日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

発軫閣祖師堂(身延町身延)

2018-04-25 21:07:25 | 旅行
今年もまた身延山にやってきました!
毎年桜が終わる頃に、義父の墓参とお札を新しくするため、身延山を訪問しています。

総門あたりはいつも車で通過するだけなんですが、今回はじっくり歩いてみようと思います。


総門の扁額は、・・・ん?ん?ん? 達筆すぎてわかんないな~。
「開会関」(かいえかん)って書いてあるそうです。
この総門の別名で、人々が法華経で救済され、仏様のいる浄土に入ることができる関門なんだそうです。


あ!このマーク、もしかしたら・・・法輪じゃないですか!?
先日みうらじゅん氏が法輪の話をしていました。煩悩とか悪いものを退ける、仏教のシンボル的なマークらしいです。
丈六仏の手のひらに、このマークがあるのを見たことがあります!


総門は、江戸時代の刈谷城主・三浦安次公のお母様が寄進したものだそうで、三浦家の家紋が掲げられています。


そして、結界としての総門をくぐると・・・
すぐ左側に急な階段


「当山発軫之道場」

「発軫」とは「最初」「何かが始まる事」という意味だそうです。


まずお堂にお参りをしましょう。


お堂の左右に杉の大木。
発軫閣のシンボルツリーになっています。


朱色がベースのカラフルなお堂です。


扁額には「発軫」。
宗門の聖地・身延山はここから始まりました。


文永11(1274)年5月17日に身延山に入山したときの様子を、お祖師様自身が書かれた「波木井殿御書」。
当時、身延山に至る道中が、いかに過酷であったかがよくわかります。
そして、身延の地に招いてくれた波木井實長公への感謝が綴られています。


「逢嶋之遺蹟」と刻まれた一角があります。


ここ総門近くの場所で、日蓮聖人は波木井實長公に初めて対面しました。
「身延山発祥の地」とも刻まれています。


石柵で囲まれた、苔むした平らな石がありました。
日蓮聖人の腰懸石です。


波乱の人生だった日蓮聖人にとっても、文永11(1274)年前半は特に激動だったと思われます。

佐渡に流されていた日蓮聖人に赦免状が出されたのが2月、それを受けて佐渡を発ち鎌倉に戻ったのが3月でした。
そして幕府に蒙古襲来が近いことを伝え、三度目の諫暁をしたが聞き入れられなかったのが4月・・・。


その上で、5月に身延山まで苦労して歩いてきたわけですから、お祖師様の心身は疲れ切っていたのかもしれません。

お祖師様は石に腰掛けて、大きな心で迎えてくれた波木井實長公と語り合ったのでしょう。


棲神の地・身延山が始まった発軫閣。

今日も遠くから参拝に来る信徒達を、優しく見守っているように思えました。

松塚山願成寺(高萩市赤浜)

2018-04-11 18:07:11 | 旅行
越後阿闍梨日弁上人

このブログでフル活用させて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)でも、六老・日昭上人と九老・朗慶上人との間にお座りになっている姿が描かれています。


僕が日蓮聖人のご霊跡めぐりで最初に日弁上人のお名前を見つけたのは、↑の南足柄・雨坪の弘行寺でした。
身延山を下り、湯治のために常陸へ向かう旅・・・結果的には池上へ向かう最後の旅になってしまいましたが、7日目、足柄峠を越えた後にご一泊された霊場です。
このお寺は、その時日蓮聖人に付き添っていた日弁上人が開山しています。


つい最近も、↑小田原・千代の蓮華寺を訪問した時に、このお寺の開山が日弁上人だと知りました。
日蓮聖人が身延山に入山する途次、そして池上へ向かう途次に、この地を日蓮聖人が通り、他宗のお寺を改宗したと言われています。
日弁上人が開山になり、できたお寺が蓮華寺です。

日弁上人は六老僧に準ずる格の「中老僧」の一人ですが、日蓮聖人が歩いた痕跡を辿った限りでは、日蓮聖人のお近くに付き添う機会が非常に多いお上人だったと思われます。


茨城県の北部・高萩に、日弁上人にゆかりの深いお寺があるそうなので、訪問しました!


松塚山願成寺です。
なんか、いい名前のお寺ですよね!


日蓮聖人の450遠忌に建てられた法塔のようです。
その割には刻字も新しかったので、古くなった石を削り直して再び刻字したのかもしれません。


報恩抄の有名な一節ですね!
僕もお祖師様のように「思いやり」を大切に生きてゆきたいです。


当日はあいにくの雨でしたが、池の蓮は雨が似合います。
この時期、特に生き生きしてきます!


歴史のあるお寺らしく、境内には歴代の法塔がたくさん!
その時代時代の信徒達の思いが詰まった法塔です。


本堂です。
この方形屋根のお寺、大好き!!庵の雰囲気を残しています。


瓦の一枚一枚に・・・寺紋でしょうか。ひまわりみたいな紋ですね!


扁額には・・・ん?無畏施?むいせ?

あとで調べてみると、これは仏教用語で、三つある「施」の一つだそうです。
一つ目は法を施す「法施」、二つ目はお金や物など財を施す「財施」、そして恐れの心を取り除き救ってあげる施が「無畏施」なんだそうです。

この混沌とした時代、日本人が一番必要としている「施」なのではないでしょうか。


本堂裏に出ると、眼下に雄大な太平洋が見渡せます。
このあたりの海岸は、地名にもなっている「赤浜」といいます。


もともと天台僧だった日弁上人は、身延山に乗り込み(すごい!)、日蓮聖人に法論を挑みました。
しかし完膚なきまでに日蓮聖人に論破され、帰依したといいます。
以後は千葉・茂原に鷲山寺を開き、拠点にしていたようです。


法華経の弘通を体現したお坊さんのようで、富士、神奈川、千葉、茨城と教化の旅を続けました。
ここ赤浜では特に腰を据えて布教をされたらしく、数年間、この地に滞在した、というのが願成寺のルーツのようです。
その後、福島を経て陸奥国(今の宮城県)にまで布教の旅は及びました。


しかし、角田市佐倉で説法中に暴漢に刺され、殉教してしまいました。

お弟子さんたちは日弁上人の亡骸を棺に入れて茂原を目指しましたが、ここ赤浜で休憩を取り、いざ出発しようとすると棺が全く動かなくなってしまいました。
これは日弁上人のご意志なのだろうと、この地で荼毘に付され、埋葬されたそうです。


願成寺のご住職(とても優しく対応して下さいました!)によると、日弁上人のお墓がお寺の西の丘の上にあるそうで、行ってみました。
ちょっとわかりにくいですが、高萩清松高校の向かいの細道を入って行きます。


日弁上人のお墓です。
地元の方々が清めてくれているのでしょう、きれいに整備されていました。感謝します。


このお墓は東日本大震災の時に倒壊してしまったらしく、墓石は新しくなっていますが、その後ろに古い墓石がありました。
丘の上から、高萩の地を見守ってくれていると思います!


そうそう、願成寺でご首題を書いて頂いている間、本堂内を見せていただいたのですが、東日本大震災で境内の斜面が崩れてしまい、その再建に際し、多くのお檀家さんが多額の寄付をしていることが明記されていました。

 ↑の斜面がその一部だと思います。

高萩市内では至る所で甚大な被害が出ていたそうです。
お檀家さん自身も大変な中、それでもお寺を復興させるために一致団結したからこそ、今日、僕が訪問できているのだな、と思いました。

この先もずっと「慈悲広大な」ご住職、お檀家さんに護られてゆくお寺であってほしいです。

靖定山久昌寺(常陸太田市新宿町)

2018-04-10 22:26:14 | 旅行
これまでに僕が訪問した日蓮宗寺院の多くに、その貢献の痕跡が残っている養珠院お萬様

(↑画像は静岡・蓮永寺の養珠院供養塔)
徳川家康との間にできた二人の子供のうち、兄は紀州徳川家の始祖に、そして弟は水戸徳川家の始祖となりました。


その水戸徳川家にゆかりの深い日蓮宗寺院を訪問しました!


常陸太田市は、水戸徳川家の居城があった水戸から20kmほど北に位置します。


市の中心部の西側にある丘に、久昌寺はあります。


急峻な丘ですが、地質は岩のようで、安定した地盤に建ったお寺だと思われます。


久昌寺は本山格なんですね!
山号の「靖定山」は、徳川光圀の母・久昌院の諡号「靖定夫人」に因んでいると思われます。
(※諡号:貴人の死後に贈られる名前のことで、通称みたいな扱いなのかな?)


「水戸黄門創建の寺」と刻まれています。

ちょっと水戸徳川家の人間関係を整理してみましょう。
養珠院の子供は徳川頼房、そして頼房の側室が久昌院です。
で、頼房と久昌院との間にできた長男は初代高松藩主・松平頼重、そして次男が「黄門様」徳川光圀です。


本堂です。
昭和6年に建てられたそうです。


この立派な本堂を含む寺域の整備の陰には、梅津福次郎翁の多大な資金援助があったそうです。
↑石碑に「北海道・梅津福次郎」とありますね~。


梅津家の墓所です。
明治時代に常陸太田で生まれ育った梅津福次郎氏は、23才で函館に渡り梅津商店を立ち上げ、優れた商才で大成功を収めたそうです。
そして、大正から昭和の大不況の時期に、故郷の常陸太田市だけでなく、梅津家菩提寺の久昌寺にも巨額の寄付をしたということです。

久昌寺では、いただいた恩に報いるように、福次郎の威徳を讃えた掲示をしています。


日蓮聖人のご尊像に合掌。
境内に入ってくる壇信徒、そして常陸太田の街を見守っています。


虚空蔵菩薩堂です。
法華の関東八檀林にも名を連ねた常陸三昧堂の守護神だったそうで、大正時代に久昌寺に移されたそうです。
智慧、学徳などのご利益があるといわれています。
お祖師様も若い頃、清澄の虚空蔵菩薩に「日本一の知者となしたまへ」と祈願されたといいますよね!


鐘楼です。
この鐘楼は東日本大震災で傾いてしまい、場所を移して再建されたそうです。


この鐘、希望者には衝かせてくれるんですよ!!もちろん僕も衝きました!
鐘の音がうるさいと苦情が来る今日この頃、何と太っ腹なお寺、そして街!
ただしお寺の下にある学校が試験中は自粛してるそうです(笑)


話は変わりますが、常陸太田市内では「佐竹高校」とか「佐竹寺」など、「佐竹」という文字をよく目にします。
実は秋田・久保田藩の佐竹氏は、ここ常陸太田が発祥の地なんだそうです。


養珠院は佐竹氏の祈願寺であった勝軍寺を改宗し、「蓮華寺」を創建しました。
蓮華寺は現在の久昌寺の場所にあったようです。


一方、養珠院からみて息子の嫁にあたる久昌院は、養珠院の背中を見てきたのでしょう、やはり法華信者として物心両面で宗門に貢献してきました。

いわゆる身池対論の影響で衰退していた池上本門寺を救済し、優れた僧であった日忠上人を庇護、常陸太田に「経王寺」を創建しました。
久昌院は亡くなると経王寺に埋葬されたそうです。


しかし久昌院は水戸徳川家初代当主・頼房の側室です。
水戸徳川家では儒教式の墓所(廟)を↑瑞龍山に造営し、久昌院のお墓も移されることになりました。
それに伴い、息子の徳川光圀は経王寺の場所を移し、新たに「久昌寺」としました。


明治の廃仏毀釈や廃藩置県に伴い、養珠院の「蓮華寺」と光圀の「久昌寺」は統合され、現在の久昌寺になったそうです。
またその時に水戸徳川家の外護を離れたということです。


つまり養珠院、久昌院、光圀の親子三代の信仰の支流が一つの流れになり、生まれたお寺と言えましょう。


養珠院と久昌院の墓所です。


久昌院は義母の養珠院から多くの良いものを学んだと思われます。
仲良く並んでいる二柱の宝塔を見ればわかります。


僕は以前から、身延山御廟にある養珠院の墓石が、久昌院の墓石の真裏に位置していることに疑問を持っていました。
しかし久昌寺に来て、疑問が晴れました!今となっては、絶妙な墓石配置だと思います。
ちなみに久昌院の長男・松平頼重の側室である寿光院の墓石も、御廟所にあります。


最後に久昌寺の開基・徳川光圀の廟を参拝しました。


ちょっと文字が見にくいですが、「法華経三部十巻 一字三礼浄写之宝塔 安置」と刻んであります。

光圀自らが母・久昌院の菩提を弔うために、法華経を構成する何万もの文字を一字一字、三回礼をしながら板に書いたのだそうです。
気が遠くなります。あの黄門様が、ですよ!
いかに光圀の信仰が強かったかを物語っています。


狛犬・・・、いや、角がないから獅子なのかな?
廟をお護りしています。


光圀の廟は「義公廟」というそうです。
光圀の諡号「義公」にちなんでいます。

例の三回礼~の写経と、母・久昌院の毛髪を納めた宝塔が、この廟の中に安置されています。


廟所からは常陸太田の市街が見渡せます。
しかし・・・なぜ本拠地・水戸でなく常陸太田なんでしょうか?


水戸徳川家墓所が常陸太田の瑞龍山にあることが、ヒントのような気がします。
久昌寺のお檀家さんによると、この地を治めていた佐竹氏は関ヶ原の戦いで豊臣側に付いたそうなんです。
のちに徳川の時代になって佐竹氏は秋田に追いやられてしまった、と仰っていました。

水戸徳川家としては、佐竹発祥の地に目を光らせるために、常陸太田にお寺や墓所といった、徳川家の息のかかった拠点を設けたい意図も、あったのかもしれませんね!


いや~、久昌寺、奥深かったな~!
お寺の奥様やお檀家さんもとっても優しく、これって養珠院や久昌院から引き継がれた「寺風」なんだろうな~!と思いました。

これからも末永く引き継がれてゆくことを祈念します。

龍王山妙海寺(沼津市下河原)

2018-04-03 21:28:17 | 旅行
日蓮聖人が鎌倉で辻説法をしていた頃、天変地異が相次いだといいます。
洪水、飢饉、疫病、彗星の出現、そして大地震・・・。

特に1257年8月に発生した「正嘉の大地震」は関東地方に甚大な被害を及ぼしたようです。
日蓮聖人の拠点だった鎌倉も、寺院倒壊や地割れ、火災がひどく、余震も相当続いたそうで、この「正嘉の大地震」が立正安国論を著するきっかけになったともいわれています。

(↑画像は岩本実相寺の経蔵)
この天変地異は、誤った仏法が蔓延しているから起きているのではないか?と考えた日蓮聖人は、経文に証拠を求めるために、大地震の翌年、岩本実相寺に向かわれました。


その途次、日蓮聖人が沼津に宿を取った時に、住民に津波除けの祈祷をお願いされたそうです。
駿河湾の最奥にあり、かつ川沿いに発展した沼津は、それまで何度も津波の被害に遭ってきたそうで、住民も相当苦しんできたと思われます。


日蓮聖人が祈祷をしてしばらくの間、沼津での津波被害はなくなったそうです。


沼津の妙海寺を訪問しました!立派な山門です。


本堂だと思われます。方形屋根だと、お堂のフォルムがとても美しくなりますね!


境内は決して広くないですが、草木がいっぱい!
生命力にあふれています。


山門横に「八日堂根本霊場」の石碑。


お寺の縁起によると、日蓮聖人は千本松原のほど近くにあった「如来堂」で津波除けの祈祷を八日間、行ったそうです。


祈祷の八日目、龍王様が現れて、津波の災厄を鎮めること、沼津の法華経信徒を守護することを誓ったそうです。
山号の「龍王山」の由来でしょう。


この様子を目の当たりにした山本弥三郎重安という人が日蓮聖人に帰依し、祈祷を行った「如来堂」をお寺にしたというのが、妙海寺のルーツだそうです。


山本弥三郎重安公はのちに身延山にお祖師様を訪ね、お曼荼羅を賜ったそうです。
そしてお祖師様のお弟子さんの日実上人を開山に招き、妙海寺は創建されました。


日実上人は、伊豆法難の始まりのご霊跡として知られる鎌倉・材木座の↑妙長寺も開山されていますよね!


妙海寺では、現在でも毎年、年をまたいだ八日間にわたり、八日堂祈祷が行われているそうです。

東南海地震がいつ起きてもおかしくない、といわれる今日この頃、冗談抜きに霊験にあやかりたいと思いました。