日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

本立山玄妙寺(磐田市見付町)

2018-11-28 17:56:08 | 旅行

Jリーグの強豪・ジュビロのホームタウンである磐田にやってきました。



こちらに創建630年以上の日蓮宗寺院があります。



玄妙寺です。



玄妙寺は日蓮宗本山です。
日蓮宗ポータルサイトによると、玄妙寺は由緒寺院に位置づけられています。



本堂です。
旧東海道の近くにあるお寺らしく、松がいい感じでフレームインしてきます。その昔はすぐそこに海があったそうですよ!



山号は本立山です。



これは・・・橘を組み合わせた紋じゃないですか?みかんの名産地・静岡県らしいですね!



この堅牢な建物は・・・?



経蔵のようです。
国の登録有形文化財に指定されているみたい。



経蔵があるくらいですからね、古くから多くのお上人方がここで勉学に励んだのではないでしょうか。



お寺の由緒によると、日蓮聖人のご入滅からおよそ1世紀後の1385年に、玄妙阿闍梨日什上人によって開創されたようです。
ここ磐田の界隈を布教に歩いておられたんですね!
ちなみに玄妙寺は日什上人自らが開いた初めてのお寺だったそうです。



境内に日什上人の顕彰碑がありました。

日什上人は会津武士の子として生まれましたが、若くしてご両親を亡くし、19才の時に出家して比叡山に入られ、「玄妙」という名で勉学修行に勤しまれたそうです。
相当頭の切れる方だったようで、38才で比叡山の学頭(!)になり、「能化(のうけ)」といわれる教授職に就かれたといいます。
58才で比叡山を下り、故郷会津に近い羽黒山東光寺を拠点に活動されていたようです。



玄妙66才の時に転機が訪れました。
日蓮聖人の著作である開目抄、如説修行抄を読んだのです。



その内容に玄妙の心は動かされた、いや激震が走ったのかもしれません。

日蓮聖人の教えに自ら帰伏し、名を「日什」と改めたのです。



翌年、日什上人は羽黒山東光寺を下り、真間の弘法寺に入門して日蓮聖人が遺された多くの御書を読み、その教えを学んでいったそうです。

それにしても還暦をとうに過ぎた66才で改宗するって、スゴくありません?それこそ出家してから今までの人生を全てリセットするくらいの事ですよね?その潔さにただただ驚きます。
と同時に、ご入滅されて100年以上経過してなお、遺された著作が、他宗の高僧を帰伏させてしまう日蓮聖人。本物のカリスマですね!



玄妙寺の境内からは旧見付学校が見えますが、界隈には歴史を感じさせる建物がたくさんあります。
もともとここ遠州見付は東海道五十三次の28番目の宿場町でした。29番目が浜松宿、ってことはその間に激流の天竜川があるわけで、渡しを待つ旅人で賑わう宿場町であったことが想像できます。



歴代お上人の御廟を参拝。



日什上人がこの地で法論しているのを聞いていた宿の主人が日什上人に帰依し、法名を「日妙」と称しました。
日妙上人は遠州見付にお寺を建立、日什上人が天台宗で活躍した時の僧名にならい「玄妙寺」と号しました。開山を日什上人と仰ぎ、自らは二祖となったようです。

ちなみに日什上人は日妙上人の一周忌に際し、「諷誦章」を認められたそうです。「諷誦章」はのちに日什上人が興した顕本法華宗の教学の基礎になっているといいます。



日什上人は70代になっても一心に法華経の弘通を続けました。特に京都で日蓮聖人の教えを熱心に布教されたようです。
そして78才の時に故郷の会津に帰り、翌年、そのご生涯を閉じられました。 


正しい教えは正しいと認め、高齢にもかかわらず新しい道を邁進し続けた日什上人。
変わり種のお上人ではありますが、知れば知るほど惹かれてしまいます。

日什上人が開いた宗門寺院は他にもあるようです。ぜひ巡ってみたいと思います。







大覚山善勝寺(出雲崎町尼瀬)

2018-11-04 23:14:33 | 旅行
佐渡・経島の岩上にお祀りされていた日朗上人像

日蓮聖人のもとへ、一刻も早く赦免の知らせをお届けしたいと上人自ら佐渡に渡った、その威徳を讃えたご尊像だと思います。
首に赦免状を掛けて読経しているお像は「師孝第一」の日朗上人らしさが表現されており、印象的でした。



日蓮聖人が龍ノ口の法難から佐渡に流されている間、日朗上人はここ鎌倉・長谷の宿谷光則邸の裏手にある土牢に収監されていたと記憶しています。
(現在は行時山光則寺の境内になっています)



日蓮聖人が依知から佐渡に発つ前日に、牢中の日朗上人に宛てしたためられた「土籠御書」には、島に流されるご自分のことよりも弟子の身を案じる強い思いが込められており、時代を超えて我々の心を打ちます。(↑画像は依知・妙純寺)

このお手紙、そして牢の中での日朗上人のお姿は、監視役の宿谷光則や看守の役人の気持ちに、変化を起こさせたようです。
でなければ日蓮聖人佐渡在島中に日朗上人が越後までやってくるなんて不可能です。


日朗上人が佐渡の日蓮聖人の無事をお祈りしたというご霊跡が出雲崎にあるそうなので、訪問してきました。


出雲崎の海岸近くには「順徳天皇御神霊御上陸地」の碑があります。
正確な由緒はわかりませんが、恐らく佐渡に流され心ならずも島で崩御された順徳天皇の御霊(お位牌なのかな・・・?)が本土に上陸されたことを記念したのでしょう。御霊に寄り添って、若き阿仏房もこの地を歩かれたのでしょうか。



出雲崎は江戸時代、北国街道の宿場町として栄えました。旧道沿いに当時を偲ばせる街並みが続いています。



旧道から山側に上がったところに、善勝寺はあります。



お寺の前には「おけさ発祥の地」の碑があります。
源平の合戦に参じ二度と戻らなかった息子達が、勇敢な死を遂げたと知らされた尼僧の母が、嬉しさのあまり袈裟法衣のままこの地で唄い踊ったのがルーツのようですよ!



善勝寺の本堂です。
江戸時代の建築だそうです。時間によってしか生み出すことの出来ない渋みが滲み出ています。



彫刻も精緻で見応えがあります。優秀な職人さんの手によるものでしょう。



山号は大覚山です。



日朗上人はこの丘に登り、海の向こうで理不尽な流刑に耐えている日蓮聖人のご無事を祈ったそうです。
丘の上にあった釈迦堂を、のちに日朗上人の直弟子である日善上人が改宗させて開いたお寺が善勝寺のルーツです。
日朗上人を開山と仰ぎ、自らは二祖になっているようです。



先ほどの土籠御書の画像は依知の妙純寺ですが、実は妙純寺を開いたのも日善上人です。



日善上人のお姿は「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも見られます。九老僧なんですね!



このお寺、ヤギを飼っているんですよ~!とっても人懐こく、僕が「メェ~」と鳴くと「メェ~」と返してくれます!



一説によると、日朗上人は(捕らわれの身でありながら)何度も佐渡に渡っていた、とも言われています。
「お師匠さま」を慕うその執念は、我々とは次元が違い過ぎますね・・・。少なくとも僕はこれまで50年の人生で、何の分野においてもこれほどのカリスマに出会ったことがありません。

現代では無理なのかなぁ・・・。























常在山本𡈽寺(中能登町西馬場)

2018-11-04 20:02:40 | 旅行
僕が日蓮聖人とそのお弟子さんのご霊跡を探す際、参考にしているツールの一つに、日蓮宗ポータルサイトがあります。こちらの「寺院めぐり」のサイトに「宗門史跡」も案内されています。
今回、北陸を旅するにあたって事前調査してみると、北陸の宗門史跡は2ケ寺、一つは有名な本山・妙成寺、そしてもう一つは「本𡈽寺」とありました。石川県中能登町にある日像上人のご霊跡のようです。


訪問してきました!

本𡈽寺の「土」の字には点が付くんですね!


宗門史跡・・・どういう史跡なんだろう?



法塔があります。
ここから先は聖域ですね。最近は必ずここでお数珠を手にするようになりました。



わ~、上の二つの石を支えてる所、空間が見える!アーティスティックな石塔ですね!



日像上人ご開山のお寺のようですね。



ん?日像上人は北陸で法難に遭っていたんだ・・・巷では京都での法難ばかりが語られているから、全く知りませんでした。



参道はゆるい坂道になっています。



結構大きなお寺のようですね~。



本堂です。
1847年に再建されたお堂らしいのですが、キレイに維持されているので古さは感じません。デザインも現代的です。



本堂の裏手には七面堂!



新潟を含む北陸地方の日蓮宗寺院には、七面大明神をお祀りしているお堂が多いように思います。
新潟・角田浜で日蓮聖人が七面の大蛇を教化された逸話が関係しているのでしょうか。



境内はキレイに苔むしており、またクラシカルな法塔が沢山あります。
日像上人のお寺ですから700年の歴史はあるはずです。



幼い頃、ご入滅直前の日蓮聖人から帝都開教の遺命を受けた日像上人は、その10年後、上洛の前に日蓮聖人にゆかりのある場所を巡拝されました。
佐渡にも行かれ、島内各地で参拝を済ませた日像上人は、七尾に行く船に乗りました。
この船は番匠弥右衛門が所有する石動山天平寺の御用船でした。ということは天平寺関係者が沢山乗船していたと思われます。



関係者の中には天平寺の学頭・萬蔵法印もいました。
当時の天平寺は3000人からの僧侶を擁していたそうです。その中の学頭ですから、ものすっごく優秀なお坊さん、エリート中のエリートだったのでしょう。



七尾に向かう船中で、日像上人は萬蔵法印と法論を交わしました。お祖師様も認めた神童・経一丸が更に研鑽・修行を重ねた青年僧と、巨大寺院・天平寺学頭の法論ですから、それは白熱したやり取りだったと思います。



法論の末、萬蔵法印は日像上人に帰伏しました。
萬蔵法印は日像上人に、一緒に石動山に登って、弟子達にお説法して欲しいとお願いしたそうです。



天平寺のあった石動山は、本𡈽寺から直線距離で7kmほど離れています。
この画像の奥、杉木立の左側に見えるあたりが、石動山じゃないかな~?



日像上人は請われるまま石動山に登り、僧侶達に向かって法華経の法義を説きました。
すると僧侶達は怒り出しました!暴徒と化した大衆は日像上人らに石を投げ、棒で殴り、中には刀を抜く者もいたようです。

特に「裏切り者」とされた萬蔵法印への反発・攻撃は凄まじかったといいます。日像上人とともに急いで山を下り、現在の本𡈽寺の辺りまで逃げてきたといいます。
それでも石動山の僧侶達は大勢で追いかけてきました。これは、命が危ない!!



そんな時、この村の農夫である加賀太郎、北太郎という兄弟が日像上人を安全な場所に匿い、激高している僧侶達に対峙しました。この時点では法華経とは全く関係のない農夫兄弟だったはずです。なのに賢明に僧侶達を退け、その末に二人は亡くなってしまいました。



お寺から少し歩いたところに兄弟の墓所があると伺い、お参りに行きました。


兄弟の七回忌にあたり、当時帝都で苦闘していた日像上人から直々に法号が授けられたそうです。

お兄さんである加賀太郎(享年35才)には「祐乗上人」、



弟である北太郎(享年32才)には「道乗上人」の法号が授与されました。

これが石塔に刻まれていた法難だったんですね・・・。自分の命も厭わず、必死で日像上人を助けようとしたのは、もしかしたら兄弟は日像上人のお姿に何かを感じたからかもしれません。それにしても、できることじゃありません。
日像上人が帝都開教を果たし、法華経の教えが天下公認になったその裏には、こんな尊い犠牲もあったのだということを、我々信徒は知るべきだと思いました。



兄弟の七回忌である1300年、日像上人は兄弟の菩提を弔うためにこの地に常在山本𡈽寺を開きました。
日像上人は下総国平賀の生まれですが、平賀にある日蓮聖人、日朗上人ゆかりの「本土寺」と同じ名前を付けたようです。
(常在山本𡈽寺の土には点が付いてますけどね!)



お寺の山門は、のちに荒廃した石動山天平寺の山門を明治期に移築したものだそうです。
そう言われれば立派だわ・・・。



本𡈽寺の開山堂には、日像上人像とともに、祐乗上人(加賀太郎)、道乗上人(北太郎)のお像がお祀りされているそうです。
兄弟のお像は農夫の姿で、武器にした農具を携えているといいます。


いろいろ考えさせられ、胸がいっぱいになりました。

高森山大栄寺(長岡市両高)

2018-11-03 22:42:52 | 旅行
佐渡に流された日蓮聖人が、多くの島の方々に助けられて辛い配流生活を乗り越えることが出来たことは、今夏の佐渡訪問でよくわかりました。
(↑画像は佐渡・根本寺の日蓮聖人像)
しかし同時に、本土からの支援も、粘り強く続けられていたようです。


檀越・四條金吾頼基公も支援に奔走した一人でした。
四條金吾公といえば北条家一門の江間光時に仕えた鎌倉武士で、日蓮聖人が鎌倉で辻説法を始められた頃、つまりかなり早期からの熱心な信者です。
気は短いが義に厚い、人間味溢れた方だったようで、僕は大好きです。
(↑画像は鎌倉・収玄寺)


四條金吾公が、佐渡に流された日蓮聖人を支援する拠点にした場所が新潟にあると聞き、訪問しました。
高森山大栄寺です。

山号の由来はどこから・・・?


お!この「高森城」が山号のルーツかな?

風間信濃守信昭公は日昭上人の教化を受けて入信した武士ですが、信昭公はこの辺りが出身地なんですね!


本堂がありました。
温厚なご住職夫妻と、いろんなお話をさせて頂きました。


四條金吾公はこのお寺の裏山である金鉢山内に庵を建て、自身の佐渡慰問の拠点としてだけでなく、各地から慰問に訪れる弟子信者の宿舎、あるいは食糧や日用必需品を送り届ける場所としても使われたそうです。
ご住職によると、庵やお堂はもう存在しないということでしたが、庵跡までは行けるようなので、この際頑張って行ってきました!


大栄寺のすぐ裏手にある八幡様に参拝をし、社殿横から山に入りました。


ここから庵跡まで245m!徒歩7分だって。


集落を下に見ながら、尾根を登ってゆきます。


10月下旬だったからいいけど、真夏だったら草とか虫とか、辛いだろうな~


ちょうど7~8分歩いた頃、大栄寺まで245m、徒歩7分の標識がありました。
恐らくこの辺りだ!


「ここ!」っていう表示はありませんでしたが、ここだけ木立が途切れ、また平坦な場所がありました。
四條金吾公の小庵跡だと思われます。

日蓮聖人の支援拠点、いわば命綱の場所であり、まさにご霊跡だと思います。先師先哲への感謝の気持ちを込めて、お自我偈を唱えました。


日蓮聖人が鎌倉に戻り、身延山に入られた後も、ここにあった庵は法華堂として残り、風間信濃守信昭公の祈願所にもなっていたそうです。


法華堂は江戸時代に現在の場所に移り、当時の村の名前を山号にしたそうです。


この辺りは戊辰戦争の激戦地で、隠れた敵兵をあぶり出すために民家といいお寺といい、徹底的に火が放たれたといいます。
そのせいで大栄寺のお堂も、お像ほか寺宝も灰燼に帰しましたが、少しずつ再建してきたそうですよ。


ご住職に本堂のお像を拝ませて頂きました。
お像の画像は撮りませんでしたが、そのお像を絵にしたものが掛け軸になっていたので、撮らせて頂きました。
上段に日蓮聖人、下段に四條金吾ご夫妻が配置されていました。
大栄寺を象徴しているような気がしました。


実は大栄寺の存在は、四條金吾公の御廟がある南部町の内船寺を初夏に訪問した際に、お寺の奥様に教えて頂きました。最近、内船寺の団参旅行で訪問もされたということです。
一方、大栄寺でも次の団参旅行は是非、内船寺を訪問したいという希望があるそうです!

こういう横のつながりっていいですよね!四條金吾ご夫妻がつないでくれた縁。お互いに信仰を深め合ってゆくことでしょう。






華開山成蓮寺(七尾市小島町)

2018-11-02 20:08:34 | 旅行
春に訪問した京都・妙顕寺

京都、いや西日本で最初に日像上人が開いた法華寺院です。



鎌倉時代、いまだ新興教団であった日蓮聖人の一門にとって、帝都(京都)に寺領を賜り、寺院を建立することは長年の念願であったようです。


日蓮聖人がご入滅の2日前に孫弟子の経一丸を枕元に呼び、帝都開教を遺命されたのが1282年。

それから10年、名を経一丸から日像と改めた青年僧は上洛を決意し、真冬の由比ヶ浜で波に洗われながら自我偈を100回読誦するという荒行を毎夜100日間連続で行ったそうです。
そして日蓮聖人のご霊跡を巡拝してから北陸廻りで上洛したということです。


石川県の能登半島

牡蠣の美味しい街・七尾にも、日像上人が歩かれた痕跡がありました!



山の寺寺院群の中に、日像上人のご霊跡があるようです。



JR七尾線の踏切を渡ると・・・



のどかな谷戸が広がっています。細く緩やかな坂道を上ってゆきます。



道沿いには、日蓮聖人の供養碑や、



清正公の供養碑



日蓮宗のお寺もいくつもあります。



このお寺は鍋かむり日親上人のお寺だ!


・・・な、何だ?この谷は・・・?



ここは山の寺寺院群と呼ばれ、約400年前に前田利家公が七尾に居城を築く際、奥能登方面からの攻めに備えるために浄土真宗以外の各宗寺院を集め、配置したのがルーツだそうです。現在でも16ケ寺が残っています。



そのうち8ケ寺が法華系の寺院(日蓮宗寺院は6ヶ寺)で、いずれもこの谷に沿って存在することから、この谷は「法華谷」と呼ばれてきました。
浄土真宗だらけの北陸にあって、心からホッとする、い~感じの谷です。



法華谷のいちばん奥に、日像上人のお寺があります。



成蓮寺です。



山門です。全体的にこぢんまりとしていて、親近感が湧く入口です。



わぁ~、歴史のありそうな法塔!いつ頃のものなんだろう。



本堂です。
能登といえば真っ黒でツヤツヤの能登瓦の屋根!



山号は華開山です。
帝都開教の念願が花開くように、という思いを込めたのでしょうか。



日像上人のご尊像に合掌。


どういう縁起なのでしょうか。本堂で物静かなご住職に伺いました。

1293年、日蓮聖人の佐渡法難のご霊跡巡拝を済ませた日像上人は、七尾に行く船に乗りました。


このとき乗ったのは廻船問屋・番匠弥右衛門が所有する船で、これは石動山天平寺の御用船でした。
独自に御用船を運行させてるお寺って・・・どんだけパワーがあったんだろう。

七尾から南へ10kmほどの場所にある石動山天平寺は、かつて数千人の僧侶を擁する真言宗系の巨大山岳霊場だったそうですよ!
しかしのちの戦乱に巻き込まれて衰退、明治の神仏分離令で荒廃してしまったといいます。



船は七尾に着き、その晩日像上人は番匠弥右衛門のお宅に宿泊されました。
そして一族を教化し、板曼荼羅を授けたそうです。
これを機に番匠家が七尾にあった真言宗の菩提寺を改宗したのが成蓮寺のルーツです。



板曼荼羅は現在も番匠家の家宝として受け継がれているそうですよ。



ところで、本堂内に貼られていたこの一枚の紙・・・聞きたいこと満載で、ど~しても気になってご住職に聞いてみました。

まず「宝塔懺法会」は「ほうとうせんぼうえ」と読むそうで、ご宝前に安置された宝塔を囲んで、自分の罪を懺悔したり、世の中の罪を浄化したりする法要だそうです。湘南界隈では聞いたことがない法要(実はお上人方が密かにされてるのかな?)ですね~。
次に「大海供養」はいわゆるお施餓鬼のことのようで、毎年お盆の時期に、海難者や魚の供養を海岸でするのだそうです。昔は船を出して灯籠を流したりしたそうですよ。

法華谷にある日蓮宗寺院はどこもお檀家さんが少ないため、6ヶ寺の輪番制でこれら四大法要を合同で執り行っているそうです。
何か、こういうのいいですね~。お寺の垣根を越えて、寄り添って、協力して法要を成功させる・・・まさに日蓮聖人の教えの「異体同心」を実践しているんですね!



ご住職に、近くの小丸山公園(前田利家の居城跡)に日像上人の大きなご尊像があるから、時間があったら行ってみて下さい、と教えて頂きました。



わ~、お説法されている日像上人でしょうか。



優しそうなお顔ですね~!

日像上人は本当に苦労して帝都開教を果たし、京都の宗門の第一人者というイメージが強いですが、北陸の地においても法華信仰の基礎を作った方として、人々から尊敬されています。ここ七尾は日像上人が上陸された記念の地ということで銅像建立の機運が高まり、昭和2年に建てられたそうです。



戦争中には金属供出で銅像はなくなってしまいましたが、昭和35年に最建立されたそうです。
北陸の信徒さん方の熱い思いを感じます。




さて、石動山天平寺の御用船で日像上人は海を渡っていらしたのですが・・・実は船上でもう一つ、大きな動きがあったようです!

これについてはまた後日、ご紹介したいと思います。


吉祥山日朝寺(上越市寺町)

2018-11-01 22:52:39 | 旅行

佐渡から柏崎に着岸された日蓮聖人は、難所の米山峠を越えてゆかれました。



無事、峠越えを果たし、柿崎で休憩されたようです。
(↑画像は柿崎の妙蓮寺)


そして一気に歩を進め、越後国府(現在の上越市)に到着しました。

奥に見える山が米山です。修験道の行場でもあったそうですよ。



高田藩の城下町計画の名残りでしょうか、現在のJR高田駅の西側には夥しい数の寺院が集まっています。



地名も寺町というそうです。ちなみに各寺院とも広い駐車場を設けていないので、付近の寺町駐車場(無料)を利用するのが良いと思います。



この寺町に、日蓮聖人の逸話が残るご霊跡があります。



日朝寺です。
「大毘沙門天王」って刻まれてますね。



ああ、こういう説明が一番簡潔でわかりやすい!
「文永十一年三月十六日 高祖大士 自佐州 歸子相之鎌倉中路 天出迎之霊地」
「佐州」は佐渡のこと、「歸」は帰の旧字のようです。



山門です。
太い木材を用いた、重厚な造りです。



本堂です。
赤い帽子を載せたようなお堂です。



この部分、「大棟(おおむね)」って言うんですよね!こちらのような寄せ棟造りでも、チョコっと大棟が付いてます。


わ~、ここにも由緒が簡潔に書かれてる。

「文永十一年 彌生半出迎福天」
・・・彌生半・・・?とにかく福天がお出迎えしてくれたんだね。



「歸倉日蓮大菩薩御止宿霊場」
お~、お祖師様はこちらにご一泊されたんですね!



本堂の隣に、とても立派なお堂がありました。
毘沙門堂だと思われます。

このお寺には日蓮聖人と毘沙門天にまつわるお話が残っているそうです。



日蓮聖人が越後国府の町に入られたときに、子供が目の前に現れ、日蓮聖人の荷物を持ってくれたそうです。
そして吉祥房というお寺に案内したといいます。



お寺に入ると、その子供の姿は見えなくなってしまったそうです。



みんなで探し回りました(子供と荷物の行方がわかんなくなっちゃったんですからね!)。
そしたら毘沙門天をお祀りしてある場所に、日蓮聖人の荷物と、子供の泥の足跡が残っていたそうです。



子供は佐渡からの難路をやって来る日蓮聖人を待っていた毘沙門天の化身に違いない、ということなりました。
のちに法塔にも刻まれているように「出迎え毘沙門天」と呼ばれ、越後国府の界隈では大変な信仰を集めたそうです。



お寺は真言宗でしたが、住職はこの晩を境に改宗して吉祥阿闍梨日朝上人となり、お寺も吉祥山日朝寺と改めました。



越後の戦国武将・上杉謙信の軍旗が「毘」であるのは有名な話ですが、実は謙信も日朝寺の出迎え毘沙門天を深く信仰していたからなのです。



上杉謙信の居城・春日山城の中にも、毘沙門堂が設けられ、出迎え毘沙門天の複製をお祀りしていたそうです。確か日朝寺の毘沙門天を修復した時に出た木片を胎内に納めているんじゃなかったかな?
現在の城跡にも、毘沙門堂が再現されていましたよ!

上杉家が会津に移封され、更に関ヶ原で西軍に付いたせいで米沢に移された際には、日朝寺も共に移転しちゃったのだそうです。
だから米沢市には今も日朝寺(日蓮宗)が現存します。



じゃあ、今上越市にある日朝寺は・・・?


日蓮聖人が依知から佐渡へ向かう途次、海沿いの村で住民に乞われて掘った井戸(出雲崎と寺泊の間にあります)

この「お手堀りの御井戸」は江戸時代に村田妙法寺の20世、日鋭上人が再興されたご霊跡と聞きました。

上越の日朝寺は、この日鋭上人が力を尽くして再建したのだそうですよ。感謝、ただ感謝です。



ちなみに日鋭上人の御廟は御井戸近くの妙本寺にあります。



日鋭上人は村田妙法寺の貫首を退いたあと、ここ妙本寺に隠居されたそうです。そして62才の時、強い思いを持って自ら土中に埋まりました。土の中でも読経を続け、そして遷化されたといいます。
・・・言葉が見つかりません。合掌。


9月の日蓮宗新聞に妙本寺が紹介されていたのを思い出しました。

妙本寺は久田地区の方々に護持されてきたお寺で、護持を担当した住民が亡くなると妙本寺内に埋葬してきたそうです。
今年それら遺骨を合葬墓に納骨し、同時に日鋭上人を奉る観音様を建立した、という記事でした。日鋭上人のマインドが静かに、しかし確実に継承されているのですね!



出迎え毘沙門天のお導きで越後国府にご一泊された日蓮聖人は、翌日、鎌倉に向けて歩き出しました。
恐らく往路と同じ道を辿りながら「三月二十六日に鎌倉へ入りぬ」(光日房御書)ということになるのです。




夏の佐渡、そして秋の越後と、日蓮聖人の歩まれた軌跡を辿りました。

今まで日蓮聖人のご生涯を綴った本を何冊も読みましたが、活字の上で想像していたお祖師様の旅路と、実際に訪れた現場とでは大きな違いがあります。特に数ある法難の中でも最も遠く、最も寒く、しかも海の向こうに行かなければならない佐渡法難のご霊跡は、驚かされることばかりでした。

往復を含む過酷な法難の日々、日蓮聖人も必死だったし、お弟子信者達も必死だった。更にはのちの時代になって戦争や飢饉に翻弄されても必死でご霊跡を守った方々、荒廃しかかったご霊跡を復興させようと必死に尽力した方々・・・みんな必死で信仰を守ってきたんだな~と改めて思いました。

越後のお寺の方は、ご首題をお願いすると必ず、本堂に招いてくれました。そして必ず、お話をしてくれました。これは佐渡でも、不思議なくらい、例外なく、そうでした。
日蓮聖人がこの地に残された心を、偉大な先師達と同じく脈々と継いで下さっている・・・そう感じました。日蓮聖人と出会う旅ができた、と本当に満足しています。