あや乃古典教室「茜さす紫の杜」

三鷹市&武蔵野市で、大学受験専用の古文・漢文塾を開講しました。古文教師の視点から、季節のいろいろを綴ります。

道真公のこと23

2013-03-31 20:53:25 | 道真公
以上のことを考え合わせると、

道真公は、
配流といえども「太宰府権帥」という官職にあったわけで、
(太宰府権帥=太宰府という国の役所の、長官代理)
配流貴族は、大宰員外帥と呼ばれ、
正規の帥・権帥とは区別されていたとはいえ、
食うや食わずやのあばら家で、うちひしがれて亡くなったというのとも、
実質は、ちょっと違うのかなと思ったりもします。

藤原氏が貴族政治の中心となりつつある時代に、
藤原氏以外で、右大臣にまで登りつめ、
「娘を女御に出した」ように、
政治的な野心もゼロとは言えなかった節も伺われる道真公です。

あくまで「京都の生活に比べ」ての、詫び住まい、田舎暮らしであって、
蟄居・軟禁・極貧状態に置かれ、亡くなっていったのではなく、
在所で、(京の都に比べれば、ささやかではあるでしょうが)、
①気遣ってくれる地元の人もおり
②制限付きながらも、多少の行動の自由もあり
それなりの楽しみを見出して、
お暮らしになったのではなかろうかと、
そうであったら良いなぁ~と、思っています。

道真公のこと22

2013-03-30 22:56:54 | 道真公
太宰府でお暮らしの道真公が、遠出に出かけ、
河童(ひょうすべ)に出会ったという話も残されています。

兵主部よ 約束せしは 忘るなよ 川立つをのこ 跡はすがわら

これなんぞは、現在の福岡県久留米市近辺での出来事ですから、
太宰府~二日市間どころの移動距離ではなくなります。

駅間の単純移動で、太宰府~久留米は電車で20分ぐらい。
太宰府~二日市は、ぎりぎり徒歩圏内です(電車で2駅)

「不門出」の漢詩に惑わされず、
道真公の太宰府でのご様子を、
伝承方面からも洗いなおすことで、
旧来とは違った太宰府での道真公のご様子を、
窺い知ることができるのではないかとも、思います。

道真公のこと21

2013-03-29 22:37:04 | 道真公
④遺言が実行されていること
検証その1)
蟄居軟禁状態の厳重監視下にある要注意の「罪人」なら、
牛車に引かせての遺言が、実行されるとは思えないのです。
(この遺言自体の真実味を検証するという作業は、さておき)
むしろ、絶対に遺言なんて叶えられないものだろうと思うのですが。。。


⑤京都から従ってきた門弟がいたこと
味酒安行(うまさかのやすゆき)という人です。
この人が、遺言も実行し、牛さんが動かなくなったところを
遺言通り「墓所」としました。

現在、太宰府天満宮の西高辻宮司が、道真公の子孫で、
天満宮の総務部長を務めている味酒 安則(みさか やすのり)さんが、
味酒安行の42代目の子孫に当たります。

検証その1)
京都から門弟がそのまま随行したは良いけど
その人の、太宰府での衣食住の食い扶持はどうしたのか?

検証その2)
蟄居軟禁状態の厳重監視下にある要注意の「罪人」なら、
個人の意思とはいえ、それ(随行)は難しいのではないか?

ーーーーーーーー
太宰府天満宮1100年大祭の折りに、
現宮司と総務部長の対談集が、天満宮のHPに掲載されていました。
非常に、楽しい対談だったので、リンクを貼ろうと思ったのですが、
見つかりません。

あんな楽しい対談をカットしておくのは、もったいない限りです。。。
太宰府天満宮には、再掲して頂きたいものです。

お知らせ(HP更新のお知らせ)

2013-03-29 10:10:06 | 日記
HP更新のお知らせ

①先だっての
三鷹台の西野園さんでの古文講座の様子を、
HPにアップしました。

②4月以降の開講予定を掲載しました。

・浪人生と発心集を読む会
・浪人生と擬古物語を読む会

が、開講予定です。
ただいま、日時等を調整中です。
詳細が決定しましたら、改めてお知らせします。

また、その他の講座状況に付きましても、
お問い合わせ下さい。

③西野園さんでの古文講座が好評でしたので、
継続化の話があります。
関係各所が、ただいま協議中。
詳細が決定しましたら、改めてお知らせします。

道真公のこと⑳

2013-03-29 00:51:48 | 道真公
③天拝山周辺の故事のこと

既に検証したように、
地形的には、天拝山でなければならない必然性はありません。

もし必然性があるとしたら
(四王寺山や、宝満山にない<何か>が、天拝山にあるとしたら)
天拝山直下の土地の二日市というところは、
万葉の時代にまで遡る温泉地だったということでしょうか?

大宰帥時の大伴旅人の歌も、
天拝山直下の土地の二日市には残っています。

湯の原に 鳴く芦田鶴は わがごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く

つまり、
配流といえども、道真公は、
(京都での右大臣生活に比べれば、つましいものではあるでしょうが)
歌は読む、菊は植える、垣根は作るわけです。

世を恨んで、失意のうちに亡くなったというのは、
物語の悲劇性としては、心うたれる話ですが、
お忍びで、温泉ぐらい入ったのかなぁ~と思わなくもありません。

道真公のこと⑲

2013-03-28 00:33:54 | 道真公
③家族から、書簡や小さな荷物が届いている

検証その1)
蟄居軟禁状態の厳重監視下にある要注意の「罪人」なら、
家族からの荷物や文などは、
最大限の警戒対象になるはずだろうと思うのですが。。

<漢詩>
消息寂寥三月餘 家族から音信が途絶えて3ヶ月。寂しい思いをしていた
便風吹著一封書 1通の書が来た
西門樹被人移去 京都の屋敷の西門の樹木は、運び去られ
北地園教客寄居 北の園地には、他人を住まわせているという
紙裏生薑称薬種 手紙に添えたものについては、紙に生姜を包んであるのは薬で
竹籠昆布記斎儲 竹の籠に昆布を詰めたのは、斎戒の時に食べて下さいとある
不言妻子飢寒苦 自分たちの生活の苦しさについては、書いてない
為是還愁懊悩余 それがかえって私を悲しませ、心配で仕方がない

道真公のこと⑱

2013-03-26 20:31:49 | 道真公

その一方で、配流先の道真公の様子としては

①「配流先の庭に、菊を植え」たりしている

検証その1)
寡婦や老僧と出てくるので、地元の人と交流があったことが伺えます

検証その2)
蟄居軟禁状態の厳重監視下にある要注意の「罪人」なら、
わが身に罪がふりかかるのを恐れて、人は近寄ってこないものだと考えられます

<漢詩>
青膚小葉白牙根 菊の苗の青々した小さな葉と、白く細く伸びはじめた根
茅屋前頭近逼軒 狭い粗末な寓居の庭の軒下に迫るほどの所に、菊の苗を植える
将布貿来孀婦宅 この苗は、ある寡婦の家から、布で交易して手に入れたり
与書要得老僧園 またある老僧の庭のを、書物を与えて分けてもらったりしたもの
未曽種処思元亮 菊を植えたからといって、
菊を愛でた陶元亮と風流を競おうなどと考えているわけではない
為是花時供世尊 ただ、この花が咲いたらほとけに供えたいと思うばかり
不計悲愁何日死 だが、いつ私が悲愁に耐えかねて死んでしまうか、それは分らない
堆沙作堰荻編垣 今は、せっせと砂を積んで堰を作り、荻を垣根に編んでいる

②彼の身の回りの世話をした、浄妙尼という尼僧がいた

うわさ1)
ちなみに、地元では、
この尼僧と道真公との間に関係があり、子もなしたという非公式の噂があります

道真公のこと⑰

2013-03-26 20:31:00 | 道真公

道真公が、配流先の太宰府で読んだ漢詩をまとめたものを、
「菅家後集」と言いますが、
その漢詩に配流先での暮らしぶりが伺える箇所があります。

①食支月俸恩無極
食い扶持は、毎月支給されている

②衣苦風寒分有涯
着物は薄くて、風の寒さが身にこたえる

③一従謫落就柴荊
無実により、官位を落として流されて、このあばら屋にたどり着いた

④今為貶謫草萊囚
罪を着せられて、
草深い田舎で囚われの身となっているようなものだ

⑤不出門
「配流先の門を一歩も出る気になれない」と読んでいるのも、本人で、
それを根拠に「榎社を一歩も出なかった」となっていることは、
想像に難くありません。

道真公のこと⑯

2013-03-24 23:55:10 | 道真公
なぜ、これほど、天拝山での故事の扱いが分かれるのは、
思うに「現在の行政区分の問題なのかな」とも考えます。

天拝山や武蔵寺があるのは、
太宰府市の隣の筑紫野市という所なんですが、
榎社や太宰府天満宮は、
行政区分的には、太宰府市に属しています。

つまり、筑紫野市としては
「天拝山の故事を前面に出さないと、
道真公由来の観光資源は存在しない」

一方の太宰府市にとっては
「そんなことは、どうでも良い」わけです。

私としては、天満宮としてはどちらの立場を取るのか

①一歩も出なかった、
②あるいは天神縁起に従って天拝山の故事を認める)

せめて、説明を統一してほしいなと思ったりもしています。

道真公のこと⑯

2013-03-24 00:43:12 | 道真公
そんなわけで、
天拝山山麓に、
御自作天満宮や、滝まで残っている以上、
「1回ぐらい、登った」感もあるような気もしますが、
天神縁起という道真公のご生涯を記録した(伝説も含め)はずのものには、
天拝山登山の故事は出てきているのに、
実は、太宰府天満宮や榎社境内の説明では
「榎社を一歩も出なかった」となっています。

更に言えば、太宰府天満宮境内には、
菅公歴史館という
「博多人形で、道真公の生涯のそれぞれの場面を現した」
歴史館があるのですが、
そこでは「天拝山での祈りの場面」は、再現されています。

歴史館は、しばらく行ってないので、
最新状況が不明です。
「天拝山での祈りの場面」が撤去されてたら、ゴメンなさいです。
ご近所さんや観光で行く予定の方は、
確認のレポを寄せて頂ければと思います。

道真公のこと⑭

2013-03-23 00:02:36 | 道真公
地形的には、太宰府近辺は平野部なので、山は少ないのですが、
それでも天拝山の他に、
近隣に、四王寺山(しおうじ)や宝満山(ほうまんざん)があります。

それぞれの標高は、四王寺山410m。天拝山258m。宝満山829m。

ちなみに、宝満山は修験系のお山で、
麓にある竈神社は現在、太宰府天満宮が管理しています。

地の利的には、天拝山でなければならない必然性は、どこにもないわけです。

それを考えると、やはり道真公は榎社を離れ、一度ぐらいは、
天拝山に「登った」ことがあるのではないかと、
勝手に考えています。

道真公のこと⑬

2013-03-21 23:51:08 | 道真公
榎社から、天満宮とは逆方向に行くと、
天拝山という山があります。

その麓には、武蔵寺(ぶぞうじ)というお寺さんがあり、
「道真公が滝浴びをした」と言われる小さな滝があり、
道真公の和歌も残っており、
道真公が自ら彫ったと言われる、
彫像を御神体とする「御自作天満宮」があります。

そもそも論として、
「天拝山」という山名は
「道真公が、山に登って、自分の無実を天に訴えた」ところから、
来ていると言われています。(山の古名は、天判山)

その「天拝山」の由来になった道真公の故事
(天に昇って自分の無実を訴えた)とは、
鎌倉期の建久・建保年間には、
既に成立していたと考えられる天神縁起に拠っています。

天神縁起の記述としては、正確には以下。
902年に、菅原道真が自分の無実を、百余日間、
武蔵寺境内の「紫藤(しとう)の瀧」にうたれて身を清めた後、天拝山に登り、
七日七夜、岩の上に爪立って祈り続けると天から
「天満在自在天神」と書かれた尊号がとどいて、
願いが成就された(あくまで伝説としてですが)。

道真公のこと⑫

2013-03-20 21:07:43 | 道真公
さて、
配流先での道真公のご生涯については、
いろいろ謎が多いんですが、

一般的には
・配流先を、一歩も出なかった
・極貧のうちに、亡くなった
とされています。

これからしばらくの間は、
この2点に関して、検証して行きたいと思います。

古書とその成立年代、地元の伝承や噂等、
多岐に亘る資料からの、あくまで私見です。

3月中に道真公の話を終わり、
4月から桜の話に移行できることを、目指します。。


まず「配流先を、一歩も出なかった」

これは、どこまで真実の姿を伝えているのでしょうか?

道真公のこと⑪

2013-03-19 19:31:19 | 道真公
今日は、ちょっと単語の整理をしようと思います。

①都府楼(とふろう)とは
道真公幽閉の土地、
榎社(えのきしゃ)に程近い所にある、現在の太宰府政庁跡地です。

太宰府というのは、
その昔「遠(とお)の朝廷(みかど)」とも呼ばれ、
京の都に入る前に、
外国の諸使節と接触する重要な外交拠点だったわけですが、
その古代政府庁舎が、都府楼です。

現在は、礎石だけが残る、だだっ広い原っぱです。

②観世音寺とは
都府楼の敷地の端に、
日本三戒壇院の一つ、観世音寺があります。

三戒壇院とは、奈良時代に出家者が正式な僧尼となるために、
必要な戒律を授けるために設置された施設で、
太宰府の他に、東大寺と下野薬師寺にあり、
その3つを併せて、天下の三戒壇院と呼びます。

太宰府の戒壇院は、西戒壇(さいかいだん)とも称され、
来日に成功した鑑真和尚が、太宰府を訪れ、
この戒壇院で、日本初の受戒を行ったとされています。

現在は、臨済宗系のお寺さんとなっており、
開山は鑑真和尚となっています。

③榎社
太宰府天満宮1100年大祭の時までは、
本当に!荒れ果て、朽ち果て、うち捨てられたようなお宮さんでした。
あの放置のされ方を見ていると、
配流先での道真公の境遇に、思わず涙せずにはいられなかったほどです。

1100年大祭に当たり、
太宰府天満宮が大金をつぎ込んで、修復&整備したようで、
現在では、往時の荒れ果てた様子は、想像できません。

あれで?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
周辺の氏子域の人から
「(太宰府)天満宮は、いくら使ったんだろうなぁ~」
という嘆息が漏れたぐらいですから。。。

道真公のこと⑩

2013-03-18 21:17:27 | 道真公
さて、
原典の「香炉峰の雪」には、
更に続きがあります。

遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き 香爐峰の雪は簾をかかげてみる
匡廬(きょうろ)は すなわちこれ名を逃るるの地
司馬は なお老を送るの官たり 心やすく身やすきは是帰処
故郷何ぞ 独り長安にのみ在らんや

(現代語訳)
遺愛寺の鐘は枕を傾けて聞き、
香爐峰の雪はすだれをはね上げて眺める。
匡廬こそは、名誉をのがれる地。
司馬は、老後を送る官としては十分である。
心も身も安らかな所は、すなわち私が帰るべき場所である。
故郷が長安でなければならないわけはない。

配流先を「一歩も出なかった」とされる道真公ですが、
少しは心穏やかにお暮らしになれたのではあれば、良いなと思っています。