塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 38 第4章 ツァンラ

2009-02-22 22:23:30 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




5 時空をかけめぐる踊り その1



 その2年後、私はテレビ番組のライターとして再びザイロンに戻って来た。
 ぼんやりとした頭で一晩を過ごし部屋代も払わず夜中に抜け出したあの庭に戻ってき来た。だが、あの庭のある部屋には泊まれなかった。

 テレビカメラは、必ずと言っていいほど人々から熱狂的な歓迎を受けるものだ。 その時は、四川省国外チベット同胞受け入れ事務所の鄢長青が、私を巻き込んで、対外宣伝用の作品を撮影する任務を引き受けたことによる旅だった。
 鄢長青は、嘗ては才能を嘱望されたチベット族の作家だった。その後映像関係に転向し、その方面では名の通った作り手となった。

 その時、番組撮影の機会を得て、私は彼についてマルカム、大小金川と理県などの場所をたっぷり二ヶ月あまりかけて歩き回った。それは一人で気ままな旅をするのとはまったく違っていた。

 テレビ番組を撮るということで、関係部門から特別に扱われたのである。
 特別扱いされると、往々にして特別なもてなしを受けることになる。その二ヶ月間、私たちはホンダのクルーザーを使い、どこへ行っても、そこに接待係がいて、美味しい食べ物や飲み物が用意されていた。
 まさにその旅の中で、私は再びザイロンを訪れたのである。

 その前に、私と鄢長青は県の職員の同行のもと四姑娘山を歩き、野宿しながら3,4日を過ごした。時は秋も深い10月だった。もし、大雪が私たちと多くの飢えた動物たちに下山を迫らなかったら、私たちは我慢強い当地の職員を連れて氷河の下にある谷間を更に何日も歩き回っただろう。だが、大雪が降って私たちは下山を余儀なくさせられた。

 小金の県城に戻ると、県知事がもてなしてくれた。県知事はこの地のチベット族で、同席の政治協商会議の楊副主席は美術系出身の文化的な人物だった。現在の小金と昔のツァンラの長い歴史と特別な風土に対して深い知識を持っていた。

 酔った私は、あのザイロンでの夜のことを話し始めた。

 職員は笑った「その踊りは簡単には見られません。今の若者はもう踊れないでしょう。踊れるのは中年や老人だけです。新年や祭りの時でなければ見られなくなってしまってね。特別にやってもらう以外には無理でしょう」

 接待係の統一戦線部長は、胸を叩いて、特別にやってもらう、と請合った。

 私は酒の席の勢いだろうとすぐに忘れてしまった。次の日、県の運営する大理石工場と新しく作った冷凍倉庫を見学した。ここ数年、この地の果物の生産量が増え、それに加えて日本への輸出用のマツタケも盛んに採れるので、このような大型の冷凍倉庫を建てたのである。
 午後、招待所に戻って休んだ。だが、突然車が来て、機材を持ってザイロンに行くように言われた。

 三台の車は秋深い乾燥した公道にもうもうと埃を巻き揚げ、30分もかからずに、以前私が深夜に立ち去ったあの庭に入って行った。
 私はその庭だと分かった。あの時のままの剥がれかけた石灰の壁と、壁に一の行文革時代の標語が残っていたからだ。

 郷の幹部の出迎えで、茶を飲み、田舎の名物料理が出された。とうもろこし団子入りの漬物スープである。スープにはこの地の唐辛子を細かく叩いたものが入っていて、香りと辛さで汗が噴出した。とうもろこし団子はもちもちして独特の香りがあり、ゆっくり味わうとほんのりと甘かった。
 郷の幹部は県の長官に仕事の報告をしている。私と鄢長青はその場に居ずらくなり、外に出てぶらぶらした。

 ビリヤード台はやはり道端に置かれていたが、その周りにあの勇ましく喧嘩っ早いが愛すべき若者の姿はなかった。

 ちょうど収穫に忙しい時期で、若者たちも畑に行って刈り入れをしているのだろう。村は前に通り過ぎた時より少し美しく感じられた。霜が降りて紅葉した梨の木のせいだろうか。
 一巡りして戻ってくると、郷役場でもある荒れ放題の庭の真ん中で、人々がトラクターから篝火用の薪を卸していた。

 郷長が状況を説明してくれた。
 「鍋庄舞」を本当に踊れる人々はみな山の途中の村で暮らしている。彼らは畑仕事を終え、食事をし、きちんと支度したら山から降りて来るだろう、と。そこで私達は部屋に戻って茶を飲みながら待った。

 黄昏がゆっくりと山に降りて来た。

 ちょうどその時、後ろの山道から微かな音が伝わって来た。山の木々のざわめきのようだった。
 だが、この辺りはもう何年も前に禿山になっていて、木々を吹き過ぎる風の音はもはや聞こえるはずがない。もう一度じっと耳を傾けてみた。
 なんとそれは、たくさんの人が険しい山道を走っていて、走りながら単調な雄たけびを上げているのだった。

 ほー
 ほ、ほー
 ほほほほほほー

 まさに、松風が地を揺するような自然の中から生まれて来た音である。

 まもなく、正装したギャロンの男たちが庭を埋め尽くした。
 私の感覚の中では、彼らこそ過去の時代から来た者たち、小金がまだツァンラと呼ばれていた時のギャロンの男たちだ。

 彼らは毛並みのよい狐の毛皮の帽子を被っている。肩幅が広く袖の長いプルで出来た外套を纏い、膝丈の裾には手のひらの幅のカワウソの毛をつけている。そのうちの何人かは、斜めの襟に手のひらの幅二つ分の豹の皮をつけている。
 ギャロン・チベットの男性の服装で最も装いが凝らされているのは腰である。男性はみな粗い織りの赤い腰帯を巻きつけ、腰帯に、銀の鞘に珊瑚をはめ込み象牙の箸を刺した美しい刀を提げている。腰帯の正面には小さな皮袋を提げ、皮袋の中には火口と石英がいくつか入っている。袋の下側には半月形の鉄で出来た火打ち鎌が付いている。

 こうして、過ぎ去った時代がいきなり目の前に現れた。

 それはマッチのない、ましてやライターなど無い時代である。出征する男たちは、野外で料理する時、まず、地面に乾燥した草や木の枝を組み上げ、それから、体の前に提げている皮袋から石英を取り出し、一つまみの火口を石英の上に置き、皮袋に付けた半月形の鉄の板を力いっぱい打ち付ける。何回か打つと、飛び散った火花が火口の上に落ち、火口の中から微かな煙が幾筋か立ち上る。その火口を組み上げてあった枝に近づけ、ほほを膨らませて思いっきり息を吹きかけると、小さな炎が吹き出して来る。

 これは出征の途中の情景である。戦地に着くと、火打ち鎌は更に大きな働きをする。それを使って火縄銃の導火線に火をつけるのである。

 私は火縄銃を打ったことがあるが、目標に照準を合わせてから、銃の音が響くまでの間、銃床にぴったり貼り付けた顔半分は火縄の吐き出す炎に焙られるのを我慢していなくてはならない。今でも、私の頬には細かい黒い点が密集している部分がある。それは火縄銃で野鴨を撃った時に焼け焦げた跡である。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 37 第4章 ツァンラ

2009-02-06 01:22:07 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




4 道端のビリヤード


 もう一つの、胡桃の木々に覆われた村に着いた時、すぐに私を泊めてくれる家が見つかった。

 そこでは、このあたりの村が過去に阿片を植えていた時の状況を尋ねることができたし、紅軍の物語を聞くこともできた。
 紅軍の第一、第四の二つの方面軍が長征の途中でこの地域を通っており、県の東南部のダーウェイこそ第一、第四方面軍が長征の途中で合流した場所だった。

 そういうわけで、人々の間に様々な解釈の物語が伝わっていたとしても不思議ではない。

 そのような物語をたくさん聞くうちに私も、それらとはまた違った解釈で、しかも紅軍の偉大さと長征の悲愴さを損なわない小説を書いてみたいと考えるようになった。
 だが、編集者を驚かせてはいけないと、何度も書きかけては、途中でやめてしまうのだった。

 こんなふうに気ままに歩きながら、次の日の夜はザイロンに泊まった。

 ザイロンという名前は随分早くから聞いていた。なぜならそこには「鍋庄舞」という特別な民間舞踊が盛んに行われていたからである。
 専門家の考証では、この舞踊と吐蕃時代の出陣の踊りとは一定の関係があるという。私はこの踊りを見たことはないのだが、雄壮で力強いものに違いない。

 吐蕃時代、このあたり一帯はチベット兵の駐屯地だった。チベット族の体には、駐屯兵と同じ戦いを好む血が流れている。乾隆年間の大小金川の戦の時、このあたりはまた、四川省や陝西省の兵たちの駐屯地となった。長期に渡って兵たちが民の間で暮らしていたので、ギャロン地区、特に大小金川地区に勇猛果敢な気風ができあがった。
 この土地の踊りの中に、出陣踊りの名残が残っていたとしても、至極当たり前のことなのである。
 言い方を変えれば、このような風習が残されていない方がかえって不思議である。

 この土地独特の踊りを見たいという思いがあったためだろう、やっと正午になったばかりだったが、そのままザイロンに留まることにした。

 まず見たところ、ザイロンには土地の踊りなどなさそうだった。
 埃の舞い上がる一本の道が、山のふもとに散在する村々の真ん中を貫いている。村の外は河岸の台地で、台地の上には、お決まりのように、花をつけ始めたばかりのトウモロコシが植えられている。トウモロコシ畑の中にもまたお決まりのように、かなり大きなリンゴの木が数本植えられている。そして、村の中心には、古めかしい梨の木が聳えていた。

 村の中心の通りの両側には、雑貨屋が置いた露天のビリヤード台があった。
 これは、今まで通って来た道路沿いの村でも同じだった。そこにはいつも、何もすることのない若者が何人か台を取り囲んで、ナインボールのゲームをしている。ゲームをする時には、どこでも同じように、誰かが埃に汚れた緑のラシャの上に一元か五元の金を放り投げる。

 私は足を止め、進行中のゲームを観戦した。
 そのゲームは最初に撞いた者が負けた。
 彼はチベット語と漢語の中のありとあらゆる下品な言葉で悪態をつきながら、顔はそれほど気にしていないかのように笑っていた。
 賭けに勝った者の口から出たのもチベット語と漢語を混ぜこぜにした汚い言葉ばかりだ。
 彼らの一代上の世代の間ではこんなことはなかった。いつから、そして何故こんなに変わってしまったのだろう。 

 また、ゲームが始まった。

 今回登場した若者は思い切り力を込めて撞いた。撞いた途端、台の上の球はあちこちでぶつかり跳ね返り、その結果、三つの球がそれぞれのポケットに入った。だが、白い手球は回転しながらそのまま台の外に飛び出してしまった。

 私はため息をついた。そんなに力を入れなくてもいいものを。

 球を撞いている若者だけでなく、台を囲むすべての若者が私に対して非友好的な眼差しを向けた。
 若者たちは、ここを行き来する見知らぬ者に対して、いつも警戒心に満ちた非友好的な目線を投げかける。

 だが私はひるまなかった。理由は簡単である。もし故郷を離れずにいたら私もきっと彼らの一員になっていたはずなのだ。
 彼らの眼差しの中にある虚勢や嫉妬や見掛け倒しの強がりを、私は知っている。

 球を飛び出させた若者はキューを横にして持ち、私に近づいて来た。それは人を脅す時の構えだ。

 オスのやぎが相手に攻めかかろうとする時は必ず、頭を低くし尖った角を前に向け、蹄で足元の石をガリガリとこする。
 そうやって動きや音で威嚇するのである。

 このあたりの村ではどこでも、このような好戦的なやぎを何匹か飼っている。実際に、私の足元のこの固い道の上にも、早朝やぎが村を出て行く時に道一面に撒きちらした黒い丸薬のような糞が残っていた。

 こういう時は私のほうから何か言わなくてはならない。

 そこでこう切り出した。「たいした気合だ。だからってそんなに力を入れるのはどうかな」
 もちろんチベット語を使った。この土地の人が今でも聞き取ることのできるギャロンのチベット語だ。

 キューを持って近づいてきた若者はそこで止まり、一瞬戸惑ってから笑い出した。
 「あんた、ここの者じゃないんだろう。よそ者のくせに、よくそんな強気でいられるな」

 「ご先祖さまから受けついだしきたり通りに、外からき来た客人にはもう少し気を使ったほうがいいんじゃないかな」

 若者は何も答えず、キューを私に手渡し「勝負しようぜ」と言った。
 私は首を振りながら言った「いや、やったことはない」
 彼は言った「なら、俺が勝つか負けるか、賭けな」
 私は答えた「どちらが勝っても、ビールを奢ってくれるんだろうな」
 彼はちょっと考えて、既に台におかれている五元の掛け金に、更に五元を加えた。

 そのゲームでは、相手が入れた球は二個だけだったが、彼が負けた。三回続けて手球を台の外に飛び出させたからだ。

 その頃、私達の周りには若い娘たちが集まって来ていた。

 娘たちは一代前の女達が若かった頃と同じように、一塊になり、一人の見知らぬ男を目にして訳もなく騒ぎ立て、お互いに体をつつきあってはくすくすと笑っていた。

 彼女達の笑い声に囲まれて、私たちは一本ずつビールを手に取った。
 何時間も歩いて来た者にとって、一本のビールは何よりも渇きを癒し元気付けてくれる飲みものだ。
 私は一気に飲み干した。娘たちはまた笑い出した。
 若者たちも一気に腹に流し込んだ。
 私は更に十元出し、皆でもう一本ずつビールを飲み干した。

 私は梨の木の下の、何のために置かれているのかわからない真四角の花崗岩に座り、木に凭れて眠ってしまった。目が覚めた時、夕日は既に傾き、娘たちとほとんどの若者はすでに帰った後だった。

 私と一戦交えるはずだった若者だけが傍らで見守ってくれていた。

 彼に、眠れる場所に連れて行ってくれと頼んだ。彼は自分の家に来ればいいと言った。

 私は首を振り「すぐに眠れる場所が欲しいんだ」と答えた。
 「郷の役所へ行けばいい、きれいな寝床がある」と教えてくれた。

 きれいな寝床があるといわれた場所には、古い木のベッドが並べられていて、部屋中に埃っぽい匂いが立ち込めていた。
 それでも私は布団にもぐりこみ、眠りについた。
 もし喉が渇かなかったら、そして窓の割れ目に吹きつける怪しげな風の音がなかったら、深夜に目覚めたりはしなかっただろう。
 壁のスイッチを手探りし、やっとのことで電気をつけたが、飲み物は見つからなかった。二本のペットボトルは空っぽだった。

 部屋の中の様子から見て、これは5、60年代に建てられた漢式の古い家だ。
 壁に塗られた白い石灰が所々ごっそりと剥がれ落ちていて、麦わらの混じった土壁を覗かせていた。

 私は庭に出た。
 透明な月の光に満たされた、清涼な夜だ。

 だが、私はやはり喉が渇いていて、水はやはり見つかりそうもなかった。

 突然、今晩ここに泊まったのは、出陣の舞でもあるザイロンの民間舞踊を見るためだったのを思い出した。

 だが今は、広い庭には月の光が創り出す数本の木の影があるばかりで、一つ一つの窓の奥を支配しているのは音のない深い眠りだった。

 星空を見上げると、夜明けを告げる明星は、すでに山の尾根から昇り始めていた。

 私はリュックを担ぎ靴紐をきつく結んで出発した。

 石造り家の影をいくつか通り過ぎ、公道に出た時、村中の犬が一斉に吼え出した。犬の甲高い鳴き声はしばらくの間、谷あいを震わせた。

 村のはずれまで来て振り返った時、何匹もの犬が尻尾を立て、村を貫く公道の出口で、私に向かって吼え続けていているのが見えた。

 山道を一つ曲がると、犬の声は消え、ただ自分の影だけがついて来た。
 更に一時間ほど歩き、月が山の背に沈むと、あたりに響くのは、ざくざくと地面を進んでいく私の足音だけになった。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)