心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第3章 光とともに ナンバー1479

2016-09-30 20:59:34 | Weblog
  エーテルは状態によって変化するのか?
たとえば、水、と一口に言っても、硬く凍った水もあれば、
目に見えない水蒸気になった水もあります。
目に見えない空気はおよそ78%の窒素と、およそ20%の酸素、
そしてアルゴンや二酸化炭素などで構成されていますが、二酸化炭素も
窒素も温度を下げればドライアイスや液体窒素として見ることができます。
私たちが歩いている時には空気の抵抗は受けませんが、猛スピードで
動くジェットコースターに乗っていると空気の抵抗を感じますし、
超音速で空気中を飛ぶと空気は鉄板のように硬くなるため、
超音速旅客機の先端は空気を切り裂くためにとがっています。
このように水や空気は状態や状況によって様々に変化すると、
体積や密度そして性質も変化したりします。
同じようにエーテルも状況や状態によって、形態の様相が変化するのかもしれません。
アインシュタインは「エーテルはまた電磁場の担い手として現れる。
エーテルは、通常物質から機能的に区別できないものとして現れる。
物質の中ではそれは、物質の運動の役割を果たし、空虚な空間ではそれは、どこでも速度を持つ。
エーテルは、空間全体を通して、確定的に割当てられた、速度を持つようにである。」と言います。
「エーテルはまた電磁場の担い手として現れる」というのは、エーテルは光の媒質であり、
光は電磁場から生まれますから、エーテルが電磁場としての責任を持つといえます。
またエーテルは、「通常物質から機能的に区別できないもの」ということは、
物質の中にもエーテルがあって、「物質の運動の役割を果たし」ていれば、
物質の状態や状況に合わせてエーテルの状態も変化する可能性もあるかもしれません。
あらゆる物質の中にエーテルがあれば、そこに電磁場の担い手も
あることになり、物質の中に光が存在することにもなります。
また、ビッグバンの光から、この宇宙が生まれたと現代物理学は言います。
相対性理論によれば常に一定不変で絶対の光の速度に対して、時間は遅れ
空間は縮みますから、時間と空間は相互に作用しあう相対的な関係となります。
空間と時間はお互いに織物のように織りあうことで生まれるとすれば、宇宙には
空間と時間が生まれるためのエーテルの場があり、そこは電磁場でもあります。
そこでは光そのものが生まれて、光が一定の速度で動き続けるための空間でもあります。
万物が生まれるための母体となる絶対的な空間、電磁場の担い手としてエーテルが
あることで、光が生まれて、一定不変の速度を出し続けることができるのだと思います。
また、光は波であり粒でもあるという性質を持つことから、光が
波の状態や粒の状態になり、時間が遅れ空間が縮むような相対的な
エーテルもあるというように、エーテルに種類があるのかもしれません。
ナンバー1480につづく 
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第3章 光とともに ナンバー1478

2016-09-28 20:56:05 | Weblog
  相対的なエーテルと絶対的なエーテル
アインシュタインは講演で『……力の性質の統一した
見方への努力が、エーテルの仮説を導く(ナンバー1469)……
特殊相対論によれば、物質と放射の両者は、単に分布した
エネルギーの特殊な形態でしかなく、重さのある質量は、その孤立を失い、
エネルギーの特殊な形態として現れてきている。(ナンバー1472)……
一般相対論のエーテルは、ローレンツのエーテルから、相対性を通して出て来たものである。……
エーテル仮説の立場から重力場と電磁場を考慮すると、両者には顕著な差異が見出される。
重力ポテンシャルの存在しない空間または空間の一部はあり得ない。…
重力場の存在は、空間の存在と不可分に結合している。…
物質の要素粒子はまた、そのエッセンスでは、電磁場の濃縮以外の何ものでもない。…
因果的に結合しているが、互いに概念的に完全に分離した、二つの現実性を与える。
それは、重力エーテルと電磁場である。または…空間と物質である。…
要約すれば一般相対論によれば、空間は物理量を
付与されていて、この意味でそれゆえエーテルは存在する。
一般相対論によれば、エーテルなしの空間は考えることもできない。(ナンバー1475)』
として、エーテルは相対的な存在だとアインシュタインは言います。
アインシュタインにとってエーテルは、電磁場の担い手であり、通常の
物質から機能的に区別できないものであり、時間や空間、物質、エネルギーと
いったものと同じように、光速度に対して相対的に変化するものと考えられるようです。
また『電磁場の方程式の中で起こるのは、電荷密度に加えて、場の強さだけである。
真空中の電磁経過の担い手は、他の物理量に影響を受けずに、
これらの方程式によって、完全に決定されるものとして現れる。
電磁場は、究極の還元できない現実性として現れ、均一等方のエーテル媒体を仮定』します。
アインシュタインは、マクスウェルにとってエーテルは
「純粋に力学的な特性を持つもの」だといいます。
エーテルのなかに時間と空間が存在していて、光の速度に対して
時間と空間が変化すれば、空間の変化とともにエーテルも
相対的に変化するとアインシュタインは考えるようです。
アインシュタインは絶対空間に対して静止しているエーテルは
認めないが、相対的なエーテルは認めると言いました。
このように空間と時間の変化に伴って変化する
相対的なエーテルは、実数の世界のものといえます。
これに対してマクスウェルが方程式に表わしたように、
エーテルから電磁波が生まれるには、複素数を四次元に
拡張した四元数を使った方程式にするため、エーテルは
複素数の世界のものとなりますし、光の速度は常に一定で
絶対ですから絶対座標系で表わされると思います。
これらのことからマクスウェルの方程式による複素数の世界の
絶対座標系のエーテルと、アインシュタインが言う相対性理論を
適用できる相対的なエーテルのように、様々な形態や
状態などを持つ種類の違うエーテルがあると予測されます。
ナンバー1479につづく
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第3章 光とともに ナンバー1477

2016-09-26 21:21:36 | Weblog
  光速度という定数と時間と空間とエーテル
エーテルと時間と空間そしてエネルギーが相対的なのに対して、
光の速度は光速度不変の原理によって、常に一定不変です。
宇宙のどのような場所であっても、またどのような物質の状態にも
関係なく、光の速さだけが常に一貫して変わらない状態を保つことで、
空間も時間も安定した状態となり、宇宙全体の秩序が保たれた
状態が維持できますから、光速度は基本的で普遍的な定数になります。
光が真空中を1秒間に進む速さが、長さを表す単位メートルの基準ですから、
光の速度が変わると1メートルの長さも変わってしまいます。
光速度不変の原理という普遍的な速度を基準として、時間と空間と
物質は伸びたり縮んだりする相対的な存在であるのと同じように、
エーテルもまた相対的な存在だとアインシュタインは言います。
アインシュタインによると、マクスウェルにとってエーテルは
「純粋に力学的な特性を持つもの」であり、現実の固体の力学的
特性に比べて、よりずっと複雑な種類のものであると言います。
マクスウェルはファラディーの磁力線を、エーテルの回転の渦のことであり、
電力線はエーテルの直線運動のようなものだろうと考えました。
ある空間に磁気が現れるとその周囲に磁場ができて、磁力線が存在することになります。
すると、その空間は電気的に緊張して、それが時間的に変動した瞬間に、起電力が生まれます。
この電気的に緊張した状態を、ファラディーは「電気緊張状態」と呼んでいます。
この「電気緊張状態」とは、エーテルの運動状態に関係した
物理量だろうと考えて、マクスウェルはそれを「電磁運動量」と定義しました。
その様子をマクスウェルは、ベクトルポテンシャルと記述しました。
ファラディーとマクスウェルにとってエーテルは、光や電気力、磁気力が
生まれる場であり、光を伝える媒体ですから、絶対的な存在です。
また電気や磁気を伝える媒体になる物質の中には、当然エーテルが含まれていると考えられます。
そうすると、物質はエーテルから構成されている構造物かもしれません。
ところが後に、エーテルはマイケルソンとモーリーの実験によって否定されてしまいました。
すると、マクスウェルの方程式のベクトルポテンシャルの意味が難解になります。
さらに、マクスウェルは複素数を四次元に拡張した四元数を使った方程式で表していました。
電磁気が生まれるためのエーテルの運動の状態を、実数と虚数を
合わせた複素数を四次元に拡張した四元数で表わさなければ
ならないということは、電磁気に関しては私たちが生活している
この実数の世界とは違った別の次元の世界を扱うことになります。
ナンバー1478につづく
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第3章 光とともに ナンバー1476

2016-09-24 01:56:06 | Weblog
   エーテル、時間、空間、質量、エネルギーは相対的
ファラディーは電気力や磁気力が空間に連続的に広がっている様子を
電力線と磁力線で表し、空間に広がっている力の中心が物質の中心で
あると考えれば、空間と物質の原子の区別をする必要はないといいます。
物質そのものと周囲の空間も含めたすべてが作用の原因(ナンバー1458)という
ファラディーの考えから、力線の渦は空間を満たすエーテルの連続体の構造を
表したものだとトムソンは考えて、ファラディーの考えに数学的な表現を与えました。
マクスウェルは電力線と磁力線はエーテルが回転する時に現れる渦であり、
電磁波はエーテルのゆらぎだと考えて方程式にしました。このマクスウェルの
方程式によれば、光を観測している人がどのような運動をしている状態で
あっても、光は相対速度で動く座標系に対して常に無関係に一定の速度になります。
そのためエーテルに対する絶対座標系が存在して、その座標系でのみマクスウェルの
方程式は厳密に成立すると推定されていましたが、何の座標系に対する速さなのかは不明です。
地球の絶対座標系に対する運動を知るためには、地球の運動が
光の速さに及ぼす影響を調べることだと、マクスウェルは考えました。
そしてマイケルソンとモーリーが実験を行なった結果、地球の運動は光の速さに
影響しないと判断して「エーテルの風は吹かない(ナンバー1465)」と言いました。
それを受けてアインシュタインは特殊相対性理論を考えたのですが、
それまで絶対と思われていた時間と空間の長さは、光速度不変の
原理に対して、宇宙のどのような場所でも観察者の立場によって、
伸びたり縮んだりする相対的なものになります。
アインシュタインは「特殊相対論は、我々にエーテルの否定を強制しない。
我々はエーテルの存在を仮定してもよい。
ただし、我々がそれへ確定した動きの状態を
帰するのを、あきらめるときだけである。
すなわち、我々は、ローレンツがまだそれに残した最後の力学的特性を、
抽象によって取り去らないといけない(ナンバー1472)」と言います。
また「一般相対論によれば、エーテルなしの空間は
考えることもできない(ナンバー1475)」と言います。
光速度不変の原理によって光の速度は常に一定ですから、
光の速度以外に特別で絶対的な基準はなくなるといいます。
特殊相対性理論によれば、空間と時間は立場によって
伸びたり縮んだりして変化する相対的な関係を持ちます。
ということは、その空間内部にある物質が持つ質量もまた
空間の大きさに合わせて相対的に変化して、エネルギーとなります。
質量とエネルギーは同じものであり、そしてエーテルも
相対的なものだとアインシュタインは言います。
ナンバー1477につづく
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第3章 光とともに ナンバー1475

2016-09-22 21:12:37 | Weblog
   アインシュタインのエーテルの講演より
『もし我々が、エーテル仮説の立場から重力場と電磁場を
考慮すると、両者には顕著な差異が見出される。重力
ポテンシャルの存在しない空間または空間の一部はあり得ない。
なぜなら、これらは、空間にそれなしでは決して
想像できないその計量的性質を与えるからである。
重力場の存在は、空間の存在と不可分に結合している。
一方、空間の存在は、電磁場なしでもよく想像できる。
そのように重力場と対比して、電磁場は、
エーテルとの二次的なリンクでしかないと思える。
電磁場の形式的性質はまだ、重力エーテルのそれによって決して決定されない。
理論の現在の状態からは、電磁場がまるで重力場に対抗して、
全く新しい形式の“動機”を待っているように見える。
例えば、電磁型の場の代わりに、スカラーポテンシャルの場を与えるように、
自然は単に重力的エーテルと場に全く別の型を付与したかもしれないようである。
一方我々の現在の概念によれば、物質の要素粒子はまた、
そのエッセンスでは、電磁場の濃縮以外の何ものでもない。
宇宙に対する我々の見方は、因果的に結合しているが、互いに概念的に
完全に分離した二つの現実性を与える。それは重力エーテルと電磁場である。
または、それらはこう呼ばれてもよいが空間と物質である。
もちろん、もし、我々が重力場と電磁場の両方を一つの統一した
同一型に理解を進めることができたなら、それは偉大な進歩であろう。
そのとき初めて、ファラディーとマクスウェルによって
創始された理論的な物理学の時代は、満足すべき結論に到達する。
エーテルと物質の対比は消え去り、一般相対論を通して、幾何学、運動学、
そして重力の理論のような物理学のすべてが完全な思考のシステムになる。
この方向に非常に優れた試みが数学者H.ワイルによって成された。
しかし私は彼の理論がその基盤に現実性との関係を保持しているだろうと信じない。
さらに、理論物理の直近を凝視すれば、量子論に含まれる事実が場の理論の
越えられない境界を設定する可能性を無条件に否定するべきではない。
要約すれば、一般相対論によれば、空間は物理量を
付与されていて、この意味でそれゆえエーテルは存在する。
一般相対論によれば、エーテルなしの空間は考えることもできない。
そのような空間では、光の伝播もないだけでなく、
時空の標準(物差しと時計)の存在の可能性もない。
それゆえ、物理的な意味でのいかなる時空の間隔もない。
しかしこのエーテルは、時間のなかを追跡できる部分からなる、
重さのある媒体の性質を備えると、考えることはできない。
動きのアイデアは、それに適用できない。』
ナンバー1476につづく
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第3章 光とともに ナンバー1474

2016-09-20 20:54:57 | Weblog
  アインシュタインのエーテルの講演より
『マッハは、力学のなかの絶対空間に対する加速を、宇宙の質量の全体性に
対しての平均加速によって、置き換える努力をして、観測できないものを
現実として受け入れるのを避けることを試みたことは、真実である。
しかし遠方の質量の相対的加速に対抗する慣性の抵抗は、遠隔作用を前もって要求する。
そして、現代の物理学者として、この遠隔作用を受け入れるだろうとは信じない。……
マッハのアイデアは、一般相対論のエーテルのなかに完全な発展を見出す。
この理論によると、時空連続体の計量的な量は、
時空の他の場所の環境によって異なり、考慮する領域の
外側に存在する質量によって、部分的には条件付けられる。
時間と空間の標準の、相互の関係の、この時空の可変性、又は、
多分、その物理的関係のなかの“空虚な空間”は、均一でも
等方でもなく、その状態を10個の関数(重力ポテンシャルg_ik)
によって、我々に記述することを強いるという事実は、思うに、
空間が物理的に空虚であるという見方を最終的に処理したのである。
しかし、それとともに、エーテルの概念は、再び知的な内容を後天的に獲得した。
この内容が光の力学的な波の理論のエーテルのそれからは、広く異なっているけれども。
一般相対論のエーテルは、それ自身、すべての力学的、運動学的性質を欠如するが、
力学的(そして電磁気的)な出来事を決定することを助ける媒体である。
一般相対論のエーテルが、ローレンツのエーテルに対して基本的に
新しい点は、前者の状態は、質量と近傍の場所のエーテルの
状態に関連して、全ての点で決定されるということにある。
それらは、微分方程式の形式の法則に従っている。
一方、ローレンツのエーテルの状態は、電磁場の不在のなかでは、
その外部の何ものによっても条件付けられず、どこでも同一である。
一般相対論のエーテルは、もし、その状態を条件付ける
原因を無視して、前者の表現する空間の関数を定数に
置き換えると、ローレンツのエーテルに概念的に変化する。
このようにまた、我々はいうことができる、と私は思うが、一般相対論の
エーテルは、ローレンツのエーテルから、相対性を通して出て来たものである。
新しいエーテルが将来の物理に果たす役割については、我々にはまだ明解でない。
我々は、それが時空連続体の計量的関係を決定することを知っている。
例えば、固体だけでなく、重力場においてもその構成的な可能性を。
しかし、物質を構成する電気的な要素粒子の構造の
なかで本質的な役割を持つかどうかは知らない。
またローレンツのエーテルとはその構造が本質的に異なることが
重さを持つ物質への近傍においてだけであるかどうかも知らない。
宇宙の広がりの空間の幾何学が近似的にユークリッド的かどうか
について、しかし、重力の相対論的方程式の理由によって、規模が
宇宙的オーダーの空間において、もし宇宙の物質の正の平均密度が
存在すれば、それがどれほど小さくても、ユークリッド関係から
離脱しなければならないことを主張することはできる。
この場合、宇宙は必然的に空間的に際限がないが、有限の大きさである。
その大きさは、平均密度によって決定される。』
ナンバー1475につづく 

ひとりごと
すごい台風が日本上陸!?
テレビを見ていると、西日本各地で
凄いことになっていますが、
皆様大丈夫でしょうか?
といっているあいだに、台風は
東に移動しているようです。
備えあれば患いなし、ですが、
被害にあわれた方、お見舞い申し上げます
これからの方、お気をつけて
台風にそなえましょう
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第3章 光とともに ナンバー1473

2016-09-18 21:27:53 | Weblog
  アインシュタインのエーテルの講演より
『水の表面の波を考えてみよう。ここに二つの全く異なることが記述できる。
波動の表面がどう時間の経過によって変化する水と空気の間の境界を形作るかを
我々が観察することと、または他の、例えば小さな浮きの助けを借りて、水の
分離した粒子の位置が時間の経過に従ってどう変化するかを観察することと。
液体の粒子の動きの追跡のためのそのような浮きの存在が、もし物理の
なかで基本的に不可能なら、もし、事実、時間のなかで変化する、
水によって占められる空間の形以外に何ものも観察できないとすると、
水が動き得る粒子でできているという仮定は、基盤を失うであろう。
しかし、全く同様に、我々は、それを媒体であると特徴づけることができるだろう。
我々は、電磁場においてこれに類似するものを持つ。
なぜなら、我々は、場を力線による構成のように思い描いてもよい。
もし、これらの力線を普通の意味の何か物質と解釈することを
望むなら、動的過程をこれらの力線の動きと解釈したい誘惑がある。
あたかも、それぞれの分離した力線が時間の経過に従って追跡されるかのように。
しかし、よく知られているように、電磁場に関するこの方法は、矛盾に導くのである。
一般化して、我々はこう言わなくてはならない。
動きというアイデアが適用できないものは、拡張した物理的対象であると仮定できる。
それらは、時間のなかで分離して追跡できる粒子で
構成されているとは考えてはならないだろう。
ミンコフスキーの言葉で、これは次のように述べられる。
すべての拡張した構成物が四次元世界のなかで世界線を構成するとみられない。
特殊相対論は、エーテルを時間のなかを観測できる
粒子からなると仮定することを我々に禁止した。
しかしエーテル仮説自体は、特殊相対論と相反するものではない。
我々はただ、動きの状態をエーテルに帰属することから、
自らを防御しなければならないだけである。
確かに、特殊相対論の立場からは、エーテル仮説は、まず空虚な仮説として現れる。
電磁場の方程式の中で起こるのは、電荷密度に加えて、場の強さだけである。
真空中の電磁経過の担い手は、他の物理量に影響を受けずに、
これらの方程式によって、完全に決定されるものとして現れる。
電磁場は、究極の還元できない現実性として現れ、均一等方の
エーテル媒体を仮定し、電磁場がこの媒体の状態であると
観照する仮説をすることは、まずもって余分なことに見える。
しかし一方、エーテル仮説を支持する証拠としてあげる有力な議論がある。
エーテルを否定することは、究極的には、空虚な空間は何ら
物理特性を持たないという、仮定をすることである。
力学の基本的事実は、この見方とは調和しない。
空虚な空間を自由に浮遊する物質的系の力学的行動は、相対位置(距離)と
相対速度だけに依存するのではなく、その回転の状態にも依存する。
回転は、物理的には、系自身に関係しない特性であるといってもよい。
系の回転を、少なくとも形式的にも、何か現実的なものと
見なすために、ニュートンは、空間を客体化する。』
ナンバー1474につづく
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第3章 光とともに ナンバー1472

2016-09-16 21:21:25 | Weblog
  アインシュタインのエーテルの講演より
『時空の理論と特殊相対論の運動学は、電磁場の
マクスウェル-ローレンツの理論をモデルにしている。
この理論はそれゆえ、特殊相対論の要件を満足する。
しかし後者の観点からは、それは新しい側面を必要とする。
ローレンツのエーテルの相対的に静止した座標系をKとすると、
マクスウェル-ローレンツ方程式はKに関して最初に有効である。
しかし、特殊相対論によれば、同じ方程式が何ら意味を変更することなく、Kに
相対的に均一な並進運動する、どの新しい座標系K’についてもまた成立する。
ここで気にかかる疑問がやって来る。――
どうして私は、その理論のなかで、すべてのK’系、
それらはKと全ての点で物理的に同等であるが、それらの
上にK系を、エーテルがK系と相対的に静止していると
仮定することによって区別しないといけないのだろうか。
理論家にとって理論の構造のなかのそのような、経験の系の
なかに対応する非対称をもたない非対称性には、耐えられない。
もし、エーテルがK系に相対的に静止し、K’系では運動しているべきだ
と仮定すると、KとK’の物理的同等性は、私には、論理的立場からは、
じつに露骨に正しくない、という訳でなくても、受け入れ難くみえる。
現れた物事のこの状態に直面して、取り得べきつぎの立場は、次の通りである。
エーテルは、全く存在していない。
電磁気の場は、媒体の状態ではなく、そして、それに結びつけられる担うものを何ももたない。
そうでなく、それらは、何か他のものに還元できない独立した現実性である。
まったくそれは、重さのある物質の原子のようにである。
この考えは、次のようにすぐさま自らを示唆する。ローレンツの理論によれば、
電磁放射は、重さのある物質とおなじく、それに伴う衝撃とエネルギーをもたらす。
また、特殊相対論によれば、物質と放射の両者は、単に分布した
エネルギーの特殊な形態でしかなく、重さのある質量は、その孤立を
失い、エネルギーの特殊な形態として現れてきている。
しかし、さらに注意深い熟考は、我々に教える。
特殊相対論は、我々にエーテルの否定を強制しない。
我々はエーテルの存在を仮定してもよい。
ただし、我々がそれへ確定した動きの状態を帰するのを、あきらめるときだけである。
すなわち、我々は、ローレンツがまだそれに残した最後の
力学的特性を、抽象によって取り去らないといけない。
我々は、後にこの視点が、何か比較停止によってより知的に
変えることを、私が一度努力しなければならない、その思考可能性が、
一般相対論の結果によって、正当化されることを見るだろう。』
ナンバー1473につづく

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第3章 光とともに ナンバー1471

2016-09-14 21:12:59 | Weblog
   アインシュタインのエーテルの講演より
『力学の原理を電気の原理に還元することによって、
今や、その反対の方向の逃げ道が考えられた。
そして、これは特に、ベータ線と高速陰極線の実験によって揺り動かされた
ニュートン力学の方程式の厳密な有効性に対する信任としてあった。
この二元論は、ヘルツの理論の中の、軽減なき
形式として、まだ我々に直面している。
そこでは物質は、速度、運動エネルギー、力学的圧力の
担い手だけではなく、電磁場の担い手でもある。
一方、そのような場は、真空中、つまり自由エーテルの中、
でも発生し、エーテルはまた電磁場の担い手として現れる。
エーテルは、通常物質から機能的に区別できないものとして現れる。
物質の中ではそれは、物質の運動の役割を果たし、
空虚な空間ではそれは、どこでも速度を持つ。
エーテルは、空間全体を通して、確定的に割当てられた、速度を持つようにである。
ヘルツのエーテルと重さのある物質(それは部分的にエーテルの中にある)との基本的違いはない。
ヘルツの理論は、互いに何らの概念的関係にないもの、一方は力学的状態、もう一方は
電気的状態というものを、物質とエーテルに割当てるという欠陥を被っただけではない。
それはまた、フィゾーの重要な実験、運動流体中の光の伝播
速度実験、他の確立した実験結果のもたらした変動も被った。
H.A.ローレンツがこの情景に入って来たのは、そのような物事の状態のときであった。
彼は、理論の原理の素晴らしいある単純化の方法によって、実験との調和を理論にもたらした。
エーテルからその力学的な性質を、物質からはその電磁的性質を取り外すことで、
彼は、この電気理論のなかの、マクスウェル以来の最重要な進歩を成し遂げた。
空虚な空間のなかと同じく、物体の内部においても、原子論的にみると、
物質でなくエーテルだけが排他的に電磁場の座席である。
ローレンツによれば、物質の要素的粒子だけが運動を実行できる。
それらの電磁活動は、すべて、電荷の運搬に閉じ込められている。
そのようにローレンツは、すべての電磁的できごとを、
自由空間中のマクスウェル方程式に還元した。
ローレンツのエーテルの力学的性質について、何か遊びの
精神でいってもよいのは、その力学的特性は、不動性だけで、
それはH.A.ローレンツによって、剥奪されていなかった。
特殊相対論のもたらしたエーテル概念の全体的変化は、そのエーテルから最後の
力学的性質、つまり不動性を取り除いたことにあると付け加えてもよい。
どのようにこれが理解されるべきかは、直ぐに詳述する。』
ナンバー1472につづく
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第3章 光とともに ナンバー1470

2016-09-12 21:08:32 | Weblog
    アインシュタインのエーテルの講演より
『19世紀の前半、光の特性と重さのある物質の弾性波との間にある、遠く届く
類似性が明らかになったとき、エーテル仮説は、新たな支持を見出した。
光は、疑いを超えて、宇宙を埋め尽くす弾性と慣性を持つ、媒体の
振動過程である、と解釈されるべきであることが明らかになった。
光が偏光できるという事実から、必然的帰結として、その
媒体であるエーテルは、固体の性質を持たなければならない。
なぜなら横波は、流体の中では存在し得なく、
固体のなかでだけ存在できるからである。
こうして物理学者達は、光の波に対応する変形の小さな
運動を除いて、他のものと相対的な運動をなし得る部分を
持たない、“疑似固体”の光エーテル理論に到達する。
この理論はまた、静止光エーテルの理論とも呼ばれ、
特殊相対性理論においても基本的な重要性を持つ、
ある実験のなかで、さらに強い支持を見出す。
それは、フィゾーの実験であり、光エーテルが物体運動に、何も
役割を果たさないことを、人が推論せざるを得ないものであった。
光行差の現象もまた、疑似固体エーテルの理論を支持した。
マクスウェルとローレンツによって開かれた道に沿った
電気の理論の開発は、我々のエーテルに関するアイデアの
開発に対して、あるとても奇妙な予期せぬ方向転換を与えた。
マクスウェル自身にとってエーテルは、じつにまだ、
純粋に力学的な特性を持つものであった。
それは、現実の固体の力学的特性に比べて、よりずっと複雑な種類のものであるが。
しかし、マクスウェルとその後継者たちの誰も、もしそれができれば
電磁場のマクスウェル法則の、満足な力学的な解釈を備えたかもしれない、
エーテルの機械的モデルの開発には、成功しなかった。
その電磁場の法則は、明快で単純であった。
力学的解釈は、不恰好で反論可能であった。
ほとんど感じられないままに、理論物理学者は、彼らの力学的な
方法論の立場から、彼ら自身をその悲観的な状況に適応させた。
彼らは特に、ハインリッヒ・ヘルツの電気力学的な研究から影響を受けた。
というのは、そこでは、かつて彼らは(密度、速度、変形、応力という)
力学論だけに属する、基本的概念に整合する、最終理論を要求していたが、
彼らは次第に電気的、磁気的な力を、それらの力学的解釈を要求せずに、
力学概念と並ぶ基本概念として許容することに、彼ら自身を習慣づけたのである。
そうして純粋に力学的な自然の見方は、しだいに廃棄されてきた。
しかしこの変化は、基本的な二元論を導き、それは、永くは支持できなかった。』
ナンバー1471につづく

ひとりごと
台風が次々に通り過ぎる、
そのあいだは、涼しい
たまに暑い日があっても、
少し秋の気配を感じて、
しだいに過ごしやすくなっていくようで
少し、体が楽になって来たと、感じてます。
みなさんは、いかがかしら?
コメント
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