日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

宝光山妙國寺(会津若松市一箕町)

2018-12-30 16:38:14 | 旅行

会津若松を訪問してきました!



明治維新150年である今年は日本各地で、幕末の自藩について検証した展示がなされていましたが、特に最大の当事藩であった会津には、今年のうちに訪れておきたかったのです。



白虎隊士が自刃した飯盛山



その麓の住宅街に妙國寺はあります。



寺域を示すお題目の石塔があります。



妙國寺は日什上人の「誕滅霊場」と刻まれていますね。



山門です。
総けやき造りだそうです。



山号は宝光山です。



本堂です。
福島県界隈のお寺の屋根は、雪対策でしょうか、全体的に黒っぽいです。



日蓮聖人のご尊像に合掌。



お祖師様も静かに合掌されています。



こちらが玄妙阿闍梨日什上人の御廟です。
会津武士の子として生まれた日什上人は幼い頃から頭脳明晰で、6才で儒教の経典を読んだとか!
19才で比叡山に入られ「玄妙」と称し、勉学修行に勤しまれ学頭まで上り詰めました。
58才で比叡山を下りたあとは羽黒山東光寺を拠点に活動されていたようです。



そこまで教学を究めた玄妙上人ですが、どうしてもモヤモヤした部分があったのでしょう。多くの書物を読み漁る中、ついに日蓮聖人の著作である開目抄、如説修行抄に出会ったのです!
玄妙は相当な衝撃を受けたと思います。でなければ66才の高齢で改宗するはずがありません!



玄妙上人は真間の弘法寺に入門、法名を「日什」と変え、日蓮聖人の教えを深めながら京都・鎌倉をはじめ各地で布教をしたのち、78才で故郷の会津へ戻ってきました。
そしてその翌年、この地で化を遷されたということです。



仮に日什上人がお祖師様の著作に出会うことなくご入滅されていたら、心のどこかにしこりを持ったままだったのでしょうが・・・そう考えると日什上人は今世の後半に、素晴らしい宝物を得た上で遷化されたわけで、幸せなお坊さんだったに違いありません。



日什上人が15才の時に亡くなったご両親のお墓は、日什上人の御廟の後方にひっそりとあります。
もしかしたらご両親の死が、日什上人が出家し、ここまで深く仏道を究める源泉になっていたのかもしれません。
激動の生涯を生き抜き、やっと生誕の地、ご両親埋葬の地に帰着したわけです。

この縁深い地に、日什上人のお弟子さんが庵を結んだのが、妙國寺のルーツです。


妙國寺はまた、会津における戊辰戦争の戦後処理が語られる際、たびたび名前が出てくるお寺でもあります。

「官軍に捕まり生き恥をさらすより、自刃して武士の本分を明らかにしたい」と飯盛山中で自ら命を絶った白虎隊の少年達。
新政府は彼らの遺骸に手を付けることすら許さず、戦後しばらく風雨にさらされたままだったようです。



近所に住む吉田伊惣次はこの惨状を目の当たりにし、夜な夜な密かに、少しずつ、遺骸を妙國寺に運び仮埋葬をしていったといいます。



こちらが白虎隊19士の仮埋葬地です。
現在は慰霊碑が建立されています。
合掌。



それから7年後に自刃地・飯盛山に立派な墓地が造られ、改葬されたそうです。
墓地には現在も焼香、合掌する人が絶えません。安らかに。



また、会津藩主・松平容保親子が戊辰戦争後に28日間謹慎したのも、ここ妙國寺だったそうです。
激戦が終わって間もなくの何もかもが疲弊している時に、会津の殿様をお迎えするわけですから、当時のご住職はそれはそれは大変なご苦労だったのでしょうね・・・。



会津の町を歩いていて、この「什の掟」というのが目につきました。
会津では昔から、同じ町内に住む藩士の子供たちは、「什 (じゅう)」と呼ばれる十人前後のグループを作るのが常でした。
彼らは毎日集まり、この「什の掟」に背くことはなかったかをお互いに確かめ合う反省会を行ったといいます。
白虎隊をはじめとする会津の少年達の精神的な逞しさは、こういうところに源があったんですね!



「什の掟」の精神は現在も、「あいづっこ宣言」という形で継承されているようです。

ところでこの「什」の文字、日什上人の「什」と同じなのは偶然なのでしょうか?
多分「什の掟」は藩校ができてからの話でしょうから、法名「日什」の方がずっと先だと思いますが、清廉で一途なお人柄(と想像できる)の日什上人と、ならぬことはならぬ「什の掟」がどうしても無関係には思えません。


果たして真実は・・・???






























真間山弘法寺(市川市真間)

2018-12-24 18:20:01 | 旅行
今年の初めに訪問した富士宮市の正林寺

まさに富士山を背負う素晴らしいシチュエーションのお寺には


六老僧・日頂上人の御廟がありました。


ここが日頂上人の御正廟であることを示す石碑の奉納者として刻まれていたのが「真間山弘法寺」でした。
日頂上人が開いたといわれる真間の弘法寺、今回訪問してきました!



最寄り駅は京成線の国府台です。



日蓮聖人の時代のずうっと前から、ここには下総国の国府が置かれていたそうですよ。



参道は小高い丘まで続いています。



昔、この界隈は川が海に流れ込む美しい入り江だったそうで、そんな場所に掛かっていた継橋は万葉集など多くの歌人に歌われたそうです。



なので道沿いには名歌がたくさん掲示されています。



ひとつ道を折れると手児奈(てごな)霊神堂があります。
その昔、真間に手児奈という美しく心優しい娘がいたそうです。男達は手児奈をめとりたいと争いを始めました。
この有様を知った手児奈は、私の為に争わないでと、河口に身を投げてしまったといいます。


手児奈は真間の人々に手篤く葬られました。と同時に手児奈の悲話は語り継がれ、やがて女性の守り神として信仰の対象になったそうです。


お賽銭を入れ、鰐口を鳴らして・・・


二拝二拍手一拝しちゃいそうになりますが、こちらはお題目を唱えるそうです!



さあ、階段を上って弘法寺の境内に行こう。


階段の27段目の石だけは丸みがあり、湿っているように見えます。この石が「涙石」だそうです。
もともと東照宮造営の為、伊豆から江戸川経由で日光まで船で運ぶはずだった石ですが、運搬途中、この近くで船が全く動かなくなってしまったそうです。作業の責任者・鈴木長頼は弘法寺にご縁がある石だと感じ、この石を弘法寺の階段に使ってしまいました。長頼は弘法寺の石段の上で切腹して幕府からの問責に応えたそうです。
以来、この石だけは長頼の涙の為でしょうか、常に濡れているのだといいます。



階段の上から後ろを振り返ると、木々の向こうに高層ビル。
弘法寺の境内が都会に残された深い杜になっていることがよくわかります。



立派な朱塗りの仁王門です。


阿行と


吽形。
境内をお護りしています。


扁額には山号「真間山」の文字。
よ~く見ると「真」の文字の下の点々が鳥になってるぞ~!



鐘楼です。


四方が閉鎖されているけど、どうやって鐘を打つんだろう?


隙間から覗くと、内部に綱が下りていました。中で打つんですね!



見事な枝ぶりのしだれ桜!
春はどんなに美しいことでしょう。



歴代お上人の御廟を参拝。
縁起によると、このお寺の歴史はとても古く、奈良時代に行基菩薩が真間の地に立ち寄られた際、先程の手児奈のお話に心を傷め、「求法寺(ぐほうじ)」という名のお堂を建て、霊を手篤く弔われたそうです。
その後、弘法大師により真言宗の「弘法寺」に、さらに天台宗寺院へと変わっていったようです。


日蓮聖人が既に身延に入山されていた1275年、弘法寺の住持・了性法印と富木常忍公との間で法論が起こりました。
以前に日蓮聖人がこの地で布教されたことが伏線となってたのかもしれません。
当然、この法論については日蓮聖人にも報告されていたようです。


そこで日蓮聖人は法論の場に日頂上人を臨ませ、見事に法論に勝利しました。
富木常忍公は自分の子でもある日頂上人を、法華道場としての弘法寺の初代貫主にしたそうです。
なので開基は伊予阿闍梨日頂上人、二祖はのちに出家して日常上人となる富木常忍公となっています。



1323年には富木常忍公とも関係の深い千葉胤貞公(地元の有力武将)から寺領地の寄進を受け、また1591年には徳川家康公から御朱印状を賜り、弘法寺は発展してきました。



正面には8年前に建立された祖師堂があります。
宗祖日蓮聖人、開基日頂上人、二祖日常上人をお祀りしているそうです。


桔梗の紋が掲げられています。
富木常忍公が関係するお寺ならではですね!



こちらが本殿だそうです。
「真間の釈迦仏」として有名な、宗門でも最古の木像をお祀りしています。
お像の供養の方法についてのお祖師様のご遺文もあるようで、富木常忍公の発願、日頂上人の開眼によるお像だということが伝えられています。



ご首題をお願いしている間に見た、壁に掛けられた版画。
真間の丘からの秋の風景でしょう。風情のある場所だったのでしょうね!



境内の西側には赤門があります。



こちらは大黒様のお堂です。


日蓮聖人御親刻の、宝剣を奉持した大黒様がお祀りされているようです。
お祖師様が比叡山で修行なさっていた時に感受された大黒様のお姿を刻まれたお像で、真間山が法華の道場としてスタートする際、日頂上人にお授けになったといいます。


縁日は甲子(きのえね)の日に開かれるそうです。
甲も子も干支の一番最初にあたるので縁起が良く、気が栄える日だといわれています。



いちばん西の奥には「真間道場」。
いろんな会合に使われている場所だと思われますが、


特に気になったのは毎月開かれている壇信徒の勉強会。
日頂上人の700遠忌の年から始まったようです。


ご遺文の講義なんかをやっているそうです。レベル高いな~!


そうそう、先日参拝した磐田の玄妙寺にも「真間」の文字があったな~。

日蓮聖人のご遺文に衝撃を受け、66才で改宗した日什上人が羽黒山を下り入門したのが真間の弘法寺でした。
当時の帰伏状も残っているそうですよ!
ここで日蓮聖人が遺された多くの御書を読み、教学を深めていったそうです。



昔も今も、日蓮聖人の教えを学び、広める拠点になっている真間のお寺。
「弘法寺」ってピッタリの名前ですね!









金榮山妙成寺(羽咋市滝谷町)

2018-12-03 22:41:27 | 旅行

上洛の前に日蓮聖人にゆかりのある場所を巡拝された日像上人は、佐渡から七尾に向かう船中で石動山天平寺の学頭・萬蔵法印と法論し教化しました。
萬蔵法印は法名を「日乗」と改めました。



日乗上人が建立した、とても有名なお寺・妙成寺を訪問してきました!



妙成寺は能登半島の西海岸、現在の羽咋市にあります。



わぁ~、五重塔があるんですね!五重塔は遠景がグーだと思います。



かなり離れている場所だけど法塔があります。


ここから先が寺域という目印でしょう。



総門です。黒門ですね~。



へぇ~、妙成寺の五重塔を国宝にしようという動きがあるんだ!



妙成寺は見どころが多そうですが、順路が設けられており、堂宇の見逃し、拝観忘れがなさそうです。



受付の脇の道沿いには塔頭寺院が沢山!
多くの方々により維持されている巨刹ということが窺えます。



二天門です。
江戸初期の建立で、現在は国の重要文化財に指定されています。


阿行と


吽形。


山号は「金榮山」です。



浄行菩薩がお祀りされているお堂です。
開山の日像上人は浄行菩薩の生まれ変わりだと言われているようです。



歴代お上人の御廟を参拝。
歴史が古いだけに、幾層にもわたって歴代の墓石が並んでいます。


その中央に開山堂があります。

鎌倉を出立して日蓮聖人のご霊跡を巡拝してきた日像上人は、ここ滝谷で日乗上人と別れ、京都への道を急いだそうです。
日像上人は日乗上人との出会いを殊に特別なものと思われたのでしょう、鎌倉から携えてきたエンジュ(槐)の杖を、地面に差したといいます。


のちに杖から芽が出てきたそうで、滝谷の地に深い縁を感じた日乗上人がお寺を建立した、というのが妙成寺のルーツです。



経堂です。
天海版の一切経だけでなく、法華経8巻分の版木・64枚も納められているようです。印刷技術がなかった時代、版画のように紙に写すことができれば、多くの宗門僧侶達に安定して経文を供給できるという発想は素晴らしいですが、実際に法華経の一字一字を版木に刻んでゆくのはホント、気が遠くなる作業でしょう。先師先哲の執念を感じずにはいられません。



妙成寺のランドマーク・五重塔です。
江戸初期の建築で、国の重要文化財に指定されています。


この五重塔の特徴は、薄い板を層状に重ねた屋根になっている点で、こういう構造を栩葺(とちぶき)と呼ぶそうです。


扉に刻まれた動物の彫刻がキレイ!


妙成寺は加賀前田家の祈願所として、長く外護されてきました。

境内には加賀前田家の方々の御廟が数多くあります。特に三代藩主・前田利常の生母である寿福院殿は、法華経の篤信者だったそうです。
現在の妙成寺の伽藍群は、初代・利家から五代・綱紀の頃に造営・整備されたものなのです。



境内の一番奥に、丈六堂があります。


内部には丈六の釈迦牟尼仏立像がお祀りされています。
宗門屈指の仏師・中正院日護上人の作だそうですよ!

日護上人といえば・・・

養老の妙見堂の丈六様や、


身延山・上ノ山の丈六堂の丈六様を彫り上げた方でもあります。


ただ、妙成寺の丈六様、確か頭部だけは浜に打ち上げられていたもので、頭部に合わせて日護上人が胴体を彫られたようなんです。
全然が違和感なく、日護上人の腕の確かさが窺えます。


境内には・・・

閻魔堂


三十番神堂


三光堂などが建ち並びます。

特に江戸時代に隆盛を極めた、庶民の信仰そのものです。


見えないものを畏れる、敬うという日本人のマインドは、時代とともに失われてゆきました。
スマホで検索すれば何でもわかる現在、「目に見えないもの」はないに等しいのかもしれません。


一方で何でも調べがつく、科学的に検証できるということは、人から謙虚さを奪い、傲慢にしてしまうという負の側面も持ち合わせています。現代人の心の荒廃は行く末が見えません。
古の日本人が仏や神への信仰を通じて、道徳や規律を守ったり、集落の自治を巧みにしていた・・・その知恵の一部でも見習えば、軌道修正ができるかもしれません。
つい最近、ユネスコ無形文化遺産にナマハゲなどの来訪神が認定されたことなどは、温故知新、我々が一旦立ち止まって自らを見つめ直すいい機会だと思います。



本堂です。
とても落ち着いた佇まいのお堂です。他のお堂と同じく、こけら葺きの屋根です。



祖師堂です。
中央にお祀りされた日蓮聖人のご尊像の両脇に、日像上人の師匠である日朗上人、そして日像上人のご尊像が鎮座されています。
今日、僕が何の迷いもなくお題目を唱えることができるのは、このお三方が懸命に信仰の基礎を作って下さったからです。各地のご霊跡を巡拝して、心からそう思います。
感謝の気持ちを込めて合掌しました。



妙成寺のすごいところは、創建されて以来、一度も火災に遭っていない点でしょう。
圧倒的多数の日蓮宗寺院は、過去に何らかの火災(戦災、法難、震災も含め)に遭っており、なかなか往時そのままの姿を拝観することはできません。
妙成寺の伽藍群は江戸初期の建築、ということはその前の桃山時代の建築様式を色濃く残しているそうです。先人が遺してくれた宝物です。これからも末永く護られてゆくことを祈ります。




五重塔の下に、日像上人のご尊像がありました。


七尾の公園にあるご尊像と比べると、お年を召した頃の日像上人だと思われます。
何かを書かれているのかな?

ご尊像の後ろに回り、手にされている書物を見てみると・・・

「若於園中 若於林中 若於樹下・・・」
如来神力品のようですね。お弟子さん達に解説されているお姿かもしれません。妙成寺は「日像上人弘法最初の霊地」ですからね、とても印象深いご尊像です。
日像上人がどんなお話をされる方だったのか、タイムマシンがあったら是非とも行って、聴講してみたいものです!



いや~、話には聞いていたものの、妙成寺、見どころ多くてお腹いっぱい!



帰り道、道端に大きな法塔があるのに気が付きました。


七面山だそうです。


遠く身延山の後方に鎮座し、法華経と法華経の行者を守護して下さる神様が、この小高い丘にも勧請されているようです。


お堂がひっそりとありました。
雪の対策なんでしょう、周囲がガードされていました。


鳥居の扁額には「感應閣」。

日像上人の教えに感応した日乗上人を起点として、何百年にもわたって教えが脈々と受け継がれて今に至る・・・。感応の妙を感じた訪問でした。
末永く北陸の宗門をお護り下さい、と七面大明神に祈願して、滝谷の地をあとにしました。