以上のことを考え合わせると、
道真公は、
配流といえども「太宰府権帥」という官職にあったわけで、
(太宰府権帥=太宰府という国の役所の、長官代理)
配流貴族は、大宰員外帥と呼ばれ、
正規の帥・権帥とは区別されていたとはいえ、
食うや食わずやのあばら家で、うちひしがれて亡くなったというのとも、
実質は、ちょっと違うのかなと思ったりもします。
藤原氏が貴族政治の中心となりつつある時代に、
藤原氏以外で、右大臣にまで登りつめ、
「娘を女御に出した」ように、
政治的な野心もゼロとは言えなかった節も伺われる道真公です。
あくまで「京都の生活に比べ」ての、詫び住まい、田舎暮らしであって、
蟄居・軟禁・極貧状態に置かれ、亡くなっていったのではなく、
在所で、(京の都に比べれば、ささやかではあるでしょうが)、
①気遣ってくれる地元の人もおり
②制限付きながらも、多少の行動の自由もあり
それなりの楽しみを見出して、
お暮らしになったのではなかろうかと、
そうであったら良いなぁ~と、思っています。
道真公は、
配流といえども「太宰府権帥」という官職にあったわけで、
(太宰府権帥=太宰府という国の役所の、長官代理)
配流貴族は、大宰員外帥と呼ばれ、
正規の帥・権帥とは区別されていたとはいえ、
食うや食わずやのあばら家で、うちひしがれて亡くなったというのとも、
実質は、ちょっと違うのかなと思ったりもします。
藤原氏が貴族政治の中心となりつつある時代に、
藤原氏以外で、右大臣にまで登りつめ、
「娘を女御に出した」ように、
政治的な野心もゼロとは言えなかった節も伺われる道真公です。
あくまで「京都の生活に比べ」ての、詫び住まい、田舎暮らしであって、
蟄居・軟禁・極貧状態に置かれ、亡くなっていったのではなく、
在所で、(京の都に比べれば、ささやかではあるでしょうが)、
①気遣ってくれる地元の人もおり
②制限付きながらも、多少の行動の自由もあり
それなりの楽しみを見出して、
お暮らしになったのではなかろうかと、
そうであったら良いなぁ~と、思っています。