
先ほど僕は、本来の「愛」を「そのものの本質の価値を認識した上で大事にすること。いのちの価値、存在の価値、この世や私たちを活かしている理の価値などに基づいた行為」と言った。しかしこれは、我ながらなかなかに難解な言葉だ。ちょっと親切じゃないな。こんなことを言われたんでは、誰しも「愛」に辿り着く前に頭が痛くなって寝てしまうに違いない。
そこで今回もできるだけ簡略化して考えることにしよう。よっていきなり結論を出してみる。ずばり、「愛」は「受け容れる」という精神の行為なんだ。
愛は日常さまざまな意味で使われているので観念として纏めようとすると取り止めが無い。また目に見えるものが無いので実体としても掴みどころが無い。じゃあ、愛って単なる抽象的な概念なんだろうか。それとも何かの象徴か、またはある「感情」を言い表した言葉なのか・・・と僕も随分考えてきた。そのちっぽけだけど地道な努力が前に述べた愛の分類に繋がったし、本物の「愛」を自分の中で突き詰めようとする原動力にもなった。そう、往々にして僕たちは本当の「愛」というものをしかとは認識していない。日常「愛」でないものを愛と誤解し、あらぬものに過剰な意義を与えてしまったりしている。
しかしそうして煎じ詰めていったら、「愛」には実体があった。目に見えないことには変わりないけれど明らかに世の諸々の「愛の行為」の源となるひとつの明確かつ能動的な行為があった。それが「受け容れること」である。そのもののありのままの姿を受け容れる。しかも肉体でも心でもなく、それより一段と高い精神のレベルで。
なぜかと言うとこの「受け容れる」という行為は、「相手の言うことを鵜呑みにする」ことや「言われるがままに行動する」ことでは決して無い。そんな心や肉体の次元のものではなくて、「目の前の現実を正直に受け止める」ことを指す。その上で相手を叱るか慰めるか、何を考え何を思うか、自分の次なる行動をどのように決断するかそれとも何もしない道を選ぶかは僕たちひとりひとりの知恵の使いどころだ。
思えば世界に満ちている戦争、虐殺、弾圧、喧嘩、論争の類はすべて「受け容れない」行為から端を発しているんじゃなかろうか。それに比して古今東西世に感銘を与える「愛」に根ざした行動は、人が通常受け容れがたいことを「受け容れる」行為に帰する。マザー・テレサが恵まれた校長の職を退いて単身スラムに入ったのも、イエスが自らの身の危険を顧みず衆を救おうとしてエルサレムに踏みとどまったのも、皆誰もがおいそれと成すことのできない事象の受け容れに基づいている。またそんな聖人レベルのことじゃなくても、傷ついた鳩を優しく抱き上げて介抱することや、子が危篤状態の親のために職を投げ打って介護に当たることなんかも、突き詰めればみんな眼前の状況をそのままに受け容れることに集約することができる。なぜって、人は面倒くさいこと、煩わしそうなことから目を逸らして知らん振りをして生きることだって実際にできるのだから。
さて、自分自身を始めとした眼前の現実を正直に受け止め続けた時に、僕たちはみんな避け得ずしてあることに気づくことになる。
「自分の存在が周囲のさまざまな事象と密接に関係している」こと。
我が子が喘息になったのは故無いことではなかった。ペットが言うことを聞かないのにも明らかな理由がある。この頃よく皿が割れるのにも、旦那さんと何故かしっくりといかないのにも、ちゃんと理由があったんだ。そしてそれはみんな、自分世界の核にある自己という存在に端を発していた。
そんなことひとつひとつに気づくにつれて、やがてはもっと大きな世界や遥か遠い場所での出来事にも、実は自分が関わっていたことに気づくかもしれない。コオロギやスズムシはいないのに町にゴキブリだけは増えること、山の動物が明らかに減っているのにキツネやタヌキが増えて、農作物や家畜に被害をもたらして困っていること。そしてそのキツネたちもなぜか近年原因不明の皮膚病にかかって次々と死んでいってる。日本の政治が悪くて外交努力が実を結ばないのは何も政治家ばかりの責任じゃない。酸性雨や近年の過激な風水害はもしかしたら自分たちの日常生活に原因があるのかもしれない。・・・
それら一見して関連性が乏しく今まで安易に見過ごしてきた事象に本当の意味で気づくのは、みんな「自分を含めた身の周りすべてのものごとを素直に受け容れる」ことがベースとなるんだ。その上で初めて人は「自分と周囲との関わりの糸」に気づく。本やニュースで得た知識はそれらしいことを幾ら詰め込んだって、直接には気づきに結び付かない。単に頭でっかちのアンバランスな人格を育てるだけだ。「愛」は身を投げ出すことによって掴むことができる。「愛」は唯一実践を通し、歩きながら見つけるものなんだ。
だから「愛」は自分に気づくことでもある。本当の自分はどうなのか?その自分を中心にいろんなものに気づいていって、やがて自分は単独で存在してはいないことに気づく。いや自分ばかりでなく、この世に実体をなすすべては相互に影響を及ぼし合った上で成り立っている、謂わば「ひとつの体」なのである。自分はこの一個の肉体、この閉鎖した心をもって自分と言うのではなくて、心身は空間と繋がりエネルギー・レベルで世界と同体になっている。この鳩もタヌキもアオムシも、猫も杓子も家族も友人も、みんな自分との距離はあって無きに等しい。そのことに気づいて初めて、自分を愛するように他のものを愛せるんだよ。
まあ、いきなりそんな境地に至らないまでも、ある小さなことに気づけばもうひとつ、またひとつといろんなことに気づいていくものではある。例えばある日自分の行った小さな「愛」の行為がこの世界をどう駆け巡り、どこに行き着くか。そのことについては過去に東西の偉人たちがさまざまな形で後世に伝えようとしてきたみたいだ。これは真実をありのままに受け止めるという「愛」の行為があって初めて実感することができる。好意はそれを表わした具体的な行動そのものとして帰って来るとは限らないけれど、発した本質を忠実に反映して意外なところから身に還って来る。その点では悪意も敵意もまったく同じだ。
例えば3年くらい、好意や善意、自分が純粋な「愛」の行為だと思うものを実際の行動に表わすよう努めてみるといい。何も純粋な愛じゃなくても構わない。僕ら凡人は心でどんなに綺麗なことを考えようと、やはり実際の思いや行動に打算や下心が潜んでいたりするものだ。けれどまず、思い切って行動に表わすこと。そうすればやがては、かつてあれほど強固に我が身を取り囲んでいた悪意や災難などがいつの間にか少なくなっていることに気づくと思う。憎むべき人がひとり、またひとりと目の前から消えていく。その代わり今まで望んでも手に入らなかった信頼や助け合いの心、厚意の数が増えている。
始めは誰もみんな小さなところから始めたんだ。世の聖人たちもかつて同じスタートラインから足を踏み出した。そのことに気づくか気づかないかで、人生の流れは大きく違って来る。
そして更に言えば・・・これはある程度推測を混じえたことなんだけど、愛の実践は僕たちの来世をも変えることに繋がる気がするんだ。いきなり来世だなんて抹香臭い・・・と言うかもしれない。でも僕は仏教徒でも何でもないけど少なくとも魂の不滅は信じている。古今東西にこれだけの実証が伝えられているのに、どうしてこのことを信じない人が多いんだろうね。頭でっかち過ぎるのか素直じゃないのか・・・科学は決して「魂の消滅」を実証できないんだよ。また、現世の利益に貪欲であり過ぎる人はこういうことは信じたくないみたいだ。死んでも魂が残るとなると、この世であまり阿漕なことはできなくなるからね。
話が逸れたけど、「愛」は本来心のレベルではなく、自分の魂を根本から変えていく「魂の行為」であると思う。「魂」を「精神」と置き換えてもいい。だから他の感情や本能と違って本人の意に関わらず元々ある、というものじゃない。誰もが自分の裡に積み重ね育てていかなきゃならない。それによって僕たちの魂は形か色彩か、とにかく何かの質が変わっていくと思うんだ。この変革がエネルギーとして日常世界に投影され、僕たちの今日と明日とを創っていく。
元々僕たちが今ここにこうして存在してるのだって、もしかしたら何かを受け入れ何かを受け容れなかったその選択の結果ではなかろうか。原初無色透明の中性の「原初のいのち」があって、それが光と闇に分かれ地とその上の空間に分かれ、そのようにして対極への分離を繰り返していった末にこの万象世界は実体化した。いや、今でもそれら変遷の過程にあるのかもしれない。その分化のキーワードとなるのが「受け容れる」と「受け容れない」こと。その「宇宙精神」が営む絶対究極の二進法の上に四次元世界は存在しているような気がする。「愛」は魂本来の純粋な性質なんだ。
さて、長らく「愛」について語ってしまった。自分自身思いの断片を整理してこれを纏めるのに随分時間がかかったけれど、でも未だ不満や不明だらけだし充分に体系づけられてもいない。実際今ここで自分が言ったことのほとんどを、明日には自らの手で覆すようなことが起こらないとも限らない。もしかしたら愛は広大無辺で人智の外にあるのかもしれない。これを知り尽くせば明日に死んでもいいくらいに、偉大な実存なのかもしれない。だから焦らず近道を行かず、自分の足で愛を追っていこう。
ご清聴ありがとう。それぞれお互いに自分自身の「愛」を見つけられるように。そしてそれが必ずや幸せをもたらす「青い鳥」であるように。僕はこれからも僕なりの真実の愛を探していこうと思う。求道とは、究極的には愛に至る道なのじゃなかろうか。
【写真は「ふぁ~ん。退屈だったぁ~。ボクは魚より肉の方を愛するナ。」とタイン。】
そこで今回もできるだけ簡略化して考えることにしよう。よっていきなり結論を出してみる。ずばり、「愛」は「受け容れる」という精神の行為なんだ。
愛は日常さまざまな意味で使われているので観念として纏めようとすると取り止めが無い。また目に見えるものが無いので実体としても掴みどころが無い。じゃあ、愛って単なる抽象的な概念なんだろうか。それとも何かの象徴か、またはある「感情」を言い表した言葉なのか・・・と僕も随分考えてきた。そのちっぽけだけど地道な努力が前に述べた愛の分類に繋がったし、本物の「愛」を自分の中で突き詰めようとする原動力にもなった。そう、往々にして僕たちは本当の「愛」というものをしかとは認識していない。日常「愛」でないものを愛と誤解し、あらぬものに過剰な意義を与えてしまったりしている。
しかしそうして煎じ詰めていったら、「愛」には実体があった。目に見えないことには変わりないけれど明らかに世の諸々の「愛の行為」の源となるひとつの明確かつ能動的な行為があった。それが「受け容れること」である。そのもののありのままの姿を受け容れる。しかも肉体でも心でもなく、それより一段と高い精神のレベルで。
なぜかと言うとこの「受け容れる」という行為は、「相手の言うことを鵜呑みにする」ことや「言われるがままに行動する」ことでは決して無い。そんな心や肉体の次元のものではなくて、「目の前の現実を正直に受け止める」ことを指す。その上で相手を叱るか慰めるか、何を考え何を思うか、自分の次なる行動をどのように決断するかそれとも何もしない道を選ぶかは僕たちひとりひとりの知恵の使いどころだ。
思えば世界に満ちている戦争、虐殺、弾圧、喧嘩、論争の類はすべて「受け容れない」行為から端を発しているんじゃなかろうか。それに比して古今東西世に感銘を与える「愛」に根ざした行動は、人が通常受け容れがたいことを「受け容れる」行為に帰する。マザー・テレサが恵まれた校長の職を退いて単身スラムに入ったのも、イエスが自らの身の危険を顧みず衆を救おうとしてエルサレムに踏みとどまったのも、皆誰もがおいそれと成すことのできない事象の受け容れに基づいている。またそんな聖人レベルのことじゃなくても、傷ついた鳩を優しく抱き上げて介抱することや、子が危篤状態の親のために職を投げ打って介護に当たることなんかも、突き詰めればみんな眼前の状況をそのままに受け容れることに集約することができる。なぜって、人は面倒くさいこと、煩わしそうなことから目を逸らして知らん振りをして生きることだって実際にできるのだから。
さて、自分自身を始めとした眼前の現実を正直に受け止め続けた時に、僕たちはみんな避け得ずしてあることに気づくことになる。
「自分の存在が周囲のさまざまな事象と密接に関係している」こと。
我が子が喘息になったのは故無いことではなかった。ペットが言うことを聞かないのにも明らかな理由がある。この頃よく皿が割れるのにも、旦那さんと何故かしっくりといかないのにも、ちゃんと理由があったんだ。そしてそれはみんな、自分世界の核にある自己という存在に端を発していた。
そんなことひとつひとつに気づくにつれて、やがてはもっと大きな世界や遥か遠い場所での出来事にも、実は自分が関わっていたことに気づくかもしれない。コオロギやスズムシはいないのに町にゴキブリだけは増えること、山の動物が明らかに減っているのにキツネやタヌキが増えて、農作物や家畜に被害をもたらして困っていること。そしてそのキツネたちもなぜか近年原因不明の皮膚病にかかって次々と死んでいってる。日本の政治が悪くて外交努力が実を結ばないのは何も政治家ばかりの責任じゃない。酸性雨や近年の過激な風水害はもしかしたら自分たちの日常生活に原因があるのかもしれない。・・・
それら一見して関連性が乏しく今まで安易に見過ごしてきた事象に本当の意味で気づくのは、みんな「自分を含めた身の周りすべてのものごとを素直に受け容れる」ことがベースとなるんだ。その上で初めて人は「自分と周囲との関わりの糸」に気づく。本やニュースで得た知識はそれらしいことを幾ら詰め込んだって、直接には気づきに結び付かない。単に頭でっかちのアンバランスな人格を育てるだけだ。「愛」は身を投げ出すことによって掴むことができる。「愛」は唯一実践を通し、歩きながら見つけるものなんだ。
だから「愛」は自分に気づくことでもある。本当の自分はどうなのか?その自分を中心にいろんなものに気づいていって、やがて自分は単独で存在してはいないことに気づく。いや自分ばかりでなく、この世に実体をなすすべては相互に影響を及ぼし合った上で成り立っている、謂わば「ひとつの体」なのである。自分はこの一個の肉体、この閉鎖した心をもって自分と言うのではなくて、心身は空間と繋がりエネルギー・レベルで世界と同体になっている。この鳩もタヌキもアオムシも、猫も杓子も家族も友人も、みんな自分との距離はあって無きに等しい。そのことに気づいて初めて、自分を愛するように他のものを愛せるんだよ。
まあ、いきなりそんな境地に至らないまでも、ある小さなことに気づけばもうひとつ、またひとつといろんなことに気づいていくものではある。例えばある日自分の行った小さな「愛」の行為がこの世界をどう駆け巡り、どこに行き着くか。そのことについては過去に東西の偉人たちがさまざまな形で後世に伝えようとしてきたみたいだ。これは真実をありのままに受け止めるという「愛」の行為があって初めて実感することができる。好意はそれを表わした具体的な行動そのものとして帰って来るとは限らないけれど、発した本質を忠実に反映して意外なところから身に還って来る。その点では悪意も敵意もまったく同じだ。
例えば3年くらい、好意や善意、自分が純粋な「愛」の行為だと思うものを実際の行動に表わすよう努めてみるといい。何も純粋な愛じゃなくても構わない。僕ら凡人は心でどんなに綺麗なことを考えようと、やはり実際の思いや行動に打算や下心が潜んでいたりするものだ。けれどまず、思い切って行動に表わすこと。そうすればやがては、かつてあれほど強固に我が身を取り囲んでいた悪意や災難などがいつの間にか少なくなっていることに気づくと思う。憎むべき人がひとり、またひとりと目の前から消えていく。その代わり今まで望んでも手に入らなかった信頼や助け合いの心、厚意の数が増えている。
始めは誰もみんな小さなところから始めたんだ。世の聖人たちもかつて同じスタートラインから足を踏み出した。そのことに気づくか気づかないかで、人生の流れは大きく違って来る。
そして更に言えば・・・これはある程度推測を混じえたことなんだけど、愛の実践は僕たちの来世をも変えることに繋がる気がするんだ。いきなり来世だなんて抹香臭い・・・と言うかもしれない。でも僕は仏教徒でも何でもないけど少なくとも魂の不滅は信じている。古今東西にこれだけの実証が伝えられているのに、どうしてこのことを信じない人が多いんだろうね。頭でっかち過ぎるのか素直じゃないのか・・・科学は決して「魂の消滅」を実証できないんだよ。また、現世の利益に貪欲であり過ぎる人はこういうことは信じたくないみたいだ。死んでも魂が残るとなると、この世であまり阿漕なことはできなくなるからね。
話が逸れたけど、「愛」は本来心のレベルではなく、自分の魂を根本から変えていく「魂の行為」であると思う。「魂」を「精神」と置き換えてもいい。だから他の感情や本能と違って本人の意に関わらず元々ある、というものじゃない。誰もが自分の裡に積み重ね育てていかなきゃならない。それによって僕たちの魂は形か色彩か、とにかく何かの質が変わっていくと思うんだ。この変革がエネルギーとして日常世界に投影され、僕たちの今日と明日とを創っていく。
元々僕たちが今ここにこうして存在してるのだって、もしかしたら何かを受け入れ何かを受け容れなかったその選択の結果ではなかろうか。原初無色透明の中性の「原初のいのち」があって、それが光と闇に分かれ地とその上の空間に分かれ、そのようにして対極への分離を繰り返していった末にこの万象世界は実体化した。いや、今でもそれら変遷の過程にあるのかもしれない。その分化のキーワードとなるのが「受け容れる」と「受け容れない」こと。その「宇宙精神」が営む絶対究極の二進法の上に四次元世界は存在しているような気がする。「愛」は魂本来の純粋な性質なんだ。
さて、長らく「愛」について語ってしまった。自分自身思いの断片を整理してこれを纏めるのに随分時間がかかったけれど、でも未だ不満や不明だらけだし充分に体系づけられてもいない。実際今ここで自分が言ったことのほとんどを、明日には自らの手で覆すようなことが起こらないとも限らない。もしかしたら愛は広大無辺で人智の外にあるのかもしれない。これを知り尽くせば明日に死んでもいいくらいに、偉大な実存なのかもしれない。だから焦らず近道を行かず、自分の足で愛を追っていこう。
ご清聴ありがとう。それぞれお互いに自分自身の「愛」を見つけられるように。そしてそれが必ずや幸せをもたらす「青い鳥」であるように。僕はこれからも僕なりの真実の愛を探していこうと思う。求道とは、究極的には愛に至る道なのじゃなかろうか。
【写真は「ふぁ~ん。退屈だったぁ~。ボクは魚より肉の方を愛するナ。」とタイン。】
あぐりこさんの語りを見ていて、『性善説』を思い出していました。幼児が井戸の落ちようとしているとき、人間であるならば、自然とたすけるという説ですね。そして、自分を辱めないためにも、自分自身を律すると言う説でもあります。
しかし、『性悪説』と言うのもあります。人間は生来おろかな生き物であり、自分を律することにより、高めていくと言う考え方です。
どちらも自分を律していかなければならないというものですが、スタートが真逆ですね。
私には、正直わかりません。性悪だと思う日もあれば、性善だと感じる日もあります。そのときの気分に、やはり左右されています。
しかし、やはりそれならば私には『愛』が分かっていないのだとも思いました。
『受け入れること』それは、とても難しく、はかない感情ですね。
相手を受け入れ、裏切られ、受け入れ、裏切られ。
その繰り返しではないでしょうか?
『自分はこんなに受け入れているのに、なんでそんなことをするの?』というのもありますね。
しかし、その受け入れる段階で、『よかった』を思えるから、受け入れようと考えられるのではないでしょうか?もしくは、受け入れたフリをして、諦めるのかもしれません。人間は複雑です。
なぜ、こんなにひねくれた考え方をしているか分かりません。しかし、私自身が受け入れられるという経験よりも、裏切られるという経験が多いからのような気はします。
正論だけが全てではないですね。
しかし、だからといって自分を甘やかせば、それは相手にも不快感として伝わりますね。
人は、自分の痛みには鈍感ですが、自分の痛みには敏感ですね。
でも、だから助け合うのだとも思います。
だから、時には喧嘩もするけど、謝ったり、しかたねぇなぁってグチグチ言うのではないでしょうか?
そういうことが、最近あまりないとも思っています。とても、寂しいですね。そういう付き合いは、暑苦しかったりすかね?
私は好きなんですけどね。
そういうのが積み重なっての、世界だとも思います。
ちがいますかね?不安ですね、すみません。
他人の痛みには鈍感ですねって書きたかったんです。
とはいえ、ひねくれた私も、ブログを作り始めてからすこし変わってきました。
だれかとつながっていると、前より思えているからかもしれません。
あぐりこさんにも、感謝してます。
こういうことを話すと、なんともいえない不思議な顔を友人にされるので 苦笑
感謝☆
これからも、記事期待してますね。
私の能力不足のところで、人それぞれに応じて簡単に説明することが下手なのです。そして結果的に自己満足の言葉を発してしまいます。まだまだ自分しか見てないところがあるんですね。
「自分を発見する」ことは愛の最初の出発点です。周りの世界を見ると同様に、私たちはとかく自分を「都合のいいように」歪めて見てしまいがちです。でも実際の自分はそうではない。ありのままに受け容れるということは、自分が忌み嫌う最もおぞましいものを自身の中に見つけることでもあります。これはとても怖い。
でも出発点は、そこにあるのですよね。
他人の場合も同じです。その人の狡いところ、汚いところを含めてありのままを見る。何も狡いところを美化したり、それを見ぬ振りをして妄信したりすることじゃありません。しかし私たちは往々にしてそれらをしてしまうのです。重大な責任から自分を逃れさせるために。
だから受け容れることはとても勇気の要ることなんです。
勇気の要ったコメント、ありがとう。突っ走ってしまった私に合わせるのは大変だったでしょう。本来私の方が合わせなきゃならないのにね。
それと性善説についてなんですが、これも個人的な考えなんですけれど、性善説・性悪説、どちらもある一面から人間を見た真理だと思いますよ。私たちは皆、その両面を兼ね備えています。だからほとんど同時代にそれら両極の説が現れたのかもしれませんね。どちらもそれなりに人間を掘り下げてます。
でももう、現代の思想は二次元の世界を越えているのですよ。これも孟子や荀子らのお陰なんでしょうけれど。まあ、不勉強な私がこんなことを言えばたちまち方々から矢が降ってきてハリネズミになってしまいそうですが。
私にこの記事を書かせてくれたwakaさんに感謝します。お互いの生、それぞれに精一杯生きていきましょう。
叩く人もいますが、それで磨かれていくものだと思っています。
意見の片鱗だけ見て、強い意見を投げかけるのは失礼だと思ってしまいますので。
次の記事、きたいしてます~
お陰で私もこうして自己表現できてます。BLOGを始める前はそもそも言う相手がいなかったですよ。このムラは真面目に年寄りばかりです。日々の会話は農作業と天気ばかり。
本心では、BLOGでも日常でもはっきりと反対意見なり別の面からの見方なりを言ってくれるとありがたいのですけどね。
その意味で今回は面白い「会話」ができました。ありがとう。
「愛」
どれだけ相手のことを思って自分の時間を使って、相手になにかをしたか。 その積み重ねが「愛」だと、単純に考えるこのごろ。
その使った時間を、何かに変えられるのではと、いつまでも、惜しむのが、欲。
なんで、私のために、こんなにしてくれるの?
だって、愛してるもの。
トラバはしませんが何となく記事に残させてください。
この記事の内容のように青白い炎を上げているのが私なのか、それとも世間一般的に適温の愛をイメージしているのが私なのかともすればわからなくなってしまいます。どの海に飛び込んでも温度差を感じてしまう。でもそれがひとりひとりの人間だと思うのです。それを無理してまで外界の温度に合わせる必要など、本当は無いのでしょうね。
「愛」の考察、こうして何かを受け取ってもらえれば嬉しいです。厳密な意味で私たちは各自それぞれの「言語」を持っているのです。その上で意思疎通のためには、やはり「あくなき言語のすり合わせ」が大切なのでしょうね。本来は行動が最初であり最後なのですが、人は言語というとても便利なツールを持っている。これによって現在進行形という時間の枠を超えて自己表現ができるようになりました。
人間の脳の発達は、ここから引き起こされたものではないかと思います。
でもこれと同時に私たちは誤解も受け容れてしまったのですね。不完全な脳と感性とでは到底誤解を防ぐことはできません。思えば動物たちのコミュニケーションの世界はさほと誤解が無いのですよ。
恋愛は甘いお菓子のように気を惹きます。けれど食べ過ぎると体に害になってしまう。今の私たちに大切なのは、やはり「愛」なんじゃないでしょうか。