心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

心と体を通して見えてきたもの №86

2007-09-30 17:42:27 | Weblog
ジョンたちが一家そろって町に残る、と知った町の人たちは「なぜ残るんだ?」と聞きました。
自分たちの思いを伝えると、「それは一理ある。」と町を出るのを考え直す人たちも出てきました。
ジョンは「町が廃墟にならなくて助かった」と牧師から感謝され、「こういう人にこそ、学校で子供たちに教えて欲しい。」と、教師の仕事を紹介されました。
教会で知り合った女性と結婚もしました。二人は町をよく散歩しました。ジョンはつい理屈っぽいおしゃべりに熱中してしまいますが、彼女は「また始まった」と最初はあきれた顔でもやさしく聞いてくれます。
子供も二人生まれました。時には町の人たちとパーティーを開いたり、年老いてからは時には教え子たちに囲まれたり、とても幸せな人生でした。
ジョンが人生の書き換えを行ったあと、エイミーが私のところへ遊びに来る回数が急激に減り、今ではほとんど来なくなりました。人生を書き換える前のジョンは、家族と離れてとても孤独だったのですが、毎日の生活に追われて、自分が孤独だという自覚があまりありませんでした。そのために、孤独と悲しみを学ぶ必要があったので、そのあとの人生でエイミーとして生きることで、孤独と悲しみを学んだのだと思います。でも、ジョン自身が自分の人生を書き換えたことで、孤独と悲しみはなくなりました。するとエイミーの寂しい人生ももう必要がなくなったので、エイミーが私のところへ来る必要もなくなったのでしょう。
№87につづく

おまけ?
ベンジャミン・クレーム招聘委員会から手紙が届きましたのでお知らせします。

今からおよそ2600年前、お釈迦様が「マイトレーヤ(慈悲に満ちる者)と呼ばれる高貴なる者が世に現れる。完全に悟りを開かれた方であり、知恵と正義を備え、世のすべてを知る者であり、仏陀である。彼自身の超常的な力が世に如実に現され、そして知られよう。」と予言されました。
この現代において、その予言が現実化しつつあることを知らせている方がベンジャミン・クレーム氏です。
彼の著書は、石川道子氏によって翻訳されシェア・ジャパンという所から発行されています。

彼女は1980年にベンジャミン・クレーム氏の著書に出会って以来、翻訳、出版、そして日本におけるクレーム氏講演会での通訳などをおこなっています。
クレーム氏の協働者としての様々な体験、アメリカの現状やマイトレーヤ出現に関する最新情報などについて石川道子氏が「運命の時刻」という特別講演会を開催するというお知らせです。

11月10日(土)13:30―16:30
  福岡市 福岡ビル 9F 大ホール 定員150名
  問い合わせ092-841-1352(田中)
11月17日(土)13:30―16:30
  せんだいメディアテーク 7F スタジオシアター 定員180名
  問い合わせ050-3352-9197(招聘東北委)
11月18日(土)13:30―16:30
  高崎市 高崎サンパレス 3F ミニヨン 定員180名
  問い合わせ027-237-2591(群馬招聘委)

いずれも入場無料  総合問い合わせ 042-799-2915(シェア・ジャパン)

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心と体を通して見えてきたもの №85

2007-09-27 20:50:31 | Weblog
書き換えられたジョンの人生
教会で牧師や他の人たちの話をききながら、何かが変だと思い、そのことを考えながら家へ帰りました。
教会から家に戻ったジョンは、家族に教会での話しをきちんとしました。
ジョンは自分の意見を家族に話しました。
「町の人たちが怒りで町から出ようとするのは変だよ。」と、特にお母さんに向かって話しました。
お母さんは「面倒な話は聞きたくないね、私は町を出て行くよ。」と言います。
それでもジョンは、自分はこう思う、ということをきちんとお母さんに向かって話し続けます。
そばで黙って聞いていたお父さんが、「その通りだ、ジョンの意見に賛成だ。私はここに残るよ。」と言いました。ですがお母さんは、お父さんの言うことも、ジョンの言うことも聞きたくないといった感じです。
そこで、さらにジョンはお母さんに向かって話し続けていると、弟が「兄さんの言う通りかもしれない。だとしたら僕もここに残って様子を見るよ。」と言いました。
お母さんは面倒そうにして何も言わないので、ジョンはみんなでここに残るべきだという自分の考えをお母さんに話し続けました。お父さんと弟も辛抱強く横で様子を見ています。
とうとうお母さんは面倒そうに「わかったよ、ここに残るよ。」といいました。
お父さんがジョンを見て、「やったね」というように笑いました。
№86につづく

おまけ?
アミカ「天使に会える本」事務局から、手紙が届きましたのでお知らせします。
朝日里奈先生が「天使に会える本」というのを書いています。
そして、天使に会うためにはどんな心がけが必要か、といったことを勉強会やセミナーで教えてくださいます。
私も以前、朝日先生の勉強会に参加してからしばらくの間は、実際に天使が見えるようになりました。(今は心がけが悪いのか?見えなくなってます)

10月27・28日の二日間「あなたの人生はあなたの手の中に  運命を変える心」をテーマにセミナーがあるとのことです。
また、10月28日午後には「運命を変える心の法則について」という勉強会も開催されます。
興味のある方は、アミカ「天使に会える本」の著者朝日里奈先生
http://amica-angel.hp.infoseek.co.jp
の最新情報をクリックしてご覧下さい。
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心と体を通して見えてきたもの №84

2007-09-24 20:49:35 | Weblog
過去世を思い出す方法もいろいろあるようですが、最近の私が自分で過去世を思い出す時は、私がそれを思い出すというよりも、ジョンやエイミーが私の所にやって来て、私にその人生を見せてくれるという感じです。私が自分の子供の頃を思い出す…と言う感じではなく、全く別の人間としてのジョンが、ジョンの人生を見せてくれるという感覚です。たいていは、その人物が、私の意識を通して思い出していると言う感じですが、まれにですが…そのときの人物が語り手となって、私にその人生を教えてくれることもあります。その例としてジョセフがいます。ジョセフが、「ママに鞭で打たれても平気だよ」と言った時、最初は理解できなくて困りました。悩んだ末に私は、意図的にジョセフに「ママに鞭で打たれて、どうして平気なの?」と質問して、それに答えてもらうという方法で思い出しました。

ジョンの人生を思い出して一ヶ月ほどしたある日、ジョンが私の所へ来て言いました。
ジョン「あれから人生を書き換えたんだ。」
私  「ほんと?教えて」
ジョン「教会の所(№70)から変えたんだ」と言ってすぐに見せてくれました。
№85につづく
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心と体を通して見えてきたもの №83

2007-09-22 09:08:33 | Weblog
私の過去世の一つに、戦国時代の織田信長のもとで、毎日戦いに明け暮れていた一兵士がいます。彼の最後は悲惨なものでしたが、人生全体は思い通りに戦うことができて幸せだったようです。
(「思い通りに戦ったとしても、大将が戦術に長けてなければ、負けてしまう。」と彼は怒ってますが・・・。(^^;)・・・)
ある夜私は、戦時中の戦艦に乗って部下を指揮する男性の夢を見ました。最後にその戦艦は戦いに敗れ、男性とともに海に沈んで行きました。その夢について考えてみても、どうしても自分の過去世とは思えないなあ、まるで、映画を見ているみたいに他人事に感じる、と考えていた時、私の過去世の戦国時代に戦いに明け暮れていた兵士が出てきて、「戦艦に乗っていた彼は、私の子孫だ。彼の生涯が戦いの日々だと知って、彼を守護していたんだ。彼が船の大将として戦うとき、彼のそばにいて戦術の計画の立て方などをインスピレーションで伝える等して応援していた。大将がアホでは部下がかわいそうだからな。今の君の家族とは関係ないが、私にとっては大事な子孫だ。」と教えてくれました。
このとき私は「袖刷りあうも他生の縁」という言葉があるのを思い出しました。自分の知らない人であってもどこかで関係があるかもしれませんね。
今活躍中の政治家の何人かの守護霊は、その政治家の家系で総理大臣をしたことのある先祖だそうです。総理大臣をしたときに学んだことで子孫を助けたい、あるいはその時達成できなかったことを子孫に達成して欲しい、といった思いがあるため守護霊となっているようです。
私自身の守護霊についても書いておきます。
といってもこの人が私の守護霊だ、とは言い切れないのですが・・・。
私の過去世に江戸時代、江戸日本橋近辺で呉服商人だった人がいます。この男性が好きだったものを私自身も好きですし、何か彼の存在を感じるときもあります。うまく言葉で表現できないのですが、なんとなくこの人は今、自分の守護をしてくれているのでは?という気がしています。ただ、私は今商売(今風?に言えばビジネス)とは関係のない仕事をしているので、彼の出番?があまりないようなので・・・守護霊と言い切れない気もしています。ビジネスをはじめたら彼の存在をもっと感じるようになるのかもしれません。
私自身の先祖の霊を感じることもあります。先祖には村長をしていた人や地方の政治家をしていた人もいます。人々のためになることをしたい、と思わない人はいないと思いますが、私自身がこのようなことを考え始めると、村長や政治家だった先祖がそばに来ているように感じることもあります。
№84につづく
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心と体を通して見えてきたもの №82

2007-09-20 21:36:41 | Weblog
過去世にはネガティブでないものもたくさんあります。元気になったり、力づけられたり、気持ちが明るくなるような、ポジティブなものも当然あるはずです。『過去世セラピー』には『ポジティブな過去世のエネルギーは、あなたのまわりでガイドとしての機能をはたしているのです。そういう場合にはむしろそれにチューニングしていくようにします。そうすればそのガイドをより自分の近くにひき寄せることができます。ただ、これは必ずしも過去世で持っていた才能や力を、また取り戻したほうがいいという意味ではありません。・・・むしろ大切なのは、そのときのフィーリングやそこで学んだ知恵を今世に取り戻すことなのです。』とあります。
過去世と同じような人生を今回も生きるのは、時間の無駄だと私は思います。せっかく良い過去世があるのですから、それらの知恵や感性を生かす新しい生き方をして、新しい学びがあるほうがより進歩的ではないでしょうか。いろいろな生まれ変わりに関する本がありますが、有意義で満足した過去世の話が出てこないのは、解決すべき問題がなく、満足しているので、あまり思い出す必要がないのだと思います。
私自身の過去世を思い出していても、幸せだった時のことをあまり思い出せないのは、思い出す必要性が低いからだと思います。
蛇足ですが、このようなガイドをしてくれるポジティブな過去世の霊のことを、スピリチュアリズムの世界では、守護霊と呼んでいるようです。
№83につづく
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心と体を通して見えてきたもの №81

2007-09-19 00:55:29 | Weblog
憑依霊の例はたくさんあります。
私自身の例としてエイミーという自分の過去世が私自身に憑いていました。
またある人の先祖の例もあります。その先祖はある人物から怨まれていました。その人物は「子孫の代までたたり続けてやる!」と誓いました。誓いを立てた場合それは死を迎えても生き続けることは以前(№58)に説明したと思います。それはまるで等速直線運動のように働き続けます。等速直線運動をする物体は、何らかの力を加えられない限り、そのままの運動状態を続けます。この人の場合はその家系に代々受け継がれるという形で憑依され、等速直線運動を続けました。
その人のおじいさんは、人にだまされ次々と借金を抱え込んで、とても貧しかったそうです。そして、その人のお父さんは、おじいさんの借金を返すためだけに働き続け、貧しい中で病気になり、苦しみ続けて亡くなったそうです。おじいさんの借金はお父さんが支払うことができましたが、その人自身は病気になりました。完治することが難しい病気で、同じ病気で入院している人たちも次々に亡くなっていきます。
もともと貧乏なので、入院費用もこのまま入院し続けていては支払えない日がやってきます。このままでは仕事にも就けず、結婚もできなくて、自分の代で家は絶えるだろうと思ったそうです。でも、病気治療の過程で、原因は先祖がある人物から怨まれていたためだとわかりました。原因がわかると怨みの念から開放され、病気もよくなり、結婚もできて、ビジネスで成功することもできたそうです。
憑依するということは、何かに執着する、あるいは自縄自縛といいかえることもできます。たとえばアメリカは銃社会ですが、銃は開拓時代には必要なものでした。誰も入ったことのないような森を開墾してそこに家を建てるのですから、どんな危険があるかもしれません。獰猛な野生の動物もたくさんいますから、銃は必需品です。人間の銃に頼ろうとする思いを銃が受けとめ、現在の銃社会が成立しています。しかし、銃は簡単に人を殺すことができるため、恨みの念を持つ人も多くいます。銃によって殺された人たちによる念(思い)です。そういった恨みの念を受けている銃もあるようです。アメリカで銃を開発し大量に販売していたある一族が、銃に怨みの念を持つ人たちによって没落していった有名な話もあります。
愛着のある所持品を、亡くなるときにあの世に持って行きたいといった思いから、物に憑依する例もたくさんあります。家や土地に対する執着が、幽霊屋敷や地縛霊を生む場合もあります。
この世に対する執着から、亡くなった後もこの世にい続けようとする、あるいは自分が死んだことを理解できない、あるいは認めたくなくて浮遊している、浮遊霊もいます。
生霊(いきりょう)と言って、今現在生きている人でも、誰かに強い恨みの念などを持つ場合、その人に怨みの念が憑依する場合もあります。(たとえばご主人が浮気をしているとき、その奥さんの恨みの念が浮気相手の女性に取り憑いているなど…。私自身もある人から生霊の相談を受けたりしたこともあります。)
幽霊が出ることで有名なホテルもあります。その内容はさまざまです。たとえばもともと墓場のあったところに、強引にホテルを建てたために、墓場の霊たちがホテルに憑依した例や、ホテルに宿泊した人がその部屋で自殺や非業の死を遂げた場合などです。また古戦場などには、いまだに戦い続けている武士たちがいる場合などもあります。どうしても勝ちたい、という思いが等速直線運動を続けているのです。
このような例を挙げ始めればきりがありません。
「憑依霊が憑いている」という言い方がありますが、それは、自分自身の過去世なのか、あるいは他人のものなのかわかりませんが、どちらにしろまとわりついているエネルギーがあるということです。それがネガティブな感覚のエネルギーであれば、解決すべき問題を解決し、そのエネルギーを開放すればよいわけです。他人または自分の過去世の場合であれば現在の人生でもう役に立たなくなった古いパターンを脱ぎ捨てることができる、ということでしょう。もちろんそれを一生持っていることも出来ます。どうするかは自由だと思います。物や場所に憑依している場合も同じです。問題を解決すれば、憑依している人たちが自縄自縛から解放されますから、憑依されていた物や場所にまとわりついていたエネルギーもなくなります。その物を持つ人が不幸になることも、その場所に幽霊が出るとか、怪奇現象が起こることもなくなります。
№82につづく

ひとりごと
今夜もどこからともなく風が入ってきて、虫も飛んで、からだがかゆい。
このかゆさは虫に刺されてるのかな?
相手は虫だけに・・・無視?なんちゃって・・・さびしいな

おまけ
江原啓之さんは憑依されやすくて、天丼大好きな霊にとりつかれて一週間天丼食べ続けたこともあるそうです。
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心と体を通して見えてきたもの №80

2007-09-17 09:34:06 | Weblog
ネビル・ロウ氏の『過去世セラピー』には次のような文があります。
『しばしばあなたの過去世の人物は、あなたのまわりにエネルギーとなってついています。例えば、もしあなたが過去世で若いうちに死んでしまったとすると、もう少し生きたかったという気持ちから、そのときの人物があなたのまわりにいることがあります。また過去世で孤独であったり、だれかを許せなかったりしても、こういうことはよく起こります。あるいは今生であなたより知恵があるので自分がいなければと思っていたりします。それらの存在はあなたを通して生き、あなたを通して物事を体験しようとするわけです。』
私自身の過去世であるエイミーが、私のそばにいたのは憑依という言い方は変かもしれません。ですが、自分以外の存在が自分に憑いている場合と、現象としては同じようなものだと思います。過去世の私であるエイミーが私のまわりにいるときは、そのときの悲しみと寂しさの感覚も私と一緒にそこにあるような感じがするときもありましたが、そのネガティブな感覚は、今の私のものとは何か違うと思いました。
エイミーは悲しくて寂しくてたまらなかったと思います。亡くなった後も、この悲しさと寂しさ、孤独感を開放したいと、ずっと思い続けていたのだと思います。それで今の私が、エイミーの人生を知る以前から、私のそばで「悲しいよ」と言って訴えていたのだと思います。問題を抱えたまま亡くなった場合、その問題を解決したくて、生まれ変わったあともずっと心に残り、引きずっている場合があるということでしょう。
№81につづく

ひとりごと
夜窓を全部閉めているはずなのに、どこからともなく風が入ってくる?
なんでだろう?
虫も入ってくる!
なんでだろう?
おんぼろアパートだからかな?
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心と体を通して見えてきたもの №79

2007-09-14 21:45:53 | Weblog
ずっと以前、手や腕などに勝手に力が入って動き始め、それが肩から全身に広がり、自分の意思で動けないほどに激しく体に勝手に力が入って動き回るという奇妙なことがおこりました。そのときは、なぜこのようなことが起こるのかわかりませんでした。何かわけのわからない、どうしようもなく押しつぶされそうな感覚が、体の奥深い所にあるように感じるのですが、それが何なのかわかりませんでした。この押しつぶされそうな感覚を、わかって欲しいと訴えているような感覚も、どこかからわいてくるのを感じました。この感じをまともに感じて、もっとよく理解しようとすると本当に押しつぶされそうで、どうしていいかわからなくなるため、考えないようにしていました。
でもある日、死んでしまいたいほどの恐怖を感じました。そのときの私は、何も死にたいほどの恐怖を感じるような状況にないのに、死にたいと思うので困ってしまいました。それは、今から考えると、こんなに孤独に耐えているのに誰にもわかってもらえないという、あまりの悲しみから来ている恐怖だったようです。この耐え難いほどの悲しみの恐怖をわかって欲しくて、エイミーが潜在意識を通して私に訴えていたのではないかと今では思えます。
エイミーの人生を思い出す2ヶ月くらい前から、小さな女の子が私には見えました。彼女は薄暗い部屋の窓のそばに立って「ママはどこ?寂しいよ、悲しいよ、一人にしないで。」と言って泣いていました。
そのときは、自分の過去世であることはわかるのですが、誰なのかわからなくて困りました。いつも同じようなことばかり言うので、ただ「そうだね、悲しいね、寂しいね。」と言ってあげることしかできませんでした。そして私自身が日常生活の中で、今の自分が感じるはずのない感情に襲われ、とても悲しくなり、知らないうちに涙が流れてしまうこともありました。
催眠館ラディアンスでこの人生を思い出す直前、私の全身が硬くこわばり、手や腕や足が振るえ、勝手に動きまわりそうになりました。そして、この過去世を思い出した後、小さい女の子がエイミーだとわかると、泣いてばかりいたエイミーが、自分のことをもっとわかって欲しくてでしょうか、いろいろと私に話しかけてくるようになりました。そして、私が空腹になると私より先に「お腹が空いた。何か食べたい。」といいます。仕事が終わるとまたやって来て「お話して」とか、「遊んで」とか言います。そのたびに相手をしてあげると、とてもうれしそうに笑っていました。こんなところからも、ほんとうに飢えと寂しさの人生だったんだな…と思います。
№80につづく
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心と体を通して見えてきたもの №78

2007-09-12 21:32:23 | Weblog
70歳近くて、もう自分では動けません。ベッドで寝ています。スープを飲ませてくれるけれど、体を起こすのも辛いので、もうずっと寝ています。
私のところに世話をしに来てくれる人たちは、みんなすごく寂しそうにして、私のベッドにはあまり大人は来ません。
来るのは小さな子供だけです。子ども達はお話を聞きに来ます。聖書のお話をしてあげます。すると、私もやさしい気持ちになれます。施設の経営が少し良くなり子ども達は、ちゃんとした服装です。でもまだ寂しそうにしています。楽しくしてあげたいけれど、やっぱりみんな親がいなくて寂しいです。
ある日の朝、目が覚めて、起きようと思っても起きられなくて、そのまま逝きました。小さな窓から朝日が差して来たのを、自分が寝ているベッドの上空から見ています。
人生の目的と学び・気づき・・・悲しみを知ること。孤独。寂しい。
周りの人達からの印象・・・いつもはやさしいけど、忙しくなると文句ばっかり言う人。それで厳しく思うけど、でもほんとはやさしい。・・・・・・
エイミーのいた教会の様子やきれいなステンドグラスを思い出すとき、歴史と伝統のあるイメージがして場所はヨーロッパのような気がします。
まだ幼いエイミーの両親がいなくなってから、孤児院に入れられるまでの間、食事の世話をしてくれたおばあさんは、私を生贄にしたおばあさん(№30,31)のようです。
エロゥルの孤独な人生と重なっているところもあるように感じました。
№79につづく
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心と体を通して見えてきたもの №77

2007-09-10 21:36:49 | Weblog
37歳のとき、教会でお祈りしています。一人で寂しいけれど、まだやることいっぱいあります。小さい子の世話をしないといけない、教会のこともしなきゃいけなくて忙しいです。いろいろなことをまかされていて、ゆっくりお祈りする時間もありません。それでついつい文句ばっかり言ってしまいます。お祈りの時間まで、なんだか文句の時間になってしまっています。寂しくてたまらない。
60歳ぐらい。施設には人がいっぱいいるけれど、寂しいです。みんな親切にしてくれます。でも寂しい。足が動かなくなりました。ずっと座っています。足が病気になったみたいです。教会にいるみんながいろいろ世話をしてくれます。同じシスターもいるし、子供もいるし、村の人達もいるけれど、ここにいるのはみんな女の人です。
私は仕事も少なく忙しくないし、歩けないから、お裁縫とかものを書く仕事をしています。時間があるけれど、でもみんなのことが心配です。みんな孤児ばっかりの教会だから、その事を考えると自分も寂しいけど、みんなも寂しいと思って、悲しくて。だからお祈りをしています。みんな幸せになるようにと。
№78につづく
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