日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

富士山久遠寺(富士宮市小泉)

2018-02-27 20:11:50 | 旅行
先日訪問した伊豆の實成寺
歴代お上人の御廟の中心にあった5本の供養塔
日蓮聖人、日興上人、日目上人、日尊上人の供養塔とともに、「日郷上人」の供養塔も並んでいました。


日尊上人は晩年、日興門流の京都弘通の基盤を築いたといわれますが、その端緒として日目上人や日郷上人とともに天皇に謁見、仏法を説いたことがあったそうです。
日尊上人にとっては、日郷上人はふた廻り以上も下の兄弟弟子ですが、お互いの信頼は篤かったと思われます。


日蓮聖人のひ孫弟子(って言葉あるんでしょうか?)・日郷上人が最初に開いたお寺が富士宮にあります。
富士宮・小泉にある富士山久遠寺です。
白雪を冠した富士山が確実に背景に入ってくるので、インスタ映えします(笑)


黒い山門越しに見る富士山は特に美しいです!


自然石を使った題目法塔。
石から文字が浮き出たように錯覚します。


本堂です。
境内全体が富士山にむかって緩く傾斜しているからでしょうか、各お堂には階段が据えられています。


このお堂は「太鼓堂」です。
身延山の久遠寺で朝勤に参加すると、若いお坊さんが打ち鳴らす巨大な太鼓に合わせて唱題しますが、空気が震えるのがわかります。
ここ小泉久遠寺の太鼓は「宗門随一」と言われていますので、もっと凄い音なんでしょうね。鼓膜、大丈夫かな?

ん?實成寺にもあった鶴の紋、右向きと左向きが並んでるぞ!両方アリなんですね。


小泉久遠寺は何度も火災に遭っているようです。
開山の日郷上人をお祀りしたお堂も、けっこう新しいです。
これから歴史を刻んでいって欲しいと思います。


歴代お上人の御廟を参拝。
全く富士山を気にしていませんでしたが、ものすごくいい感じでフレームインしてきますね!
このお寺の御廟にも供養塔がある日興上人は、かねてからここ小泉をご縁のある土地と話していたそうです。


巨大なクスノキがこのお寺のシンボルツリーになっています。


今週の寺犬~!
もうひと寝入りしようかな


くんくん・・・ここにしようか。


あ~きもちいいZZZ

うららかな早春の小泉久遠寺でした。

東光山實成寺(伊豆市柳瀬)

2018-02-26 17:00:22 | 旅行
先日訪問した重須本門寺
重須談所の学僧であった日尊上人は、不注意がもとで師の日興上人から破門されてしまいました。


日尊上人は破門されている間も、毎年お会式には重須に参詣し、しかしお堂には上がれない身なので、堂の前の石に座って読経したという逸話があります。

日尊上人は破門の身であった30代~40代の約12年間、全国を布教して廻り、多くのお寺を建立したようです。


伊豆の真ん中に、日尊上人が初めて建立したお寺があります。
伊豆市柳瀬は、伊豆スカイラインのインターが近く、意外とアクセスしやすいです。


四方を山に囲まれた、のどかな田園風景の広がる地に、實成寺はあります。


山門です。黒門です。
伊豆市教育委員会が設置した説明板には、黒門は「緇門(しもん)」、つまり「僧侶の一門」と同じ意味があるそうです。
黒門をくぐることで、僧侶達の聖域に入ってゆくみたいな解釈でいいですかね?


ところどころに赤色のポイントがあります。
黒と赤っていうと、飲んべえの僕的には焼酎を連想しちゃいますね~


素朴な石積みの塀がお寺を護っています。
ここは古くは伊豆の豪族・大見氏の居館跡だったようですよ!源頼朝からの信頼が厚い人だったようです。


本堂です。
苦心して開山したであろう日尊上人を想いながら合掌。


石畳も昔のままです。
多少使いにくくても、こうして残していてくれると、我々信徒が往時を偲ぶきっかけになります。


山号は「東光山」です。


右側の紋は初めて見ました。内側に4枚の花びらがありますね。
左側の紋は、重須本門寺でたくさん見られましたね!鶴は日興門流の紋なのかな?あれ、でもこの鶴は右を向いてるぞ。


彫刻が見事!三嶋大社の彫刻も手がけた、西伊豆・松崎の彫り師による秀作です。


日蓮聖人のご尊像に合掌。


伊豆配流になり伊東に滞在されていた頃のお姿でしょうか。
大学教授のようなアカデミックな雰囲気のお顔をしています。


日尊上人は今の宮城県北部の出身で、もともと天台宗のお坊さんでしたが、お祖師様がご入滅された翌年に日興上人のお弟子さんである日目上人の教化を受け、日興上人の門に入ったそうです。


日目上人のお名前は、川奈の蓮慶寺で見たことがあります。
↑は蓮慶寺の歴代お上人の系譜を刻んだ石です。蓮慶寺とご縁が深いお寺なのでしょうか。


さきほどのお祖師様のご尊像の願主は、蓮慶寺のご住職のようです。
伊豆国の宗門寺院、結束堅いです!


實成寺の歴代お上人の御廟も立派です。宝塔が5つ並んでいます。
右から日郷上人、日目上人、日蓮聖人、日興上人、日尊上人の名前が刻まれています。


破門の憂き目に遭いながらも、日蓮聖人の目指す法華経弘通を貫いた日尊上人。
特に厳格といわれる日興門流を、いろんな意味で体現した方だと思います。


12年間の破門ののち日興上人に許され、遷化されるまで日興門流を支え続けました。


人生、くじけちゃいけませんね!
どん底に落ちてからの第一歩目のお寺に残る、いびつな石畳を見ながら、そう思いました。

上原山船守寺(上野原市上野原)

2018-02-25 09:08:03 | 旅行
昨年訪問した伊豆・川奈


命の危険を顧みず、30日あまりに渡って日蓮聖人を岩屋に匿った船守弥三郎夫妻
船守(蓮慶寺では「舩守」の字を使っていました)姓は、いちばん辛いときに給仕してくれたお礼として、日蓮聖人から頂いたといわれています。

弥三郎夫婦のもともとの姓は、「上之原」でした。


現在は「之」が取れた子孫の「上原」さんが川奈の地に暮らしており、蓮慶寺の境内には上原さんのお墓が沢山あったことを覚えています。


船守、上之原弥三郎公は、中央本線沿線の「上野原」で生まれ、その場所にお寺もあると聞いたので、行ってきました!
相模湖は相模川を堰き止めて作られたダム湖です。
この相模湖の西端あたりに弥三郎公の生誕地はあります。


旧甲州街道沿いには神社仏閣や旧跡がたくさんあります。


お?この杉木立が例のお寺かな?


違った、ここは諏訪神社。でもこの地を歩かせて頂きますね、と参拝。


参拝の御利益か、すぐ隣が目指すお寺でした!
赤い屋根の山門と公孫樹が目印です。


山号は「上原山」です。


蓮慶寺から分骨もされているんですね。


船守弥三郎公を顕彰する民謡もあるんですね!
下の方をよ~く見ると、作詞や作曲とともに「振付」ってあります。どんな踊りなんだろう!?
あと、「船守もなか 植松菓子舗」って、今気付きました。
次回、このあたり通りがかったら立ち寄ってみようっと!


本堂、と思われます。普段ご不在なのかな?
恐らくご本尊がここにお祀りされていると思い、手を合わせました。


あ、こっちにも歌詞が!!
「名物男の弥三郎」って一節、気に入りました。


この唄はどなたかがお寺に奉納したもののようですね!
「船守教会御中」と書かれています。もしかしたら教会がお護りしているご霊跡なのかもしれません。


船守弥三郎公生誕地の石碑です。
川奈・蓮慶寺のお上人の揮毫です。


さきほどの唄の歌詞に「袂を分かち 故郷を」という一節がありましたが、何か大きな決意を持って、この山村から漁村へと旅立ったのでしょう。
そして川奈でお祖師様を助けたというのは、二人の間に何か強い宿縁があったと感じざるを得ません。


そうそう、上野原に向かう途中で、こんな場所を見つけました!
え!?日蓮大橋??
いえいえ、相模湖にかかる日連大橋(ひづれおおはし)です。


この橋の向こう側の集落を「日連(ひづれ)」というようです。

特にお祖師様に関係のある場所ではないようですが、これから弥三郎公のルーツの地に向かう時に偶然見つけたので、不思議な縁を感じました!!

貞松山蓮永寺(静岡市葵区沓谷)

2018-02-23 18:43:47 | 旅行
いや~、今日も富士山、キレイだな~!
まわりに何もない独立峰、そしてこの美しい形は海外の方にも大人気です。
良いものは良い、美しいものは美しい・・・これは万国共通なのでしょう。


六老僧・蓮華阿闍梨日持上人
※↑画像は「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)より

今から700年以上前に、法華経が正しい教えであることを、実際に海外に伝道しに行ったお坊さんです。
「何と向こう見ずな・・・」とも思いますが、同時にめちゃくちゃ魅力的ですよね!


日持上人ゆかりのお寺が静岡にあります。
静岡駅にもほど近い沓谷(くつのや)という場所、ここは徳川家康が愛した駿府城の鬼門である丑寅の方角にあたります。


蓮永寺です。


山門です。黒門ですね!


山号は「貞松山」です。


その山号の通り、境内には松がたくさん!
よく手入れされています。


瓦にも松が!寺紋が松なんでしょうか?


お城のような塀です。


赤い仁王門。
この仁王門は仁王様ののぞき穴が作られていて、


吽形、吽形ともよく見えます。


わ~!立派なイチョウの木!
葉っぱがつくと見事なんでしょうね。落ち葉の季節は・・・大変でしょうね(泣)


根っこが四方八方に広がっているのがよくわかります。
お祖師様のご遺文でも、木と根を物事の比喩としてよく引用しています。


格式を感じる本堂です。
相当な数の瓦を使っているのでしょうね。


扁額には「蓮永精舎」。


戸袋に松が彫刻されています。
お寺の縁起によると、もともと蓮永寺は富士市松野村、富士川をはさんで岩本實相寺の対岸あたりにあったようです。
開基壇越は松野六郎左衛門公なので、寺紋が松なのではないかと思われます。


松野六郎左衛門公は日蓮聖人の教えに深く帰依していた方でした。
※画像は「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)より

僕は毎朝のお勤めの時に「妙行日課」を少しずつ読むようにしているのですが、お祖師様から松野氏へ宛てた手紙「松野殿御返事」から引用された文章がいくつも出てくるので、馴染み深い名前です。


お寺の縁起には、日持上人は松野氏の弟という説もある、と書かれています。


日持上人は幼少の頃からものすごく頭のキレる、いわゆる天才だったようです。
若くして出家し、仏の教えを究めるため比叡山に登ったといいます。
しかし学ぶうちに天台の仏教観に疑問を感じ、比叡山を下りたそうです。


そんな時、岩本實相寺(当時天台密教の勅願寺)のお坊さんだった智海法印(のちに法華経に帰依し日源上人になり、實相寺を改宗)に日蓮聖人の話を聞きました。


日持上人はすぐに鎌倉・松葉ケ谷に日蓮聖人を訪ねたそうです。
(↑画像は鎌倉・安国論寺の扁額)
たちまち日持上人の疑問は解け、その場で帰依し日蓮聖人から「蓮華阿闍梨 日持」の法名を頂きました。


日蓮聖人が目指していたのは「一天四海皆帰妙法」、世界中に法華経を広めようという意味だと思います。
一方、恐らく当時国内でさえ布教に苦労していただろうに、海を越えて海外に・・・というのは夢に近かったのではないでしょうか。

しかし、当時45才の日持上人は・・・行ったのです。
良いものは良い、良いものに国境はないとの思いだったのでしょう。


お祖師様の十三回忌を少し早く済ませ、翌年の元日に蓮永寺から旅立ちました。
東北(奥州)→北海道(蝦夷)→樺太→満州と布教の旅を続け、北京郊外の町で遷化された、と推測されています。(足取りについては多くの研究者が現地に行って、実際に証拠を入手した上での推論)
しかしそれでも命日すらわかっておらず、宗門では日持上人忌は元日にしているようです。

ちなみに居酒屋の定番メニューの魚・ホッケの名前は、日持上人が蝦夷に来た時に大量に獲れ、「法華さんの魚だ~」「そだね!」ってことで付けられたという説もあるそうです。


客殿です。屋根の曲線がキレイ。


早咲きの桜かな?あと一息で咲きそうです!


もう一人、蓮永寺の歴史になくてはならない方がいます。
徳川家康の側室、養珠院お萬様です。
この石塔は、お萬様の供養塔です。


松野村にあった蓮永寺は、日持上人が海外伝道のために去ってからしばらく荒廃しており、これに心を痛めたお萬様が、駿府城を護る鬼門の場所・沓谷に蓮永寺を移転させ、整備したそうです。
家康には正室をはじめ、多くの側室がいただろうに、それでも駿府城のお膝元に法華のお寺を誘致するなんて、実は相当な権力があったのでしょうか。


お萬様が家康の子を産んだのは家康がお年を召した頃で、家康は十男・頼宣と十一男・頼房をことさら可愛がったといいます。
のちに頼宣は紀州徳川家、頼房は水戸徳川家を任されたことを考えると、家康の晩年になって、お萬様の存在感は徐々に大きくなっていったと思われます。


昨年訪問した小田原の浄永寺


お萬様がここの寺宝である蛇身解脱画像をことさら信仰したのが縁で、浄永寺は代々、紀州徳川家の祈願所になっているそうです。
(↑蛇身解脱画像は「北条時頼とその時代」(鎌倉国宝館刊)より引用)

お萬様がつなぐ縁に、実に、実に多くの宗門寺院が助けられてきたことでしょう。


いや~、今回のご霊跡めぐり、ホント、いろいろ勉強になった~!

偉大な開拓者・日持上人と、中興に尽力したビッグマザー・お萬様・・・知れば知るほど僕を魅了してやみません。

法華山本興寺(横浜市泉区上飯田)

2018-02-22 14:21:19 | 旅行
日蓮宗ポータルサイトによると現在、本山は57ヶ寺あるようです。
僕の住む神奈川県に本山は5ヶ寺ありますが、実はまだ行ったことのないお寺が1ケ寺だけありました。
横浜・飯田の本興寺です。
三寒四温の「寒」だった2月16日、念願の訪問を果たしました!


黒い山門ですね。重厚さを感じます。
二つ引き紋が寺紋なんでしょうか。


横浜にあるお寺とは思えない落ち着いた参道です。


古そうな題目法塔。


「開山日什大聖人」と刻まれてます。
日什上人はもともと、比叡山の学頭になるほどの優れた天台僧でしたが、67才の時に開目抄、如説修行鈔を読み、改宗したという、ちょっと興味深い経歴を持っています。

日蓮聖人がご入滅されてから30年以上後に日什上人が生まれたので、直接の面識はないはずです。
しかし日蓮聖人の遺した著作が、他宗の高僧を教化していた事実がわかります。


もともと日蓮聖人の直弟子である天目上人が鎌倉に開いた休息山本興寺を、日什上人が法華山本興寺に改称したのが、このお寺のルーツです。
同じく本山の佐野・妙顕寺は天目上人の開創だと聞いたことがあります。
「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)には、天目上人の姿が描かれています。



休息山本興寺は、鎌倉・小町大路の日蓮聖人が辻説法をしていた場所あたりにあったようです。


しかし江戸時代になり、やまれぬ事情で鎌倉から横浜の飯田に寺の一切を移したそうです。
この場所は、日蓮聖人が池上へ向かう際にご一泊された、瀬谷の妙光寺からわずか数キロの場所です。そして更に日蓮聖人がご入滅後、ご遺骨を身延山にお運びする途中で、ここ飯田にご一泊されたという、ご縁の深い場所なんですね!


赤い仁王門です。


阿形と


吽形


山号は法華山です。


お寺の掲示板には・・・お!拳四郎!!
昨年末の防衛戦KO勝ちは記憶に新しいです。 ・・・で、拳四郎が何で?


トランクスに本興寺のロゴ!
お寺のホームページを見ると、副住職が応援しているそうです!
これからも防衛数を増やしていってほしいものです。


本堂です。


近づいて見ると、見事な彫刻が随所に組み込まれています。
お堂の内部・欄間にはお釈迦様、お祖師様、日什上人それぞれの一代記彫刻があるそうです。いつか拝ませていただきたいものです。


歴代お上人の御廟を参拝。


開山の日什上人から66世のお上人まで刻まれています。
今日まで法灯を継いでくださったことに感謝です。


鐘楼です。早春の空に映えます。


梵鐘にはお寺の縁起の文字があります。
こういうのも鋳型を作って銅とか錫を流し込んで作るんでしょうね。時間と手間がかかってそう。


宝蔵です。
ここには27世・日経上人の「血曼荼羅」などの寺宝が格護されているそうです。
日経上人は理不尽な慶長法難で、耳鼻そぎの惨刑を受けてしまった方として、僕もお名前は聞いたことがありました。ここ本興寺のお上人だったのですね。

少し脱線しますが、この慶長法難があったからこそ、養珠院お萬様は日遠上人が磔刑にされようとしたのを必死で救ったのではないでしょうか。
そう考えると、江戸時代の宗門発展の礎は、本興寺、日経上人にあるように思われてなりません。


お寺には巨木をはじめ緑がたくさん!


少しずつ梅の花がほころび始めました。春はもうすぐ!


そうそう、本興寺を訪問した2月16日はお祖師様のご降誕の日でした。
この大切な日に神奈川県の宗門の拠点を訪れることができて幸せです。

玉樹山正林寺(富士宮市北山)

2018-02-10 10:59:34 | 旅行
富士の南西麓・富士宮


北山本門寺を参詣しにやって来たのですが、ご首題とともに頂いた本門寺の縁起に、六老僧・日頂上人の御廟が至近にあると書いてありました。

これは、行ってみなければ!!


北山本門寺の裏側から続く細道には
題目法塔
恐らく本門寺の結界を区切る目印なのでしょう


他にも石の祠や


観音様でしょうか。
古くから人の往来が盛んだったことが窺えます。


そして、文字が赤く塗られている題目法塔
これが日頂上人ゆかりのお寺・正林寺の入り口と思われます。


背の低い石碑ですが、かがんで見ると「開目抄」の代表的な一節が彫られていました。
いわゆる三大誓願といわれるものです。
龍ノ口で九死に一生を得た後、佐渡に着いてすぐに日蓮聖人が書き上げた決意表明です。


正林寺は美しい富士山を背負ったお寺です。


正林寺の本堂です。


山号は「玉樹山」です。


日蓮聖人のご尊像に合掌。
白い石で彫られたご尊像は初めて!富士山の雪のような清廉さです。


開闢700年(!)を記念して、16年前に作られたそうです。
宗門でも相当初期のお寺ではないでしょうか。


日頂上人はここ重須で生まれましたが、お父様を亡くし、お母様が再婚した下総の役人・富木常忍公の養子になりました。


(画像は中山法華経寺奥ノ院にある富木常忍公のご尊像)
富木常忍公は日蓮聖人が立教開宗する前から、物心両面で日蓮聖人を支援してきた最古参の大壇越です。
一方、日蓮聖人のご入滅後に出家して日常上人になったほど、日蓮聖人の教えに深く帰依した方です。

中山法華経寺の開基となり、中山門流という一大流派を築いて、宗門を発展させました。


日頂上人は日蓮聖人が下総を布教に廻った時に同行されていたようです。
日蓮聖人の信頼も厚かったと思われます。
その頃まだ他宗だった下総の弘法寺(ぐほうじ)で、当時の住職と富木常忍公との間で問答があった時には、日蓮聖人は日頂上人をその場に臨ませ、法論に勝ちました。
結果、弘法寺は改宗し、日頂上人が開基となって法華経の道場を開いたそうです。


日蓮聖人がご入滅し、三回忌の折、日頂上人は鎌倉で布教をしていて法要に遅刻してしまいました。
これに師匠でもある父・日常上人は激しく怒り、勘当してしまったそうです。


中山法華経寺にある「泣き公孫樹」です。
日頂上人は七日七夜の間、この公孫樹(イチョウ)の木の下を巡って詫び続けましたが、日常上人は許さなかったといいます。
中山法華経寺が設置した説明板には、日蓮聖人の葬儀記録に日頂上人の名前が記されていない、とさえ書いてありました。
さらに日頂上人は泣き公孫樹の下で宝塔偈を唱え続けていたそうで、以来、中山門流の寺院では宝塔偈を読まない伝統になっている、とも書いてあったのが印象的です。


日頂上人はその後、自らの生まれ故郷であり、兄弟子である日興上人のいる、ここ重須にやって来ました。
翌年、本門寺から500mと至近のこの地に正林寺を開きました。すぐそこにある杉林が本門寺境内です。
ここから本門寺に通い、日興上人の仕事を助けて弟子の教育に勤しみ、多くの優秀な僧を世に送り出したといいます。


伊予阿闍梨日頂上人の御廟です。
宝塔偈を唱えて師父に詫び続けたという逸話が印象的だっただけに、この御廟に宝塔を見たときは、ちょっとグッとくるものがありました。


御廟の横に立つ石塔は、かつて日頂上人が開いた真間山弘法寺が建立したものです。
大切なお祖師様の三回忌、しかし忘れていたわけでも遊んでいたわけでもなく、お祖師様が最も力を入れていた「法華経の弘通」を実践していて、法要に遅刻してしまった日頂上人。

一方、立教開宗以前からずっと変わらず日蓮聖人の活動を支え続けてきた富木常忍公としては、二度とない宗祖の法要への遅刻は、理由を問わず許せなかったというのも、う~ん、理解できます。

とても、とても哀しい話ですね・・・。


お寺の西側を見渡すと、奥に雪を抱いた山々があります。
このうちいずれかが身延山なのでしょうか。

晩年までこの地で生活した日頂上人は、時折西の山々を見て、お祖師様を想ったのかもしれません。