日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

長谷山本土寺(松戸市平賀)

2019-02-07 17:45:45 | 旅行
松戸のご霊跡を参拝してきました!


ここ平賀はその昔、源氏の名門であった平賀家の屋敷があったことで有名です。
地名にもその名残りがあります。



門前に商店が並んでいます。行事の時などは賑わうのでしょうね!



美味しそうな漬け物が何種類も並んでいます。



赤い門が見えてきました。本土寺です。
名刹の香りプンプンです。



山号は長谷山です。



この門には巨大なお数珠で結界が張られていましたよ。



広大な本土寺の境内には桜、菖蒲、紫陽花、楓など多くの草木が茂り、一年中景色を楽しめるお寺なのだそうです。



特に紫陽花は一万株もあり、別名「あじさい寺」と呼ばれているとか。
その季節になったら是非また訪れてみたいものです。



境内図です。
一万坪もあるそうですよ!廻りきれるかな?



まずは本堂を参拝。
松戸市内とは思えない静寂の中、ゆっくりお自我偈を唱えました。



この真ん中の鰐口がいい音するんだ!
それにしてもこれって何で鰐口っていうのかな?クロコダイルの口に似てるから?まさかぁ。



本堂横にはお祖師様の五百遠忌(左)と六百五十遠忌(右)の供養塔。
特に五百遠忌の方は卒塔婆の形をしており、中興入道御消息の「丈六の卒塔婆を立て・・・」の一節を連想させます。



参道の脇に、武田信玄、勝頼2代に仕えた家臣・秋山虎康とその一族のお墓がありました。
秋山虎康の娘・お都摩は徳川家康の側室となり、家康の五男・信吉を産みました。信吉はこの界隈(小金領)を領地として与えられたため、秋山一族のお墓があるものと思われます。



本堂の裏手には、何とそのお都摩様(通称秋山夫人)のお墓もあります。
墓石に気品を感じます。



それもそのはず、説明板には徳川光圀公の建立とありました。
光圀公の父・頼房公は信吉公の弟にあたるわけですから、近い血縁の方のお墓を法華のお寺の境内にきちんと供養して差し上げたのだと思います。
それにしても水戸徳川家の方は優しいですね。お万様の精神が継承されているのですね。



祖師堂です。
小松原法難で受けた傷を癒やされたあと房総各地を巡教されていた日蓮聖人に、この地の有力者・蔭山土佐守が帰依して法華堂を建立したのが、本土寺のルーツです。
そして1277年、曾谷教信公が劣化した法華堂を平賀に再建したところから、お寺としての本土寺がスタートしたようです。



このブログの参考資料として最もよく使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)。
曾谷教信公は「教信入道法蓮」として描かれています。出家した時の法名が「法蓮日礼」だったからでしょうか。



(↑は中山法華経寺・法華堂の扁額)
曾屋教信公は中山法華経寺の前身・法花寺の時代に日蓮聖人のお説法を聞き、帰依したといわれています。
お祖師様のご遺文に「曾谷殿御返事」「曾谷入道殿許御書」があるほどですから、相当信頼の厚い方だったのでしょう。



歴代お上人の御廟を参拝。
歴史のあるお寺だけに、お上人方の墓石の数がとても多いです。ここまで法灯を継いで下さってきたことに感謝です!



一番奥に開山三祖の供養塔がありました。中央は日蓮聖人の供養塔です。



二祖は日朗上人です。
日朗上人は名門平賀家に生まれ、日昭上人に続いて二番目に日蓮聖人のお弟子さんになられました。日蓮聖人を最もお近くで献身的に支えられ、また多くの優秀なお弟子さんを育てられました。



三祖は日傳上人です。日傳上人は、日朗上人のすぐれたお弟子さんである九老僧の一人に数えられた方です。
1277年、先述の曾谷教信公が法華堂を平賀に再建する際、平賀に縁の深い日朗上人を開山として招きましたが、日朗上人は鎌倉を離れることができず、弟子の日傳上人を遣わしたそうです。
1277年といえば日蓮聖人が身延山に入られた後で、かつその年は桑ケ谷問答などもあり、鎌倉での宗門の立場が微妙な時で、日朗上人が鎌倉を留守にすることができなかったのではないでしょうか。



本堂へ続く参道を東に折れて瑞鳳門をくぐると、そこには落ち着いた庭園が広がります。



蓮の浮かぶ池の中央には弁天様がお祀りされています。



池の畔にお坊さんの石像が・・・誰かな?



日像上人のご尊像でした!



日像上人は平賀忠晴公の子としてお生まれになりました。日像上人がお生まれになった平賀屋敷の跡には現在、像師堂という立派なお堂が設けられています。



ご誕生と同時に屋敷の一角で清水がこんこんと湧き出たそうですよ。



この井戸は「誕生水」として昔から母乳の出が良くなる霊水として重宝されてきたといいます。



像師堂の奥に、御廟がありました。
中央が日像上人の供養塔であり、



左が平賀家代々のお墓、



右側がお母様である妙朗尼のお墓ではないかと思われます。
妙朗尼の最初の夫・平賀有国公との間に1245年にお生まれになったのが日朗上人です。その後、有国公は亡くなってしまい、妙朗尼は有国公の弟である平賀忠晴公と再婚されたようです。忠晴公との間には1269年に日像上人、1272年に日輪上人がお生まれになっています。
つまり日朗上人と日像上人、日輪上人は兄弟なのですね!
更には日昭上人は妙朗尼のお兄様であり、え~とつまり、平賀三兄弟にとっては伯父様にあたります。

そう考えると妙朗尼を中心としたファミリーが、日蓮聖人を支え続け、そして宗門を発展させたことになります。妙朗尼は宗門のビッグマザーですね!



本土寺には、五重塔もあります!
日像上人の650遠忌に合わせて、平成3年に建立したそうです。建築費の工面も大変だったことでしょう。しかし日蓮聖人の教えを天下公認のものとした宗門の偉大な功労者に恩を報いたいという人々の思いが完成させたのでしょう。



お寺の縁起によると、寺名の「本土」とは「我此土(わがこのど)」、つまりお釈迦様が本当の佛、本佛となって住む国土に由来するそうです。
落ち着いた境内にいると、何となくそんな感じがしてくるから不思議です。



そういえば昨秋訪問した能登の「本土寺」(こちらは土の字に点が付いてる!)

1294年、上洛途中の日像上人が大勢の石動山僧侶達に襲われた際に、命を投げ打ってまで救ってくれた村の農夫・加賀太郎、北太郎兄弟の菩提を弔うために日像上人が建立したお寺ですが、寺名は生まれ故郷の「本土寺」に因んでいるそうです。敢えて点を打ったのは、ルーツへのリスペクトでしょう。

今回平賀の本土寺を訪問して、日像上人が能登の二人の若い農夫の霊を弔うお寺を「本土寺」とした意味、その価値がどれほどのものなのか、よくわかりました。
本土寺に来て良かった!