本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
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本能寺の変:足利将軍黒幕説を斬る!(続き)

2010年01月28日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 足利将軍黒幕説は光秀に動機がないという点で大きな疑問符が付きました。また、足利義昭の側近中の側近だった細川藤孝が謀反に加担しなかったことにも説明が付きません。
 ★ 足利将軍黒幕説を斬る!

 残りの4つの視点でも見ておきましょう。
 実行可能性ですが、残念ながら光秀と義昭が事前に謀反の企てを調整したという記録は一切ありません。そういう記録が残らないのは秘中の秘として当然といえば当然ですが。
 この説の提唱者は本能寺の変の前に光秀の密使が越後の上杉景勝の家臣へ足利将軍への協力を要請する伝言をもたらしたとしています。景勝の家臣が景勝に宛てた書状にそのように書いてあるというのです。昨年のNHK大河ドラマ「天地人」ではこの解釈が採用されていました。
 別の研究家は同じ書状の文面を解釈し、そのようには読めないと主張しています。日付も本能寺の変の前ではなく、後と主張しています。
 こうなると、私のような自力では古文解釈のできない素人には判断がつかなくなります。やはり専門知識を必要としますし、様々な裏付け情報と照らし合わせないと正しい解釈は難しいのです。
 ただ、状況証拠から見ると、上杉家が事前に光秀謀反の情報をつかんでいたとは考えられません。本能寺の変から何日もたっているのに上杉家内では何が起きたのか正確な情報をつかんでおらず、相当に混乱していたことが確認されています。
 同じことが毛利家でも起きています。足利義昭を庇護していた毛利家でもこのような状態だったということは、光秀は毛利家にも上杉家にも事前の謀反予告は行っていないということを示していますし、ましてや義昭が黒幕として光秀を動かしたはずがないことを示しています。もし、義昭が黒幕なら毛利家を謀反に加担させていないはずがないからです。

 関係者の証言としてはすっきりしたものがありません。肝心の毛利家が事前に義昭の企てを知っていたという記録がありません。両者の関係から考えれば、義昭が光秀を謀反へと唆していたのなら毛利家がそれに合わせた準備をしていて当然ですが、何も動きがありません。

 本人の自白としてこの説の提唱者は義昭が本能寺の変の勃発を知って毛利氏に行動を要請した書状に「信長を討ち果たした」という言葉があることを根拠にしています。一人称で書かれており、「義昭が信長を討ち果たした」と証言しているというのです。
 また、光秀が山崎の戦いの直前に紀州雑賀へ協力を要請した書状に「義昭の上洛に協力する」旨の記述があることも根拠としています。

 私はどちらもリップサービスのレベルに見えるのですが、いかがでしょうか。義昭としては宿願が果たせて「討ち果たした」と自分がやったかの如くに言いたかった。光秀としては紀州雑賀衆を味方につけるために義昭を担ぎ上げたかった。そういったことに思います。

 成功時報酬についてですが、これも動機の裏返しになりますが、義昭には大きな報酬が得られたでしょうが光秀には確かなものがありません。信長に従うのがよいか義昭に従うのかよいか天秤にかけたとき、義昭がよいといえるものが見つかりません。仮に光秀に足利幕府への忠誠心があったとして、それが一族郎党を滅亡させるに足るものだったとは思えません。当時の武将はそのようなロマンティストではなく、一族郎党の生存と繁栄に責任を負った存在だったはずです。

 こうしてみてくると、やはり足利将軍黒幕説には確たる裏付けがないという結論になりました。
 歴史捜査では当時の政治状況などを理解した上で、状況証拠だけでなく物的証拠(当時の信憑性ある史料の記述)を見出し、それらが矛盾なく筋道の通る答を見出す作業を行っていきます。その作業を通じて、蓋然性(がいぜんせい:確からしさ)を高めていくことが歴史の真実へ迫ることだと考えています。この視点で評価すると足利将軍黒幕説の蓋然性はあまり高くないという結果になります。
 ★ 真実解明の手法「歴史捜査」
 ★ 歴史捜査についての関連説明
 ★ 蓋然性についての関連説明

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