3.雨の夜に金川の物語を読む
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
回族の店でかなりの量の牛肉を食べ、少しばかりの酒を飲んでから、四角い焼餅をもらって宿へ戻った。
シャワーを浴び、ベッドに入る。
外ではしとしとと雨が降っている。
ベッドの背にも垂れて、本を開いた。
窓の外の雨が心のどこかの思いをふつふつと醸している。
そこで私は、時間を閉じ込めている文字に連れられて、過去の金川へ、過去のギャロンへと遡って行った。
このような夜、雨は山肌の岩や樹々に降り注ぎ、谷間の村に降り注ぎ、畑の作物に降り注ぎ、緑の草むらに降り注ぎ、すべてのものの埃を洗い落としてから、小さな谷川に流れ込み、小さな流れは大きな河へと集まっていく。
こうして、夏の大河は小雨の降り続く夜に少しずつ広さを増してゆく。
河にたち込める霧は果てが見えず、私の思いは歴史の遥かなこだまの中に迷い込んでいった。
その中で最も重要な章は、もちろん乾隆朝の2度にわたる大金川の戦いである。
すでに、人々の暮らしや山々の中に歴史の痕跡を探すことが困難となった、かつてツーチンと呼ばれ、時を経て金川と呼ばれることになる地方について、歴史書の中から断片を記していこう。
[お詫び:
ここから後15ページにわたって、歴史書からの抜書きになります。きちんと訳すべきなのですが、私の力ではそれをやっていたら何年もかかりそうなので、ここは簡単な説明だけにさせていただきます。
これから時間がある時に少しずつ取り組んで生きたいと思っています。
ここに描かれるのは1747年から始まる、第一回目の金川の戦いに関する記述です。ほとんどが乾隆帝からの命令と、現地で戦っている役人からの上奏文で、それを通してこの戦いの進展が読み取れます。
まず、大金川の土司サラペンが小金川を攻めます。乾隆帝はこの争いに乗じてこの地を平定しようと考えました。その思いは強く、矢継ぎ早に命令文を発し、かなりのお金をつぎ込んでいます。
土司たちの抵抗はかなり強く、役人たちが窮状を訴える上奏文も何度も送られます。
この地に今も残る50mはあろうかと思われる石造りの高い塔は、清軍をくいとめる強力な砦となりました。
1749年サラペンはついに捕らえられ、この戦いは一旦終結します。]
ここに至って、大金川の戦いの一つの段落が終わった。
響いてくるのはすべて殺戮の音ではあるが、私には本当のギャロンが充分に感じられた。
ここに引用した文の中には、今日まで残されている地名もある。
党壩、卡撒、勒烏、更に曾達。
それらの地名はすべて金川の県城からそう遠くないごく小さな地域の中にある。
読者はこれらの文字から、武器が光りを放ちながら交わる時の殺気を感じるだけでなく、金川の当時の風習や美しい風景も読み取るだろう。
ただ、現在の公道が通じてから、当時の山道にあった関所はただの記憶でしかなくなり、すでに歴史の流れと生い茂る荒れ草の中に消え去ってしまった。
歴史を改めて眺めてみてはじめて、歴史は実は早くも人々から忘れらていることに気づくのである。
朝早く宿の門を出て、本の中に書かれた場所を尋ねようと思った時、歴史の記載とまるで違っている現在の大金川両岸の風景を目にして、私は、歴史書の中の記載は、まるで勢いに満ちた虚構のようだと思い始めていた。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
回族の店でかなりの量の牛肉を食べ、少しばかりの酒を飲んでから、四角い焼餅をもらって宿へ戻った。
シャワーを浴び、ベッドに入る。
外ではしとしとと雨が降っている。
ベッドの背にも垂れて、本を開いた。
窓の外の雨が心のどこかの思いをふつふつと醸している。
そこで私は、時間を閉じ込めている文字に連れられて、過去の金川へ、過去のギャロンへと遡って行った。
このような夜、雨は山肌の岩や樹々に降り注ぎ、谷間の村に降り注ぎ、畑の作物に降り注ぎ、緑の草むらに降り注ぎ、すべてのものの埃を洗い落としてから、小さな谷川に流れ込み、小さな流れは大きな河へと集まっていく。
こうして、夏の大河は小雨の降り続く夜に少しずつ広さを増してゆく。
河にたち込める霧は果てが見えず、私の思いは歴史の遥かなこだまの中に迷い込んでいった。
その中で最も重要な章は、もちろん乾隆朝の2度にわたる大金川の戦いである。
すでに、人々の暮らしや山々の中に歴史の痕跡を探すことが困難となった、かつてツーチンと呼ばれ、時を経て金川と呼ばれることになる地方について、歴史書の中から断片を記していこう。
[お詫び:
ここから後15ページにわたって、歴史書からの抜書きになります。きちんと訳すべきなのですが、私の力ではそれをやっていたら何年もかかりそうなので、ここは簡単な説明だけにさせていただきます。
これから時間がある時に少しずつ取り組んで生きたいと思っています。
ここに描かれるのは1747年から始まる、第一回目の金川の戦いに関する記述です。ほとんどが乾隆帝からの命令と、現地で戦っている役人からの上奏文で、それを通してこの戦いの進展が読み取れます。
まず、大金川の土司サラペンが小金川を攻めます。乾隆帝はこの争いに乗じてこの地を平定しようと考えました。その思いは強く、矢継ぎ早に命令文を発し、かなりのお金をつぎ込んでいます。
土司たちの抵抗はかなり強く、役人たちが窮状を訴える上奏文も何度も送られます。
この地に今も残る50mはあろうかと思われる石造りの高い塔は、清軍をくいとめる強力な砦となりました。
1749年サラペンはついに捕らえられ、この戦いは一旦終結します。]
ここに至って、大金川の戦いの一つの段落が終わった。
響いてくるのはすべて殺戮の音ではあるが、私には本当のギャロンが充分に感じられた。
ここに引用した文の中には、今日まで残されている地名もある。
党壩、卡撒、勒烏、更に曾達。
それらの地名はすべて金川の県城からそう遠くないごく小さな地域の中にある。
読者はこれらの文字から、武器が光りを放ちながら交わる時の殺気を感じるだけでなく、金川の当時の風習や美しい風景も読み取るだろう。
ただ、現在の公道が通じてから、当時の山道にあった関所はただの記憶でしかなくなり、すでに歴史の流れと生い茂る荒れ草の中に消え去ってしまった。
歴史を改めて眺めてみてはじめて、歴史は実は早くも人々から忘れらていることに気づくのである。
朝早く宿の門を出て、本の中に書かれた場所を尋ねようと思った時、歴史の記載とまるで違っている現在の大金川両岸の風景を目にして、私は、歴史書の中の記載は、まるで勢いに満ちた虚構のようだと思い始めていた。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)