日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

靖定山久昌寺(常陸太田市新宿町)

2018-04-10 22:26:14 | 旅行
これまでに僕が訪問した日蓮宗寺院の多くに、その貢献の痕跡が残っている養珠院お萬様

(↑画像は静岡・蓮永寺の養珠院供養塔)
徳川家康との間にできた二人の子供のうち、兄は紀州徳川家の始祖に、そして弟は水戸徳川家の始祖となりました。


その水戸徳川家にゆかりの深い日蓮宗寺院を訪問しました!


常陸太田市は、水戸徳川家の居城があった水戸から20kmほど北に位置します。


市の中心部の西側にある丘に、久昌寺はあります。


急峻な丘ですが、地質は岩のようで、安定した地盤に建ったお寺だと思われます。


久昌寺は本山格なんですね!
山号の「靖定山」は、徳川光圀の母・久昌院の諡号「靖定夫人」に因んでいると思われます。
(※諡号:貴人の死後に贈られる名前のことで、通称みたいな扱いなのかな?)


「水戸黄門創建の寺」と刻まれています。

ちょっと水戸徳川家の人間関係を整理してみましょう。
養珠院の子供は徳川頼房、そして頼房の側室が久昌院です。
で、頼房と久昌院との間にできた長男は初代高松藩主・松平頼重、そして次男が「黄門様」徳川光圀です。


本堂です。
昭和6年に建てられたそうです。


この立派な本堂を含む寺域の整備の陰には、梅津福次郎翁の多大な資金援助があったそうです。
↑石碑に「北海道・梅津福次郎」とありますね~。


梅津家の墓所です。
明治時代に常陸太田で生まれ育った梅津福次郎氏は、23才で函館に渡り梅津商店を立ち上げ、優れた商才で大成功を収めたそうです。
そして、大正から昭和の大不況の時期に、故郷の常陸太田市だけでなく、梅津家菩提寺の久昌寺にも巨額の寄付をしたということです。

久昌寺では、いただいた恩に報いるように、福次郎の威徳を讃えた掲示をしています。


日蓮聖人のご尊像に合掌。
境内に入ってくる壇信徒、そして常陸太田の街を見守っています。


虚空蔵菩薩堂です。
法華の関東八檀林にも名を連ねた常陸三昧堂の守護神だったそうで、大正時代に久昌寺に移されたそうです。
智慧、学徳などのご利益があるといわれています。
お祖師様も若い頃、清澄の虚空蔵菩薩に「日本一の知者となしたまへ」と祈願されたといいますよね!


鐘楼です。
この鐘楼は東日本大震災で傾いてしまい、場所を移して再建されたそうです。


この鐘、希望者には衝かせてくれるんですよ!!もちろん僕も衝きました!
鐘の音がうるさいと苦情が来る今日この頃、何と太っ腹なお寺、そして街!
ただしお寺の下にある学校が試験中は自粛してるそうです(笑)


話は変わりますが、常陸太田市内では「佐竹高校」とか「佐竹寺」など、「佐竹」という文字をよく目にします。
実は秋田・久保田藩の佐竹氏は、ここ常陸太田が発祥の地なんだそうです。


養珠院は佐竹氏の祈願寺であった勝軍寺を改宗し、「蓮華寺」を創建しました。
蓮華寺は現在の久昌寺の場所にあったようです。


一方、養珠院からみて息子の嫁にあたる久昌院は、養珠院の背中を見てきたのでしょう、やはり法華信者として物心両面で宗門に貢献してきました。

いわゆる身池対論の影響で衰退していた池上本門寺を救済し、優れた僧であった日忠上人を庇護、常陸太田に「経王寺」を創建しました。
久昌院は亡くなると経王寺に埋葬されたそうです。


しかし久昌院は水戸徳川家初代当主・頼房の側室です。
水戸徳川家では儒教式の墓所(廟)を↑瑞龍山に造営し、久昌院のお墓も移されることになりました。
それに伴い、息子の徳川光圀は経王寺の場所を移し、新たに「久昌寺」としました。


明治の廃仏毀釈や廃藩置県に伴い、養珠院の「蓮華寺」と光圀の「久昌寺」は統合され、現在の久昌寺になったそうです。
またその時に水戸徳川家の外護を離れたということです。


つまり養珠院、久昌院、光圀の親子三代の信仰の支流が一つの流れになり、生まれたお寺と言えましょう。


養珠院と久昌院の墓所です。


久昌院は義母の養珠院から多くの良いものを学んだと思われます。
仲良く並んでいる二柱の宝塔を見ればわかります。


僕は以前から、身延山御廟にある養珠院の墓石が、久昌院の墓石の真裏に位置していることに疑問を持っていました。
しかし久昌寺に来て、疑問が晴れました!今となっては、絶妙な墓石配置だと思います。
ちなみに久昌院の長男・松平頼重の側室である寿光院の墓石も、御廟所にあります。


最後に久昌寺の開基・徳川光圀の廟を参拝しました。


ちょっと文字が見にくいですが、「法華経三部十巻 一字三礼浄写之宝塔 安置」と刻んであります。

光圀自らが母・久昌院の菩提を弔うために、法華経を構成する何万もの文字を一字一字、三回礼をしながら板に書いたのだそうです。
気が遠くなります。あの黄門様が、ですよ!
いかに光圀の信仰が強かったかを物語っています。


狛犬・・・、いや、角がないから獅子なのかな?
廟をお護りしています。


光圀の廟は「義公廟」というそうです。
光圀の諡号「義公」にちなんでいます。

例の三回礼~の写経と、母・久昌院の毛髪を納めた宝塔が、この廟の中に安置されています。


廟所からは常陸太田の市街が見渡せます。
しかし・・・なぜ本拠地・水戸でなく常陸太田なんでしょうか?


水戸徳川家墓所が常陸太田の瑞龍山にあることが、ヒントのような気がします。
久昌寺のお檀家さんによると、この地を治めていた佐竹氏は関ヶ原の戦いで豊臣側に付いたそうなんです。
のちに徳川の時代になって佐竹氏は秋田に追いやられてしまった、と仰っていました。

水戸徳川家としては、佐竹発祥の地に目を光らせるために、常陸太田にお寺や墓所といった、徳川家の息のかかった拠点を設けたい意図も、あったのかもしれませんね!


いや~、久昌寺、奥深かったな~!
お寺の奥様やお檀家さんもとっても優しく、これって養珠院や久昌院から引き継がれた「寺風」なんだろうな~!と思いました。

これからも末永く引き継がれてゆくことを祈念します。
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