日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

経王山妙法寺(横浜市戸塚区名瀬)

2021-05-01 16:24:21 | 旅行
成弁阿闍梨日昭上人

(↑画像は「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)より)
六老僧の筆頭、そして最年長(まわりのお上人方に比べ、確かにシワが多いかな?)という程度の知識は僕にもありました。

ただ、日蓮聖人の最初のお弟子さんでありながら、今ひとつ表舞台に出てこないお上人でもあります。
日昭上人のこと、もっと知りたいな、と以前から思っていました。


実は最近、古書店で日昭上人についての本を入手し、一気に読破しました。
「日蓮聖人補処位の人 日昭」(平成12年刊)

表舞台に出てこないのは当然で、日昭上人は一貫して、日蓮聖人の「影の人」になっていたことがよくわかりました。
この名著、著者は久住謙是上人という方です。横浜の名瀬という場所にある、日昭上人開山のお寺のお上人だと知り、早速参拝してきました!


横浜市の南西部、鎌倉に近い戸塚区に、名瀬はあります。


これは名瀬川です。
名瀬川は柏尾川、境川と合流し、やがて片瀬龍ノ口の辺りで相模湾に注ぎます。
この名瀬川沿いに形成された谷戸が、名瀬です。


参拝したのは、奇しくも日昭上人の御正当命日の翌日、3月27日でした。

名瀬の妙法寺は桜の名所らしく、近隣の方々が写真を撮りにいらしてましたよ!
桜色に彩られた境内を歩いてみましょう。


妙法寺は宗門史跡なんですね!

日蓮宗ポータルサイトによると、宗門史跡とは「宗祖及び宗門に由緒のある重要な事跡」のことで、 現在全国に23ヶ所(寺)あるようです。
日昭上人が実際に住まわれ、布教の拠点にされた道場として、平成9年に認定されました。
ご霊跡が多い神奈川県ですが、宗門史跡は妙法寺が唯一ということです。


山門です。
周囲の桜とマッチして、雰囲気バツグンです!


山号は「経王山」です。
「諸経の王」といわれる法華経を表現しているのかな?



境内は小高い丘の南斜面にあります。谷戸の多い名瀬、古くからの寺社はいずれもこういう感じで建っています。


日蓮聖人のご尊像に合掌。
肌に張りがあるお祖師様です。
比叡山に留学しておられた20代の頃のお像かもしれません。
日昭上人とは比叡山の学友といわれていますよね!


本堂です。
日昭上人のお寺に相応しく、落ち着いた構えのお堂です。

御首題をお願いしている間、本堂でお参りさせていただきました。
巨大な板本尊が正面にお祀りされていました。
これは日蓮聖人から授与された「伝法本尊」というお曼荼羅(原本は玉澤妙法華寺で格護)を、楠に精緻に刻したものだそうです。
その美しさに釘付けになってしまい、「あれ?お経どこ唱えてたんだっけ?」となる始末でした。


もう一つ、本堂の内陣を囲む欄間彫刻も一見の価値ありです!
日昭上人のご一代記を丁寧に刻んであるものです。
立体的な日昭上人はレアですよね!
妙法寺のお上人に許可を取り、画像を撮らせていただいたので、ここでも使わせていただきます。


お檀家さんの法事の直前でお忙しいのにもかかわらず、お上人方の対応がとても親切なのが印象的でした。
ご首題をいただき、本堂の裏山に向かいました。

歴代お上人の御廟です。


開山・日昭上人から46世までの歴代お上人が刻まれています。
脈々と法灯を継いでくださったこと、心から感謝します。
残念なことに、冒頭で著書を紹介した久住謙是上人は、平成19(2007)年4月11日に遷化されたことが刻まれていました。
日昭上人についての研究のみならず、現在全国で心配される過疎地のお寺問題を早くから調査され、警鐘を鳴らした方として著名なお上人だったようです。合掌。


名瀬妙法寺開山の日昭上人は承久3(1221)年、下総国の印旛沼辺りを領する印東祐昭(すけあき)公の次男として誕生しました。日蓮聖人の一つ年上ですね!

地元の天台宗寺院において15才で出家、その秀でた智慧と弁舌から「成弁」と称したそうです。



28才で比叡山に上り、修学に励みました。
ちょうど同時期に蓮長上人(のちの日蓮聖人)も在山しており、出身地も近い二人は意気投合したのかもしれませんね。


比叡山を下りると成弁上人は早速、日蓮聖人を松葉ケ谷の草庵に訪ね、弟子にさせて欲しいと願い出ました。
日蓮聖人にとっては初めてのお弟子さん、それは嬉しかったことでしょう。

日蓮の「日」と成弁上人の父・祐昭の「昭」から一字ずつ取り、「日昭」という法名を日蓮聖人から授かりました。
建長5(1253)年、日昭上人32才の時のことです。


ところで当時の宗門において、日昭上人はどんな役割をしていたのでしょうか?
他の六老、中老などのお上人方は、御一代記などで日蓮聖人に付き従ったり、遣いに出されたりしているのを見聞きしますが、日昭上人のお名前を見ることはまずありません。

久住謙是上人の著書に、その答えとなりそうな記述がありました。


日蓮聖人の生涯は「大難は四ケ度、小難は数知れず・・・」と云われるように、立教開宗以来、ず~っと法難続きでした。
時の政権や他宗の攻撃も厭わない、ラディカルな布教スタイルを貫くわけですから、日蓮聖人自身、覚悟の上での事だったでしょう。

ただ、実際に宗祖が捕縛され、配流され、殺されかけるということは、一門の瓦解に直結します。
そこで、日昭上人を自分の分身として、敢えて一歩離れた場所に置く、という安全装置を設けたのです。
久住謙是上人は著書の中で、この役割に徹した日昭上人を「法華経弘通の二陣」「影の人」と表現しています。わかりやすいですよね!


実際、松葉ヶ谷法難から宗祖身延御入山までの14年間、お祖師様は流罪や布教のため、ほとんど鎌倉を離れていたと思われますし、御入山後も桑が谷の事件とか熱原法難などが相次ぎ、一門を守るために日昭上人が奔走した様子が、お祖師様のご遺文から窺えます。

文永9(1272)年、日蓮聖人は佐渡から「弁殿尼御前御書」を送り、日昭上人に大師講(※)を開くように指示しています。
宗祖不在の鎌倉で、「影の人」日昭上人が弾圧でガタガタになった一門をまとめあげ、再興を担っていたことがわかります。
※大師講:天台大師智顗上人の命日に行う法会


宗祖在世中、日昭上人の拠点といえば、鎌倉浜土の法華堂(のちの法華寺→妙法華寺)だったと思われます。
松葉ヶ谷や比企ヶ谷に近く、そのまま西へ向かえば四條金吾公の邸がある長谷にも行き着く、抜群のロケーションです。
(↑画像は浜土法華堂跡にある實相寺)
日昭上人はこの鎌倉浜土で、宗祖の指示を一門に伝達したり、布教活動を根気よくされていたと思われます。


日昭上人の存在があったからこそ、日蓮聖人は常に前を向いて活動できたんですね・・・。


弘安5(1282)年10月13日、日蓮聖人は池上宗仲公の邸でご入滅されます。
臨終の悲報を知らせるため、鐘を打ったのが日昭上人でした。

比叡山時代から30年以上、師匠として仕え、また友として腹を割って話せた存在・・・どんな思いで鐘を鳴らしたのでしょう。
日昭上人は日朗上人とともに葬儀を取り仕切り、宗祖を厚く弔いました。


ブログを書いている今、ふと思い出したんですが、伊豆法難の際に日蓮聖人が住まわれた毘沙門堂↓をルーツとする伊東の佛現寺
このお寺の一角に、日昭上人のお名前があったと記憶しています。


江戸時代まで、いくつかのお寺が輪番で毘沙門堂跡を護持しており、その中心的存在が日昭上人開山の「妙昭寺」でした。
日蓮聖人が実際に住まわれた聖地を、清め、給仕するためのお寺ということで、日昭上人は開山上人として仰がれたのかもしれません。

妙昭寺の歴代墓所は、見逃してしまいそうなほど、ひっそりとありました。
今思えば、裏方に徹した日昭上人らしい佇まいでした。


江戸時代の傑僧、六牙院日潮上人は日昭上人のことを「日蓮聖人補処位(ふしょい)」の人と評しました。
(↑画像は六牙院日潮上人揮毫、身延山久遠寺総門の扁額「開会関」)
仏教では、将来、お釈迦様の教えを継承する弥勒菩薩の存在を「補処」というそうで、まさに言い得て妙、だと思います。


ところで、日昭上人を語る上で忘れてはならないのが、風間信濃守信昭公です。

信濃~越後の豪族で、越後の安塚という場所に城を持っていたといわれています。
幼い頃、日昭上人に命を救われたのが縁で帰依し、上人から一字をもらって信昭と称するようになりました。


名瀬には信昭公の邸がありました。

鎌倉時代は御成敗式目のせいでしょうか、地方の豪族といえども幕府の要所を護る番勤義務があり、風間家は名瀬に広大な屋敷を構えていたようです。


風間家の屋敷は「殿畑」と呼ばれていました。

妙法寺近くに、殿畑の顕彰碑があり、名残りをとどめています。


鎌倉を起点に延びる鎌倉古道のうち、下野国を経て白河へ続く「中ツ道」沿いに、名瀬はありました。
周辺を歩いてみると、鎌倉道の名残りと思われる石碑が随所に見られます。


妙法寺境内の一画に、道祖神と地神がお祀りされています。
妙法寺の前を走る「名瀬みち」は、まさに中ツ道の一部だったそうで、これらの神様たちも以前は古道沿いで、旅人や村人を見守っていたのでしょう。
(近隣の区画整理により、こちらに移ってきたそうです)


日昭上人に深く帰依していた信昭公は終生、檀越として上人を影で支えました。先述の浜土法華堂は、信昭公が開基となって創建されています。
そして宗祖二十五回忌の徳治元(1306)年、信昭公は自らの屋敷にお寺を建立し、日昭上人に寄進しました。
これが経王山妙法寺のルーツです。



名瀬妙法寺の開山は、日昭上人85才の時。それから12年間、日昭上人はここ名瀬に住み、布教と後進の育成に励まれたそうです。
また宗門の後見人、相談役としても尽力し続けました。


日昭上人は名瀬と浜土の自坊を、在世中に二人の弟子に譲っています。いざという時に慌てないよう、日昭上人なりの心遣いだったのでしょう。

徳治2(1307)年には日成上人に名瀬妙法寺を、文保元(1317)年には日祐上人に浜土法華寺を、譲りました。



元享元(1323)年、日昭上人は浜土法華寺にて入寂されました。
当時としては驚きの、享年103歳でした。


入寂する前、日昭上人は信昭公に遺言をしています。
名瀬妙法寺を信昭公の郷里に移し、ぜひ越後に法華経を広めてほしい、と。
元享3(1325)年、信昭公は遺言通り、越後村田に妙法寺を移しました。
村田妙法寺は越後宗門の中心寺院として発展し、現在は日蓮宗本山となっています。


元弘3(1333)年に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の混乱期を迎えると、信昭公は新田義貞軍に合流、南朝方として戦いに明け暮れました。
村田妙法寺近くの小高い丘に、信昭公の墓所↑と伝わる場所があったのを記憶しています。
実は信昭公がいつ、どこで亡くなったのか、現在もわかっていないようですが、「影の人」を支えた「影の人」、宗門の大功労者に、もう一度手を合わせに行きたいものです。


妙法寺が越後村田に移ったあとも、名瀬の妙法寺は日昭上人の由緒あるご霊跡として、脈々と続いてきました。


山門横には名瀬妙法寺開創七百年の記念碑があります。

平成12(2000)年11月、開創700年の砌に、妙法寺は山容を一新したことが刻まれていました。
また宗門史跡の申請~認定、記念大法要の開催、そして冒頭の日昭上人の本の出版など、ほぼ同時期に成し遂げたことになります。
先代ご住職の久住謙是上人はじめ、妙法寺に関わる方々の苦労が偲ばれます。


決して広いお寺じゃないんですが、居心地の良さはバツグンです。
こんな長椅子あったら、お弁当持って来たいですね!


久住謙是上人から法灯を継承した息子さんが、現在のご住職です。

毎月、宗派を超えたいろんな人の法話が自由に聴ける講演会を催したり、YouTubeチャンネルを発信したり、お寺の敷居を低くしてくれているのがよくわかります。
また来たいと思わせるのって、スゴいです!


日蓮聖人が後顧の憂いなく活動できるよう、影でサポートに徹した日昭上人。
その日昭上人を物心両面で生涯支え続けた風間信濃守信昭公。
二人が創り上げた名瀬のお寺は、ますます元気です!