
炭を焼いていて考えた。
雑木山から木を伐り出して炭を焼くけれど、
そもそも「雑木」とは、山仕事をする人から見て杉、松などの有用樹以外のものを指して言う。
つまり人の経済観念から見て「主」にはならない、一般的「その他」の木のことを差す。
同じような見方によるものに
雑用、雑務、雑役、などがあって、
どれも不思議と「雑」が付く。
その分野の中で、主流から外れたその他雑多なものを差しているのだろう。
「その他さまざま」的な観点からならばまだいいけれど、
時には「役に立たない」または「邪魔な」というニュアンスを持って
「雑」という字が使われる場合もある。
「雑草」なんかがそうだ。
何かの役に立つ草以外を雑草と括る場合が多い。
しかし、私は特にこの呼び方が嫌いだ。
本当は世に雑草なんてない。
すべての草は他の生きものと関わり合って、現在の生態系を作っているのだ。
それを近視眼的な人間の視野で捉えて、
これは有用、これは不用と分別すること自体が浅薄だと思う。しかしこれは現代農業の基本的な立脚点になっている。
その結果ミミズも微生物も住めない土壌で化学物質漬けの作物を作り、
それを食べる人間自体をも結果的に弱くしてしまっているような気がする。
また、「雑種」と言えば純血種と対比して、
やはりどちらかというと価値が薄い、その他的血が入り混じったものを差しているのではなかろうか。
ちなみに我が家の犬・猫・鶏はすべて雑種だ。
うち3匹は、山に捨てられたり保健所に預けられていたものを貰い受けたのである。
しかしそのような「捨てられた」犬猫には、昨今見て明らかに血統が交ざっているものが多い。
恐らくは流行の血統種を持っている家から捨てられたのかもしれない。
しかし、どうしてそんなに有用性や経済価値で生きものまでをも区分するのだろう。
まあ、その気持ちもわからなくはない。
私だって、毛並みのいい猫とよくない猫どちらかを選べと言われたら、
それだけで見る限り毛並みのいい方を選ぶだろう。
でももし、選ばなかったもう一方が悲惨な運命を辿るとしたら・・・
我が家に現れた捨て猫たちは、どれも骨と皮ばかりになって行き倒れ寸前の状態だった。
空腹に耐えかねてあちこちの家の台所を荒らし、人から棒切れで追われ追われてここに行き着いたものもいる。
我が家とて既にたくさんの猫を抱えていたから、
決してもうこれ以上増やしたくはなかった。
動物を飼うのにも、お金と手間がかかる。
でも悲惨な状態の彼らを見て、餌をやらずにはいられなかったのは事実。
かつては飼い主に可愛がられた経験を持つ犬や猫たち。
その証拠に首輪をはめていたり、慣れるととても甘えん坊だったりする。
そんな彼らを見ると、どこかしら我がことのように思えて忍びなかった。
そしてとうとう、我が家は近所から「猫家」と呼ばれるようになるのだが・・・
生きものを「主」と「雑」に見るその同じ見方は、
無意識に自分たち人間にも当てはめられている。
経済効果を産む人間、社会に有用な人間は「主」。
だから多くの親や教師たちは、
「社会に役立つ人間になれ」「人の役に立つ人間になれ」と言って
子どもを教え諭す。
それはつまり、暗に役に立たない人間の存在価値を低く見ることに繋がっているのではないだろうか。
「有用人」に対しての「雑人」
そんな文字にない観念を、私を含めて多くの人が、無意識のうちに持っているのかもしれない。
でも、山のほとんどは雑木山で、
それが保水力や表土の保持、更に生きものすべての生態系の構築に大きな影響を及ぼしていること、
雑草と呼ばれる草々があるから、我が家の畑では農薬を撒かなくても野菜が育つということを
決して忘れたくはないと思う。
【写真は猫家に来てまもなくのクマ。今でこそ集落のボスだけど、
現れた時は本当に骨と皮だけだった。】
雑木山から木を伐り出して炭を焼くけれど、
そもそも「雑木」とは、山仕事をする人から見て杉、松などの有用樹以外のものを指して言う。
つまり人の経済観念から見て「主」にはならない、一般的「その他」の木のことを差す。
同じような見方によるものに
雑用、雑務、雑役、などがあって、
どれも不思議と「雑」が付く。
その分野の中で、主流から外れたその他雑多なものを差しているのだろう。
「その他さまざま」的な観点からならばまだいいけれど、
時には「役に立たない」または「邪魔な」というニュアンスを持って
「雑」という字が使われる場合もある。
「雑草」なんかがそうだ。
何かの役に立つ草以外を雑草と括る場合が多い。
しかし、私は特にこの呼び方が嫌いだ。
本当は世に雑草なんてない。
すべての草は他の生きものと関わり合って、現在の生態系を作っているのだ。
それを近視眼的な人間の視野で捉えて、
これは有用、これは不用と分別すること自体が浅薄だと思う。しかしこれは現代農業の基本的な立脚点になっている。
その結果ミミズも微生物も住めない土壌で化学物質漬けの作物を作り、
それを食べる人間自体をも結果的に弱くしてしまっているような気がする。
また、「雑種」と言えば純血種と対比して、
やはりどちらかというと価値が薄い、その他的血が入り混じったものを差しているのではなかろうか。
ちなみに我が家の犬・猫・鶏はすべて雑種だ。
うち3匹は、山に捨てられたり保健所に預けられていたものを貰い受けたのである。
しかしそのような「捨てられた」犬猫には、昨今見て明らかに血統が交ざっているものが多い。
恐らくは流行の血統種を持っている家から捨てられたのかもしれない。
しかし、どうしてそんなに有用性や経済価値で生きものまでをも区分するのだろう。
まあ、その気持ちもわからなくはない。
私だって、毛並みのいい猫とよくない猫どちらかを選べと言われたら、
それだけで見る限り毛並みのいい方を選ぶだろう。
でももし、選ばなかったもう一方が悲惨な運命を辿るとしたら・・・
我が家に現れた捨て猫たちは、どれも骨と皮ばかりになって行き倒れ寸前の状態だった。
空腹に耐えかねてあちこちの家の台所を荒らし、人から棒切れで追われ追われてここに行き着いたものもいる。
我が家とて既にたくさんの猫を抱えていたから、
決してもうこれ以上増やしたくはなかった。
動物を飼うのにも、お金と手間がかかる。
でも悲惨な状態の彼らを見て、餌をやらずにはいられなかったのは事実。
かつては飼い主に可愛がられた経験を持つ犬や猫たち。
その証拠に首輪をはめていたり、慣れるととても甘えん坊だったりする。
そんな彼らを見ると、どこかしら我がことのように思えて忍びなかった。
そしてとうとう、我が家は近所から「猫家」と呼ばれるようになるのだが・・・
生きものを「主」と「雑」に見るその同じ見方は、
無意識に自分たち人間にも当てはめられている。
経済効果を産む人間、社会に有用な人間は「主」。
だから多くの親や教師たちは、
「社会に役立つ人間になれ」「人の役に立つ人間になれ」と言って
子どもを教え諭す。
それはつまり、暗に役に立たない人間の存在価値を低く見ることに繋がっているのではないだろうか。
「有用人」に対しての「雑人」
そんな文字にない観念を、私を含めて多くの人が、無意識のうちに持っているのかもしれない。
でも、山のほとんどは雑木山で、
それが保水力や表土の保持、更に生きものすべての生態系の構築に大きな影響を及ぼしていること、
雑草と呼ばれる草々があるから、我が家の畑では農薬を撒かなくても野菜が育つということを
決して忘れたくはないと思う。
【写真は猫家に来てまもなくのクマ。今でこそ集落のボスだけど、
現れた時は本当に骨と皮だけだった。】
とはいっても、ちゃんといつも読んでますよ♪
goo blogも道端の花を題材にしていますが、よく見ると息を飲むほどに美しい花々も、せわしなく生活している時期には目に入らないのです。
13年前、娘が幼かった頃に親しみ、そして娘を手放したとたん見えなくなりました。
そして今、息子を授かってから再び、見えるようにななったのです。
見る目・気づく心が育って根付いていない者には、この世の全ての【雑】の意味合いなどわからぬように出来ているのでしょう。
教育とは、未熟な存在が、しっかりとした目・感覚・心を養ってゆく手助けをすることだと思っております。教えられても与えられても目の前にあっても、わからない者はわからない。わかっていても心に意識として留めておけない者もいる。
人を育てるということは、その責任を背負って指図することではなく、育てる側が心の中に“その意識”を持っているかどうかに係っているものだと、つくづく思うのです。
こんにちは。
サイトをあちこち流浪してたら(そんなに数は多くない)いろんなとこで「気付き」に関してシンクロすることばかり。
さて話はまったく替わって。
かつてNewest Modelというマニアックでパンクな楽隊がおりまして。『雑種天国』といううたがありまして。大好きなんです。あまりにも好きなんで自分のテーマソングになってます。(笑)
♪巻き返しを計るからよく見とけって気分さ
とシャウトするのです。
雑種であることを卑下したり。雑種であることをことさら持ち上げたりしなくても。
あらゆるものは雑種。みんな混ざり物。だから繋がってる。個として立っていても。種として連綿と繋がり拡がる。
「雑」「混」「交」「連」
・・・そんなことを連想。
♪ここは雑種天国 覚えといてねーえー
「教師」や「先生」と呼ばれる人たちに仕事上、または個人的に関わったことが幾たびもありますが、
誤解を恐れず思い切って言いますが、人を先導するには「特に」相応しくない人が多かったです。
それは「先生」という者に対する潜在的な理想像が、客観的に観る姿勢を歪めた結果なのかもしれません。
もしかしたらそれが単に世間一般並みの人間構成に過ぎないのかもしれません。
でも、学校の先生、医者、弁護士、代議士、
今まで出会った「先生」は、つき合ってみて殊更いい人物が少なかったように思えます。
稀にずば抜けて素晴らしい人に出会えるのも確かに事実ではあります。
以前、どうしてこうなのか真剣に考えたことがあって、
もしかしたら「先生」と呼ばれることが原因となり、
無意識のうちに自分が先生だとの自覚を進めるうちに、
あたかも自分は充分に成長してしまっているのだとの幻覚を抱いてしまうからなのだろうか・・・
つまり、いつの時点からか向上しない人間になってしまう。
なんてことを考えたりもしました。
もしそうならば、人は安易に先生と呼ばれない方がいいのでしょう。
それは自らの成長の上で大きな落とし穴になる可能性がありますね。
もちろんこれは、私の極めてひとりよがりの思いに過ぎないのですが。
人は常に自己表現をしている、いや
自己表現を超えたものをすることはできないから、
例え相手が子どもであろうと猫であろうと、
等身大の「自分」でしか深く関わることはできません。
発する言葉や強制する動作ではなくて、
その存在によって相互に影響を及ぼし合う。
これは、動物の世界を見ていると自ずと気づくことです。
じぞう君は、素晴らしい母を持っていると思いますよ。
「つづらの中から」も、今日に至るまで何度も読み返したのですが、
やはり私の理解を超えています。(もちろん、いい意味です)
毎回ひろ(っ)ぽんさんの記事を楽しみにしてますよ。
雑種の継続の中で繋がって来ているのでしょうね。
雑種だからこそ、自然界の変化に対応して残ることができる。
まさしく雑種の存在意義がそこにあります。
その意味で純血種は、滅びる一歩手前にある姿とも言えるかもしれない。
そして地球時間の中で観れば、
現存するすべての生きものは雑種の域を出ないのでしょう。
世に純潔の中から素晴らしいものが出ただろうか、
と思います。
始めは素晴らしい能力や素質を持っていたからこそ、
それを末永く伝えようとして、
王家や民族内での婚姻を重ねたのでしょうが、
結果的に、かえって弱くなってしまっている。
それは自然に反することだったのでしょうかね。
その一方、歴史上の傑物は、
名もない出自だったり貧民の出だったり、
掃き溜めから出て来たような人がとても多い。
これは、偶然ではないかもしれません。
純潔を保とうとするのは、浅はかな人の作為による
その種の絶滅を早めるだけの行為なのかもしれませんね。
私も雑種、あなたも雑種、
世界中みんな等しく雑種、の精神で行きましょうか。
この世には存在してないですよね。
コメント書き込みはお久しぶりのあん♪でした。
そもそも「純血種」という定義そのものが、
単に同種の目立つ形態を引継ぎやすい遺伝子構造を持っていることに過ぎないんじゃないかと思います。
現実として、種は常に変化してるのです。
私たち個体も、この短い生の間にも変異してると思います。
それを、さも純血が特別と思う観念こそが異常なことなのかもしれませんね。
「純血」とは、厳密には机上の観念なんでしょうよ。
ユダヤ人は今でも民族的な純血を保とうと努力してるのかもしれませんが、
彼らの神は、それが価値あると言ったのでしょうか。
また、イエスは民族や血についてどう言ったのでしょうか。
なんだか、答えを聞くまでもないような気もします。
優性遺伝の病もありますが
白人などが皮膚癌になりやすいのも遺伝でメラニンが少ないからですし
自分はブログのネタ探しで草木の名前を覚え始めたようなレベルの者ですけれど(笑)、これからは先達が付けてくれた名前の先に広がる豊かな世界を楽しみたいと思っています。どんな木がどんな炭になるのかも、いつか挑戦して学んでみたいです。
白人は、白子が日差しの弱い地域に移動して行って
そこに定住するうちにあのような形質に固まった。
という説を聞いたことがあります。
ことの真偽はともかくとして、あり得る話だと思いました。
弱い体質を持ったものが肥沃な土地を追いやられて
劣悪な環境の中で鍛えられ、技術や知恵を磨き、
やがては逆に温暖な地方を征圧してくる。
生きものの歴史は、そのようなパターンの繰り返しだったかもしれませんね。
また白人特有のものの見方、捉え方も、
ある特定の状況に特化した、限定的・部分的なものの見方を伸長させたようなところがあります。
だからそこから生まれる自然観も精神文明も、
とても偏っているように、私には思えるのですよ。
そしてそれが、現代の日本を、世界を偏らせている。
けれどこれもまたいずれは、
地球の時間の中で修正されていくのでしょう。
かつて弱かったものが強くなり、
前を進んでいたものがやがては遅れをとるように、
振れながらバランスを模索する波が留めようもなく
起きてくるのでしょうね。
混血は優勢種を発現させるためにあり、
特定状況下での種の純血化は
未来へ向けての多様な可能性を創り出すためにあるのかもしれませんね。
ますます世界が広がって来ますね。
思い立ったらすぐ実行に移した方がいいですよ。
炭焼きはドラム缶を使えばとても簡単です。
ただ煙が長い時間出るので、その方向に人家があれば苦情が来るかもしれないので注意です。
木は、どこに住んでても手に入れることはできるでしょうよ。
行くところに行けば、処分に困ってたりします。
例えばりんご園とか桑園とか、
切り倒した後の木は、農業の世界では廃棄物扱いですからね。
同じように山の木や草も、ほとんど邪魔者か無価値なものにばかりなってしまいました。
かつては暮らしに必要なものとして互いに分け合ったり奪い合ったりしていたものもあるのですが、
今では、放置されてどうにもならなくなってしまってるか、
欲に長けた人たちが来て、乱獲・乱採集したりするだけです。
「昔はこうだった」という年寄りの話は、
身近にあるものの価値を見直させてくれるのに役立ちます。
古きを訪ねて新しい発見がありますね。