日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

堀内良平翁頌徳碑(身延町身延)

2022-09-01 14:48:22 | 旅行
8年前に亡くなった義父は、先代から継いだ小さな日蓮宗教会を主宰していました。現在、身延山聖園に眠っています。

聖園墓地は東谷を上っていった裏参道の頂上付近、↑延寿坊さんの角をさらに上って行った所にあります。



この辺り、地元の方は寺平(てらだいら)と呼びます。日蓮聖人がご入山されるもっと昔、ここに修験のお寺があったという言い伝えが、地名の由来のようです。


義父のお墓参りにやって来て、いつも気になっていたのが、墓地の最奥にあるこの銅像、そして石碑です。

山梨県が地盤の政治家であり、実業家であった、堀内良平という方の頌徳碑です。
堀内家のお墓が聖園墓地にあり、頌徳碑はその正面に位置します。(お墓は生け垣に囲まれており、内部を見ることはできません。)



この石碑に刻まれた碑文や、彼の伝記「富士を拓く」(塩田道夫著)を手掛かりに、堀内良平氏について調べてみました。



碑銘にちなみ、以降「堀内良平翁」と記しますね!


明治3(1870)年、堀内良平翁は甲府県八代郡上黒駒村新宿(現在の笛吹市上黒駒)で、農業を営む堀内藤右衛門の長男として生まれました。

御坂峠の北麓、笛吹川支流の↑金川沿いにある上黒駒村は、ただでさえ高山に挟まれた谷あい、耕作地が絶対的に少なく、また大雨が降ると金川が大暴れするため、当時の村民の暮らしは、厳しいものだったようです。



今でこそブドウや桃の栽培が盛んですが、黒駒が果樹栽培に適する耕地に改良されたのは、ずっと後年のことです。


堀内良平翁13才の時、母親が病死してしまいます。
3人の弟の面倒を見ながら、家業の農業の傍ら、わずか14才で役場の職員として働き始めるなど、少年時代は本当に苦労したようです。
(↑上黒駒の風景)
こういった背景もあったからでしょう。
堀内良平翁は黒駒、甲州と、そこに暮らす村民の幸せのために何ができるだろうかと、考え続けました。


地元の子供達に学問を受けさせてやりたいと、黒駒に私塾「育英塾」を開きます。経営は頭打ちでしたが、人を育てることが、結果的に地元を豊かにするのだという先見性があったようですね。
(↑神座山林道)
育英塾の経営を安定させようと取り組んだのが、黒駒の背後にある御料林の開墾でした。
御料林は現在でいう国有林、この一部を国に掛け合って払下げてもらい、開墾して桑や藍を植えました。
すると実際に生産性が上がり、塾の経営どころか村全体が少しずつ、豊かになってゆきました。


(↑上黒駒の風景)
26才の時、黒駒で報知新聞を売りさばく権利を得ます。
配達や購読料の徴収も自分でやることで村民と顔馴染みになると、今度は地元の声を全国に発信する役目も担うようになります。



(塩田道夫著「富士を拓く」より引用)
明治40(1907)年に発生した大水害では、真っ先に被害状況を伝え、国庫から復旧対策費を多く支出させるきっかけを作りました。


こうした堀内良平翁の手腕は、黒駒や甲州にとどまらず、やがて社会的な大事業を次々と成し遂げることになります。

(塩田道夫著「富士を拓く」より引用)
日本初のバス事業である東京市街自動車株式会社(通称「青バス」)を創立します。関東大震災で市電の多くが不通になる中、青バスは大活躍したそうです。
この事業は、現在の都バス、はとバスに引き継がれています。


我々身延山にご縁がある人達にとって、馴染み深い電車といえば、富士~甲府間を結ぶ↓身延線でしょう。

この富士身延鉄道(今のJR身延線)開通を牽引したのも、堀内良平翁です。
構想から開通まで20年以上、それこそ明治・大正・昭和を跨いだ大事業でした。

富士身延鉄道に関するお話は、後日させていただきますね。


ところでこの画像、御坂峠の旧道から臨んだ富士山です。
裾野に広がる樹海と、眼下には河口湖・・・最高の景色ですね!

御坂峠の麓で生まれ育った堀内良平翁は、かねてからこの景色を、都会の人や外国人に楽しんでもらいたいと考えていました。
耕地が少ない甲州は、農業生産に限界がある。ならば逆に山に囲まれた風景を宣伝し、観光事業で人を集めたらどうだろう、と考えました。


富士の北麓には、未開発の広大な県有地がありました。それも5つの美しい湖を擁して・・・。
堀内良平翁は早速、県知事に直談判し、富士北麓開発を官民一体の事業とすることを了承させました。


堀内良平翁は地元出身の小野金六、根津嘉一郎といった政財界人(「甲州財閥」と呼ばれるらしい)の力も借り、巨大事業の陣頭指揮を執りました。

原野に道路を通し、電気水道などインフラを整備、ホテルを建て、別荘を分譲、さらには大月~吉田間に富士山麓電気鉄道を開通させました。
今から100年近く前のことです。それこそ夢のような話だったでしょうが、翁の目論見は当たり、全国の人を呼び込むことに大成功します。


5つの美しい湖の総称を「富士五湖」と命名したのも良平翁だそうですよ!

富士五湖周辺での成功が礎となり、山梨県は日本屈指の観光地に発展し、今に至ります。



(塩田道夫著「富士を拓く」より引用)
堀内良平翁の夢は、富士吉田までつながった鉄道を、さらに東には御殿場、西には西湖、精進湖、本栖湖、下部温泉まで、つなげたかったようです。
戦争などにより計画は白紙になりましたが・・・もし実現していたらと考えると、ワクワクしますね!


山中湖畔、旭日丘には、富士北麓をリゾートとして拓いた堀内良平翁を称える頌徳碑があります。

身延山とここ、2か所に頌徳碑があるなんて、すごくないですか?
いかに人々が翁に感謝しているか・・・人徳ですね。


頌徳碑には、報知新聞時代から親交のあった文筆家・徳富蘇峰氏による碑文が刻まれています。

「世のため国のために尽くすこと70年、麓一帯の開発は大変な困難だったでしょう。甲州人達が良平翁の徳を頌えたがるのも不思議ではありません。何より、翁の偉業により、天下の名山・富岳も、面目を一新したのですから」


(↑富士急ハイランド)
堀内良平翁の事業は、現在の富士急グループに引き継がれ、現在は曾孫の光一郎氏が社長を務めています。



また、堀内良平翁は衆議院議員でもありましたが、地盤は子孫に引き継がれ、現在は光一郎氏の奥様・詔子氏が務めています。
ワクチン担当大臣、大変でしたね!


ところで、堀内良平翁は日蓮宗の篤信者としても、有名だったそうです。

伝記「富士を拓く」によると、堀内家は良平翁、一雄氏、光雄氏、現当主の光一郎氏と代々、久遠寺の信徒総代を務められているといいます。知らなかった・・・!


甲斐源氏の流れを汲む堀内家は代々、日蓮宗を篤く信仰してきました。
この信仰は、驚くべきことに日蓮聖人ご在世中にまで遡ります。
(↑御坂路、上黒駒あたり)
弘安5(1282)年9月8日、病身を常陸の湯で癒そうと身延山を下りた日蓮聖人は、下山~鰍沢~曽根大屋を経て、9月11日に石和から御坂路(鎌倉街道)を進み、上黒駒にある堀内屋敷に宿泊されたようです。


僕は数年前、御坂路にある「藤曼荼羅」というご霊跡を訪ねたことがあります。
この界隈に篤信の方がいて、日蓮聖人がお曼荼羅を書いて差し上げたということ、そして常陸の湯に向かう日蓮聖人ご一行がこの地で休息されたということを示唆する文字が、石碑に刻まれていました。

(↑御坂町金川原の藤曼荼羅霊跡)
お祖師様がお曼荼羅を差し上げたほどの篤信の方・・・これが翁の先祖である堀内藤右衛門さんではないかと思われます。

伝記「富士を拓く」によると、
「堀内家の当主は代々、藤右衛門を襲名するが、隠居すると藤内(とうない)と名乗っていた。」とあります。


このブログで参考資料として、汎用させて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入) には、遷化されたお祖師様を囲む弟子信者の輪の中に、「甲州 堀内傳内」という方が描かれています。

この方が元・堀内藤右衛門の「藤内」さんではないでしょうか。(良平翁の弟が「伝重」というように、堀内家は男子に「傳(伝)」の字を用いる方もいるようです。「傳内」さん、良平翁のご先祖様である可能性が高そうです。)


先述のように、数多の困難を経て富士身延鉄道(今のJR身延線↓)を開通にこぎつけたのは、堀内良平翁でした。日蓮聖人との、深い深いご縁があってこその、偉業でしょう。

特に昭和6(1931)年の宗祖六五〇遠忌法要では、全国の信徒が身延山に参集するのに際し、開業間もない富士身延鉄道が大活躍したそうです。
遠く、山深い身延山に、電車で行けるようになった・・・これがどれだけ宗門に恩恵をもたらしたか、計り知れません。


聖園墓地の頌徳碑には、こんなエピソードも刻まれていました。

「昭和15年、望月日謙法主の指導により、全国信徒が祖廟の近隣に墳墓を奠(さだ)め、永久給仕の洪範を開かしめんとして、身延聖園匿名組合を組織し、寺平の6万坪の霊園を計画着手す。」


現在の御廟域は、細部にまで手入れがなされており、まさに静謐そのものです。

画像は先月撮ったものです。御草庵跡の向こう(右奥)に祖廟拝殿が見えます。


一方、昭和初期に撮られたほぼ同アングルの、御廟域の写真がこれです。
(身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
やはり御草庵跡の右奥に、昔の常在殿が見えます。
ところが御草庵跡の向こうに、数えきれないほどの墓石が確認できます。
衝撃的な画像ですね!


かつて御廟域は、僧俗の葬場となっていたといいます。
せめて日蓮聖人棲神の地に葬られたい、死後もお近くで給仕したい、という気持ちはよく理解できますが・・・聖人御入滅後600年以上、建立に建立を重ねた末の風景だったのでしょう。
身延山にとって御廟域の浄化は、長年の懸案でした。
(身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
身延山史によると、79世・小泉日慈上人の号令で大正10(1921)年、御廟釐正(りせい:きちんと改め正すという意味)会が組織されます。
乱立する墓石を移転させ、聖人在山当時を偲ぶ場所として整備する大事業が始まります。
国内外が激動の時代を経て、この事業は戦後まで続いたそうです。


当時の調査によると、移転すべき墓石はなんと5700基以上!
その受け皿として鷹取山麓、花之坊裏地の斜面を開いて新墓地が造成されました。
門内商店街、農Cafe Zenchoさん辺りから少し歩くと、赤い屋根の花之坊さんが見えてきます。
花之坊さんの背部↑に、その新墓地がチラッと見えます。


のちに鷹取山麓の新墓地とは別に、堀内良平翁が中心となって寺平に造られた身延山内の霊園が、聖園墓地でした。

お祖師様のお近くに自分の墓を、と願う未来の弟子信徒達を思ってのことでしょう、広大な敷地を設えてくださいました。



頌徳碑には
「戦後幾多の困難ありしも解決し、之を久遠寺に寄進す。仍(よっ)て財団法人身延山聖園を設立し、久遠寺が管理経営。以て給仕第一の祖訓の実現を成就す。」とも記されていました。



今日、みんなが気持ちよく御廟を参拝できるのも、僕が義父のお墓参りができるのも、堀内良平翁と、その時代に尽力された多くの先輩達のおかげ。いつも心に留めておきます。


ちょっと話は脱線しますが、堀内良平翁は日蓮教学の研究者としても知られています。
先日、「皇道と日蓮」(昭和16年4月発行;当時の定価1.8円)という翁の著書を読みました。
軍部が開戦に突き進んでいたという時代背景もあったのでしょう、「皇国日本の国体」はどうあるべきかを説いています。
崇峻天皇を殺害した蘇我氏、三代の天皇を流罪にした鎌倉幕府、京都を軽んじた徳川など、皇国の国体に背いた政権は、歴史が証明する通り、必ず瓦解する。
彼らが信仰した阿弥陀など解脱遁世の印度仏法(月の仏法)と比べ、現世を生きる日本仏法(日の仏法)である法華経こそ、皇国日本に相応しい宗旨である。
ただ大事なことは「神本佛迹」、つまり常に日本の神々を本位とし、国民は法華経で修業しながら、勤王の立場を貫くべきである・・・そんな内容でした。
皇道の名のもとに、天皇の立場を利用する勢力が発言力を増していた当時、堀内良平翁の主張は、勇気が要るものだったでしょう。


こうした翁のスタンスは、戦時下で衆議院議員をされていた時も、何ら変わりませんでした。
(堀内良平翁:塩田道夫著「富士を拓く」より引用)
日中戦争のさなか、電力を国家で統制管理するという法案が審議された時には、庶民が安価に電力を得られなくなると、軍部の圧力にも屈せず、真っ向から反対したそうです。
また、戦況が悪化し、富士山麓鉄道の線路を供出せよ、という軍部の命令が出された際には、逆に軍部を説得し、これを断ったといいます。
庶民が幸福であればこそ、国は栄える。日の仏法を深く信仰した翁が、「勤王」とは何かを、自ら体現して見せたのだと思います。


太平洋戦争の敗色が濃くなってきた昭和19年7月4日、折しも空襲のさなかに、堀内良平翁は脳溢血で逝去されました。波瀾万丈の74年でした。
東京の自宅を出発したご遺体は、甲州各地の翁ゆかりの地を巡りながら、身延山に至ったそうです。
(聖園墓地の堀内良平銅像)
久遠寺仏殿での本葬後、翁のご遺体は自らが設えた聖園墓地の一画に、土葬されたといいます。仏殿での本葬も、身延山に土葬を許されたのも、僧侶以外では堀内良平翁が初めてでした。
身延山がどれだけ翁に感謝していたかが、窺えます。


画像左側の木が茂っている辺りに、良平翁はじめ堀内家代々の墓地があります。(義父のお墓はそのすぐ近くなんです!)
柵で囲まれており、中には入れませんが、今後も柵外から合掌し、翁の遺徳に感謝してゆきたいと思います。