
君も知っての通り、僕は今でこそ巷では品行方正で通ってるんだけどね、でもかつてたった一度だけだけど交番に泊まったことがある。
それも日本でじゃない。遠い南米のチリという国で。
泊まったといっても実際は大したことではないんだけど、今日はその話をしてみようか。
アルゼンティンの町メンドーサからアンデスを越えるのに、僕は乗り合いバスに乗った。
山の向こうは隣国チリだ。当然国境には検問所が設けられている。麓で訊いたら、それが結構厳しいのだそうだ。少しでも疑いをかけられると捕まってしまうらしい。ということは、ここでヒッチハイクをしても乗せてくれる車はあまりないだろうし、それどころか変な車に乗せられたらトラブルに巻き込まれる可能性もあるということだ。
外国で警察沙汰になることは、場合によっては大層危険なことでもある。
そういうわけで、僕は国境を越えるのにバスを選んだ。
アンデスは深く険しい。メンドーサからサンティアゴまで距離にすれば300kmもないと思うけれど、行く道は崖と急斜面に挟まれたぎりぎりの道だ。国境のあるウスパジャータ峠は標高3863m、富士山の頂上よりも上にある。そしてその隣りには世界でも有数の高峰アコンカグアが聳えている。
バスが進むほどに辺りは次第に寒くなり、やがて窓の外は雪に覆われた銀世界になった。空気も薄くなり、エンジンの音も重く苦しげだ。僕自身もなんだか頭が痛くなって来た。
僕がアンデスを越えたのはクリスマスを控えた真夏の盛り、12月のことだった。
1973年9月に起こった軍事クーデターにより、世界初の選挙によって選ばれた左翼政権は一夜にして壊滅する。騒乱の最中アジェンデ大統領はクーデターには屈しないという感動的なラジオ演説の直後、自殺とも暗殺ともつかない劇的な死を遂げた。そしてそれに替わって新しく国家主席の座に着いたのが、チリの第34代大統領アウグスト・ピノチェだった。彼は以後1989年までの16年間に亙り、徹底的に左翼、人民を弾圧した強権政治を行う。とりあえず政権を握った最初の1年間には、彼の手によって2万人が殺害されたとも言われている。
以来チリでは断続的に戒厳令が布かれていた。
マヌエル・ロドリゲス愛国戦線(FPMR)は爆弾テロ路線を突っ走っていたし、民主化を要求して学生たちは勉強そっちのけで抗議集会を開いていた。2度目の戒厳令は1985年に一度解除されるが、その翌年には治安の悪化によってまた戒厳令が布告される。
僕がチリに渡ったのは、偶然その戒厳令と戒厳令の間のほんの僅かな小康状態の期間だった。比較的平穏といっても、相変わらず夜間外出禁止令は継続されていたし「だから安全」ということはまったくないのだけれど。
でもそのつかの間の平穏に僕が便乗したのは、本当に偶然といえば偶然で決して自分で意識的に選んだものではない。
なぜならチリに入国するまで、いや正確には南米にいる間もずっと、僕はその時チリに戒厳令が布かれていることなんてまったく知らなかったのだから。日頃の社会情勢に対する不勉強が今回ももろに祟ってしまっている。
つまり僕がチリに入国したのは、ちょうどそんな時だった。
国境では武装したたくさんの兵士たちが一台一台入念に通過する車を検門していた。
入国してからもちろん不穏な噂を何度も聞いたよ。憲兵が女子大生の顔をアイロンで焼いたとか・・・、厳しい情報統制下にあっても人々の口に蓋をすることはできない。事実は噂となって人民の間に生々しく、さも普通のことのように広まっていた。確かにその頃の南米では、そんなことは別段珍しいことでもなかったかもしれない。アルゼンティンだって、つい2年前には似たような状態だったんだ。
だけど幾つもそんな噂に触れるにつれ、僕はなんとなく、この国を旅行するには少しばかり気をつけなくちゃならないということに気づいていた。
しかしそれでもヒッチハイクと野宿を基本にして旅行するという、当初の方針を変更するには至らなかった。何故かって? その理由は単純明快だ。実はあまりお金を持ってなかったのさ。バスに乗ったり宿に泊まったりしていたら、それこそコルドバにさえ帰れなくなってしまう。あの頃の僕は、多分その頃の一般的な日本人の範疇を逸脱して貧乏だったんだ。他の留学生たちが授業を休んでまで各地を旅行して歩いているのを、遠くから指を咥えて羨望の眼差しで眺めているしかなかった。そんな僕がアルゼンティンに滞在中唯一の旅と言える旅をしたのが、このチリ旅行だった。だから治安が多少悪かろうと危険だろうと、僕にはこのままトンボ帰りにコルドバに戻るなんて、とても考えられなかった。
そして旅を続けるある夕方、僕はその日のねぐらを探してとある田舎町の外れをうろうろしていた。
どこか野宿に適したところはないだろうか。雨風を防ぐのには大した建物の造りは要らない。ほんのちょっとした屋根があればいいんだ。
そんなことを思いながら歩いているその時、通りの向こうに警官が何人か立っているのが見えた。
そんな時に明らかな様子で踵を返したりしてはいけない。特に治安情勢が緊迫している国においては尚更だ。そんなことをすれば、たちまちにしょっ引かれて大した尋問も受けずに拘束されてしまう。確かに僕が気づいた時には既に、相手は明らかに身なり挙動の不審な東洋人に気づいて全員首を回してこちらを注視していた。
もう逃げれるような状況ではない。彼らは左右に扇形に分かれるようにこちらに向けて歩を進めた。
「パレ!」(止まれ。)
鋭く響くような声だ。僕は立ち止まって、まるで今気づいたかのように彼らを見た。
「パサポルテ!」(パスポートを出せ。)
塵ほども有無を言わせぬ簡潔かつ抑圧的な言動。命を張って生きている南米諸国の警官によくある態度でもある。いや、彼らのうちのひとりは肩から自動小銃を提げていた。もしかしたら警官ではないのかもしれない。
「ブエノ」(はい)と言って僕は鞄のポケットからパスポートを出して渡した。どこに行ってもどんな状況にあっても、警察や治安当局に対しては常に正々堂々としていなければならない。そうでなければ不要な疑いをかけられてややこしいことになってしまう。そしてそのためには、例えどんなに貧乏でも、後ろめたい心の状況に自分を置いてはならない。
それから問われるままに、自分の身元と現在の状況、どこから来てどこに行こうとしているのかを説明させられた。僕は正直に、ヒッチハイクと野宿で旅をしていること、今は今夜の寝る場所を探しながら歩いているところだと答えた。
ひとりの男がパスポートをめくりながらちらちらと鋭い目つきで僕を見る。そう、頭の先から爪先までと言う形容は多分こんな時に使う表現なんだろう。僕の服装は穴の開いたジーパンに薄汚れたTシャツ、洗濯の形跡のない運動靴。そして大きなバッグと寝袋を持っていた。彼の視線は、僕の爪先から引き返して再び肩から提げた大きなバッグに止まった。その中には、万一の護身用にと持ち歩いている大型のアサードナイフがあった。僕の背に冷や汗が走った。
男はふた呼吸ほど置いて、無言で僕にパスポートを返した。
そして僕から視線を逸らさないまま斜め後方を指差し、早口で何か言った。
僕は聞き取れなかったので訊き返した。
「今晩はあそこに泊まってよろしい!」
男は今度ははっきりとした声で言った。彼の指差す方向を見ると、扉の上に「交番」と書いた小さな箱のような建物があった。
つまりあの交番は夜は使わないので、特別に今夜だけあそこを使わせてやる、とのことだった。
お礼を言って僕はそこに向かった。中に入ってみると土埃がうず高く床に積もっていた。夜だけじゃなくて、この建物は何かの事情で普段もあまり使われていないみたいだった。
僕は床の一角に寝袋を敷いて眠りについた。なにはともあれ、今夜も寝る場所を確保できた喜びの方が大きかった。こうして屋根も壁もある場所に体を横たえれるのはとても嬉しい。異国で貧乏旅行するのは、とても神経を使うものなのである。それにしても外見とは裏腹に親切な警官だったなと思いながらも、僕はいつの間にか眠りについていた。
翌朝目覚めると、外は既に明るくなりかけていた。
固くなった筋肉を伸ばし肩の関節をほぐし、僕は土埃のついた寝袋を丸める。
外に出ると通りは朝露に濡れて清々しかった。ひと晩の眠りを与えてくれた建物にありがとうと小声で呟きながら、僕は出入り口の扉を閉める。
鞄と寝袋を肩に提げて、僕はその日もまた旅に出た。
それも日本でじゃない。遠い南米のチリという国で。
泊まったといっても実際は大したことではないんだけど、今日はその話をしてみようか。
アルゼンティンの町メンドーサからアンデスを越えるのに、僕は乗り合いバスに乗った。
山の向こうは隣国チリだ。当然国境には検問所が設けられている。麓で訊いたら、それが結構厳しいのだそうだ。少しでも疑いをかけられると捕まってしまうらしい。ということは、ここでヒッチハイクをしても乗せてくれる車はあまりないだろうし、それどころか変な車に乗せられたらトラブルに巻き込まれる可能性もあるということだ。
外国で警察沙汰になることは、場合によっては大層危険なことでもある。
そういうわけで、僕は国境を越えるのにバスを選んだ。
アンデスは深く険しい。メンドーサからサンティアゴまで距離にすれば300kmもないと思うけれど、行く道は崖と急斜面に挟まれたぎりぎりの道だ。国境のあるウスパジャータ峠は標高3863m、富士山の頂上よりも上にある。そしてその隣りには世界でも有数の高峰アコンカグアが聳えている。
バスが進むほどに辺りは次第に寒くなり、やがて窓の外は雪に覆われた銀世界になった。空気も薄くなり、エンジンの音も重く苦しげだ。僕自身もなんだか頭が痛くなって来た。
僕がアンデスを越えたのはクリスマスを控えた真夏の盛り、12月のことだった。
1973年9月に起こった軍事クーデターにより、世界初の選挙によって選ばれた左翼政権は一夜にして壊滅する。騒乱の最中アジェンデ大統領はクーデターには屈しないという感動的なラジオ演説の直後、自殺とも暗殺ともつかない劇的な死を遂げた。そしてそれに替わって新しく国家主席の座に着いたのが、チリの第34代大統領アウグスト・ピノチェだった。彼は以後1989年までの16年間に亙り、徹底的に左翼、人民を弾圧した強権政治を行う。とりあえず政権を握った最初の1年間には、彼の手によって2万人が殺害されたとも言われている。
以来チリでは断続的に戒厳令が布かれていた。
マヌエル・ロドリゲス愛国戦線(FPMR)は爆弾テロ路線を突っ走っていたし、民主化を要求して学生たちは勉強そっちのけで抗議集会を開いていた。2度目の戒厳令は1985年に一度解除されるが、その翌年には治安の悪化によってまた戒厳令が布告される。
僕がチリに渡ったのは、偶然その戒厳令と戒厳令の間のほんの僅かな小康状態の期間だった。比較的平穏といっても、相変わらず夜間外出禁止令は継続されていたし「だから安全」ということはまったくないのだけれど。
でもそのつかの間の平穏に僕が便乗したのは、本当に偶然といえば偶然で決して自分で意識的に選んだものではない。
なぜならチリに入国するまで、いや正確には南米にいる間もずっと、僕はその時チリに戒厳令が布かれていることなんてまったく知らなかったのだから。日頃の社会情勢に対する不勉強が今回ももろに祟ってしまっている。
つまり僕がチリに入国したのは、ちょうどそんな時だった。
国境では武装したたくさんの兵士たちが一台一台入念に通過する車を検門していた。
入国してからもちろん不穏な噂を何度も聞いたよ。憲兵が女子大生の顔をアイロンで焼いたとか・・・、厳しい情報統制下にあっても人々の口に蓋をすることはできない。事実は噂となって人民の間に生々しく、さも普通のことのように広まっていた。確かにその頃の南米では、そんなことは別段珍しいことでもなかったかもしれない。アルゼンティンだって、つい2年前には似たような状態だったんだ。
だけど幾つもそんな噂に触れるにつれ、僕はなんとなく、この国を旅行するには少しばかり気をつけなくちゃならないということに気づいていた。
しかしそれでもヒッチハイクと野宿を基本にして旅行するという、当初の方針を変更するには至らなかった。何故かって? その理由は単純明快だ。実はあまりお金を持ってなかったのさ。バスに乗ったり宿に泊まったりしていたら、それこそコルドバにさえ帰れなくなってしまう。あの頃の僕は、多分その頃の一般的な日本人の範疇を逸脱して貧乏だったんだ。他の留学生たちが授業を休んでまで各地を旅行して歩いているのを、遠くから指を咥えて羨望の眼差しで眺めているしかなかった。そんな僕がアルゼンティンに滞在中唯一の旅と言える旅をしたのが、このチリ旅行だった。だから治安が多少悪かろうと危険だろうと、僕にはこのままトンボ帰りにコルドバに戻るなんて、とても考えられなかった。
そして旅を続けるある夕方、僕はその日のねぐらを探してとある田舎町の外れをうろうろしていた。
どこか野宿に適したところはないだろうか。雨風を防ぐのには大した建物の造りは要らない。ほんのちょっとした屋根があればいいんだ。
そんなことを思いながら歩いているその時、通りの向こうに警官が何人か立っているのが見えた。
そんな時に明らかな様子で踵を返したりしてはいけない。特に治安情勢が緊迫している国においては尚更だ。そんなことをすれば、たちまちにしょっ引かれて大した尋問も受けずに拘束されてしまう。確かに僕が気づいた時には既に、相手は明らかに身なり挙動の不審な東洋人に気づいて全員首を回してこちらを注視していた。
もう逃げれるような状況ではない。彼らは左右に扇形に分かれるようにこちらに向けて歩を進めた。
「パレ!」(止まれ。)
鋭く響くような声だ。僕は立ち止まって、まるで今気づいたかのように彼らを見た。
「パサポルテ!」(パスポートを出せ。)
塵ほども有無を言わせぬ簡潔かつ抑圧的な言動。命を張って生きている南米諸国の警官によくある態度でもある。いや、彼らのうちのひとりは肩から自動小銃を提げていた。もしかしたら警官ではないのかもしれない。
「ブエノ」(はい)と言って僕は鞄のポケットからパスポートを出して渡した。どこに行ってもどんな状況にあっても、警察や治安当局に対しては常に正々堂々としていなければならない。そうでなければ不要な疑いをかけられてややこしいことになってしまう。そしてそのためには、例えどんなに貧乏でも、後ろめたい心の状況に自分を置いてはならない。
それから問われるままに、自分の身元と現在の状況、どこから来てどこに行こうとしているのかを説明させられた。僕は正直に、ヒッチハイクと野宿で旅をしていること、今は今夜の寝る場所を探しながら歩いているところだと答えた。
ひとりの男がパスポートをめくりながらちらちらと鋭い目つきで僕を見る。そう、頭の先から爪先までと言う形容は多分こんな時に使う表現なんだろう。僕の服装は穴の開いたジーパンに薄汚れたTシャツ、洗濯の形跡のない運動靴。そして大きなバッグと寝袋を持っていた。彼の視線は、僕の爪先から引き返して再び肩から提げた大きなバッグに止まった。その中には、万一の護身用にと持ち歩いている大型のアサードナイフがあった。僕の背に冷や汗が走った。
男はふた呼吸ほど置いて、無言で僕にパスポートを返した。
そして僕から視線を逸らさないまま斜め後方を指差し、早口で何か言った。
僕は聞き取れなかったので訊き返した。
「今晩はあそこに泊まってよろしい!」
男は今度ははっきりとした声で言った。彼の指差す方向を見ると、扉の上に「交番」と書いた小さな箱のような建物があった。
つまりあの交番は夜は使わないので、特別に今夜だけあそこを使わせてやる、とのことだった。
お礼を言って僕はそこに向かった。中に入ってみると土埃がうず高く床に積もっていた。夜だけじゃなくて、この建物は何かの事情で普段もあまり使われていないみたいだった。
僕は床の一角に寝袋を敷いて眠りについた。なにはともあれ、今夜も寝る場所を確保できた喜びの方が大きかった。こうして屋根も壁もある場所に体を横たえれるのはとても嬉しい。異国で貧乏旅行するのは、とても神経を使うものなのである。それにしても外見とは裏腹に親切な警官だったなと思いながらも、僕はいつの間にか眠りについていた。
翌朝目覚めると、外は既に明るくなりかけていた。
固くなった筋肉を伸ばし肩の関節をほぐし、僕は土埃のついた寝袋を丸める。
外に出ると通りは朝露に濡れて清々しかった。ひと晩の眠りを与えてくれた建物にありがとうと小声で呟きながら、僕は出入り口の扉を閉める。
鞄と寝袋を肩に提げて、僕はその日もまた旅に出た。
緊迫感がビシビシ伝わってくるよ。
お金はどこに隠してたの?
俺は危険と言われるところをうろつく時は、合皮のベルトの裏に切り込みを入れて隠すことが多かったなあ。
靴下の中は、すぐ見つかった。
立ち飲みのバルなんか入った時は、ゴルゴ13並に背後に気をつけたもんです。(爆
ジッパーがあって中に紙幣を入れれるようになっていたやつ。
それと、靴の底にも隠してましたよ。靴下と靴底の間に何かでくるんで持ってたように憶えてます。
私は旅行中に盗まれることはなかったんですが、居候してたり長屋暮らしをしていたその住まいで何度か盗られましたね。
それとこれから書くつもりなんですが、騙されて旅行中なけなしのお金を盗られた時があります。
本当、あの頃のことを考えると、今無造作にお金をそこここに置いているのが可笑しくなりますね。
旅先では飲み屋には入らなかったですねぇ、お金もなかったし。いつも大衆食堂で食べた後は酒屋で買って寝床で飲んでましたよ。
殺されない国は絶対大丈夫!
でしょうっ?
先頃イラクで殺された日本の若者がいましたが(こうだしょうせいさん、だったか?)、彼の無謀さと世界についての無知さが人ごとでなくわかるような気もします。私もこの頃は、同じように無知で無謀でしたから。
たまたま彼は殺されて、私は死ななかったと言うだけの違いかもしれません。
でも面白いものですね。どんなに死にたくないと思いながらも死ぬ人もいれば、
かたやどんなに危険な場所を渡り歩いても、生きて帰る人もいる。
所詮死ぬべき人は、この日本にいても自分の家に閉じこもっていても、死ぬんですよね。
人は誰でも死ぬのではなくて、その人なりにある「生」を全うした時に死ぬのかもしれない。
その後も危険な国を歩いているうちに、そんなことを思うようになりました。
(笑)
いつも読んでくれてありがとう。
BLOGがマイペースでできるようになった反面、更に付き合いが悪くなってしまったあぐりこですが、それでもみんなのお陰でなんとかやっていけてます。
楽しんできてくださいね。