塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 179 語り部:未来

2017-01-22 20:37:48 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304





語り部:未来



 ジグメは旅をしながら、歩くのが日に日に辛くなるのを感じていた。
 そのため、長い時間をかけてやっとムヤの地を過ぎ、カムの大地の中でもケサルを特別に崇拝している場所に着いた。

 岩のくぼみを見て人々は言った。これは神馬キャンガペルポが残したヒズメの跡だ、と。
 ごつごつした岩に突然滑らかな面が表われると、人々は言った。これはケサルが剣を試した跡だと。
 雪山の麓に青い水を湛えた湖が現われると、人々は物語を伝え言った。ここはジュクモが沐浴した場所だ、と。

 これらの聖なる跡を示されても、ジグメは前ほどには興奮しなくなった。ただ終わりない旅がだんだんと辛くなっているのが分かった。

 その日、ある鎮に入り、郵便局へ行った。電話をしなければならなかった。
 局員は言った。いいわよ、そこにあるから勝手に掛けて。彼は言った、掛け方を知らないんだが。あんた、電話したことがないの。ジグメは皺だらけの名刺を取り出した。それは学者が別れ際に渡したものだった。
 学者は、もし旅に疲れたら安定した生活をさせてあげられるから、と言ってこの名刺を残したのだった。

 ジグメは名刺を局員に渡した、局員が受話器をジグメに渡すと、まずジージーと言う電流の音が聞こえ、それから学者の声が聞こえて来た。
 「もしもし」

 ジグメは姿の見えない相手に話しかけるのをためらった。
 相手はまた言った。
 「もしもし」
 ジグメはやっと口を開いた。
 「オレです」

 学者は笑った。
 「もう電話してきたのか」
 「歩くのがだんだん辛くなって来た」
 「休めばいい、あなたの物語の中で、主人公はいつも疲れている。それはきっとあなた自身が厭きて来たからだ」
 「いやになったんじゃない。腰や背中が固くなって、歩きずらいんだ」
 「ほんとに体の調子が悪いだけか。だったら医者へ行けばいい」

 学者は最後に言った。この電話番号を忘れてはいけない、と。

 ジグメは村の診療所へ行った。医者は彼を機械の前に立たせ、背中の写真を撮った。医者は言った。骨はとても健康だ、と。ジグメは尋ねた。
 「オレの背中には骨の他に何か変わったものがないかね」

 医者は尋ねた。
 「背中に何かあるような気がするのかね」

 「矢だ」

 彼は思い出した。夢の中でケサルは矢を彼の体に貫通させ、望んではいない地へと飛ばしたのだ。その時、ケサルはこう言った。
 「しっかりと物語を語りなさい。物語を信じなさい。物語が本当かどうか尋ねる必要はない」

 再び歩き始めると、矢が背中に刺さっているのをはっきりと感じた。背中が固くなっているだけでなく、先端が腿の付け根につかえて、足を動かすのが辛かった。
 長い間、どうして矢に気付かず、今になって感じるのだろう。

 空を見上げたが、何も見えなかった。それは、物語の中の閻魔王がケサルに言った言葉を思い出させた 。
「上を見れば空は空っぽだ」

 空は本当に空っぽだった。何も見えなかった。だが、ジグメにはある予感があった。

 神よ、あなたは私の矢を抜きに来るのですか。このことを考えると、心が暗くなった。

 神よ、矢を抜く時に物語もまた持ち帰るのですか。彼はこれは確かな予兆だと確信するようになった。

 神は自分の使命を終わらせようとしているのだ。

 この時、ジグメは三叉路に出た。行き来するトラックが埃を舞い上げている。周りの人に、この三つの道はそれぞれどこへ行くのかと尋ねた。
 その内の一人が一番静かな道を指した。
 「仲肯よ、これがあんたの道だ。この道はアッシュ高原に続いている」

 アッシュ高原。ケサルが生まれたと伝えられている地。
 彼は再び顔を挙げて空を見上げた。まだ何も知らない時、ここに来たことがある。そして思った。ここまで来たのは、体を貫いている矢を感じたのと同じだ。運命に導かれたのに違いない。これは偶然ではないのだ。

 ジグメはふらふらと歩き始めた。英雄の誕生した地へと向かった。

 歩きずらく、草原で一晩野宿した。
 ヤロンと呼ばれる河が耳元を激しく流れるのを聞き、空いっぱいに輝く星を眺めながら、もしかして今夜夢の中にあの方が現われるかもしれないと思った。それはどちらだろう。天上の神か、人間界の国王か。

 朝目覚めると、何も夢を見なかったと知った。再び歩き始めた時、触ることも見ることも出来ない矢はまだ体の中に留まり、やはり歩くのが辛かった。






阿来『ケサル王』 178 物語:地獄で妻を救う

2017-01-14 19:33:57 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:地獄で妻を救う その3




 小佛州は羅刹国の中心にあった。谷は深くえぐられ、すべての樹木はとげを持ち、すべての石は毒の液を流していた。
 様々な地から征伐された羅刹がここに集められ、深い法力を持つパドマサンバヴァが神によって羅刹国の王の務めを委ねられていた。

 ケサルはこの地に来て驚いた。パドマサンバヴァ大師がこのように恐ろしい地を統率しているとは信じられなかった。
 目を疑いながら彷徨っているところへ、大師に仕えるヨーガ空行母が現われ、大師の前へと導いた。

 宮殿はこれまでの景色とはまるで違っていた。周りの壁は清らかに磨かれ、まるで水晶のようであり、光そのもののようだった。辺りに漂っているのは、楽の音のようであり、芳しい香りのようでもあった。

 この場に来て、ケサルは自分の体から発する悪臭に気付いた。それは果てしなく死体が横たわり、血が流れて河となる戦場の匂いだった。
 白い衣に身を包んだ空行母が清らかな水を湛えた浄瓶を手にし、慈悲の水をケサルの頭に注いだ。
 清々しさを感じた後、体から白檀のような得も言われぬ香りが立ち始めた。

 すぐに大師が目の前に現れた。
 「この小さな無量宮の外の、そなたが今見て来た有様は当時のリンと比べてより悲惨であろう」

 「私がリンに降ったのは、すでに大師が多くの妖魔を調伏された後でした、ですから…」

 「人の世の王に恥じず、その話しぶりは…」大師は笑った「まあ良い、やめておこう。あの時私が途中で厭きてしまわなければ、そなたはこのように辛い務めをすることはなかったのだが」

 「観音菩薩は、大師様が私の行くべき道を示して下さるとおっしゃいました」

 「菩薩はいつも私が暇だと心配されているようだ。なぜ来たのか言ってみよ」

 「閻魔王の判決は公平ではありません。私の妃を助ける法を教えていただきたいのです」

 大師は言った。
 「よく考えてみなさい。他にも何かありそうだ。当時魔国の姫だった者を救うためだけなら、ここまで来るには及ぶまい。さあ、良く考えてみなさい」
 大師は徐々に声を落とし、空行母の手から浄水の入った瓶を受け取り、ケサルの顔に向けてその浄水を指ではじいた。

 ケサルは自分が話す声を聞いた.

 「大師にうかがいたいのです。私はこの後、どれほどの時間をリンで過ごすのでしょう。私が去った後、リン国の民たちはどのようにして太平の世を楽しむことが出来るのでしょう」

 大師は法術を始めた。
 体から様々な色の光を発すると、それぞれの方角から菩薩が光に沿って次々と現れた。菩薩はそれぞれに異なった光を発し、額、胸、へそ、会陰からケサルの体へと注いていった。
 ケサルは体が軽々と浮き上がり、同時に強く穏やかな力が満ちるのを感じた。

 大師は座から立ち上がり、金剛明王のように威厳に満ちた舞い姿で、偈を唱えた。

   精進の馬を常に馳せ
   智慧の武器を常に磨き
    因果の甲冑で身を守る
   しからばリンは安寧なり!

 唱え終ると、諸々の菩薩と大師の姿はそのまま消えていった。それに連れて、宮殿と羅刹の国も目の前から消えた。来る時はあっという間に着いたが、帰りの道は丸々三日かかった。

 ケサルがリンへ戻ると、人々は今か今かとこの日を待ち望んでいた。後一月で、ケサルが発ってから三年になろうとしていた。リン国の臣民はみな彼らの英明な国王はすでに天の国へ帰ったのではと考えていたのである。

 出迎えの者の中に首席大臣ロンツァタゲンの姿がないのに気付いて、国王はすぐに会いに向かった。

 「お迎えにうかがえなかったこと、どうぞお許しください」

 ケサルは尋ねた。
 「病ではないのか、御殿医に診させたのか」

 「王様、私は病気ではありません、もはや力が失せたのです。みなは国王はもうお帰りになららないのではと考えておりました。だが、私は彼らに言いました。国王は必ず帰られる、このロンツァタゲンが国王より先にリン国を去るのだから、と」

 「なぜそのように急ぐのだ」

 「急いでいるのではありません。私はすでに百歳を超えました。この目でリン国の誕生から強大になるまでを見ることが出来ました。リンを去るのはなんと忍びないことか。だが、いつかは去らなくてはならないのです」

 この言葉にケサルは胸を熱くし、ロンツァタゲンの手をしっかりと握りって離そうとしなかった。

 ロンツァタゲンは笑った。
 「国王はお帰りになる時、寄り道をされましたね。お帰りの日を占わせましたが、それより三カ月遅れてお帰りになられました。天の一日は人の世の一年です。地上での三カ月どちらにいらしたのですか。私が知りたいのはそのことです」

 首席大臣と別れて、国王は神馬に尋ねた。
 「途中で私たちはどこかへ行っただろうか」

 神馬は答えた。
 「私は行きません。国王がいらしたのです」

 「私はどこへ行ったのだろう」

 「私はお尋ねしませんでした。その後、王様は私の背中でうわごとをおっしゃいました。未来へ行ったのだと」






阿来『ケサル王』 177 物語:地獄で妻を救う

2017-01-09 22:44:05 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304




物語:地獄で妻を救う  その2


 その時、空中に清らかな声が響いた。

 「神の子ツイバガワ、衆生を救おうという強い誓願のみならず、人の世で妖魔を倒し更に陰陽の道、真幻の別を悟るとは。天賦の知恵は浅からぬようですね」

 声は近くまた遠く、辺りを見回しても、声を発しているものの姿は見えなかった。
 五彩の瑞雲が天の際から漂いながら近づいて来た。観音菩薩が手に宝瓶を持ち、雲の上に端座している。

 ケサルは馬から降りようとしたが、尻が鞍に貼り付いたかのように身動き出来なかった。
 菩薩は笑って言った。
 「お前はすでに心の中で礼をしています。そのまま座って話しましょう」

 「観音菩薩様」

 観音菩薩は微かにうなずいた。
 「お前が天の神であった時会いましたね」

 「リンに居る時、寺の壁画で拝見いたしました」
 
 「どのようにして閻魔王を騒がせたのですか」

 「妃を救いに行ったのです」
 
 「魔国から来たお前の妃はあまりに多く殺戮を犯しました」

 「だが、妃は後に帰順し…」

 「それは分かっています」

 「菩薩様、妃をお救い下さい」

 「私は閻魔王にもの申すことは出来ないのです。パドマサンバヴァ大師を訪ねなさい。大師の半人半神の立場は私に比べて事を為しやすいでしょう。まずは戻りなさい。少し休むのです。閻魔王を怒らせたのですから、しばらく病に臥せるかもしれません。病が癒えたら大師を訪ねたらよいでしょう」

 そう話すうちに空中にあった菩薩の姿は消えた。

 王城に戻ると、ケサルはやはり病に倒れた。寒気と熱が繰り返し、手足に力が入らなかった。
 王子ザラ、妃たち、病身の首席大臣までもがケサルの周りに集まった。みな、国王は天へ帰るのではと恐れていた。

 「心配することはない、ただ疲れて休んでいるだけだ。このような形で天へ帰ったりはしない」

 ケサルは言った。
 「病による死が天へ帰る術であるなら、私は天へ帰ろうとは思わない」
 みな国王の言葉を信じ、安心して下がった。

 こう答えたものの、国王に確信はなかった。そこで、天に向かって祈った。
 「大神よ、どうぞ、人間たちのように病による死を与えないで下さい。威厳をもって天へ帰りたいのです」

 空気が微かに震え、龍の啼き声にも似た雷鳴が轟いた。天の大神が応えたかのように。

 ひと月も立たずにケサルの病は完全に癒えた。ケサルはジュクモに言った。これから小佛州へ行ってパドマサンバヴァ大師に会って来る、と。

 小佛州とは、深い山の中にあるのですか、とジュクモが尋ねた。
 ケサルは答えた。
 「吉祥境は天の国により近く、人の世からはより遠い」

 ケサルが人の世の様々な地で妖魔を倒す時でさえ、ジュクモは夫を送り出したくはなかった。まして、今回国王が赴こうとしているのは、人の世ではなく天の国に近いと言う。
 夫の行き先がこの世ではないと聞き、ジュクモは激しい痛みを感じた。痛みは頭から足の裏まで閃光のように体を貫き、心臓は砕けたかと思えるほどだった。

 夫は天へ帰ろうとしているのだと考えたジュクモは、即座に地に伏した。
 「お出かけになるならジュクモをお連れ下さい、でなければ心が砕けて死んでしまいます」

 ケサルは苛立ちを覚えた。
 「何故出掛けるたびごとに、あれこれと邪魔をするのだ」

 ジュクモの目から涙があふれた。
 「ご主人さま。これまでは恋情を抑えきれずにお止めしました。それは私の誤りです。ただ今回は、王様がそのまま戻られず、ジュクモ一人がこの世に置き去りにされるのでは、と心配でなりません。私はこれまでいくつもの誤りを重ねてきました。それでも、心から王様をお慕いしているのです」

 そう聞いてケサルは言葉を和らげ、今回はただパドマサンバヴァ大師に会い、アダナムを地獄から救う方法を尋ねに行くだけだ、と優しく伝えた。

 ケサルは言った。
 「今回はどれほどの時間がかかるか分からない、母グォモは高貴な生まれでありながらリン国のために辛い日々を過ごされた。今、年老いて体は弱っている。本来なら私がお傍にいるべきだが、この度は、そなたに私に代わって仕えて欲しいのだ」

 ジュクモはそれ以上言葉を返すことはなかった。

 ケサルは首席大臣と将軍たちを集めた。
 「これから私は仏法の最も奥深い地へ行くこととした。大師に教えを乞うためだ。その間、兵を興し戦ってはならない。狩人は弓矢を置き、漁夫は網を日に晒したままにしておかなくてはならない。しかと心に留めておくように」

 言い終ると、一筋の光となって西の天空へ向かって飛んで行った。