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●松下竜一さんと松下洋子さん、そしてカン・キョウ・ケン

2012年06月29日 00時00分30秒 | Weblog


asahi.comの古い記事(http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200709220078.html)。

 偶然、下記の記事を発見。しかも、筆者は伊藤千尋さん!! なぜ伊藤さんなのかは知りませんが、短い文章ながら松下センセ洋子さんの二人の姿が活写されています。何かすごくうれしくなりました。写真も引用しようかと思いましたけれど、原文を是非ご覧ください。

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http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200709220078.html

豆腐屋の四季
松下竜一と洋子
2007年09月22日

 赤い夕日を吸い取るように、川面がオレンジ色に映える。シラサギが飛び、魚が跳ねる。

    (松下竜一さんと洋子さんが毎日足を運んだ川沿いの散歩道。
         市民の憩いの場として一年中にぎわう=大分県中津市で)

    (書斎の真ん中に置かれた松下竜一さん愛用のテーブル)

    (中津城裏にある河川敷公園。歌碑を建てる計画がある
                         =いずれも大分県中津市で)

    (69年、出版された『豆腐屋の四季』を手にする松下竜一、洋子夫妻
                                      =松下洋子さん提供)

 英彦山(ひこさん)から耶馬渓(やばけい)を経て周防(すおう)灘(なだ)に注ぐ山国(やまくに)川。大分県中津市の河口に延びる川べりを30年以上にわたって毎日散歩する夫婦が、町の風物詩となっていた。3年前に67歳で亡くなった作家松下竜一さんと妻洋子さん(59)だ。
 松下さんは冤罪事件をただしたノンフィクション記憶の闇』などを著すかたわら、火力発電所の建設に反対して環境権を主張する市民運動の先頭に立った。自ら「年収200万円の売れないビンボー作家」を名乗った。
 健康のためでなく妻と寄り添って歩くことのできる歓(よろこ)びをかみしめるために毎日3時間も散歩した。今、同じ道を歩くと、洋子さんはこの水門でカモメにパン切れをやった。あの橋の下に並んで座って2時間、何も言わず川を見ていたと懐かしく語る。
 ふたりが出会ったとき、松下さんは豆腐屋だった。生まれた直後の高熱で右目を失明し、母の急死で大学進学をあきらめ、家業の豆腐屋を継いだ。肺の難病で医者から絶対安静を命じられたが、毎朝午前2時に起き、日が暮れるまで、「言葉を持たぬ獣のように暗い眼(め)をして」働いた。
 25歳のとき短歌を詠み始めた。文法も知らぬまま油まみれの指を折って五七五……と数え、「胸中から噴き上げるもの」を書き付けた。初めての作品が「泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん」だ。孤独や恨み、怒りを歌にぶつけた。
 同じ年、豆腐を卸す食品店の娘に恋をした。まだ中学生だった洋子さんだ。高校生の時、洋子さんが学校から帰ると、机の上に短歌を書いた便箋(びんせん)が置いてあった。「我が愛を告げんには未(いま)だ稚(おさな)きか君は鈴鳴る小鋏(こばさみ)つかう」。内気な洋子さんの心がときめいた。
 歌の贈り物は1年以上続き、35首に及んだ。洋子さんが高校を卒業して半年後、結婚した。引き出物がこの35首を収めた歌集「相聞」だ。
 結婚後に松下さんが日々の生活を文と歌でつづった『豆腐屋の四季』は、連続テレビドラマにもなった。
 松下さん役の緒形拳さん(70)は69年、中津市を訪れて松下さんとともに豆腐の配達先を回った。そこで会った女性を見てハッとする。洋子さんの母三原ツル子さんだった。緒形さんは直感で「松下さんって、あのお母さんを好きですよね」と言った。松下さんはドキッとした表情を浮かべた。
 このツル子さんこそ絶望のふちにあった松下さんを救った人である。彼女と出会わなければ自殺していた、と松下さんは書いている。短歌を作ることも、洋子さんと結婚することも、松下さんに勧めたのは彼女だった。
 松下さんは生前、墓碑銘を刻むならこうしてくれ、と言い残した。洋子とその母を愛し、ここに眠る


いつも一緒にいるから

 すべてはこの夢想から始まったと松下竜一さんは書いている。
 絶望しかけた心に突然、希望がわいた。どうして、そんなことを夢想し始めたのだろう。なんにもいらない。私を愛してくれる人さえいれば。25歳の日記にそう記した。短歌を詠み始める半年前のことだ。
 苦しい時期が続いていた。極端に貧しく、上京した弟たちも仕事が見つからず仕送りを求めてきた。たった一人の親友は病死した。死のうと家出したが残した家族を思うと死ねなかった。
 豆腐を配達したさい、いつしか店先で三原ツル子さんと話し込むようになった。「変わり者」と疎まれた松下さんにとって、彼女はたった一人の理解者だった。そのツル子さんが、内気な娘の洋子さんの将来が心配だとこぼした。このとき松下さんは、洋子さんの成長を待って妻に迎えようと思った。
 同時に、ツル子さんに激しい慕情を抱いていることに初めて気づいた。洋子ちゃんを幸せにすることで、あなたへの愛も成就すると告げた。

          ♪  ♪  ♪

 母を慕い娘に恋する複雑な感情を、緒形拳さんは一目で見抜いた。ツル子さんに会ったとき「この店に配達に行くのが松下さんの生きがいなんだと思った」という。緒形さんと松下さんは生まれた年もつらい境遇での育ちも同じだ。顔も似ていて、緒形さんは「会った瞬間、兄弟かと思った。松下さんは私の仕事に共感し、彼の書くものは私にとってひとごとではなかった」と言う。似た者同士だからこそ、とっさに理解できたのかもしれない。
 母といえば、松下さんの優しさを育んだのは母の光枝さんだった。失明した右目のホシを「竜一ちゃんの心が優しいから空の星が流れてきたのだよ」と説明した。「星なんかいらない」と泣く松下少年に、母は「お星様が流れて消えたら、竜一ちゃんの優しさも心から消えるのだよ」と語りかけたという。松下さんは、早世した母の面影をツル子さんに見たのかもしれない。

          ♪  ♪  ♪

 夢想から4年後に結婚した松下さんは、11歳年下の洋子さんを大切に守ろうとした。仲むつまじさは近所の評判で、毎日一緒に散歩し、誕生日にはお互いに花を贈り、毎年旧婚旅行に出かけた講演で旅に出ても3日ももたずに洋子さんのもとに帰りたがり、友人たちはひそかに洋子病と呼んだ
 松下さんと一緒に市民運動をしてきた梶原得三郎さん(69)は洋子さんは無欲で素直で、物書きの奥さんにぴったりだった。松下さんは洋子さんがそばにいてくれて安心していた。気持ちの上でずいぶん洋子さんに寄りかかっていたと振り返る。
 松下さんが45歳だった1982年、私は「草の根通信」10周年の取材で、松下さん宅を訪問した。その後も93年に訪れたが、当時の洋子さんは口数少なく目を伏せて、松下さんの陰に隠れていた。今回、14年ぶりに訪れると、洋子さんが明るく変わっていた。
 若き日のことを洋子さんは母は私に『この人なら絶対に幸せにしてくれるから』と結婚を勧めた。嫌だと言えば母が悲しむと思ったし、『ま、いっか』と思い、意見も言わないまま結婚したと笑いながら打ち明けた。
 松下さんが脳出血で倒れたのは4年前だ。1年後、昏睡(こんすい)状態となった耳元で洋子さんがいつも一緒にいるからとささやくと、うなずいた。心臓が止まったが、洋子さんががんばってと手を握ると、再び動き出した。30分後、ありがとうという洋子さんの声を聞いたあと永久に停止した。

           ♪  ♪  ♪

 緒形さんは松下さんを横顔が神々しかった孤高の闘士で、やるべきことをすべてやって燃え尽きた、いい生涯だった。僕の中で松下竜一はまざまざと生きていると語る。ダム建設反対闘争を描いた松下さんの作品砦に拠る(とりでによる)』の映画化を考えている。
 福岡県築上(ちくじょう)町で米軍基地反対運動をする渡辺ひろ子さん(59)は、今も松下さんの遺影を基地のフェンスにかけて座り込む。梶原さんと友人の新木(あらき)安利さん(58)は、散歩道の川辺に松下さんの歌碑を建てようと計画している。「瀬に降りん白鷺(しらさぎ)の群舞いており豆腐配りて帰る夜明けを」の歌だ。
 洋子さんは今、娘と3人の孫と暮らす。散歩はひとりで、1日か2日おきだ。夜、眠れないときは北九州市の柳井達生さん(52)が作詞作曲した追悼歌「しろつめ草をふまぬよう」を聴く。散歩のさい、草も踏みつぶさないよう気遣ったふたりを歌ったものだ。
 松下さんの墓は家から歩いて10分ほどの墓地にある。『豆腐屋の四季』の印税で建てたもので、「松下家の墓」とだけ彫られている。洋子さんと一緒にお参りし顔を上げたとたん、上空をシラサギが一羽、飛び去った。

文・伊藤千尋、写真・藤脇正真


〈ふたり〉
 松下竜一さんは中津市で7人きょうだいの長男として生まれた。高校の成績は1番だったが、吐血して1年休学し文学を読みあさった。浪人中に母光枝さんが豆腐作りの作業中に過労で倒れ死亡。父健吾さんを助けて19歳で豆腐屋として働く。『豆腐屋の四季』出版後に豆腐屋を廃業し、33歳で作家となった。73年から火力発電所建設への反対運動に取り組み、機関誌「草の根通信」を編集、発行した。『ルイズ―父に貰(もら)いし名は』で講談社ノンフィクション賞を受賞。晩年は『本日もビンボーなり』などエッセーに本領を発揮した。
 洋子さんは市内の食品店の長女。子どもの名を連ねるとカン・キョウ・ケン環境権)になる。
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