2 土司たちの源に関する言い伝え その2
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)
土司たちの祖先は高原の頂を西から東へと向かい、青蔵高原周辺の群山の梯子を一段一段下り、そのままこれらの群山の奥深い場所へと至ったのだが、それは一つの時代の中で完成したのではかった。
最も早い土司の祖先は唐代にすでに移動を始めていた。
臥龍(ウォーロン)を統治した瓦寺(ワス)土司がギャロンに来たのはすでに明の時代だった。
以前読んだ書籍によると、瓦寺土司の先祖チォンブスロペン・サンランナスバは明朝の宣徳帝元年、即ち1642年に北京へ朝貢し、臣下として命に服す意思を示した。彼は皇帝から直接引見を許され、手厚い恩賞を賜った。
明英宗帝の正統6年、即ち1441年、岷江上流のが明の統治に従わず、明は兵を出した。だが、何度出兵しても降伏させることが出来なかった。
そこで明の王朝は異民族を以って異民族を制す策略を採り、臣として服した瓦寺土司に、まず兵を率いて東に向うよう命じた。
サンランナスバは老いを理由に辞退し、弟のヨンディンロロスに部族を率いて東征することを薦めた。
ヨンディンロロスは大小の頭領43人、兵士3150人を率い、一ヶ月余の長い行軍でブンセン県の境に到着し、兵を分けて攻め滅ぼした。
戦いの後、「詔を受けてブンセン県の塗禹山に留まり、西の谷と北の道の羌族を抑え」、宣慰司の職を受け、48両の重さの銀製の印を授けられ、これより「その職を世襲した」。
ヨンディンロロスは再び西には帰らず、初代の瓦寺土司となった。
その統治した土地は漢の地に近く、そのため、瓦寺土司が第一番目の寺を建てた時、チベット仏教の寺院のこれまで続いてきた様式を改め、屋根を黒い漢式の瓦で覆った。
ある記載の中に次のように記されている「瓦寺の原籍は西蔵で、土の家に住み、寺のみ瓦を用いた、故にこの名がある」
明朝が満人に取って代わられてから、当時の互寺土司は明代に賜った印を清朝に返し、進んで帰順する意志を示した。
清朝政府は1652年安撫司の職を授けた。
清の康煕9年、即ち1670年、互寺17世土司サンランウェンガイは詔を受け、兵を率いて清軍に従い雑谷土司と大小金川土司を討伐して戦功を立て、花翎を帽子に飾ることを許された。
皇帝は詔を下して、土司サンランヨンディンの始めの字と同じ音をとり、瓦寺土司の漢の姓を「索」とした。
これ以後、瓦寺土司はこれを姓とし、代々漢の名と姓を用いた。
これもまた民族同化の中の際立った例である。
乾隆52年、台湾の林爽義が反清の兵を起こし、事が起こった後、総兵の職にあった袁国コウはギャロンの兵を統率し福康安の作戦に従って海を渡った。
事が収まった後、各土司は賞を頂きそれぞれ自分の故郷に帰った。
乾隆56年、グルカ人がたびたび後蔵(チベット中央)を犯し、後蔵の要衝シガツェを攻め落とし、タシルンポ寺を占拠した。
清王朝は瓦寺などのギャロンの兵を召集し、清軍と共にチベットへ遠征させ、総督福康安の統率の下、六戦六勝、後蔵を取り戻した。
戦いの中で、瓦寺土司に属する兵の多くが、英雄的な最期を遂げた。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)
土司たちの祖先は高原の頂を西から東へと向かい、青蔵高原周辺の群山の梯子を一段一段下り、そのままこれらの群山の奥深い場所へと至ったのだが、それは一つの時代の中で完成したのではかった。
最も早い土司の祖先は唐代にすでに移動を始めていた。
臥龍(ウォーロン)を統治した瓦寺(ワス)土司がギャロンに来たのはすでに明の時代だった。
以前読んだ書籍によると、瓦寺土司の先祖チォンブスロペン・サンランナスバは明朝の宣徳帝元年、即ち1642年に北京へ朝貢し、臣下として命に服す意思を示した。彼は皇帝から直接引見を許され、手厚い恩賞を賜った。
明英宗帝の正統6年、即ち1441年、岷江上流のが明の統治に従わず、明は兵を出した。だが、何度出兵しても降伏させることが出来なかった。
そこで明の王朝は異民族を以って異民族を制す策略を採り、臣として服した瓦寺土司に、まず兵を率いて東に向うよう命じた。
サンランナスバは老いを理由に辞退し、弟のヨンディンロロスに部族を率いて東征することを薦めた。
ヨンディンロロスは大小の頭領43人、兵士3150人を率い、一ヶ月余の長い行軍でブンセン県の境に到着し、兵を分けて攻め滅ぼした。
戦いの後、「詔を受けてブンセン県の塗禹山に留まり、西の谷と北の道の羌族を抑え」、宣慰司の職を受け、48両の重さの銀製の印を授けられ、これより「その職を世襲した」。
ヨンディンロロスは再び西には帰らず、初代の瓦寺土司となった。
その統治した土地は漢の地に近く、そのため、瓦寺土司が第一番目の寺を建てた時、チベット仏教の寺院のこれまで続いてきた様式を改め、屋根を黒い漢式の瓦で覆った。
ある記載の中に次のように記されている「瓦寺の原籍は西蔵で、土の家に住み、寺のみ瓦を用いた、故にこの名がある」
明朝が満人に取って代わられてから、当時の互寺土司は明代に賜った印を清朝に返し、進んで帰順する意志を示した。
清朝政府は1652年安撫司の職を授けた。
清の康煕9年、即ち1670年、互寺17世土司サンランウェンガイは詔を受け、兵を率いて清軍に従い雑谷土司と大小金川土司を討伐して戦功を立て、花翎を帽子に飾ることを許された。
皇帝は詔を下して、土司サンランヨンディンの始めの字と同じ音をとり、瓦寺土司の漢の姓を「索」とした。
これ以後、瓦寺土司はこれを姓とし、代々漢の名と姓を用いた。
これもまた民族同化の中の際立った例である。
乾隆52年、台湾の林爽義が反清の兵を起こし、事が起こった後、総兵の職にあった袁国コウはギャロンの兵を統率し福康安の作戦に従って海を渡った。
事が収まった後、各土司は賞を頂きそれぞれ自分の故郷に帰った。
乾隆56年、グルカ人がたびたび後蔵(チベット中央)を犯し、後蔵の要衝シガツェを攻め落とし、タシルンポ寺を占拠した。
清王朝は瓦寺などのギャロンの兵を召集し、清軍と共にチベットへ遠征させ、総督福康安の統率の下、六戦六勝、後蔵を取り戻した。
戦いの中で、瓦寺土司に属する兵の多くが、英雄的な最期を遂げた。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)