塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 84 第6章 雪梨の里 金川

2012-01-25 21:37:59 | Weblog
3.雨の夜に金川の物語を読む



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 回族の店でかなりの量の牛肉を食べ、少しばかりの酒を飲んでから、四角い焼餅をもらって宿へ戻った。
シャワーを浴び、ベッドに入る。

 外ではしとしとと雨が降っている。

 ベッドの背にも垂れて、本を開いた。

 窓の外の雨が心のどこかの思いをふつふつと醸している。
 そこで私は、時間を閉じ込めている文字に連れられて、過去の金川へ、過去のギャロンへと遡って行った。

 このような夜、雨は山肌の岩や樹々に降り注ぎ、谷間の村に降り注ぎ、畑の作物に降り注ぎ、緑の草むらに降り注ぎ、すべてのものの埃を洗い落としてから、小さな谷川に流れ込み、小さな流れは大きな河へと集まっていく。
 こうして、夏の大河は小雨の降り続く夜に少しずつ広さを増してゆく。

 河にたち込める霧は果てが見えず、私の思いは歴史の遥かなこだまの中に迷い込んでいった。

 その中で最も重要な章は、もちろん乾隆朝の2度にわたる大金川の戦いである。
 すでに、人々の暮らしや山々の中に歴史の痕跡を探すことが困難となった、かつてツーチンと呼ばれ、時を経て金川と呼ばれることになる地方について、歴史書の中から断片を記していこう。



 [お詫び:
 ここから後15ページにわたって、歴史書からの抜書きになります。きちんと訳すべきなのですが、私の力ではそれをやっていたら何年もかかりそうなので、ここは簡単な説明だけにさせていただきます。
 これから時間がある時に少しずつ取り組んで生きたいと思っています。
 

 ここに描かれるのは1747年から始まる、第一回目の金川の戦いに関する記述です。ほとんどが乾隆帝からの命令と、現地で戦っている役人からの上奏文で、それを通してこの戦いの進展が読み取れます。

 まず、大金川の土司サラペンが小金川を攻めます。乾隆帝はこの争いに乗じてこの地を平定しようと考えました。その思いは強く、矢継ぎ早に命令文を発し、かなりのお金をつぎ込んでいます。

 土司たちの抵抗はかなり強く、役人たちが窮状を訴える上奏文も何度も送られます。

 この地に今も残る50mはあろうかと思われる石造りの高い塔は、清軍をくいとめる強力な砦となりました。

 1749年サラペンはついに捕らえられ、この戦いは一旦終結します。]





 ここに至って、大金川の戦いの一つの段落が終わった。
 
 響いてくるのはすべて殺戮の音ではあるが、私には本当のギャロンが充分に感じられた。

 ここに引用した文の中には、今日まで残されている地名もある。
 党壩、卡撒、勒烏、更に曾達。
 それらの地名はすべて金川の県城からそう遠くないごく小さな地域の中にある。

 読者はこれらの文字から、武器が光りを放ちながら交わる時の殺気を感じるだけでなく、金川の当時の風習や美しい風景も読み取るだろう。

 ただ、現在の公道が通じてから、当時の山道にあった関所はただの記憶でしかなくなり、すでに歴史の流れと生い茂る荒れ草の中に消え去ってしまった。
 歴史を改めて眺めてみてはじめて、歴史は実は早くも人々から忘れらていることに気づくのである。


 朝早く宿の門を出て、本の中に書かれた場所を尋ねようと思った時、歴史の記載とまるで違っている現在の大金川両岸の風景を目にして、私は、歴史書の中の記載は、まるで勢いに満ちた虚構のようだと思い始めていた。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)







阿来「大地の階段」 83 第6章 雪梨の里 金川

2012-01-20 01:59:58 | Weblog
2.理想の街を想像する


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



 水でさっと顔を洗い、街に出た。
 金川に来るのは初めてではない。
 長い間マルカムに暮らしている者にとって、金川で春に一つ大切な行事があるからだ。

 陽春の三月、金川の両岸の梨園や村には、数え切れないほどの梨の木が、雪のように、雲のように、霧のように真っ白な花を開かせる。だが、上流の海抜が数百kmも高いマルカムでは、春風はまだ肌寒く、吹いてくるのは粉のような、砂のような、空を埋め尽くして舞う雪である。
 そこで、人々は車を走らせて100kmあまりの金川まで遠出して、大渡河の谷を埋め尽くす梨の花を愛でにやって来る。

 高原の春は訪れるのが遅く、人々はいつも今か今かとそれを待っている。
 長い間待ち望んでいた人々は毎年ここにやって来て、一足早い春を味わうのである。

 夏になると、すべての谷が一面の緑に覆われ、群がる山々から更に奥まった金川はすぐに忘れ去られてしまう。
 そのまま次の年になり、春を待ちきれなくなった頃、人々はまた山や川にあふれる梨の花を思い出す。
 雪のように白い梨の花の中には、紅の陽気な桃の花も混ざっている。

 この県城には何人か知り合いがいる。だが、彼らを訪ねようとは思わない。
 このあたりでは酒のもてなしが盛んなのだが、私には余り時間がない。この限りある時間の中で、どこかの家の庭の梨の木の葉陰で酔いつぶれるわけには行かないのだ。
 何年も来なかったが県城はほとんどもとのままのようだ。後ろの山から落下してくる土石流は依然として県城の安全を脅かしている。

 山の中のこのような県城はすべて、あまり大きいとはいえない。だが、その統括する地区や人々の生産能力や、流通の機能から見ると、すべての街や村は少し大きすぎるように見える。
 だが、これらの街は、美しく印刷された、会議の席で配られる文章の中では、一つの成功例としておおいに宣伝されている。

 私は以前は正真正銘の理想主義者だった。今でも少なくとも二分の一の理想主義者で、だから、このような、あまり清潔とはいえず秩序のない村の通りを歩く時、いつも理想の街を想像してしまう。

 村を出て街へ行こうと試みる娘の物語の中で、このような村の理想を描いたことがある。
 「扶美、あるいは街へと通じる道」という小説である。

 物語の中で、街へ行こうとした娘は失敗する。なぜなら、その街は彼女の想像していたようなものとは違っていたからだ。
 扶美と呼ばれる村の娘は中学生で、走るのが特別得意だった。そこで運命は彼女にこの二本のよく走る脚をイカシテ街へ行く機会を与えた。 実は、彼女の家は街からそれほど離れていない村にあった。多くの夜、彼女は夜露に濡れた小さな丘に座って、灯りに滲んだ遠くの街を見つめながら、もう一つの生活への幻想に浸っていた。
 そこで彼女は、その長い足を踏み出して街の中へ飛び込んで行き、多くのマラソン大会で栄光を勝ち取るのである。

 この小説の主人公は実は私の中学時代のクラスメートである。

 だが、街は彼女の想像したような場所ではなかった。
 ということは、私たちの時代の多くの村の青年が想像していたものではなかったということだ。私たちは理想を求め、更に多くの街へ行き、更に遠くの場所へ向った。
 だが、扶美は村に戻り、村に戻ってからは、二度と街の方角を眺めなかった。

 この小説の中で私は次のように語った。
 街は多くの村の夢である。清潔、文明、繁栄、幸福…これらの文字がその灯りの中で魅惑的な光を放っている、と。

 私はまた小説の中で空想した。
 村もまた街が夜毎に見る夢である。その瞬く星空の元には、長い時を経た意味の深い、私たちが最も欲している安らぎがある、と。

 だがそのすべては現実離れした理想でしかなかった。

 街であれ村であれ、どちらも苛立ちと不安に満ち、も早私たちの希望の地ではなくなってしまった。そこで私たちは休むことなく捜し求め、さすらうのである。

 連綿と綴られた文章以外、この休むことのない追求がどのような結果をもたらすのか、私はまるで分からない。
 同時に、たとえ追求の先にあるのが虚しさだとはっきり分かっていても、私はやはり絶えず捜し求めるだろう。

 私は今でも想像の中で、すべてのギャロンの街の姿を描くことができる。
 道に沿って建つ家には、乾燥した広い木の張り出しがついていて、少しばかりの酒、少しばかりの花、少しばかりの歌声がある。
 どこかの家の前を過ぎる時、冷淡でわずかに敵意を含んだ表情を見たいと思う人はいないだろう。だが、その街を行き過ぎる時、誰もが絶えずその表情に出会うことになるのである。

 いつしか、私の顔にもそのような表情が浮かぶようになった。

 私は理想の街を想像しているのだが、同時に、この街には本当に行くべきところがないのに気付かされる。
 茶館ではマージャンに余念がない。近頃現れたカラオケでの怪しげな夜の生活はまだ始まっていなかったが。
 
 そこで、私の足は自然と書店へと向うことになる。
 本棚に並ぶのはほとんどが古い出版物だ。そして、分類と陳列は乱雑でまとまりがない。だが、根気さえあれば、意外な収穫がある。思ったとおり、私はここで地方史に関する資料を集めることができた。

 これで、所在無い夜を過ごす心配はなくなった




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)