道真公は、平安時代の人とは言うものの、
平安時代初期の、弘仁貞観文化を代表する文化人です。
この時代は、中国文化の影響が強く残っている(現れている)時代でした。
弘仁貞観文化について、
高校の山川の教科書は、以下のように記しています。
・宮廷では漢文学が発展し、3つの勅撰漢詩集が編纂された。
・嵯峨天皇は中国風を重んじ、平安京の殿舎に唐風の名称を付けた。
・唐風の儀礼を受け入れて、宮廷の儀式を整えた。
・貴族の教養として、漢詩文を作ることが重視され、漢文学が盛んになった。
・漢字文化に習熟し、
漢文を自らのものとして使いこなす素地が出来上がったことで、
それが後に国風文化の前提となった。
道真公は、唐風文化の色濃い、こうした時代を生きた御仁なわけで、
それを考えると、道真公が「梅にだけ」声を掛けたことも、
あながち不思議なことでもないのかもしれないと思います。
つまり、道真公にとっては、
梅が桜に比して、有意であり、
それは、即ち梅>桜であると同時に、
美意識における唐風>国風でもあったことの象徴なのではないでしょうか。
豆知識)
・弘仁貞観文化では、三筆と言われる書の名人(中国風)がおり、
それぞれ、嵯峨天皇・空海・橘逸勢のことです。
・国風文化の時代
(遣唐使廃止後の、唐風文化の影響が薄れ、文化の国風化が進んだ、平安中期以降)
には、三蹟と言われる書の名人(和様)が出て、
それぞれ、小野道風・藤原佐理・藤原行成のことです。
平安時代初期の、弘仁貞観文化を代表する文化人です。
この時代は、中国文化の影響が強く残っている(現れている)時代でした。
弘仁貞観文化について、
高校の山川の教科書は、以下のように記しています。
・宮廷では漢文学が発展し、3つの勅撰漢詩集が編纂された。
・嵯峨天皇は中国風を重んじ、平安京の殿舎に唐風の名称を付けた。
・唐風の儀礼を受け入れて、宮廷の儀式を整えた。
・貴族の教養として、漢詩文を作ることが重視され、漢文学が盛んになった。
・漢字文化に習熟し、
漢文を自らのものとして使いこなす素地が出来上がったことで、
それが後に国風文化の前提となった。
道真公は、唐風文化の色濃い、こうした時代を生きた御仁なわけで、
それを考えると、道真公が「梅にだけ」声を掛けたことも、
あながち不思議なことでもないのかもしれないと思います。
つまり、道真公にとっては、
梅が桜に比して、有意であり、
それは、即ち梅>桜であると同時に、
美意識における唐風>国風でもあったことの象徴なのではないでしょうか。
豆知識)
・弘仁貞観文化では、三筆と言われる書の名人(中国風)がおり、
それぞれ、嵯峨天皇・空海・橘逸勢のことです。
・国風文化の時代
(遣唐使廃止後の、唐風文化の影響が薄れ、文化の国風化が進んだ、平安中期以降)
には、三蹟と言われる書の名人(和様)が出て、
それぞれ、小野道風・藤原佐理・藤原行成のことです。
道真公、お好きですか?
今は年度代わりで、バタバタしておりまして・・・
どうぞ、コメント欄で、
お好きなだけお喋りして行ってくださいませね。