日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

華開山成蓮寺(七尾市小島町)

2018-11-02 20:08:34 | 旅行
春に訪問した京都・妙顕寺

京都、いや西日本で最初に日像上人が開いた法華寺院です。



鎌倉時代、いまだ新興教団であった日蓮聖人の一門にとって、帝都(京都)に寺領を賜り、寺院を建立することは長年の念願であったようです。


日蓮聖人がご入滅の2日前に孫弟子の経一丸を枕元に呼び、帝都開教を遺命されたのが1282年。

それから10年、名を経一丸から日像と改めた青年僧は上洛を決意し、真冬の由比ヶ浜で波に洗われながら自我偈を100回読誦するという荒行を毎夜100日間連続で行ったそうです。
そして日蓮聖人のご霊跡を巡拝してから北陸廻りで上洛したということです。


石川県の能登半島

牡蠣の美味しい街・七尾にも、日像上人が歩かれた痕跡がありました!



山の寺寺院群の中に、日像上人のご霊跡があるようです。



JR七尾線の踏切を渡ると・・・



のどかな谷戸が広がっています。細く緩やかな坂道を上ってゆきます。



道沿いには、日蓮聖人の供養碑や、



清正公の供養碑



日蓮宗のお寺もいくつもあります。



このお寺は鍋かむり日親上人のお寺だ!


・・・な、何だ?この谷は・・・?



ここは山の寺寺院群と呼ばれ、約400年前に前田利家公が七尾に居城を築く際、奥能登方面からの攻めに備えるために浄土真宗以外の各宗寺院を集め、配置したのがルーツだそうです。現在でも16ケ寺が残っています。



そのうち8ケ寺が法華系の寺院(日蓮宗寺院は6ヶ寺)で、いずれもこの谷に沿って存在することから、この谷は「法華谷」と呼ばれてきました。
浄土真宗だらけの北陸にあって、心からホッとする、い~感じの谷です。



法華谷のいちばん奥に、日像上人のお寺があります。



成蓮寺です。



山門です。全体的にこぢんまりとしていて、親近感が湧く入口です。



わぁ~、歴史のありそうな法塔!いつ頃のものなんだろう。



本堂です。
能登といえば真っ黒でツヤツヤの能登瓦の屋根!



山号は華開山です。
帝都開教の念願が花開くように、という思いを込めたのでしょうか。



日像上人のご尊像に合掌。


どういう縁起なのでしょうか。本堂で物静かなご住職に伺いました。

1293年、日蓮聖人の佐渡法難のご霊跡巡拝を済ませた日像上人は、七尾に行く船に乗りました。


このとき乗ったのは廻船問屋・番匠弥右衛門が所有する船で、これは石動山天平寺の御用船でした。
独自に御用船を運行させてるお寺って・・・どんだけパワーがあったんだろう。

七尾から南へ10kmほどの場所にある石動山天平寺は、かつて数千人の僧侶を擁する真言宗系の巨大山岳霊場だったそうですよ!
しかしのちの戦乱に巻き込まれて衰退、明治の神仏分離令で荒廃してしまったといいます。



船は七尾に着き、その晩日像上人は番匠弥右衛門のお宅に宿泊されました。
そして一族を教化し、板曼荼羅を授けたそうです。
これを機に番匠家が七尾にあった真言宗の菩提寺を改宗したのが成蓮寺のルーツです。



板曼荼羅は現在も番匠家の家宝として受け継がれているそうですよ。



ところで、本堂内に貼られていたこの一枚の紙・・・聞きたいこと満載で、ど~しても気になってご住職に聞いてみました。

まず「宝塔懺法会」は「ほうとうせんぼうえ」と読むそうで、ご宝前に安置された宝塔を囲んで、自分の罪を懺悔したり、世の中の罪を浄化したりする法要だそうです。湘南界隈では聞いたことがない法要(実はお上人方が密かにされてるのかな?)ですね~。
次に「大海供養」はいわゆるお施餓鬼のことのようで、毎年お盆の時期に、海難者や魚の供養を海岸でするのだそうです。昔は船を出して灯籠を流したりしたそうですよ。

法華谷にある日蓮宗寺院はどこもお檀家さんが少ないため、6ヶ寺の輪番制でこれら四大法要を合同で執り行っているそうです。
何か、こういうのいいですね~。お寺の垣根を越えて、寄り添って、協力して法要を成功させる・・・まさに日蓮聖人の教えの「異体同心」を実践しているんですね!



ご住職に、近くの小丸山公園(前田利家の居城跡)に日像上人の大きなご尊像があるから、時間があったら行ってみて下さい、と教えて頂きました。



わ~、お説法されている日像上人でしょうか。



優しそうなお顔ですね~!

日像上人は本当に苦労して帝都開教を果たし、京都の宗門の第一人者というイメージが強いですが、北陸の地においても法華信仰の基礎を作った方として、人々から尊敬されています。ここ七尾は日像上人が上陸された記念の地ということで銅像建立の機運が高まり、昭和2年に建てられたそうです。



戦争中には金属供出で銅像はなくなってしまいましたが、昭和35年に最建立されたそうです。
北陸の信徒さん方の熱い思いを感じます。




さて、石動山天平寺の御用船で日像上人は海を渡っていらしたのですが・・・実は船上でもう一つ、大きな動きがあったようです!

これについてはまた後日、ご紹介したいと思います。

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