日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

星野山無量寿寺 中院(川越市小仙波町)

2022-03-01 13:16:50 | 旅行
今回は埼玉県川越市にある、日蓮聖人のご霊跡を参拝してきました!
(↑川越旧市街にある時の鐘)
古くから川越は、河川を通じた舟運により物資や人が集まり、賑わってきました。


(↑蔵造りの街並み)
明治の大火を経て「蔵の街」に生まれ変わり、現在は都心から1時間で行ける観光地として、再び賑わっています。



「蔵の街」らしく、スタバもご覧の通り!


街歩きを楽しんでいるうちに、やがて目指すお寺に至りました。

今回のご霊跡は天台宗寺院、無量寿寺の中院です。



山号は星野山です。
広い夜空いっぱいに煌めく銀河・・・みたいな風景を想像しますね!


実は中院、僕は数か月前に一度、訪問しています。
その時は、身延山中興の祖といわれる行学院日朝上人が、若かりし頃に修学に励んだ「仙波檀林跡」を見たくて来たのですが・・・山門前に建つ石碑に目を奪われ、本来の目的を一瞬忘れたことを覚えています。



「日蓮上人傳法灌頂之寺」

日蓮聖人に関係するお寺なのでしょうが、その時は「傳法灌頂」の意味が全くわからなかったし、こういうご霊跡の存在も聞いたことがなかったので、ざっくりと画像を撮って帰りました。

今回は再度の訪問、お祖師様が「傳法灌頂」されたご霊跡として、改めて中院を見てみたいと思います。



山門もさることながら、その奥に見える風景が美しい…!
名刹の予感・・・!



本堂です。
左右に配されている松が、日差しを遮るグリーンカーテンのようです。



お自我偈の一節が掲げられています。
法華経を根本経典とする天台宗。僕にとっても、自宗以外の仏教諸宗の中では、いちばん違和感が少ないかな…。



歴代お上人の御廟を参拝。



墓誌には第67世までのお上人が刻まれています。
日蓮聖人のご霊跡でもある中院を、今日まで護持してくださってきた先師達に、心から感謝致します。


中院の歴史、その始まりは、も~のすっごく、昔に遡るようです。
(↑仙芳上人入定塚の説明版)
その昔、川越あたりがまだ一面の海(!)だった頃、仙芳仙人という人が龍神様の許しを得てここに陸地を設け、一寺を建立したのが、もともとのルーツになるそうです。


(↑仙芳上人入定塚)
それこそ神話みたいな話ですが、この近くには実際に貝塚があり、7000年前は海の底だったことがわかっているようですし、仙芳仙人が入定されたと伝わる場所↑もあります。


時代は流れ天長7(830)年、天台僧の円仁上人がこの地を訪れ、仙芳仙人の古跡に星野山無量寿寺を開きました。
(↑中院本堂の扁額)
時の天皇の発願で建立された「勅願寺」だったといいますから、とても格の高いお寺だったんですね!



円仁上人は天台宗の開祖・最澄上人のお弟子さんです。
慈覚大師と呼ばれ、のちに第3代天台座主になられます。


出身が下野国といわれ、そのせいか東日本に開創寺院がたくさんあります。

僕が今まで訪問した日蓮宗寺院では、千葉鴨川の清澄寺↑、東京雑司ヶ谷の法明寺などの縁起に、円仁上人のお名前が見られます。


境内にはこんな石碑もあります。
「狭山茶発祥之地」
無量寿寺開創にあたって、円仁上人は比叡山から持ってきたお茶の実から、薬用のお茶を栽培したそうです。これが現在の狭山茶のルーツなんだって!
確か静岡茶も宇治茶も、お坊さんが広めたんですよね。仏教とお茶、確かにいい組み合わせですね!


さて、本題に入りましょう。


さきほどの「日蓮上人傳法灌頂之寺」碑、裏側にはこう刻まれていました。

「建長五年四月廿八日 蓮長法師 清澄山上より上る太陽を拝し 南無妙法蓮華経と題目を高唱 日蓮と改名 日蓮宗の開宗を提唱す
日蓮は直ちに 師僧である武州仙波 星野山仏地院中院灌室にて 尊海僧正より天台慧心流の伝法灌頂を授戒 阿闍梨位を印可せらる
伝法灌頂とは 衆生を教え導くことの出来る阿闍梨の資格を得ようとする者に対して 師の大阿闍梨が学徳具備の弟子のために 大日如来の秘密の教を伝授する儀式である
日蓮上人 此の地 川越と 此の中院にて 灌頂授戒 阿闍梨となり 立正大師と尊崇せらる」

気になるところは沢山ありますが、「日蓮上人傳法灌頂之寺」の謎を、この文章から解き明かしてゆきましょう。
※「傳」は「伝」の旧字だと思います。以下「伝法灌頂」と表記します。


文章からすると、立教開宗の直後、「直ちに」訪ねたと読み取れます。
立教開宗前、という説もあるようですが、いずれにせよ、立教開宗するには「伝法灌頂」という儀式が必要だったのだと思われます。

では「伝法灌頂」とはどんな儀式なのでしょうか?
「灌頂(かんじょう)」というのは、もともとはインドで王が即位する時にされていた風習がルーツになっているそうです。

頭に水を灌(そそ)いで、その人がより高いステージに達したことを証明する儀式で、特に密教の領域では、資格とか位を与える際に、なされるようです。
花まつりで誕生仏像の頭に柄杓で甘茶をかけますよね。あれも灌頂の一種みたいです。確かに花まつりは「灌仏会(かんぶつえ)」っていいますしね!



「伝法灌頂」とは、碑文にもあるように、阿闍梨位、つまりお坊さんを指導する資格を授ける灌頂のようです。一説にはこの伝法灌頂を授戒されて初めて、自分の宗派を開くことができるとか。
いわゆる鎌倉新仏教の開祖の方々が、伝法灌頂の儀式を経ているかはわかりませんが、日蓮聖人は何か必要を感じて、師僧のもとを訪れたと思われます。



さて、その師僧は「尊海僧正」と刻まれていました。



中院の歴代お上人の御廟には、尊海上人の供養塔があり、台座の側面にプロフィールが刻まれています。



ここには「円頓坊 尊海法印大和尚」として紹介されています。



尊海上人、出身は武蔵国足立郡原市(今の埼玉県上尾市あたり)です。


河田谷(今の桶川あたり)の天台宗泉福寺、信尊上人のもとで剃髪授戒されました。
比叡山で教学を究めたのち関東に戻り、戦乱で荒廃していた無量寿寺を再興させました。
尊海上人は比叡山からの信頼も厚かったようで、関東天台の教寺580ヶ寺は全て、この無量寿寺に付属していたようです。
いわば関東天台のトップ、すごいお上人だったんですね!



日蓮聖人は比叡山に在山中、学頭の「俊範上人」という方に師事した時期があり、どうやらこの頃に、同門の尊海上人と知り合ったと思われます。


ちなみに六老僧の日昭上人は、比叡山で尊海上人に学んでいます。

成弁(日昭上人)の主張が蓮長(日蓮聖人)のそれと似ている、と気付いた尊海上人から、蓮長という傑僧の存在を知らされていた、だから成弁は比叡山を下りて間もなく、鎌倉・松葉ヶ谷に日蓮聖人を訪ねたのだ、という説もあるようです。


(↑比叡山延暦寺の大講堂)
当時の比叡山は、慧心流、檀那流という2つの学派が主流でした(「慧檀二流」というそうです)。

慧心流は慧心僧都源信上人を祖とし、「一切衆生はそのまま仏である」というスタンス、
檀那流は檀那院覚運上人を祖とし、「凡夫から修行を重ねて仏になる」というスタンスでした。

この違いって結構大きくないですか!?ある意味、水と油くらい違いそうな・・・。それでも同じ天台宗門だったわけだから、いかに当時の比叡山が、自由闊達で懐の深い場所だったがが窺えます。


調べてみると、尊海上人を得度させた桶川泉福寺・信尊上人は慧心流の正統派。
尊海上人も勿論、バリバリの慧心流継承者だったようです。
(↑中院・尊海上人供養塔の台座より)
「一切衆生はそのまま仏である」というのは、法華経の教えそのものだと思います。
だからでしょうか、日蓮聖人が12年間に及ぶ比叡山修行の締めくくりとして、尊海上人に天台慧心流の伝法灌頂を受けた、ということに何の違和感も感じません。



僕は日蓮聖人のご遺文を、毎日少しずつ読むようにしています。
お祖師様はご自分のことを「本朝沙門日蓮」とか「法華経の行者日蓮」と記しているものが多いですが、「日蓮阿闍梨」と書いている部分をまだ見たことがありません。
「阿闍梨」という肩書き目当てに伝法灌頂、などというタイプでないのは明白でしょう。



むしろ新しい宗派を築くにあたって、自分の思想のルーツというか、法縁を明らかにしておきたい、という日蓮聖人の強い想いを感じます。


考えてみれば、日蓮聖人はご入滅される直前、幼い経一丸(のちの日像上人)を枕元に呼び、京都への弘通を遺嘱されています。
(↑宗門初の京都のお寺・日像上人が開創した妙顕寺)
まだ新興宗教の域を出なかった日蓮宗門ですが、京都での布教が成功し、天皇のお墨付きが付いたあかつきには、きっと既存の教団と肩を並べることができるという希望を、後進に託したわけです。

伝法灌頂もしかり、教団が世に知られるようになった時に、宗祖は何者なんだと後ろ指をさされないように、との配慮もあったのだと思います。
日蓮聖人は・・・手堅いですよね!


尊海上人が再興させた無量寿寺には、やがて日本全国からお坊さんが集まるようになり、総合仏教大学・仙波檀林となってゆきます。
↑画像は、江戸末期の仙波地区を俯瞰で描いたものです。檀林としてのピークを過ぎた時期ではありますが、それでも坊やお堂が沢山存在していたことがわかります。

仙波檀林・無量寿寺は、以下の三院から成り立っていたようです。
   北院(別名:仏蔵院)
   中院(別名:仏地院)
   南院(別名:多聞院)

なぜ三つに分かれていたのかは不明ですが、例えば比叡山にも
   東塔(別名:止観院)
   西塔(別名:宝幢院 )
   横川(別名:楞厳院)
という三塔があります。
広い境内を管理し、大勢の学僧に目を行き渡らせるためには、効率良いシステムだったのかもしれませんね。


(↑喜多院・慈恵堂)
北院は現在、「喜多院」という縁起の良い表記になっています。


慶長4(1599)年に法灯を継いだ天海上人は、徳川家康から絶大の信頼を得ていたお坊さんだったようで、長く徳川家の外護を受けました。
(↑喜多院・天海上人像)
今でも広い境内、豪華な伽藍などに、当時の隆盛ぶりが見て取れます。



南院は・・・周辺を探し回った結果、「南院遺跡」という場所↑を見つけました。
明治の廃仏毀釈で廃寺になってしまったようですね。


これら三院を含む仙波檀林には、日蓮宗門からも多くの学僧が学びに来ていたようです。
(↑岡山・仏住山蓮昌寺の日朝上人像)
のちに身延山第11世となる行学院日朝上人もその一人です。
永享12(1440)年から数年間、ここ仙波檀林で暮らし、勉学に励んだことが、日朝上人ご自身の記録で残っているようです。
また日朝上人の師僧である日出上人も、ここで学んでいたということです。



日蓮宗独自の檀林などなかった時代、先師達は宗祖の法縁を頼って、仙波檀林で研鑽を積んでいたのですね。
他宗ながら、知れば知るほど感謝の念が強くなります。


僕が中院の存在を知るきっかけとなった伊勢原市・宝上山妙蔵寺↓の先代ご住職は、平成13年に中院を参拝されたそうです。
(宝上山妙蔵寺は日朝上人開山のお寺です。)

立教開宗750年、そして日朝上人500遠忌の良い砌に、先師がお世話になった仙波檀林跡へ感謝の誠を捧げたかったのだと思います。



中院側もこの参拝をとても喜んでくれて、中院に安置されていた釈迦像を妙蔵寺に譲渡してくれたといいます。
言葉だけでない、深い部分でのお互いの信頼がなければ、こうはならないでしょう。


このお像は、よく清められた妙蔵寺本堂で、大切に格護されています。

700年以上経った今でも、法孫たちの交流は、こうして脈々と続いています。
日蓮聖人が川越を訪れてまで受けたかった伝法灌頂が、時空を超えて実を結んだ、僕はそう理解しました。

先師の築いてきた「法縁」の何たるかを、改めて教えられたような中院の参拝でした!