本日、快晴。

映画中心雑記。後ろ向きなポジティブが売りです。

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)【映画】

2015年05月07日 | 【映画】



@ユナイテッドシネマとしまえん

あああああ。
こんなに結末について考えがまとまらない映画は久々。
鑑賞後、意識が持っていかれたまま、
どんな批評を読んでもしっくりこない、というか。

どれが正解か分からないので、思うがままに私なりに書き殴っていますが、
何だか納得できないまま現在に至ります。

でもね、好きなんですよ、この映画。
良作かどうかは分かりません。でも、私はとても好きでした。

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かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡した
俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、
落ちぶれた今、自分が脚色を手掛けた舞台
「愛について語るときに我々の語ること」に再起を懸けていた。
しかし、降板した俳優の代役としてやって来た
マイク・シャイナー(エドワード・ノートン)の才能がリーガンを追い込む。
さらに娘サム(エマ・ストーン)との不仲に苦しみ、
リーガンは舞台の役柄に自分自身を投影し始め……。
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素直な感想だけ、書いておきますね。

「賞賛=愛」だなんて、なんて寂しい人なのだろうと思うけれど、
リーガンの気持ちも、分からなくもない。
彼は若いときに、その(正確には演じたキャラクターの)名声によって
自らの存在価値を見出して、この世界で生きてきた人だから。
そんな中で作り上げられた自我がバードマンであり、
彼の内なる声として、そこに存在していたのだと思うなあ。

最初から最後まで、ちょっと哀しい人ですが、
同時に、運が良いようで悪かった人だと思いました。

この人物を、マイケル・キートンが演じる、という何とも切ない。
それだけではなく、晩成型のナオミ・ワッツの起用され方とかも、
なかなか実生活(少なくとも視聴者に見えているワッツの売れ方)とリンクしていて、
監督、ドSだなあ、と思いました。


本作のような"分かりにくい"映画は、日本では余り好まれないのかもしれません。

他のラインナップと比較すると、アカデミー賞作品賞部門での受賞は少し意外な印象です。
去年の「それでも夜は明ける」と比べると、派手さが劣るというか。

レビューも様々で、私としてもまだまだ考えまとまらずですが
好きか嫌いかと問われたら、大好きな映画です。
長時間なので億劫になりますが、絶対にもう1回観ます。そうしないとキモチ悪くて。


万人にオススメです!!!とは言えませんが、
映画好きな方なら、楽しんで観れるんじゃないかと思います。
ヒーローものを期待したらだいぶ裏切られますので、ご注意をば。


本作においては、
セリフとか、映像とか、1つ1つが意味深に散りばめられているが故に、
どれを拾うかによって、感想も人それぞれ違ってくるのだと思います。

鑑賞後に相方と話しても、様々なレビューを読んでも、
私の認識間違ってるかも???と思ってしまうことが多くて。
でも、これはこれで、再鑑賞したときの見直し用として、
メモを残しておこうと思ったので、乱文ですが下に書き殴っております。

なので、アップしといてなんですが、真剣に読まないでほしいです。文字色薄くしておりますので。

もう一度見て、納得したいんです。それが出来たら、しっかりと書き直します。以上。



~~以下、雑文。~~~~~~~~~~~~~~
「無知がもたらす予期せぬ奇跡」を何と捉えるのが正解か、
いまだに分からず悶々悶々。
ただ、私としては、哀しきハッピーエンドだと思った。

自ら死ぬつもりで鼻を撃ったリーガン。
仮面を脱いだつもりが、鼻を撃ったことで、外見がよりバードマンに近づいてしまったけれど。
もし本当に死んでたら知らなかったはずの幸福(妻・娘との和解や世間の評価)を知ることが出来た。
しかしなお、鏡の中に見えるバードマン。
オマケの未来に満足した上で、脱し切れないバードマンとして、今度は窓から飛び立った。
これで飛べたら、俺は本当のバードマンだ、と。
ラストシーン、娘はバードマンとして羽ばたいた父の姿(妄想)を見つめ、微笑む。

現実は落下しているはずなのに、何故下に父の姿は見えなかったのか・・・。
そこに矛盾が生じて、まだまだ納得できない私。

でも。
最初から観客に見えているリーガンの超能力が、もし本物だったとしたら、
本作は、顔に貼りついていた仮面を銃によって脱ぎ、
バードマンから解放されて、自由になった男の話、にも取れるわけです。
もちろん、全部妄想、という捉え方もありますが、
その場合、ものすごい切ないバッドエンドですね。

結局のところ、どこまでがフィクションで、どこまでが現実なのか。
1カメで途切れない映像と、どこまで関係しているのか、
考えれば考えるほどに混乱してしまっているので、
これはもう、もう1回見るしかないんじゃね??とさえ、思っています。
・・・だってまだこんなに混乱してるんだもん。
参った。まとめきれず。


それと。
世間の評価と、私の感想での大きな違いとして、特筆しておきたいのは、
エドワード・ノートン演じるマイクの印象。

彼は、ろくでなしに見えるのかもしれないけれど、
目線を変えると、というか変えなくても、
私には、あんなに優しい人はいないように見えた。
(相方と話していて、ここが余りにも意識が違って驚いたのだけれど。)

タイムズ誌の批評家のオバチャンに、
「批評家はリスクを負わずにレッテルを貼るだけの仕事」と皮肉り、
「ハリウッドがNYにやってきたんだよ、すげーだろ」とリーガンのこともほめ、
個人的には、トップ紙面を飾った取材でさえも、
彼が載らなければ、後方の小さな記事だった舞台を結果的に大きく宣伝した。
プレビューでの公演は身勝手もあったけれど、
結果的に、リーガン氏の行動や芝居を、一度もけなしてはいない(・・・はず。)し、
娘のことも、さりげなく気にしていて、
(不能なのにみすみすアプローチなんてかけるわけなし。)
でも、心の隙間を理解していたから近づいて結ばれたんだとも思えるし。
同居人のナオミ・ワッツが、この舞台に賭けていることを知った上で、
目立つ自分も仕事を受けて、話題性を高めたとか。

全部の行動が、彼の優しさの上に成り立っている気がしてたのに、
最後の方は、なんだか存在感なくなってたから何だかなあ。
やっぱり私の考え過ぎなのかなあ。。。

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