教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

耳をすませば 再評価される

2013-07-09 00:07:36 | オタネタ全般
「耳をすませば」症候群、ネット掲示板がヤバイと話題
http://gendai.net/articles/view/geino/143303

>  宮崎駿監督のスタジオジブリ最新作「風立ちぬ」の劇場公開(7月20日)に先駆け、ジブリアニメの3週連続テレビ放送が始まっている。7月5日には、その第1弾「耳をすませば」が放送されたが、直後からネット掲示板には「死にたい」「俺の青春返して」などとネガティブな書き込みが続出。「どうしてこうなった」「大丈夫か」と心配する声が上がっている。

(中略)

>  映画では、主人公の雫と聖司が結婚まで約束してしまうのだが、現実社会でこんな青春を経験できる中学生はほとんどいない。それにもかかわらず、「俺たちは老いた」「こんな青春あかんわ…」「俺の人生つまんね…」「何やってんだろ、俺…」と、二度と戻らない青春時代を嘆く声が次々と書き込まれた。「見なきゃよかった」「だから見るなって言っただろ」と互いを慰め合う書き込みもあった。
>
>  ネット掲示板に立てられたスレッドの題名は「『耳をすませば』自殺会場」。書き込みを見ると、首をつったような絵文字がビッシリで、「ここが樹海か」「死のうか」「ここでしぬうううう」「あの世で待ってるぜ」と、人生を絶望視する声があふれているのだ。



ごめん、これは共感できん。

「耳をすませば」をはじめて見たときにまでさかのぼって話をしよう。

当時のわたしは、この作品のおもしろさを理解できなかった。

見ていてただかったるかった。
これが青春の理想像の1つ、という具合にはこれっぽっちも見ていなかった。

なぜか?

当時わたしは、人生はもっと戦闘的であるべきだと思っていた、という表現が多分いちばんしっくりくる。

当時すでにわたしは理系方向に指向が完全に固まっていた。
将来は研究者か技術者になり、一日中籠ってマッドな開発に狂ったように明け暮れている、そんな人生を夢見ていた。
(そしてその人生はだいたい叶った。)

そんな子供が「耳をすませば」を見たとして、はたして面白いと思うだろうか?

かったるくて意味がわからんだとか、恋愛至上主義者どもワロタだとか、そんな具合に思うのは当然かと思われる。
当時すでに「耳をすませば」よりもドラクエIIIの主人公のほうに人生の理想を見ていたような子供だった。

そして時は過ぎ、今にいたる。

「耳をすませば」のおもしろさがわかったのは大人になってからのことだった。
はじめて誰かを好きになったという経験を少なくとも積まなければならなかった。

いまならわかる。
「耳をすませば」はおもしろい。

しかし!

「耳をすませば」を見て鬱になるか?

ならない。
良質の文学小説を読破したあとの、疲労感とともに訪れる心地よい読後感と同じものを感じる。
決して鬱になるものではない。

それはわたしが人生の勝ち組だからじゃないのか?

ビミョーだ。
自己評価はともかくとして、客観的事実分析でいえばビミョーだ。
取ったものと取らなかったものの差が極端で、日本人平均の小さな幸せを実現したとはとても言えない。
一部は過剰達成し、一部はほんの少しも達成していない、これでは客観的事実分析で勝ち組とは言えなかろう。

ではなぜ人は「耳をすませば」を見て鬱になるか?

たぶん、もはや取り返せないと思っているからだろう。

だが人生はそうではない。
今から楽しめばいい。
わたしはそう思っている。



世間では
「いつやるの? 今でしょ!」
なんてキャッチコピーが流行った。

わたしはそうではない。
やりたくなったとき、その欲求が臨界点を超えたら、常に直ちに取りかかる。

すごくやりたいならやる。
それほどやりたいとは思わないならまだやらない。
やりたくないことは極力やらない。
だからいつやるか悩むことなどない。

それでいいじゃないか。
「耳をすませば」のように今から恋を楽しめばよろし。
「耳をすませば」のように今から小説を書いて遊べばよろし。

なぜそれに手をつけないで先に鬱になる?

失恋して鬱になるのは認める。
書き上げた小説が落選したなら鬱になるのは認める。
「耳をすませば」のようにうまくいかなかった苦い経験をした過去の記憶がよぎって鬱になるのは認める。

しかし!

失恋してもいない、小説を書いてもいない、いったいこれでどこに鬱になる要素が?

あえて言うなら、「耳をすませば」を見て鬱になることをして、この作品を再評価している点においては認める。



投資の世界では
「幸運は準備万端にしているヤツにしか訪れない」
という格言がある。
目の前にバナナがぶら下がっていたとしても、目の前に食い物が落ちていたらそれを食う気マンマンのサルでなければバナナを食えないということだ。

我々に足りないものは「耳をすませば」のような甘く切ない青春の思い出ではない。
自分の欲しいものを取りにいくバイタリティーこそが足りないのだ。