っていくということでしょう。さっきもお話がありましたように、」

現在の整備新幹線計画

まぁ、これに対しては政府としては明言を避けるというか、お互い持ちまわって逃げを打っている、そんな風に見えてしまうんですね。
さらに、政府としては。
最近はどうも財源の審議は停滞しておる・・・と暗に財源が無いことを認めています。
実際、1975年から1989年まで継続して赤字国債が発行されており、現在も良く問題になる国の借金問題に行きつく部分でもあるわけです。
実際に、自国消化の国債ですので、外貨建てと違い償還に際して実際の現金を用意しなくてはいけないとはなりませんが、あまり好ましい状況でない事だけは確かと言えましょう。

山路進鉄道監督局長としても、この辺は非常に歯切れが悪いというか、以下のような発言をされています。
いわゆる、言語明瞭、意味不明瞭と言うのでしょうね。

「交通体系全体について御関係のある国土庁、それから大蔵省、自治省、それから私どもとが集まっていろいろ議論をしているということでございまして、従来から、いまお示しになりました運輸省の方の調査もございますし、それから国土庁の方の調査もございます。今後こういった問題について、非常にむずかしい問題でございますけれども、やはり最後は事務的に詰めなきゃいけないということでございます」

ようは頑張りますけど、各省庁との連携を含めて面倒なんですよ・・・としか聞こえてきません。

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*********************以下は国会審議の本文になります。********************


○広田幸一君 これはどうも政治的な絡みがあるように私ども思うわけです。ですから、鉄監局長にどうだああだ言ったって、私は、あなたの判断には――もう質問するのはちょっと無理だと思うんですが、大臣にちょっとお尋ねしますけれども、政府としては、この新線整備五線について財源をどうするかということで、総理府に整備新幹線財源打合会というのがございまして、構成メンバーは、大蔵省、経済企画庁、国土庁、自治省、総理府、運輸省、こういうふうになっておるようでありますが、どういうふうになっておるのか。これは大臣が御承知なのか、局長の方が御答弁になるのか。ここなんかどうなっておるのか。また、自民党の方としては、国鉄問題調査会の何か新幹線の委員会というようなものもあって、ここでもいろいろやっておられるようであります。
 ついでに申し上げますが、運輸省が依頼をした運輸経済研究センターのこの資料によりますと、まずこれは、五十五年度の四月現在のお金として五兆二千三百億円の金が要ると言っておるわけですね。この資料によりますと、これに必要な五兆円の金を全部国が補助をしてくれた場合にはどうなるかという、こういうのが出ておるわけですね。その場合でも、年間三千億円の赤字が出ると、こう出ておるわけです。運輸省が権威あるところとしてこの運輸経済研究センターに依頼しておるわけです。その出た数字がこうなっておるわけですね。この財源としては、目的税とか国債を発行するとか、建設国債ですね、そういうものをもって充てなければとてもむずかしいだろうということが書いてあるわけですわ。
 まあ、一般的に見まして、これを見る限りにおいては私はノーという数字が出ると思うんですよ、ノーという数字が。そういう感じがするわけですよね。しかも、さっきから申し上げておりますように、赤字の国鉄をいかにしてここで再建をするかということで、国鉄も一生懸命にやっておるわけでしょう。こういうものをまた引き受けなきゃならぬわけですよ、国鉄としてはね。しかも、これから論議になると思いますけれども、いわゆる九十線という赤字路線、これを切っていくということでしょう。さっきもお話がありましたように、北海道なんか、私この間行ってみましたが、あれを切られるともう五〇%は国鉄の輸送機関がなくなってしまって、北海道の開発はどうなるかというような問題を私は生に聞いてきたんですがね。
 そういうような、国鉄に課せられた非常に大きな重荷を担っておるときに、五兆円という金を背負わせるような、こんなことをやるのは、こんなことにもたもたしておるというのは、私は国家的にちょっと判断に苦しむんですが、大臣として、この新線の着工問題について、わかりました、この辺で決着をしますと、する場合にはこういう方針でやりますというようなことはもう出なければならないと思うんですが、大臣いかがでございますか。

○国務大臣(塩川正十郎君) 整備五線の建設につきましては、これは国民的要請が強かったものでございますから、その整備五線について財源の見通しがつけばやるという決定になっております。
 ところで、総理府において設置されておりますその委員会等にもまだ私たちもお呼びにあずかったこともございません。最近はどうも財源の審議は停滞しておるように思うんでございますが、ついては各機関でそれぞれ熱心にその財源問題を研究しておられることもございますしいたしますんで、その辺の内容等につきましては鉄監局長から説明させます。

○政府委員(山地進君) 整備五線財源打合会ということでございますが、いまおっしゃったのは。総理府の審議室が中心になりまして、こういった交通体系全体について御関係のある国土庁、それから大蔵省、自治省、それから私どもとが集まっていろいろ議論をしているということでございまして、従来から、いまお示しになりました運輸省の方の調査もございますし、それから国土庁の方の調査もございます。今後こういった問題について、非常にむずかしい問題でございますけれども、やはり最後は事務的に詰めなきゃいけないということでございますので、まあ党の方でもいろいろお考えになっているようでございますから、そういうものと相呼応しながら、この問題をどういうふうに進めたらいいかということで検討している次第でございます。
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急行出雲のお話

2017-01-14 14:46:04 | 国鉄思いで夜話
画像 Wikipedia

出雲と言えば、サンライズ出雲として、現在も東京~出雲市を結ぶ列車として君臨していますが、その歴史は古く昭和27年から東京と大社を結ぶ列車として運転されていたようです。
手元にあります、昭和28年の時刻表を参照しますと、今と同じ「せと」と併結になっています、ただし、岡山で分離ではなく、大阪駅で分離、「いずも」は福知山線経由で大社を目指す列車となっていました。
当時の時刻は、東京 22:00発、大阪9:06 福知山11:49 鳥取14:55 出雲今市(現・出雲市)17:54 大社 18:05ということで、東京から約20時間の道のりでした。現在では東京を22:00に出発して翌朝の09:57で約12時間の道のりです。

東京22:00発 「せと」に併結されて大阪まで運転


沼津~岐阜間の運転


岐阜~岡山間 大阪駅で大社行き編成を切り離し


大阪~福知山間

福知山~米子間

米子~出雲今市(現・出雲市)間

逆にいえば、当時の列車で当時の「急行いずも」の宝塚到着で9:55であり、列車が宝塚に到着した頃、現在のサンライズ出雲は、目的地である出雲市に到着していたことになります。

もともとこの列車は、大阪9:30発の準急列車を、昭和26年の改正で東京始発の「せと」に併結する形で東京から運転、大阪駅で増結してそのまま大社を目指したそんな列車のようです。

大阪始発だった頃の準急 名称はありません。

単純に時間だけ言われるとピンときませんが、そうして比べてみるといかに当時の速度がゆっくりだったか・・・。
もちろん、新幹線を使えばもっと8時間前後で移動できるわけですからね。

さて、当時の編成はちょっと調べてみたのですが、申し訳ありませんがわかりませんでした。
ご存じの方がおられましたら是非ご教示願います。
なお、2・3等急行となっていて寝台車は連結されておらず、2等車(現在のグリーン車)はオロ40(向い合せ式の4人掛けで、1,300mm幅の広窓で窓の開閉がしにくいと苦情が多かった車両だったそうです。(バランサーなどが実用化されていない時代でかつ冷房も無い時代ですから。)

そんな余談はともかく、少しだけ昔のお話ということで、私が生まれる前のお話でした。
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参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第19話

2016-12-29 22:37:48 | 国鉄関連_国会審議
10日ぶりに更新させていただきます。
今回も、引続き鳥取県選挙区選出、日本社会党、広田幸一参議院議員の質問です。
その中で、鉄建公団によるAB線(地方開発線・地方幹線)を第三セクター方式により開業させるのは納得しないとと言っておりますが、智頭線を第3セクターとして開業させた、智頭急行のように、結果的に第3セクター鉄道で開業していなければ日の目を見なかったであろう鉄道もあります。

さらに、ここで注目すべきは、整備新幹線の財源について質問しています。

>新幹線のいわゆる整備五線ですね、これはすでにもう調査をほとんど終わって着工するかどうか、あとは財源問題だというふうに私たちは聞いておるわけでありますが、これも財源をこうしてもう切り詰められておる時期でありまして、仮に一億にしても二億にしても、むだなものは早くなくする、そうしてけりをつけて新しく出発するということが私は望ましいと思うんですが、どういうふうになっておりますか。

この質問に対して、運輸省(当時)の山地進鉄道監督局長は、「54年度・55年度とも50億の予算を投入しており、環境影響評価などもほぼ終わっていると発言しています。」

ここでいう整備五線とは、現在の整備新幹線と呼ばれている、北海道新幹線、東北新幹線 (盛岡市から青森市まで)北陸新幹線、九州新幹線 (鹿児島ルート)、九州新幹線 (長崎ルート)のことであり、東北新幹線 (盛岡市から青森市まで)と九州新幹線 (鹿児島ルート)については開業までこぎつけましたが、北陸新幹線並びに、北海道新幹線は、未だ一部区間のみとなっています。
この時も、大きな問題は財源問題であり、整備のための調査はすでに終わり、建設に際し手後は財源だけ…ただし、その財源が見つからなくて、結果的に政府の予算原案の中で決めていくことだと発言しています。

「この種のものを決定するのは、政府の予算原案が決まるときに同時に決めていくというのが通例でございます。」

ということで、この後昭和57年の国鉄改革答申で、整備新幹線の建設を凍結すべきではんという議論がなされ、9月に入ると。整備新幹線の新規建設を認めない方向が決定となっていくのですが、この時点でも政府の意向次第で決まる…そんな風に聞こえてしまうのは私だけでしょうか。

参考 全国新幹線鉄道整備法

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**************下は国会審議・・・本文になります。**************

○広田幸一君 これもいずれまたいろいろと論及する時期があろうと思いますが、私はいまのAB線の第三セクター方式によるのはやっぱり了解することができません。
 そこで、次に入りたいと思いますが、次は、さっき江島さんの質問の中にもちょっと出ておりましたが、新幹線のいわゆる整備五線ですね、これはすでにもう調査をほとんど終わって着工するかどうか、あとは財源問題だというふうに私たちは聞いておるわけでありますが、これも財源をこうしてもう切り詰められておる時期でありまして、仮に一億にしても二億にしても、むだなものは早くなくする、そうしてけりをつけて新しく出発するということが私は望ましいと思うんですが、どういうふうになっておりますか。

○政府委員(山地進君) 五十四年度には、環境影響評価のために五十億の調査費を鉄建公団並びに国鉄につけております。
 それから、五十五年度予算におきましては、工事着工のための調査といたしまして同額をつけております。環境影響評価についてはほぼ完了しておりますし、工事着工のための調査といたしましては、地質の悪いところ、あるいは軟弱土盤、あるいは都市部との交差部とか、あるいは経済的なものというようなことで調査を現在進めておるわけでございます。おっしゃるように、財源問題というのが今後非常に大きな問題であるというふうに考えております。

○広田幸一君 それで、財源問題ですけれども、いつごろに決着がつくんですか。

○政府委員(山地進君) 財源問題につきましては、私どもとして各方面といろいろ御相談をし、知恵を拝借しているわけでございますが、やはりこのような種のものは、予算の政府原案が決まる時点というのが一つの区切りであるというふうに考えております。

○広田幸一君 恐縮です、いまちょっと局長おっしゃったのを、もう一遍言ってくれませんか。

○政府委員(山地進君) この種のものを決定するのは、政府の予算原案が決まるときに同時に決めていくというのが通例でございます。

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紀和駅が和歌山駅と言われていた頃、2

2016-12-27 13:04:30 | 国鉄思いで夜話
紀和駅が和歌山駅と言われていた頃、駅前には日通の倉庫がありその横には当時としては近代的なアパートが建っていました。

紀和駅前に有ったアパート(昭和61年頃撮影)

そのアパートなども取り壊されてしまいました。

子供が自転車で遊ぶこの付近が元々小荷物輸送の集約基地として建設されましたが4年程でこちらの建物も使われなくなり、61年頃には更地になってしまいました。

また、後方に見えるのは市営アパートであり、昔は転車台や給炭設備などがこの付近に建っていました。

こうしてみると、かっての華やかだった和歌山駅(紀和駅)の衰退ぶりを思い知らされます。

紀和駅方向から和歌山城方向を見る。

紀和駅方向を見る。

今でも時々和歌山に戻るのですが、紀和駅付近の惨状をみると情けなくなってきますね。

下記の画像は、この付近には信号所があり、紀和駅構内の信号を扱っていましたが、グリーンマックスで信号所の模型がありますが、本当にあのような形の信号所が建っていました。



現在は道路になってしまってその辺の面影も現在は無さそうです。

是非とも昔の写真をお持ちの方はご協力いただけると幸いです。

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紀和駅が和歌山駅と言われた頃

2016-12-24 23:52:17 | 国鉄思いで夜話
紀和駅と言えば、今は高架線の上に短いホームがあるだけの駅になってしまいましたが、元々は和歌山を代表する駅でした。

この画像のみ Wikipedia
和歌山駅が紀和駅になったのは、昭和43年2月1日
和歌山駅と呼ばれたていた当時は、和歌山駅本屋側には物資部や診療所等の施設が線路に沿って和歌山市方向に延びていました。
木造の古い建物でしたが子供心には母親に連れて行ってもらって物資部などに買い物に行くのは楽しみでした。

更に、駅の裏側には図で書けばわかりやすいのですが、西側には客車区の洗浄線があり、東京行きの寝台車などもこちらで整備されていたはずです。
なお、駅構内の反対側は洗浄線の後ろに独身寮があり、その後は風呂。保線区・建築区・検査区・電気区といった建物が並んでいたように記憶しています。
検査区と電気区は比較的遅くまで紀和駅裏に残っていたようで、小学校3年生の頃には父親に連れられて検索高の木工職場で夏休みの工作ということで、父親と一緒に船を作ったのですが・・・、考えてみたらも良く在どこで調達したんだろう・・・。まぁ今となっては時効でしょうけど。
いまだったら横領ダーと言って大変なことになっていますね。

色々な意味で緩い時代だったと思います。

まぁ、その辺の余談はさておき、駅の裏側は客貨車区が併設されていましたので、機関車の入れ替えが終日行われており、駅構内はいくつかの投光器で照らし出されていました。

そして、機関車の音も

私の生家は丁度そうした機関車の音がまじかに聞こえるところでしたので、物心つく前から蒸気機関車の音とにおいを嗅いで育ったわけで、そうした意味では鉄道趣味というよりも国鉄は自分の生活の中の一部だったと言えましょう。

さらに、東に進むと給炭設備と給水タンクがありました、さらに当時の和歌山駅(紀和駅)構内は現在の紀伊中ノ島駅まで伸びており、紀伊中ノ島駅の丁度独身寮や宿舎が立ち並んでいる辺りまで線路が敷き詰められていました。

昭和48年頃にはもうほとんど使われていませんでしたが線路だけが延々と広がっていました。
貨車の入れ替え等に使われていた様に思いますが、いまとなってはそうしたことも含めて兵どもが夢のあと状態になっています。

思いつくままに少しだけ書いてみました。

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国鉄があった時代 JNR-era

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