本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

信長最期の言葉の証人捜査(前編)

2010年05月29日 | 歴史捜査レポート
 本能寺での信長の最期の言葉として有名なのは『信長公記』(しんちょうこうき)に書かれた「是非に及ばず」です。
 この言葉の意味が通説となっている「仕方がない」というあきらめの言葉ではないこと、そしてこの言葉は『信長公記』の作者の太田牛一が本能寺から逃げ出した女性から取材して書いたことを牛一自身が書き残していることも本ブログにも書きました。つまり、証人が特定されているのです。
 ★ 「是非に及ばず」を斬る!

 一方、スペイン人の商人アビラ・ヒロンは在日中の見聞記『日本王国記』に「何でも噂によると、口に指をあてて、余は余自ら死を招いたなと言ったということである」と書いています。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』ではこの言葉が「信長による家康討ち」の企てがあったことの証拠のひとつとしました。
 ヒロンの記述を信用した理由は、「噂によると」とはっきりと自分が直接聞いたわけではないと書いていることです。これが軍記物であれば作者自身が現場にいて見聞きしたように書かれています。これに対して、ヒロンの記述は記述姿勢として極めて信頼できるものです。
 そして、肝心なことはこの言葉を聴いた証人として極めて蓋然性の高い人物を特定できたことです。ヒロンと交際のあった人々(イエズス会士やスペイン商人)にこの言葉を伝えることができた本能寺の変からの生還者がいたこと、そしてその人物が彌介という名前の信長の黒人小姓であったことは拙著に書いた通りです。
 ★ 信長の黒人小姓役はダンテ・カーヴァーさんに

 こうして「是非に及ばず」と「自ら死を招いたな」という二つの言葉は信長の最期の言葉として聴いた証人がいたことが裏付けられました。ところが、もうひとつの最期の言葉が記録に残っています。それは家康の家臣で大久保彦左衛門として有名な大久保忠教(ただたか)の書いた『三河物語』の中にあります。
 「城介が別心か」と言う言葉です。城介(じょうのすけ)とは信長の嫡男の信忠のことです。自分の嫡男の謀反(別心)を疑ったわけです。
 この言葉は本能寺の変研究界で信長の最期の言葉としては信憑性のあるものとは認知されていません。自分の息子の謀反を疑ったという内容が突飛であり、誰が聴いたか証人がわからないので当然といえば当然です。しかし、「自ら死を招いたな」も同様に認知されていませんでしたが、私の手によって初めて証人を特定することができました。「城介が別心か」も証人を特定できないものでしょうか?
 
 実は私は『本能寺の変 四二七年目の真実』を書いた時に一度この捜査を試みました。
 ところが、徳川家が果たして信長の側近くに息のかかった人物を置くことができたかと考えると可能性が低いと判断しました。「忍者を床下に」といったご都合主義の安易な答は出せません。そこで拙著の中では「城介が別心か」には全く触れませんでした。

 今回、もう一度、この最期の言葉の証人を探してみたいと思います。捜査結果は後編で。
>>>後編へ続く


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