塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 67 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-11-09 02:43:08 | Weblog
6、村から街へ その3

(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






 澄んだ河の水は休むことなく雪のように白い浪を躍らせている。
 この河があるから、河に沿って作られた細長い山の街に、異なった様式の三つの橋ができた。橋があるから、街は自然に区域に分けられ、人為的な連携ができあがった。

 中国人が都市の構造上で最も理解できないのが区分けであり、区分けが理解できないと当然連係が理解できない。中国人の連携とは、すべてのものを一つに纏めることなのである。

 四川省のもう一つのチベット自治州の首府で、数年前のある日、洪水による大きな被害が発生した。
 聞くところでは、本来ならこの被害は避けることが出来たはずだという。 
 だが、そこである人物が突然おかしな発想をしてしまった。
 内陸部ではすでに大きな危険性が知られている、湖や海や河の要の場所に対する処置を、悲しいことに、ここで再び繰り返すことになった。

 彼らは、莫大な費用をかけて、街を突き抜けて流れる急流の上にコンクリートの蓋をして、その蓋の上に市場を作ってしまったのである。

 設計者の想像の中では、河は永遠に彼らの思い通りに蓋の下を流れていくはずだった。
 だが、自然界が重んじるの、政府とも違う、人知とも違う規則である。
 そこで、洪水が起こったその時、洪水と洪水が運んで来た木や石が、太さに限りがある河の通り道を塞いでしまった。洪水は地面にあふれ出し、もとからあった道路や居住地として計画された街に氾濫した。私はテレビで災害の後の光景を知った。

 本来なら、洪水が起こらないとしても、河を塞ぐべきではない。河のもたらす広がりのある空間と、その流れが街にがもたらす特別な美しさを拒んではいけないのだ。

 なぜなら、中国の辺境の街が美しいのは、それを作り上げた人々が特別な計画を立てデザインしたからではなく、周囲の自然が与えてくれる何ものにも変えがたい美しさによるのだから。

 私の故郷、マルカムも同じである。
 街の中にはわたしたちが自慢すべき特別な建物は何もない。

 街をぬけて流れていく梭磨河の、四季によってリズムと音階を変える水の流れは、住民の誰もが耳を傾ける自然の音楽である。
 河岸の柵に凭れて一心に耳を済ましてみれば誰も、絶え間なく変わっていく自分の想いに、河の音がぴったりと答えてくれているのに気づくだろう。

 河と向かい合っているのは山である。山は川の両側に聳えている。

 そこにあるのはふるさとの原野と森林の作り出す風景である。
 特に河の左岸の、高い山頂から麓まで一面の森林で、四季の移り変わりによって刻々と変わる風景は、街で生活している誰もが、見上げさえすれば鑑賞できる一幅の巨大な絵画なのである。

 冬、もの寂しげな林の中で、太陽に照らされてきらきら輝く残雪。落ち葉は地に横たわり、雪の積もった大地を風が駆け上り、駆け下りる。

 春が来る頃には野の桃の花があたり一面咲き誇り、続いて柳が芽吹き、その後に、白楊、そして樺の木が、河の縁から山の頂上へと競い合うかのように緑に染めていく。

 5月、最も低い場所にあるつつじが一斉に開き、そうして、その濃い陰が山を覆う夏となる。

 夏は美しいが故に、あっという間に去っていく

 最も心に残るのは、秋の山である。滑らかな斜面一面の白樺の黄葉は、一年のうちで最も澄みきった光の注ぐ中、この世で最も煌めいて透明な喜びと想像を私の心に残していく。

 今回私が戻って来たのは、緑まぶしい夏だった。すべてはまだ昔のままだった。
 ほんの少し変化があるとしたら、それは、街を歩いている人がよそよそしく感じられることだろうか。多くの友人が私と同じようにここを離れていくことを選んだのだから

 もしある場所から家族と友人がいなくなってしまったら、そこが自分の故郷であっても、見知らぬ場所と感じられてしまうだろう。

 マルカムだけでなく、ギャロン地区のどこでも、この半世紀ほどであわただしく作られた街では、若い頃は誰もが抱く沸き立つほどの熱情は日々薄れていき、発展と覚醒の緩やかさが、社会の中の生き生きしたものを抑えつけていき、そして、多くの若者はここを離れることを選択した。

 私もその中の1人である。

 人々の群れは私の目には馴染みのないものに映っているが、人の流れが刻んでいるおっとりとしたリズムは、昔のままだ。

 それは、青年たちから先取の精神を失わせるリズムであり、健康的な社会では排除されてしまうリズムである。

 だが、強い日差しが街の傍らのニセアカシアの木に降り注ぎ、埃だらけの柏の木に降り注ぎ、そこから生まれる大きな日陰に、私は知らぬ間にうとうとと眠気を誘われてしまうのだった。。

 私が熱愛する街は、まだ私を待ってくれている。
 だが、どのような契機が訪れればここの人々は自分たちの前途とこの場所の前途に真剣に向き合って、活気を取り戻せるのだろう。

 それは誰にも分からない。