塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 161 物語:トトン天に帰る

2016-08-30 22:33:35 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:トトン天に帰る その1




 ムヤの法王がケサルに得度されたのを見て、トトンが大声で言った。
 「大王よ、今こそ大軍を送り、ムヤを一網打尽にする時じゃ」

 すぐにチンエンが上奏した。
 「大王様、法王でさえ最期に臨んで善の心を持ちました。俗王ユアントンバはそれ以上に善を求める者です。兵を挙げてはなりません」

 ケサルは微笑んで答えた。
 「チンエン、良く言った。今回ムヤへはただ数人の臣下のみを連れて来た。妖魔を鎮めるための法器を手に入れ、メイサを救いだすことが目的だったからだ。それはすでに達成されたのだ」
 言い終ると、身を翻して神馬にまたがり、チンエン、タンマ、ミチオンなど数人の将軍と大臣も馬に乗って続き、ムヤの境界へと飛ぶように駆けて行った。

 風のように疾走しながら、神馬は人の言葉で詩を作り歌った.

 「豊かな羽根を纏ったハイタカのように天を駆ければ、
  瀑布が千里を流れるかのように尾は翻る。
  天上の神々よ、
  我らのためにムヤの雪山の扉を開けてください」

 すると天の際に高く聳え、連なる雪の峰はその位置を移し、すべての峡谷が目の前で開け、道を作った。

 チンエンがケサル一行をムヤの王宮へ導くと、ムヤ王ユアントンバとメイサが王宮の長い階段を駆け下り、ケサル大王を迎えた。
 ユアントンバはケサルにハタを捧げた。
 「尊敬する獅子王ケサル大王様、あなたの慈しみに感謝致します。我が兄を地獄へ送ることなくお許しくださいました。願わくば更に大きな慈悲で我々の民を戦いの苦しみを味あわせないで下さい。謹んでムヤのすべてを献上いたします」

 ケサルはユアントンバを暖かい言葉で慰めた。
 「今回私はムヤへ来るのに一人の兵も連れてこなかった。妖魔を倒す法器以外、リンはムヤに一滴の水も要求しない。ムヤの草原の一本の花も持ち去りはしない。そなたは心穏やかに国王となられよ」

 メイサも上等なハタを献上した。
 「尊敬する王様。私はリン国に生まれ、父母の愛を受けて育ち、王様の妃となりました。異国に捕らわれの身となった時、心ならずも魔国の王に仕えました。そして、胸に潜んだ恨みを晴らそうとして、リン国の偉大な英雄、王様の親愛なる兄、ギャツァ様を失わせてしまいました。今また、妖魔を倒す宝を手に入れるためにユアントンバの妃となりました。大王様、これからはもう男たちの間を彷徨いたくはありません。ムヤに留まり、ここでこの世を終わらせるのをお許しください」
 
 この言葉を聞いてケサルの心は重かった。だが、この度メイサがムヤに捕らわれたのはリン国のために功績を立てようとしたからだと思い至り、跪いたままのメイサを自ら助け起こした。
 「メイサよ、幾度か繰り返えされた行いも、その中に間違いがあったとは言え、もととなる所以はそなたにあるのではない。それはリン国の民はみな知っており、天の神々もすべてご存知だ。早く支度を整えリン国に戻り、私たちの深い縁を続けて行こうではないか」

 そう言ってケサルが手を振ると、メイサの体に羽衣が纏わり、もう一度手を振ると、その体は空高くに浮かびあがった。
 メイサは何か言おうとしたが最早どうすることも出来ず、心が乱れたままムヤの王宮の上を三度回り、鶴が鳴くかのような悲喜こもごもの嘆きの声を残し、ムヤの王から渡された宝の蔵の鍵を空から投げると、翼を広げて飛んで行った。

 その様子を見て、ユアントンバの心は刀でえぐられるようだったが、ケサルの前では哀しみの色を見せるわけにはいかず、涙が体の中を音を立てて流れるに任せた。その音は目まいがするほどに震えていた。
 彼は力を奮い起こしケサルと君臣を宮中に迎え入れ、酒宴を設け、更にどのような法器が必要かとケサルに尋ねた。メイサとジュクモがすでに二つの法器を手に入れたのを知っていたからである。

 ケサルは、アサイ羅刹のトルコ石の髪を、と答えた。

 それを聞いてユアントンバは困惑の表情を浮かべた。彼は国にそのような仙人がいて、ユズトンバとは親密な間柄だったということは知っていた。だが、法術の秘儀には一向に興味がなく、そのためアサイの体の一部である法器を手に入れる方法も、彼が密かに修練する場所も知らなかった。ユアントンバはメイサが残していった宝の蔵の鍵をケサルに渡して言った。
 「他にも、この国の蔵に必要な宝物や法器がありましたら、どれもリン国へお持ち下さい」

 宝の蔵を開けると、すでにメイサがリン国に送った蛇心檀香木の他に、隕石で作られた器が見つかった。中にはジャコウジカから取った心臓を守る油が入っていた。

 ユアントンバは言った。遥かな伽国へ行くには、木々の生い茂った密林や強い毒を持ったクマアリのいる場所をいくつも通らなくてはなりません、この護心油を持っていれば、どんな毒も侵入できず、優れた護身の宝となるでしょう、と。

 ケサルはムヤ王に感謝し、臣下を連れてリン国へ帰った。

 国王が戻ったのを聞き、ジュクモは正装して、宮殿の外で出迎えた。彼女のふっくらとした顔だちは、昇ったばかりの月のよう、緩やかな眉は雪の解けたばかりの遥かな山のようだった。見つめ合えば、そよ風が湖面を優しく撫でたよう、その輝きは幻かと思われた。
 ジュクモは自らムヤから持ち帰った宝物を献上した。

 ケサルは言った。
 「誰もがそなたとメイサの働きを忘れないだろう」

 ジュクモは心の中で微かな不満を覚えたが、ケサルはすでに話題を変え、誰がアサイ羅刹を探し出せるか尋ねた。だが、大臣たちは静まり返ったままだった。
 ケサルは声を高めた。
 「この世にはもともとアサイ羅刹はいなかったとでもいうのか」

 この言葉に大臣たちは黙ったまま恥入り、うなだれていたが、ただトトンだけが得たりとばかりほくそ笑んだ。
 この男は少し前まで牢の中で生死も定められず、顔にはまるで埃を被ったようなみじめな表情を浮かべていたのだった。

 今、彼はみなと共に席に着き、入念に整えた髭を脂で光らせ、よく通る声で言った。
 「首席大臣とはすべてを知る者だ。いや、首席大臣として当然知っているべきことではないのかな」







阿来『ケサル王』 160 物語:ムヤ或いはメイサ

2016-08-01 01:21:44 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:ムヤ或いはメイサ



 さて、ユズトンバはメイサの言葉を信じ、元の魔国へとチンエンを訪ねに行った。二人は古くからの知り合いだった。そのため、砦にいるチンエンは空中から伝わって来る笑い声を聞いて、すぐにムヤの法王が訪ねて来たと分かった。

チンエンは、メイサとジュクモがムヤへ法器を取りに行ったまま数日経っても戻っていないと聞いていたので、この機に、彼に二人の妃の消息を尋ねようと考えた。そこですぐに門を開け、迎え入れた。

ムヤの法王は待つ間ももどかしくメイサの計略をチンエンに伝え、かつての魔国のを集め、時を申し合わせ、同時にリン国へ攻撃をかけようではないかと持ち掛けた。
 チンエンは言った。
 「メイサの手紙はないのですか」

 ユズトンバは地団駄踏んだ。
 「急な話だったので、メイサは手紙を書いていない」

 チンエンは早くもメイサの意を汲み取った。メイサとジュクモはムヤで捕らわれの身となり、この知らせをケサルに伝えてほしいということだろう。そこでこう答えた。
 「それでは何かメイサのしるしとなるものをお持ちですか」

 ユズトンバは何も持っていなかった。

「私チンエンとメイサは亡くなった王様のことをいまだ忘れてはいません。だが、彼女の手紙やしるしとなるものがなくては、真偽が分からず、あなたの命を聞くわけには参りません」

 ユズトンバは仕方なくメイサのしるしを取りにムヤに帰った。
 こうしてチンエンはケサルに報告する時間を稼ぐことが出来た。

 ユズトンバがしるしの品を持って戻ると、チンエンは快く承知し、三七二十一日後に魔国の旧軍をムヤに到着させ、ムヤの精兵と共にリン国を攻めることを約した。

 ユズトンバは魔国から戻ると、うれしくてたまらず宴席を設けて旅の疲れを落とそうと、メイサに相伴させた。メイサは酒を注いで成功を祝ったが、ジュクモのことを尋ねられるのではと不安でたまらなかった。
 法王はメイサが次々と勧めるうま酒に誘われ、酔いつぶれてぐっすりと眠ってしまった。

 一方チンエンは、部下に兵馬を集めて出征の準備をするよういい付け、自分はすぐさまケサル国王に会いに出かけた。
 ケサルは聞き終わると言った。
 「そなたの考えか聞かせてくれ」

 チンエンは答えた。
 「私が魔国の軍を率い、ムヤの軍とともに王様が決められた場所へ連れて参ります。その時、魔国軍は赤い旗を印とし、ムヤの軍は黒い旗を印とします。リン国の軍が潜んでいる場所へ着いたら、内と外で呼応し、一気にムヤの軍を滅ぼしましょう」

 ケサルは隣にいるザラに言った。
 「チンエンはこのように忠実で勇敢、謀事も出来る。今後、もし何かあれば彼を頼りにするがよい」

 ザラは国王に警告した。
 「魔の地からムヤまで、十八の険しく狭い雪道を通らなくてはなりません。徒歩で進む大軍が約束の日までに到着するのは難しいのではないでしょうか」

 そこでケサルは命じて緑色の馬の尾を持って来させ、チンエンに申し渡した。雪山と氷河を通る時この緑色の馬の尾を腰にまけば、大軍は神馬の力を借りて難所を通り抜けることが出来る、と。
 チンエンは命を承知し、約束した期日以内にムヤに到着した。

 ユズトンバは心から喜び、酒の席を設けさせ、チンエンと彼の部下の大将をもてなした。ユアントンバは兄のリン国に侵入しようと言う鉄の意志を見て、心中不安でならず、兄に向かって、今の世で武術でケサルと優劣を競える者はいない、と力説した。

 チンエンはそれを耳にして間髪を入れず忠告した。
 「大王様。目を閉じても災難は訪れます、耳を塞いでも、雷は鳴り渡ります。リン国を恐れても無駄です。ケサルは向こうから攻めて来るでしょう」

 次の日早く、ムヤ軍は魔国の軍と合同し、リンへ向かって出発した。
 十日後、チンエンはムヤの大軍をリン国軍が待ち伏せしているただ中に連れて行った。戦いが起こり、ムヤ軍は必至で抵抗していたが、あろうことか、魔国の軍が旗を振って突貫して来て、内部でからも攻撃を受けた。
 昼に第一矢が放たれてから黄昏時までに、ムヤ軍の黒い旗は半分以上が倒れた。

 ケサルは間もなく日が暮れると見て、馬を駆って陣に入り、ちょうどチンエンと戦っていたムヤの法王を馬の上から引き剥がし、まるで皮の袋を扱うかのように空中で何十回となく回転させ、それから地面に放り投げた。

 ムヤの法王は、目がまわり、足の力は萎え、何度も起き上がろうとしたがそのたびに地上に座り込んだ。法王はそのまま呪文を唱え、ムヤの各地に隠してある法器に助けを求めたが、ケサルは先にそれを上回る法力でリンとムヤの境界に大きな壁を設けていて、ユズトンバの念力は通り抜けられなかった。

 この時、押し寄せて来たリン軍は一斉に声を挙げた。殺せ!殺せ!殺せ!

 ムヤ王は一つため息をつくと、弟の勧めを聞かなかったことを悔い、目を閉じたまま身を起こし、首を差し出した。

 ケサルは叫んだ。
 「早まるな。凶暴で傲慢なムヤ王のため息から深い後悔が聞こえて来るではないか。ユズトンバよ、言いたいことがあれば述べよ」

 「ケサル王よ。そなたの法力には降参だ。ワシの罪を許せとは言わない。ただ、かつてリン国と盟を誓ったよしみを思い、民は苦しませないでくれ。
  その恩に報いるため、ワシが死んだ後は、ワシが鍛錬した法器をすべて存分に使ってもらうこととしよう。
  もう一つ、弟ユアントンバは心優しく、リン国に対して常に忠誠を誓って来た。やつに罰を与えないでほしい」

 ケサルは言った。
 「死に臨んで善なる言葉を述べたそなたの心を思い、地獄に送るべきところだが、よいだろう、安心されよ。
  そなたの魂を清浄な仏の国へと導こう。さあ、行くがよい!」

 言い終わるや否や、手のひらから強烈な光が一筋伸びて行き、ユズトンバの体を地に投げ付けた。
 肉体から抜け出た魂は、憂いも悩みもなく、欲も迷いもない浄土へと得度された。