塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 93第7章 河の源流へと遡る

2012-06-24 20:05:07 | Weblog
2 土司たちの源に関する言い伝え その2





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 土司たちの祖先は高原の頂を西から東へと向かい、青蔵高原周辺の群山の梯子を一段一段下り、そのままこれらの群山の奥深い場所へと至ったのだが、それは一つの時代の中で完成したのではかった。
 最も早い土司の祖先は唐代にすでに移動を始めていた。
 臥龍(ウォーロン)を統治した瓦寺(ワス)土司がギャロンに来たのはすでに明の時代だった。

 以前読んだ書籍によると、瓦寺土司の先祖チォンブスロペン・サンランナスバは明朝の宣徳帝元年、即ち1642年に北京へ朝貢し、臣下として命に服す意思を示した。彼は皇帝から直接引見を許され、手厚い恩賞を賜った。

 明英宗帝の正統6年、即ち1441年、岷江上流のが明の統治に従わず、明は兵を出した。だが、何度出兵しても降伏させることが出来なかった。
 そこで明の王朝は異民族を以って異民族を制す策略を採り、臣として服した瓦寺土司に、まず兵を率いて東に向うよう命じた。
 サンランナスバは老いを理由に辞退し、弟のヨンディンロロスに部族を率いて東征することを薦めた。

 ヨンディンロロスは大小の頭領43人、兵士3150人を率い、一ヶ月余の長い行軍でブンセン県の境に到着し、兵を分けて攻め滅ぼした。
 戦いの後、「詔を受けてブンセン県の塗禹山に留まり、西の谷と北の道の羌族を抑え」、宣慰司の職を受け、48両の重さの銀製の印を授けられ、これより「その職を世襲した」。
 ヨンディンロロスは再び西には帰らず、初代の瓦寺土司となった。
 その統治した土地は漢の地に近く、そのため、瓦寺土司が第一番目の寺を建てた時、チベット仏教の寺院のこれまで続いてきた様式を改め、屋根を黒い漢式の瓦で覆った。
 ある記載の中に次のように記されている「瓦寺の原籍は西蔵で、土の家に住み、寺のみ瓦を用いた、故にこの名がある」

 明朝が満人に取って代わられてから、当時の互寺土司は明代に賜った印を清朝に返し、進んで帰順する意志を示した。
 清朝政府は1652年安撫司の職を授けた。

 清の康煕9年、即ち1670年、互寺17世土司サンランウェンガイは詔を受け、兵を率いて清軍に従い雑谷土司と大小金川土司を討伐して戦功を立て、花翎を帽子に飾ることを許された。
 皇帝は詔を下して、土司サンランヨンディンの始めの字と同じ音をとり、瓦寺土司の漢の姓を「索」とした。
 これ以後、瓦寺土司はこれを姓とし、代々漢の名と姓を用いた。
 これもまた民族同化の中の際立った例である。

 乾隆52年、台湾の林爽義が反清の兵を起こし、事が起こった後、総兵の職にあった袁国コウはギャロンの兵を統率し福康安の作戦に従って海を渡った。
 事が収まった後、各土司は賞を頂きそれぞれ自分の故郷に帰った。

 乾隆56年、グルカ人がたびたび後蔵(チベット中央)を犯し、後蔵の要衝シガツェを攻め落とし、タシルンポ寺を占拠した。
 清王朝は瓦寺などのギャロンの兵を召集し、清軍と共にチベットへ遠征させ、総督福康安の統率の下、六戦六勝、後蔵を取り戻した。
 
 
 戦いの中で、瓦寺土司に属する兵の多くが、英雄的な最期を遂げた。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)



 
 


阿来「大地の階段」 92第7章 河の源流へと遡る

2012-06-15 00:54:43 | Weblog
2 土司たちの源に関する言い伝え その1





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 私の手元には四川省社会科学院の編纂になる『四川省アバ州チベット族社会歴史調査』がある。
 その中のまばらな資料が、わずかだが臥龍(ウォーロン)について取り上げている。
 その一つが50年代初めの統計である。

 当時の臥龍郷に登記したギャロンチベット人の数は315人、この郷の人口の85%を占めていた。つまり、その当時数十キロほどの深さの臥龍谷全体の住民は500人を超えていなかったということになる。

 現在の人口はどのくらいのなのか。今の私には関係機関に行って尋ねる時間はなく、しかもそれが、この本の興味のありどころでもないのだが。だが、50年ほど後のこの谷で、生涯をここで過ごす住民は十倍よりもっと多くなっているのは確かだと思われる。

 ただし、この増加した人口の中でギャロン人の増加は取るにならないほどの比率であるのは間違いない。比率の低下と、それに加えて、少数派になって加速した同化作用のため、ギャロン文化の消滅は必然の状況となっている。
 旅行社の宣伝文句も含めて、臥龍について語る時、異民族のもつ情緒がキャッチフレーズにされることはないのである。

 早くから臥龍に入りパンダを捜し求めた外国人の記述の中から過去の臥龍のぼんやりした姿が見えてくる。


 「小さな丘の上に寺の廃墟がある。建物はチベット式で、二階建てである。下は石、上は木で出来ていて、ほとんどにベランダがあり、建築様式はアルプスの山のものとよく似ている。この地の女性はチベット式のくるぶしまである長着を着ている。彼女たちの頭の飾りは特殊で、黒く硬い布を何層にも折って、上に琥珀や珊瑚やトルコ石や銀を飾り、編んだ髪で頭に固定している」



 だが、目の前のかつての互寺(ワス)土司の領地が当時の様子に戻ることは、もはやできないだろう。

 パンダのおかげで破壊を逃れた森で、私ははるかに互寺土司の歴史を思った。

 どの土司の歴史もかなりの年月が経ち、詳細で整った記録がないため、口から口へと伝えられる過程で歴史というよりは伝奇的な色彩を多く佩びるようになった。

 ギャロンでは、ほとんどすべての土司の言い伝えの中で、その祖先は鵬の大きな卵から生まれたとされている。
 私は互寺土司官塞の高い山の上にある旧跡に行ったことはない。だが、そこへ行った人の話を聞くと、官塞の土司の大きな扉の上に、鵬が卵を温めている姿が彫られているという。

 ギャロン土司たちに共通の伝説はこうである。

    はるかな昔、天の下には民はいたが土司はいなかった。

    その後、天から虹が降りてきてオルモルンリンに降りた。

    虹の中から明るい星が一つ輝き始め、その眩い光が直接ギャロンの地を照らした。

    ギャロンには一人の天女がいて、名をカムルミといった。

    星の光に感じて孕み、すぐに鵬に変身してチベットの瓊部の山の上へと飛んで行き、
    黒、白、まだらの三つの卵を産んだ。

    人々はこの三つの卵を神聖なものとして、持ち帰り寺に供えた。

    三つの卵からそれぞれに子供が生まれた。

    三人の子どもは成長し東へ向ってギャロンまで来ると、それぞれに領地を持ち、民を育て、
    ギャロン土司の共通の祖先となった。

 


 ギャロン土司の伝説の中にあるオルモルンリンは、ギャロン土司たちがかつて共に崇拝した本土の宗教ボン経の興った地である。

 瓊部については、伝説の中で、地理上の方角はラサの西北部、馬で18日の距離となっている。
 阿里高原はその黄金時代、人口も豊かで39もの部族があった。その後、徐々に土地が痩せていき、人々は他の場所へと移り始めた。世界の屋根である青蔵高原の要塞の地阿里は衰退の道をたどり始めた。
 一部の阿里の人々は潤いのある東の風を受け、一路東へ向いそのまま現在のギャロンへ至り、やっと身を落ち着けた。

 更に遠くへ行けば、そこは高原の風景と気候ではなくなってしまう。

 ギャロン土司の起源である神聖化された伝説の中の三つの神秘的な大きな卵は、きっと、最後に定住したギャロンの地とその土地に徐々に溶け込んで一体となった39部族のうちの3つの部族を指すのだろう。

 ここ数年、ボン経の神秘の起源である古象雄文明の突然の衰退と、阿里高原に輝かしい文明を作った古格(グゲ)王朝の突然の消滅は、阿里を神秘的な青蔵高原の中でも最大の神秘とした。

 私は専門の民俗学者ではなく、専門の文化人類学者ではない。
 だが私は思う。
 もし人々がこれらの伝説の伝わって来た過程を遡ったとしたら、そして、ギャロン文化の特徴と阿里文化の遺物とを比較研究したら、必ず新しい発見があるのではないだろうか。

 だが、私は知っている。これは私一人の想像でしかないのだと。しかも、間違いだらけで常識を欠いた考え方でもあるだろう。

 もしかしたら私はあまりにロマンティックすぎて、そのためいつも、ギャロンと阿里の関係がただ土司一族の起源のみに留まるような簡単なものではないと考えてしまうのである。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)