日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

廣普山妙國寺(堺市材木町)

2024-02-01 13:21:05 | 旅行
前回のブログ「方広寺大仏殿跡」では、豊臣秀吉が両親の菩提を弔うために催した千僧供養会、その招請を受けるか否かを巡って、宗門が大混乱したお話を書かせていただきました。

そもそも日蓮宗、宗祖のやり方を累々と継承するならば、今でも僧侶信徒全員が不受不施、布教も折伏中心だったはずです・・・。


宗門が現在の受布施、摂受スタイルへと変化したのは、戦国時代の僧・日珖上人が一つのルーツだといわれています。
今回は、5年前に参拝した、堺妙國寺(日珖上人開山)の画像を交えながら、そのあたりのお話を書きたいと思います。


堺という地名は、「旧摂津国と旧和泉国、そして旧河内国の三国の境(さかい)に発展したまちであることから付いたといわれています。」(堺市HPより)とあります。
(堺市HPより)
市章もこの通り。「市」の字が3つ、ドッキングしてますね!



大阪天王寺と堺を結ぶ阪堺電車。




「妙国寺前」という駅名なんですね(※)
宗門寺院が駅名になっているのは、新潟村田の妙法寺以来です。
堺のお寺といえば妙國寺!って感じなんでしょう。
(※)寺名については、このブログでは「妙國寺」に統一します。



駅の近くにある伝統産業会館に立ち寄ってみました。



刃物、昆布製品、緞通(だんつう) という敷物など、堺の特産品がそのルーツとともに紹介されていました。


もともと奈良の外港として栄えた堺は、戦国時代、明(みん)やスペイン、ポルトガルとの貿易港として栄華を極めました。
(モンタヌス画『東インド会社遣日使節紀行』 に描かれた17世紀の堺の想像図)
ヒト、モノ、カネがどんどん集まるわけで「ものの始まり、みな堺」という諺(ことわざ)まであったといいます。


(堺の鉄砲鍛冶屋:「和泉名所図会」4巻より引用)
天文12(1543)年、種子島に伝来した鉄砲。堺は国内有数の鉄砲の製造拠点でもありました。
今でも堺と種子島は友好都市なんだそうです。


昔からそんなイケイケの町でしたから、武力で支配下に置こうとする大名たちに、常に狙われていたようです。
(環濠都市 堺:河合守清著「堺大絵図改正項目」より引用)
そこで堺商人たちは、町の周囲に濠をめぐらして傭兵を配置、さらに豪商が中心となって独自に町を運営していました。
こうして、いわば独立国のような都市を創り上げ、自由な交易を続けていたと、伝統産業会館の説明文に書いてありましたよ。

面白い~!堺は独特の町だったんですね!



それでは妙國寺に行ってみましょう。
妙國寺駅から東に300m位、歩きます。



昔の道標です。
「そてつ」とは、妙國寺の別名のようです。



妙國寺の門は西と北の2ヶ所です。



どちらにも菊の御紋が掲げられています。皇室の勅願所だったんですね。



日蓮聖人のご尊像に合掌。
聖人は比叡山ご遊学の際、聖徳太子に縁のある叡福寺(太子町)や四天王寺(大阪市)も訪れています。
ここ堺も歩かれた・・・かもしれませんね!



この辺りは和泉宗務所なんですね。


本堂です。
鉄筋とおぼしき二層のお堂です。

内部に宝物資料館がありました(拝観料が必要、撮影不可)。
やはり堺だけあって、海外の品、そして戦国武将ゆかりの品が沢山展示されていましたよ。


いただいた妙國寺の由緒によると、開山は戦国時代真っ只中の永禄年間(1558~1570年)とあります。
三好実休(じっきゅう:俗名・義賢あるいは之康)が、京都頂妙寺3世の仏心院日珖(にちこう)上人に、寺領とソテツを寄進したのが始まりだそうです。
(三好実休像:河内将芳著「日蓮宗と戦国京都」より引用)
四国阿波を本拠地とした三好氏ですが、一時は天下を狙える存在だったといいます。弱体化した室町政権乗っ取りの足掛かりとして、かつて堺を支配したこともあるため、堺には三好氏ゆかりの寺院が多いそうですよ。


一方、妙國寺開山の日珖上人は、地元堺の商人・油屋常言(じょうげん)の子として、天文元(1532)年に生まれました。
油屋は、当時希少な火薬や油も扱っていましたから、戦国武将たちにも重宝されたのでしょう。堺でも屈指の豪商だったようです。
(日珖上人像:河内将芳著「日蓮宗と戦国京都」より引用)
お兄さんが家業を継ぎ、日珖上人は堺頂源寺(のちの長源寺)の正法院日沾(にってん)上人のもとで出家しました。
幼い頃から類い稀な秀才といわれた日珖上人ですが、比叡山、奈良、京都で学び、わずか12才で(!)長源寺3世を継ぎます。まさに神童だったんですね。



また特筆すべきは神道についての深い知識で、後年「神道同一鹹味(かんみ)抄」という「日本書紀」の内容を説いた著作を発表しています。
題名は、神道も仏教も海の中に入ってしまえば同じ鹹味(塩味)になる、という意味だそうです。
これは法華神道三大部の一つにも数えられる金字塔といいます。


日珖上人の師匠は日沾上人、さらに日沾上人の師匠は妙国院日祝上人という方で、もともとは中山法華経寺のお坊さんだったんですが、応仁の乱で疲弊する京都にやって来て布教、有力者の帰依を得て文明5(1473)年、あの聞法山頂妙寺を開創するのです。
(聞法山頂妙寺 山門)
そんなご縁もあり、弘治元(1555)年、日珖上人は23才の時に頂妙寺3世として晋山します。


当時は群雄割拠の畿内、血で血を洗う戦に明け暮れ、常に死と紙一重だった三好実休が、日珖上人に深く帰依したのは、その数年後だと思われます。
堺に寺領を寄進した実休ですが、その直後、戦死してしまいます。
(堺妙國寺 「和泉名所図会」4巻より引用)
日珖上人は30才となった永禄5(1562)年、豪商である父や兄の外護により、本堂など伽藍を整備し、妙國寺を開山するのです。
ここに三好実休の遺志が果たされたわけです。
ちなみに妙國寺という寺号、師匠の師匠である日祝上人の院号からいただいているそうですよ。


↓これはウチの娘が中学生の時に使ってた歴史資料集(明治図書)に載っていた戦国時代の畿内勢力図です(赤が信長派、青が反信長派の大名)。

三好長慶(ながよし)は三好実休のお兄さんですが、青、反信長派ですよね。これ、意外と大事なポイントなんで、覚えておきましょう!


当時の関西宗門といえば、天文5(1537)年に起きた、いわゆる天文法難の痛手からやっと復興したところでした。

(具足山妙覺寺境内にある天文法難殉教碑)
天文法難は、洛中で折伏をもって急激に伸張する法華勢力を、比叡山はじめ諸宗連合軍が武力で洛外に追放した事件です。
宗門諸寺は焼き尽くされ、多くの命が失われました。
生き残った僧俗は、安全な堺の末寺に避難しましたが以後6年間、洛中での布教や、寺院再興は許されませんでした。実際には比叡山との和議が成立するまで10年間、京都に帰れなかったということです。


(妙國寺境内の狛犬)
この10年間というのは、計算すると日珖上人が5才~15才の時になります。
心身ともにボロボロになって京都から堺に逃れてきた法華僧俗たちを、ちょうど多感な年頃に、否が応にも目にしたわけで、これは堺出身の日珖上人に少なからず影響を与えたことでしょう。


実は日珖上人の前半生は、宗祖以来の強烈な折伏スタイルだったといわれています。それこそ時の支配者の信仰が、日蓮宗よりも劣っている的な、逮捕スレスレの説法をされていたようです。
(織田信長像:安土城案内より引用)
ところがその頃、京都に入った織田信長には、日蓮宗のこうした折伏主義が見過ごせなかったんでしょう。安土城下で行われた、日蓮宗と浄土宗との宗論に至るのです。
信長は浄土宗と事前に謀り、申し合わせどおり日蓮宗を負けに導きます。


この安土宗論、日蓮宗側の代表として臨んだのが日珖上人でした。
信長の命令によって「日蓮宗が負けました、今後他宗との宗論はしません」という証文を、泣く泣く書かされたのです。
(具足山妙覺寺には比叡山焼討の難に遭った華芳塔が奉安されている)
信長の仏教弾圧は苛烈で知られ、比叡山焼き討ちに象徴されるように、教団を全滅させる力さえありました。ましてや日珖上人は三好氏(反信長派)のお寺を開山したお坊さんなのです。
日珖上人はギリギリの判断で、宗門を存続させる道を選んだのでしょう。


ここでちょっと堺妙國寺の縁起に書いてあったお話を。

妙國寺のソテツは、ちょうど安土宗論の年、信長によって安土城に移植されてしまいます。「妙國寺のソテツ、前から欲しかったんじゃ。日珖が弱っている今なら!」と持ち去ったのでしょう。
(廣普山妙國寺縁起より引用)
ところが安土城では、毎夜そのソテツから「堺へ帰りたい」という声が聞こえるようになりました。激怒した信長が部下に命じてソテツを切らせたところ、切り口より鮮血が流れ、大蛇のごとく、のたうち回ったそうです。



さすがの信長も怖くなり、妙國寺に戻しました。
日珖上人は傷だらけのソテツを植えなおし、法華経一千部(!)を読んだところ、樹勢が回復したそうです。


このソテツに宿るのは龍神様で、日珖上人の夢枕に現れ、上人の善行に感謝したといいます。そして今後ずっと、妙國寺を守護することを約束しました。

この神様は宇賀徳正龍神として、境内のお社にお祀りされています。


話を戻しましょう。
(豊臣秀吉像:河内将芳著「秀吉没後の豊臣と徳川」より引用)
安土宗論からわずか3年後、本能寺の変で信長が自刃すると、代わって政権を握った豊臣秀吉は、日珖上人が書かされた詫び証文を「不当」として浄土宗から取り上げ、宗門の布教を許してくれます。



だから頂妙寺の仁王門に、宗門布教再開を許可したとされる書状が掲げられているんですね!



ところが当の日珖上人、この頃からスタイルを軌道修正し始めていました。
先述の「神道同一鹹味抄」では「開目抄」の一節を引用し、
「高祖も末法に摂受折伏あるべしと遊ばしたり。時処を見て弘むべき也」
と論じ、今は摂受の行が大切な時としたのです。


かねてから日珖上人は、妙國寺内に学室を設けていました。天文法難で堺に逃れた僧達を集めて、天台教学を講じていたのです。
ここで日珖上人の摂受スタイルは熟成し、教え子たちに受け継がれてゆきます。

「三光無師会」といわれるこの学室では、非常にレベルの高い教育がなされていたのでしょうね、のちの京阪本山貫首は、ほぼこちらの卒業生で占められることになるのです。例えば・・・
 一如院日重上人(京都本満寺)
 瑞雲院日暁上人(京都頂妙寺)
 功徳院日通上人(京都本法寺)
 仏眼院日統上人(堺妙國寺)
といったお上人方です。

彼らは堺で学んだため「泉南学派」といわれ、関西学派の母体になりました。


徳川家康が関東に拠点を移し、やがて江戸に幕府を開くと、京都諸山も関東に進出するようになります。
(身延山久遠寺の三門)
身延山には日重上人のお弟子さんが次々晋山、いわゆる「重乾遠」の時代を築き、不受不施が台頭していた関東宗門を変えてゆきます。


(正中山法華経寺の山門)
また当時不祥事が相次いでいた中山法華経寺貫首には、京阪の三山(頂妙寺、本法寺、妙國寺)が輪番であたることになりました(以降明治まで)。
そしてこの輪番の最初を担ったのも、日珖上人だったのです。


こうして今の宗門は、おおかた関西学派がベースとなっていったのです。
そうすると日珖上人って、宗門を語る上で欠かせない大偉人、ある意味ルーツみたいなお上人だったわけですね!
(日珖上人像:河内将芳著「日蓮宗と戦国京都」より引用)
慶長3(1598)年、中山12世であった日珖上人は遷化されます。
まさに戦国の世を映すかのような、激動の67年間でした。



妙國寺で戴いてきた縁起の表紙に「由緒寺院」と書かれていました。
日蓮宗ポータルサイトによると、由緒寺院とは「宗門史上 顕著な沿革のある寺院 」だそうです。

ブログを書きながら、「あぁなるほど!」と、唸らずにはいられませんでした。



最後に
1月21日、内野日総法主猊下が法寿九十九をもって、遷化されました。
衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。

南無妙法蓮華経