塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』㉞ 物語 大雪

2014-01-26 02:34:19 | ケサル
物語:大雪



 神の子ジョルも雪の夢を見ていた。夢で雪を見たのは初めてではなかった。

 ジョルは上着を羽織ってテントの外へ出た。
 雪はなかった。そして、今は夏だ。

 月の光の密度があまりに濃く、まるで牛の乳のように地上を流れていた。
 ジョルは思った。これは神の意志が示されているのではないだろうか。なぜなら月の光は普通ならこのように濃くなるはずはないのだから。

 ジョルはその啓示を理解した。

 それは告げていた。
 この地が未来の祝福された地であり、牛の乳が水のように流れているのは、この地で将来家畜が盛んに生まれ育つのを意味していることを。

 では、夢の中に舞う雪は何を表しているのだろう。

 ジョルは神に尋ねた。神の答えはなかった。
 密かに彼を守っている神の兵たちはこの問題に答えないように、月と共に灰色の雲に隠れた。

 南へと向かった渡り鳥たちは、ギャアギャアと鳴きながら北へと帰って来て、黄河が湾曲する沼地に降りた。
 風向きは変わらなかった。湿り気を帯びて温かい東南の風が西北の風と同じ寒気を帯びていた。

 母メドナズも驚いたような鳥の鳴き声を聞き、衣を羽織って起きて来て、ジョルの後ろに立った。
 ジョルは何かを感じて言った。

 「神はリンを罰しようとしています」

 母はため息をついて。
 「それでは、リンの人々は私の息子への恨みをさらに強くするのではないでしょうか」

 「そんなことはありません」

 「誰が私を人の世に寄こしたのでしょう、あなたを生み、そしてあなたをこんなにつらい目に遭わせてしまって」

 「母さん、僕はもうそのようには考えていません」

 「私はそう思わずにいられないのです」

 「愛しています。母さん」

 「それが神の下さった唯一の幸せです」

 今ジョルははっきりと見た。
 「リンに雪が降りました」

 こう言った時、ジョルの表情は限りなく悲しそうだった。

 「私たちは、雪の災で逃げて来るリンの人々を迎える用意をしなくてはなりません」

 リンに本当に雪が降った。

 タンマはギャツァの元に駆けつけ報告した。
 ギャツは総督に報告に走った。
 老総督ロンツァは言った。

 「夏に雪が舞うとは、奇怪な天の現象だ。これは神の子を追放した罪だ。リンの民すべてがこの罪を犯したのだ」

 彼らは外に出た。大雪は舞い落ち舞い上がり、夏の緑の草は黄色く枯れていった。
 夕方、雪は少しおさまり、西の天の際から微かな光が差した。人々は祝福された口ぶりで言った。

 「雪はもう止むだろう」

 老総督は強く寄せた濃い眉を緩めることなく言った。
 「雪はもうじき止む。もう止んだと言えるだろう。だが、愚かな者たちよ、自分たちの過ちを思いなさい。これは神が我々へ降された警告なのだ」

 「老総督よ、そのようしかめっ面はやめなさい」

 トトンは自分の宝馬の背から飛び降り、
 「さもないと民たちは恐れたままだ。安心しなさい。明日起きた時、牛や羊と争って牧草を食べていた虫はすべて凍って死んでいるだろう。
 いいかね。これはこのトトンが法術で降らせた大雪なのだ」

 老総督は言った。
 「わしにはお前が法術で良い行いをするとは信じられん。ならば、この大雪を神が我々に特別に下された配慮と見ることにしよう」

 ギャツァは言った。
 「だとしたら、神はどんな訳があって私たちに福を下さったのでしょう」

 老総督は答えることなく、手を後ろに回して砦に帰って行った。

 「見ろ、雪は止んだ」
 トトンは大声で叫んだ。雪は止んでいた。

 西の空の厚い雲の層が大きく裂け、この日最後の日の光をこれまでにないほどに明るく輝かせていた。

 トトンは両手を上げて叫んだ。
 「雪は止んだ。わしの神通力を見たか。大雪で害虫はすべて死んだ。最早害虫たちが牛や羊たちと牧草を争うことはない」

 牧人たちは喜びの声を挙げた。牧人たちは思った。
 「常に憂い顔のままの老総督と比べて、この人物こそリンの首領にふさわしい」

 だが、農夫たちには心配があった。
 「オレたちの畑は虫たちと一緒に寒さにやられてしまう」

 「明日、畑は復活するだろう」

 この日の眩い黄昏の中、リンの民たちはトトンが成功を確信している様子を見て言った。
 「神は我々に王を降したと言われてきた。もしかしてトトン様が神から賜った王なのではないだろうか」

 だが、西の空に開いた雲の切れ目はあっという間に塞がった。厚い雲がまた空を覆った。

 トトンは形勢が悪いと見るや、彼の鞭の元で飛ぶように走る宝馬に乗って自分のに急ぎ帰って行った。

 トトンには、このようにたやすく彼の臣下になろうとする者たちは、また、あっという間に彼に背くことが出来るのを知っていた。

 諺に言う
 「善人は人の心の中の良い種を見る。悪人は人の心の中の悪い胚芽を見る」

 盲従する人々とは、ある時は羊、ある時は狼となるのである。

 トトンが逃げ帰る途中で、また雪が降って来た。今回は、九日九夜降り続いた。

 その後、天は再び晴れた。

 老総督はギャツァに言った。
 「わしは山の頂の祭壇に行って敬虔に祈ろうと思う。神は必ず何かの印を下さるだろう。だが。雪はすべての道を埋め尽くしている。馬は雪に踏み込むと深い淵に落ち込んでしまうのだ」

 ギャツァは箙から矢を一本取り出し、弓を一杯に引いた。放たれた矢は地を這うように飛んで行き、厚く積もった雪を二つに分けた。ギャツァが続けて三本の矢を放つと、雪はまるで大きな波のように両側にうねりをあげ、一本の道が現われた。

 老総督は祭司を伴って祭壇に上った。
 
「天の神よ、本来ならいけにえを捧げるべきですが、我が民は既に多くの苦難に遭ってきました。
 もし望まれるのでしたら、この老いた身が喜んで捧げものとなりましょう。
 あなたの鋭い刃で私の胸を切り裂いてください。

 神よ、リンでは、私を王という者がおります。だが私は王でないことを知っています。
 私を死なせ、その後民を苦しみの海から救い出す王をお授けください」






ケサル 阿来の演出

2014-01-23 23:33:43 | ケサル

ジンメイが語り部となる時が近づいて来たようです。

そこで、ここで一休み。


ジンメイは、一度は師匠と決めた老いた語り部に付いて行きませんでした。老人の語りとジンメイの夢が異なっていたからでした。

ジンメイは言います。

「始まりからもう違っています。神の子は理由があって追放されたんじゃありません。みんなはジョルを神の子とは知らず、追放したのです」
これはどういうことでしょうか。

史詩ケサルでは、パドマサンバヴァが美しい詩の形でジョルに語りかけます。
そうしてジョルは自分が王になることを知り、これからすべきことをすべて心に刻みます。

リンを離れて黄河の流域に行かなくてはならないこと、そのためにはパドマサンバヴァ大師の言葉通りにしなくてはならないこと。
そのため、自分から角の生えた帽子と、牛の皮の破れた上着、鳥の羽のついた醜い靴を身に着け、人々から恐れられ、追放されるよう仕向けました。

阿来のジョルはどうでしょうか。

パドマサンバヴァはジョルの夢に現れ、何時かは国王となることを伝えます。
ただし、その時はまだ来ていない、苦しみを受けなくてはならない、とも告げます。
すると、ジョルは駄々をこねたように、それなら王にならずに天に帰る、と言いパドマサンバヴァを追い返してしまいます。

その後は妖魔を倒すために残虐な殺戮を繰り返し、そのスリルを楽しんでいるようでもあります。醜いいでたちはその延長と言えるでしょうか。
ジョルは追放される時にこれが使命だと自覚しているのかどうか、阿来の作品からははっきりとは分かりません。
神々に守られていることにも気づかず、孤独に去って行きます。

そして時々神に対して恨みを述べています。

「神のされることはなぜ人々に理解されにくいのだろう」

「神がすべてを見ることが出来るなら、リンの人々は自分をこのように不公平に扱わず、母が辛い思いをすることもなかっただろう」等々。

外からやって来た新しい教派の僧に対しても馴染めず、どうして神が自分とは相容れない使者を人間界に送ったのか分からない、と悩みます。

これがジンメイの夢に現れるケサルの姿です。
つまり、一人の悩める人間としてのケサルです。

阿来は書いています。
「私が関心を持つのは文化の消失ではなく、時代が急激に変化する時に適応できない人間の悲劇的な運命だ。そこから慈悲が生まれる。この慈悲こそ文学の良心である」(空山三記・山口守訳)

新しい国の始まりを担う人間としてのケサル、
悲しみの多い運命に導かれる語り部ジンメイ。
彼らからどのような慈悲が生まれるのでしょうか。

また、このケサルの中でこうも書かいています。

「もともと、神が人間界に降りて来たとしても、そのまま衆生の長になれる訳ではない。必要な曲折を経て…それに応える者が雲のように集まってくるのである。
もし、これが芝居であるなら、登場したばかりの主役がこのように演じるのは、すでに監督の演出に背いていることになるのではないだろうか。それとも、この意外な展開は、監督の施した、より深い意味を持つ演出なのだろうか」

史詩の中のケサルは、生命力にあふれ、女性を愛し、神を信じ神々と共に戦います。

阿来の『ケサル王』では、悩めるケサルはこれからどのように演じられていくのでしょう。


阿来の“深い意味を持つ”演出を楽しみたいと思います。









阿来『ケサル王』㉝ 説語り部 運命

2014-01-15 02:05:22 | ケサル
説語り部: 運命




 語りを聞き終わった人たちは顔をあげて空を見た。
 何千年の間人々から見上げられてきた空は、星が冷たく瞬いているばかりで、まだ何も顕してはいなかった。
 沈黙。沈黙の中にはある種の咎めがあった。

 数千年の時の中で、最後にはどのような人物が予言を発し、民衆に奇跡を告げるのだろう。
 奇蹟は時に現れるが、それはただ少数だけに属するものだった。

 多くの人にとって、自分たちは常に忘れられたものだった。忘れられている時、彼らはこのような沈黙を自分を守る武器とするのである。

 沈黙していさえすれば、絶えず姿を変える予言に心を動かされたことなどないふりができる。だがそれはふりをしているだけなのだ。
 だから、彼らの沈黙には哀しみと恨みの味がするのである。

 老いた語り部は首を埋めたまま動かなかったが、暫くしてやっと物語の世界から抜け出した。
 人々は黙ったまま歩み寄り、布施―小銭、干し肉、餅、干乾びた果物、ヨーグルト、塩、嗅ぎタバコなど、ありとあらゆる物を語り部の前に敷いた布の上に置き、去って行った。
 月の光が彼らの薄い影を長く伸ばしていた。

 最後に、ジンメイただ一人だけが残った。座ったまま立ち上がろうともしない。
 その影もまた彼と一つになって座り、まるで本当に存在しているようだった。
 それは、他の聴衆たちとは違っていた。彼らは、帰って行ったのではなく、月の光の中でその姿が徐々に消えて失くなったかのようだった。

 語り部は琴を仕舞い、腰をかがめて金だけを懐に入れてから、息をハアハアさせながら布を巻いて体に括った。
 こうすれば布施された物を楽に持って行くことが出来る。

 「そのまま行ってしまうんですか」

 「お前はついて来ないのか」

 「さっきの語りはオレの夢と違っていました」

 語り部は目をギラリと光らせた。

 「神様はこの物語を作り変えようとしているに違いない。それで、お前に夢を見させたのだ。だったら、教えてくれ。一体どこが違うのか」

 「始まりからもう違っています。神の子は理由があって追放されたんじゃありません。みんなはジョルを神の子とは知らず、追放したのです」

 「夢でそれを伝えたのは誰だね」

 「分かりません」

 「では、どんな様子だった」

 「誰かが夢で伝えたのではなく、映画を見るようだったんです」

 「そうか。焦らなくていい。何が違うのかだけ教えてくれないか」

 「始まりから違っていると言ったじゃないですか」

 「それなら、その後は同じなのだな」

 「その後…その後はまだ夢に見ていません。今日、あんたが一気にたくさん語ったので、オレの知っているのよりずっと先まで進んでしまった…」

 老人は包みを背負い、六弦琴を胸に抱え言った。

 「この物語にまた新しい枝が出来るようだ。もしわしが途中で凍えや餓えで死なず、まだ力があったら、お前の物語を聞きに戻って来よう」

 こう言うと、老いた語り部は歩き始めた。
 老人は微かな月の光の中を進んで行った。

 その姿が消えかけた頃、ジンメイはその声を聞いた。
 
 「神様、物語はどうして終わることがないのですか。どうしてわしのような卑しい身分に生まれついた者を遠くへと駆り立てるのですか」

 こうして、老人の姿は消えた。

 ジンメイはその場に座って動かなかった。老人の言葉が冷たい空気のようにジンメイの心に入り込み、疑問を生んだ。

 この物語はどうしてよりによって自分のような者を選んで語る者にするのだろう。

 冷たい風が吹き、ジンメイは怯えたように震えた。
 「語る者」。
 自分の頭に浮かんだ語る者という言葉に驚いた。

 自分は、去って行ったばかりの年老いた語り部と同じようにあらゆる苦しみを味わい、天から降った英雄の古くから伝わる物語を背負ってあちこち彷徨うのだろうか。

 家に戻り、窓から月を眺めた。
 部屋の中の暗さのためか、月は草原で見上げるよりもはるかに明るかった。

 ジンメイはもう一度この言葉を口にした。
 「語る者」。
 自分の声がこれまでより明るく聞こえた。

 あの物語を夢に見たくないわけではない。
 だが心の中で、自分はもう夢の中であの物語が映画のように演じられるのを見ることはないかもしれない、と思った。

 ジンメイの心は揺らいでいた。
 語り部としての運命がどのように展開していくのか、彼は何も知らなかった。
 だから、たまらなく恐ろしかった。

 ジンメイは自分に言った。
 「オレは愚かな人間だ。神様は見間違えたのだ。今神様は、オレがどんなに馬鹿な奴かと知って、もう不思議な夢を見させようとはしないだろう」

  ジンメイは月の光を眺め、眠らないようにした。
 眠ってしまうのは分かっていた。だが、やはり月の光をしっかり見つめていた。

 眠りたくなかった。

 だが、月の光は何故か彼の目の前で変化した。ガラスのように細かく砕け、月の光よりもより確かで、より白い雪のようなものに変わり、空の奥からひらひらと落ちて来た。

 ジンメイは声を聞いた。その声は言った。

「物語。そう、物語はすでに定まっている。だが、細かい部分は時に異なることがあるのだ」

「どうして?」

 突然笑い声がした。
 それは荒れ狂う風に舞う雪のように震え、空中で旋回した。

 「一つの事柄であっても、人はそれぞれに異なった理解と表現をするものなのだ」










阿来『ケサル王』㉜物語 茶

2014-01-09 23:10:41 | ケサル
物語:茶 その4




 隊商の首領は言った。

 「私が帰るのを待つまでもなく、この知らせは私の国に伝わるでしょう。
  私が帰りの道に着く頃には、茶は既にこちらへ向かう途中にあるはずです。
  最初に届いたものはあなたへの贈り物に致します。
  ただし、その後、あなたの民はそれなしにはいられなくなるでしょう。
  その時は、領地にある多くのものと交換しなくてはなりません」

 「何がいいかね」

 隊商の首領は草原を疾走する馬の群れを指さし。
 「もしあの馬たちを飼い馴らすことが出来るなら…」

 「出来る。牧人たちが乗っているのは野の馬を飼い馴らしたものだ」

 隊商の首領は、次に山の間を勢い良く流れる渓流に目をやった。渓流の底の泥や砂の中には貴重な金沙が沈んでいる。 

 「金」

 首領の目はまた平原の珍しい草花に移った。
 そこにあるすべては病を治す優れた薬となる。

 ジョルは少し不機嫌になった。
 「もういいだろう。私は何か一つ欲しいものはないかと聞いたのだ。お前の目はあまりにも貪欲だ」

 商人はしたり顔で笑った。
 「世界中の誰もが私のことをそうやって罵ります。でもその後、この世界の人々は時が経つほどに私から離れられなくなるのです。
  ですから、後悔してもよろしいのなら、私どもの品を断っても構いません」

 「必要だ」

 「あなたが開いた道は私たちのような貪欲なものを引き寄せるだけではなく、家を失い彷徨っている多くの人々がここへやって来て、あなたの民になるでしょう、
 尊敬する王様」

 「私は王ではない」

 「いつかあなたは一つの国の王となられます。
  あなたが新たに雪山の麓を閉ざさず、蔓の橋と渡し船を焼きさえしなければ」

 ジョルにはそれは出来ないと分かっていた。

 これはジョルを言いようもなく憂鬱にさせた。
 この道を開いた時、自分の能力は無限で、この荒れ果てた場所を穏やかで豊かに出来ると考えていた。
 だが今自分が更に大きな力によって動かされていると感じている。

 それは妖魔ではないが、見ることができず、殺すこともできず、常にこちらに近寄って来る気配がしていて、しかも、すぐそばにいるもの。

 商人は玉の杯で茶色い飲み物を差し出し言った。
 「お飲みください。これが茶です」

 ジョルは尋ねた。
 「葉ではないのか」

 「とても珍しい木の葉を煮た飲み物です」

 ジョルは飲んだ。その味は苦く、だがその後、香りが口中に広がり、その香りは額にまで届いた。

 先ほどの商人の言葉に心が塞いでいたが、茶の香りが額に届くと、頭も心もすがすがしさで満たされた。
 商人はジョルに一袋の茶―神秘な枝の乾いた葉を贈った。

 ジョルはハヤブサに茶の葉をくわえさせ、リンへと飛ばせた。

 その時トトンは軽い木でトビを作り、リンのすべてに自分の法力を見せるため、毎日この木のトビに乗ってゆらゆらと空を飛んでいた。
 ハヤブサが飛んでくるのを見ると、大声で尋ねた。

 「空の猛犬よ、どこへ飛んで行くのか」

 ハヤブサは答えた「ジョル様の命で兄上ギャツァ様に会いに行くのだ」

 「くわえているのは何か。見せてくれ」

 ハヤブサはそれには従わず言った。
 「あなたはギャツァ様ではない」

 トトンは呪文を唱え、木のトビに袋を奪わせて中にどのような宝が入っているのか見ようとした、

 ギャツァはこのすべてを目にして、一矢のもとに叔父の木のトビを雲を通して射落とし、ハヤブサを自分の肩に止まらせた。
 ハヤブサは「茶、茶」と叫ぶと、翼を羽ばたかせて飛んで行った。

 ギャツァが見ると、緑の枝についた青々とした葉の茶ではなかったので、城へ戻っても特に報告しなかった。
 だが、漢の妃はその不思議な茶の香りをかぎあて、頭痛が薄らいでいった。

 彼女は言った。
 「私はなんという幸運をいただけたのでしょう。故郷に帰らなくても茶の香りをかぐことが出来たのですから」

 ギャツァはやっとその意味を理解し、茶の葉を母の前に捧げた。

 老総督も漢の妃が自ら入れた茶を飲んだ。
 総督はよく通る声で言った。

 「今、頭も心も洗われたようだ。これからは、うわべに欺かされず、心の目は永遠に正しい方向に向けられるだろう」

 人々は言った。
 「千里の彼方のジョルは、木の葉を良薬に変え、彼を冷たく追放したリンの地に送り届けた」

 神の子の名が、再びリンの人々の間に伝わり始めた。

 トトンは唇の端に大きな出来物が出来て、眠れなかった。
 密かにジョルの臣下を任じる武将タンマは言った。
 「それは奴が常に噂をまき散らした報いだ」

 トトンは人を遣わして漢の妃から茶を貰い受けた。
 だが、侍女が香り高い茶を彼の前に捧げ持って来た時、彼はためらった。

 「もしこれがジョルの仕掛けた罠だとしたら。
 ジョルは木の葉を薬に変えることも出来れば、魂を迷わす薬湯に変えることも出来るだろう。
 そうやってわしの力をみな奪おうとしているのかもしれない」

 そこで、トトンは侍女たちにその茶を飲ませた。侍女たちの体からは、これまでにないよい香りが立ち昇った。
 トトンは唇を噛みながら言った。
 
 「お前たちを殺してやろうか」
 

 その夜、ギャツアは夢を見た。

 世界中が雪の白に閉ざされていた。
 どこまでも続く雪は世界のすべてを覆い尽くし、牛や羊は草を見つけられず、暖を取ろうとする者は薪を見つけられず、道の途中の者は行くべき方向を見失った。

 目覚めると、ギャツァは多くの者を率いて山の頂上の九層に石を積み上げた祭壇で祈った。
 神が力を顕されるよう祈り、生贄を祭壇に捧げた。

 だが祭司たちは言った。神は何もお示しにならなかった、と。







阿来『ケサル王』㉛物語 茶

2014-01-06 20:24:18 | ケサル
物語:茶 その3




 助けられた商人たちは様々な珍しい宝を捧げてジョルに感謝の言葉を述べた。
 ジョルはすべて断った。

 商人たちはそれぞれ異なった言葉でを使ったのだが、ジョルはどれも聞き取ることが出来た。
 
 「私たちは英雄のために何をしたらよいでしょうか」

 ジョルは言った。
 「それなら、空になった家畜に石を積み、人も手に石を一つ持って、黄河の石のないところに積んでもらうことにしよう」

 「英雄よ、あなたの力はこれほど大きいのに、石を集めて何に使うのですか」
 「そこに大きな砦が聳え立つことになるだろう」

 「あなたの力は山一つも動かせるのに、私たちを使う必要があるのですか」
 「それが、この地を通る者たちが商いで利を得るための税なのだ」

 商人たちは心から喜んだ。

 世界の多くの地、異なった国を通ったが、石を黄河に運んで税とするといったようなやり方は見たことがなかった。
 商人たちは、この世界に小さな国があり、その若い国王がどれほど非凡で、どのような奇怪な行動をするのかを、様々な場所で伝えた。

 外の世界はそれを風変わりな話として聞いた。

 それを聞いた野心にあふれた国王たちは使者と隊商を派遣したが、それは、このような荒唐無稽な国を求めてではなく、黄金の国、宝玉の国、不死の薬を産する国を求めてだった。

 リンの老総督・ロンツァはこの噂を伝え聞いて、ジョルは本当に神の子であり、彼なりの奇抜な方法で自分の力を示しているのだろうと思った。
 老総督はギャツァに言った。
 
 「この話を聞いて、わしはジョルに対してまことに恥ずかしく思う」

 「私の弟は本当に天から降った神の子なのでしょうか」

 「神の子は既にその力を現しているぞ」

 ギャツァは愛する弟への想いを一層募らせた。

 夢の中でしばしばジョルに出会った。そのたびに、ギャツァは弟に言った。
 「お前の国はリンだ。リンの民はすべて将来お前の民になるのだ。いわれなく追放されたからといって彼らを忘れてはならないぞ」

 「彼ら?では兄さんのことは?」

 「母が故郷を懐かしがっている。その時、私は母を送って母の故郷にいるかもしれない」

 秋風が日増しに厳しくなり、ひらひらと雪が舞う季節となった。
 ひっそりと静まり返った風景を見て、母メドナズはリンが懐かしいと言った。この言葉はジョルの故郷への想いをかきたてた。

 自分は天から来たと聞いているが、天とはどのような所なのか思い出せなかった。
 だが、故郷への思いが込み上げた時、リンの風景がまるで目の前に浮かんで来た。

 その夜、彼は夢を見た。夢の中で焦りと不安にさいなまれる兄ギャツァと出会った。

 「兄さん。どうしてそのように不安そうなのですか」

 「年老いた母が病気なのだ」

 「医者たちは薬草を調合したのですか。呪術師たちは術を施したのですか」

 ギャツァは首を振って言った。
 「母が患っているのは、故郷を思う病だ。だが、母の故郷はたくさんの雪山を超え、たくさんの大河を渡らなければならない場所にある」

 「治せる薬はないのですか」
 
 「ある、だがその薬はすべて使ってしまった」

 「どんな薬です?」

 「お前の母上メドナズがご存じだ」

 朝、ジョルは母に夢を話した。
 メドナズはうなずき、昔を思って言った。

 まだセンロンの城にいた時、突然見たことのない鳥が飛んで来て、ギャツアの母の寝室の窓辺に降りた。
 ギャツァの母は泣いた。何故ならその鳥の鳴き声の中に故郷の音を聞いたからである。

 鳥は飛び立つ時、一本の木の枝を窓辺に残して行った。青緑の枝にはたくさんの緑濃い葉がついていた。

 病の床にあった漢の妃は、その枝から一枚の葉を摘み煮るよう命じ、それを飲んだ。
 暫くして、病に痛めつけられ弱りきっていた病人は寝床から立ち上がり、城の頂に立って、東を―故郷の方角を眺めた。

 漢の妃は、自分の病は故郷を思う病だと言った。

 故郷を思う病を治すことが出来る緑の枝青々とした葉は遠い故郷から届けられたもので、茶といった。

 リンの言葉を話すのに慣れたジョルの舌は、苦労してやっとその音を発した。
 「茶!」

 「そう、茶です」

 ジョルは笑った。
 「なんて不思議な音だろう」

 メドナズは言った。
 「もしこの薬の効き目を知ったら、美しい音だと思うでしょう」
 
 「なぜです?」

 「この茶は故郷を思う病を治すだけではありません。不思議な病気になった多くの人が、漢の妃の茶を用いて治ったのです。あなたの兄さんが夢であなたに託したのは、漢の妃が茶の葉を使いきってしまったからでしょう」

 漢の妃の薬は本来なら一生使うのに十分なほどあった。
 彼女はその薬をむくみのある病人に与え、悪い出来物の出来た病人に与え、快癒させた。
 だが、薬は使い果たしてしまった。

 ジョルは言った。
 「私は漢の妃のためにその茶を手に入れましょう」

 そうして、空を飛ぶハヤブサを呼びつけ、リンの武将ギャツァの元へ行かせた。
 ハヤブサはギャツァのところから、もはや一枚の葉もつけていない茶の枝をくわえて戻って来た。

 ジョルはその枝を東方から来た隊商に渡した。
 「これと同じものを運んで来てもらえないか」
 
 「茶?」

 「茶?」

 「茶!」

 「茶!」








阿来『ケサル王』㉚物語 茶

2014-01-02 10:32:44 | ケサル
物語:茶 その2





 これらの哀れむべき人々は、敬愛と期待の眼差しで言った。

 「王様、あなたよりもさらに大きな恩恵があるなどとは思えません」

 「ユロングラソンドは今一つの世界の中心となった、この閉ざされた場所はやがて四方へ道を通じさせるだろう」

 長者が群衆を代表して疑問を述べた。

 「王様、どうして一つの世界の中心であって、すべての世界の中心ではないのですか」

 ジョルは民たちに言いたかった。
 黒い頭のチベット人が暮しているのは確実に唯一つの世界ではない。天の下にはまだ別の世界と国があり、これらの世界と国の多くは、すでにかなり早くから自分たちの暮らす世界より先へ進んでいるのだと。
 だが彼は民たちにより多くの驚きと迷いをもたらしたくなかった。
 そこで民の前から去った。

 ジョルは自分が断定したユロングラソンドという中心から出発し、東へ、西へ、北へ、南へ向かった。
 すぐに、他の世界からこの地へと通じる道を自ら探し出した。

 南の雪の峰々は幾重にも群がっていたので、山神を招いて、位置を移させた。
 もともと寄り集まっていた南の山神たちがさらに身を寄せ合ったので、雪山の間に広い峠が現われた。

 商人たちはそよそよと吹く季節風とともに次々とやって来た。

 南から吹いて来る暖かい季節風がもたらす雨水は、東の風によって西へと運ばれた。
 こうして西の乾燥した荒野は生気を漲らせた。
 低く窪んだ地には美しい湖が生まれた。

 放牧する者のいない野生の牛や羊は、群れをなして湖の淵で水を飲み、虎や豹や狼がその間を通り抜けた。
 そのため、鋭敏で気の小さい鹿は眠る時も片方の目を開けていなければならなかった。

 東方では、滔々と水を湛えた大河は奔流となり、人も馬も渡ることが出来ず、ただ猿だけが蔓を伝って気ままに動き回り、こちらの岸からあちらの岸へと自由に行き来していた。

 ジョルは川岸に人々を呼び集めて観察した。
 サルは蔓にぶら下がって岸を渡ると、蔓を戻さず、しっかりした石の上に結わえつけた。
 人間はこれを見て蔓の橋を作ることを学んだ。

 東方の商人たちがいち早く蔓の橋の上に現れた。
 隊商は東方の帝国の皇帝が遣わしたものだった。

 彼らの銅は、兵器をとなるほかに、貨幣として鋳造され、美しい器として打ち出され、西の国の稲妻の根、地下の鉱脈の音、雪蓮花の夢を集めた。
 これらを持ち帰り、東方の海の中の珍しいものと混ぜ合わると、皇帝に献上する不死の薬を練成することが出来るという。

 商人たちは、細かい彫り物を施した玉と呼ばれるものを胸の前に下げていて、岸に上がるとすぐに、西の異なる文化の人たちに胸の玉をちらつかせて言った。
 「こんな石はあるかね」

 駿馬を見るとまた言った。
 「オレたちは買うよ。たくさん、たくさん。足の早い馬を」

 彼らが必要とするものはあまりに多かった。

 蔓の橋はどんどん造られ、どんどん幅広くなった。
 更に幅広い河には筏や船が現れた。

 ユロングラソンドは日毎に中心の地となっていった。

 隊商が次々と通って行き、西のはずれのペルシャ人、南のはずれのインド人まで現われた。
 ペルシャ人はある時間になるとさっと馬を下り、華やかな絨毯を広げ、やって来た方向に向かって経文を唱え礼拝した。
 インド人は無口で、濃い髭を油で光らせていた。

 だが、誰もここより北へは行こうとしなかった。

 北ではほとんどすべてのホル人のが略奪をほしいままにしていた。

 ホル人は馬術だけでなく、弓にも熟練していた。
 弓術に優れた者は、ただ弓の弦を弾き、その時起こるヒューヒューという風の音だけで、財宝を守ろうと臆病になった商人を馬から転げ落とすことが出来た。

 商人たちは尻込みして北へ向かっては行かなかったが、ホル人の方から南下して来た。
 ユロングラソンドの近くの山の麓に陣地を張り、ペルシャ、インド、東方の帝国の商人たちを襲った。

 ジョルは、北へ通じる道を開く時が来たのを知った

 ジョルは一人で守備の厳重な盗賊の根城へ向かい、一気に九つの関門を抜け、18人のホルの守備兵を一刀の元に切り倒した。

 ホルの盗賊王が現われた。
 この王こそ、弦の風の音で馬上の人間を殺せる男だった。

 ジョルは言った。
 「私も同じような方法でお前に非業の死を遂げさせてあげよう」

 男は笑った。
 何故ならジョルは、杖に乗り、手には何も持っていなかったのだから。
 それよりも、盗賊王は堂々としているのに、その時ジョルの姿は、醜いとまではいかなくとも、おかしな形の杖、まだらになった上着、帽子に生えたねじ曲がった角、どれもがジョルをひどく滑稽に見せていた。

 だが、盗賊の首領の顔に浮かんでいた笑いはすぐに凍りついた。

 ジョルが天に向かって手を伸ばすと、雲の端から稲妻が現われた。
 稲妻はジョルの手に滑り込むと弓へと姿を変え、雷鳴を発して首領を一気に望楼の上から地上へと転げ落とし、首領はそのままお陀仏となった。
 あっという間に手下たちは散り散りになり、命からがら北へと逃げて行った。