日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

明光山妙勝寺(岡山市北区船頭町)

2024-04-01 09:24:39 | 旅行
一昨年、2代目の愛犬が老衰で逝き、しばらく犬不在の日常が続きました。
犬がいない生活は、旅に出やすいなど、それはそれで快適だったのですが・・・やはり元来の犬好き、気付けばネットで3代目候補を探し始めてました。

そんな時、岡山で里親募集してる雑種犬(メス・1才半)に、妻がビビッときまして、昨年6月にわざわざ湘南から岡山まで対面しに行きました!



元野犬、相当警戒心が強いやつでしたが結局、情が移っちゃって、今は我が家で暮らしています。


今回は、その岡山の旅の途中で訪問した、宗門寺院を紹介したいと思います。


(JR岡山駅)
岡山市の人口は、驚きの70万人超!
お隣の倉敷市と合わせると、実に100万人以上が界隈に住んでることになります。




JR岡山駅からは市電です。
市電は2系統ありますが、清輝橋線で終点まで乗ります。



清輝橋駅から少し歩くと、旭川に至ります。
児島湾が干拓される明治まで、この辺りは河口に近く、人や荷物を載せた多くの舟が往来していたようです。



今回、参拝するお寺は、旭川沿いの船頭町にあります。
舟運時代が偲ばれる地名ですね!



妙勝寺に到着しました。
この辺りの地質なんでしょうか、敷石も砂利も、そして法塔もベージュ色です。



山門です。
控え柱のある薬医門です。


左右に立派な灯籠を配した本堂です。
備前法華のお寺、沢山のお題目で護られたお堂なのでしょう。

これまで妙勝寺を護持してくださった先師達に感謝し、合掌しました。
そしてあの保護犬と仲良くなれるようにという思いも、ちょい込めました!



山号は明光山(みょうこうざん)です。


庫裡でご住職に挨拶させていただきました。
話の端々にユーモアを挟むお上人で、さぞ面白い法話をされるんだろうな~、と思いました。
これから法事があるような雰囲気でしたが、ご首題など、快く応対してくださいました。ありがとうございました!



境内の中心には、鎌倉末期から南北朝時代にかけて大きな功績を残された大覚大僧正の、巨大な供養塔が立っています。


当時、京都より西はまだ法華未開の地でした。
日像上人の命を受け、単身中国地方へ赴いた大覚大僧正は、吉備国(今の岡山県)全域で布教を行いました。
(備前市邑久町から瀬戸内海を望む)
特に備前では、松田氏(備前守護職)の援助も得て、のちに「備前法華」という言葉までできるほど、篤信のエリアを作りあげたのです。



大覚大僧正が開創したと伝わるお寺は、岡山県だけで40ヶ寺以上もあるそうですが、妙勝寺はその中でもごく早い時期に開かれたお寺で、備前日蓮宗の始まり、とされるようです。


妙勝寺が開かれたのは、南北朝動乱の真っ只中、興国3(1342)年前後だと伝わります。
(南北朝の動乱:明治図書刊「歴史資料集」より引用)
この時代、朝廷が真っ二つに割れ、全国あちこちで内戦が起きていました。
南朝(後醍醐天皇方)に仕える武将・多田頼貞(よりさだ)は、本拠地の摂津国能勢郷を離れ、各地を転戦していましたが、伊予で北朝方に敗れてしまいます。


多田頼貞は残兵とともに備前に逃れます。
(妙勝寺境内で栽培される蓮)
幸いにも地元の豪族・阿比六郎熊城(くまき)が味方に付いてくれたため、網浜という場所にある彼の屋敷を拠点とし、ここで再興を期すことにしました。


ところが備前国のすぐ東隣は播磨国、敵(北朝)方である赤松氏の所領でした。

備前網浜に多田頼貞が潜伏しているという情報は、すぐに赤松軍に伝わります。巧みに間者(スパイ)を潜り込ませていたのです。
その上で赤松軍は大軍勢で攻め込んできたため(網浜の戦い)、多田軍は完敗、頼貞は自ら腹を割いて逝きました。


戦いの跡には、多田軍の屍ばかりが放置されていました。

ある日、旭川を舟で上ってきたお坊さんが、この屍を集めて荼毘に付し、お堂を建てて丁重に弔いました。

(京都妙顕寺奉安の大覚大僧正坐像:京都像門本山会刊「大覚大僧正」より引用)
このお坊さんが大覚大僧正で、お堂は「法華霊堂」と号されました。
のちに大覚大僧正の法孫によって寺号が附せられ、「妙勝寺」と称するようになったということです。
(夙外生著「大覚大僧正」:大正5年刊)


また他の文献には、自邸を砦にした阿比六郎熊城が、当地を布教に訪れた大覚大僧正に帰依し、自邸をお寺にしたという、別の縁起も書かれていました。
諸説あるようですね。
(妙勝寺境内の紫陽花)
ご住職によると、妙勝寺は岡山大空襲で焼き尽くされ、昔のものはほとんど残っていない、ということでしたから、真相は闇の中、ちょっと残念ですね!


大覚大僧正供養塔のすぐ右側、木に隠れるようにもう一本、石塔が立っています。

これは能勢修理頼吉の供養塔と伝わります。
能勢修理頼吉は、文献によって多田頼貞の家臣とも後裔ともいわれます。
詳細は不明ですが、現在の妙勝寺に残る唯一の多田氏遺跡、ということは確かなようです。


妙勝寺は岡山市内を南北に流れる旭川の西岸にあります。
対岸は「網浜」という住所ですから、戦はこの一帯であったと考えられます。
(旭川:対岸は網浜)
布教のために舟でやってきた大覚大僧正が、備前で最初に目にしたのは、凄惨な戦いの跡だったわけですね。
まさに地獄絵図の中、大覚大僧正は戦死者の霊を慰め、生き残った者には信仰を通じて心のケアを施した、それは間違いないことでしょう。


一方、最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くし、圧倒的不利にもかかわらず勇猛に戦い、果てた多田頼貞に、敵(北朝)方の総大将である足利尊氏は感服したそうです。

頼貞の嫡男・頼仲(よりなか)は、能勢の旧領(摂津国)と、備前国17郷を安堵されました。そして姓を「多田」から「能勢」に改めた上で、代々足利に仕えたといいます。


時代は下り戦国時代、能勢氏は断絶の危機に陥ります。
(能勢妙見山参道の能勢頼次銅像)
当時の当主は能勢頼次(よりつぐ)。
明智光秀とは友好的な一方、その主君・織田信長とは敵対するという、とても微妙な立場でした。


そんな時、本能寺の変が起きるのです。
明智光秀の謀反により、信長は自刃します。

(本能寺夜討:香雨亭桜山著「絵本太閤記 真書実伝」より引用)

それからわずか11日後、首謀者の明智光秀は羽柴秀吉に打ち取られ、明智に加勢した能勢軍も、秀吉の大軍に敗れてしまいます(山崎の戦い)。


このとき、能勢頼次は数名の家臣とともに備前に逃れました。
能勢家の先祖にご縁の深い、妙勝寺です。
恐らくこの頃には、備前法華が地元で一大勢力となっていたことでしょう。
能勢頼次はここに身を隠し、彼らとともにお題目を唱えながら、再興の機をうかがったのです。
時代は繰り返すんですね!


のちに頼次は徳川家康に召し上げられ、関ケ原での活躍もあり、再び旧領を安堵されます。
ちなみに、頼次が時の身延山法主・寂照院日乾上人とのご縁によって、途絶されていた先祖代々の星信仰を、法華経でお祀りし直したのが、現在の能勢妙見山です。


北極星信仰の聖地・能勢妙見山の成り立ちに、間接的にではありますが、大覚大僧正や備前法華が関わっていたというのは、とても興味深いです。
(能勢妙見山内:石碑に刻まれた桐竹矢筈十字紋)
また「妙見山」という山や地名は全国にありますが、西日本、中でも岡山県に突出して多い、という話も聞きます。
真偽の程は定かではありませんが、西国における北極星信仰は、妙勝寺が大きなキーワードになるのかもしれません。
機会があったら掘り下げてみたいと思います。


話を妙勝寺に戻しましょう。
(空襲で焼け残った大覚大僧正供養塔)
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年6月29日未明 、岡山はB29による大規模な爆撃に遭い、多くの死傷者が出ました。
市街地の実に7割以上が焼き尽くされ、残念ながら妙勝寺も灰燼に帰してしまいました。


そんな中、信徒の西村多吉さんご一家が、妙勝寺再興に尽力されました。

戦後の物資がない時代、家族で木材を運んで本堂を再建、のちに表門や鐘楼など、およそ現在の寺容を整備した、妙勝寺の大偉人です。



こちらはご一家の偉業を称える石碑です。



石碑裏面には
「敗戦後、敵国政策下ニ置カレ」「極度ニ悪化」してしまった「信仰」「道義」「思想」を「善導」するために、「大覚大僧正ノ遺徳ヲ慕ヒ」「旧本堂再建ヲ誓」った
と、刻まれていました。


もともとお寺は、祈りで心を清める場所であり、学びの場所であり、地域の人を結びつける場所でもありました。
信仰心の篤い備前の人々にとって、お寺はアイデンティティそのものだったかもしれません。


ふと、お祖師様のご遺文「崇峻天皇御書」の一節を連想しました。
(妙勝寺境内の日蓮聖人銅像)
「蔵の財(たから)より身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり」

戦後、多くの人が失いつつあった大切な「心」を取り戻すためには、まず本堂再建が必須と確信し、西村多吉さんご一家は力を尽くされたのでしょう。

一基の石碑から、大切なことを改めて教えられたような気がします。
備前法華衆の心意気を感じました。


ところで岡山出身の3代目犬、我が家に来てすでに8ヵ月が過ぎました。

当初なかなか人に慣れませんでしたが、食欲だけは旺盛、これを逆手に根気よく手なずけ、最近わずかずつ、心を開き始めました。

同時に体重も1割ほど、増えました。
妙勝寺の御利益もあったかな?