塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 80 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-09-26 22:30:01 | Weblog
12 長征と関係のある寺



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 清らかに渓流が流れている深い谷を隔てた向かい側の山の斜面がこの村の残りの半分である。
 こちら側の半分の中心は、古代の石の砦である。そして、向かい側の半分は正殿だけしかない寺である。夕日に照らされて、寺の薄い鉄の屋根は目を射るような光を放っている。

 私は谷のこちら側の胡桃の木の下にじっと座っているだけで、谷底に降り、それからまた険しい道を登ってまでして、その寺に参拝する気にはならなかった。

 昔、ここで村の学校の教師をしていた時、数え切れないほどその寺に行った。
 ただし、その頃の寺はまだ完全には崩れ落ちていない廃墟だった。

 その頃、同じ学校の美術の教師が、日曜日に私と連れ立ってこの廃墟へ行くのを楽しみにしていた。
 私がこの寺を好きなのは、壊されて完全でなくなったものが持つある特別な美しさに深く心を奪われたからだった。

 同僚は、毎回スケッチブックを持って行った。何とか持ち堪えている壁の一つ一つに多くの壁画が残っていたからだ。雲紋、神仙の体にたなびく帯、牛頭馬頭といった奇怪な神像の絵、細切れになった地獄絵。
 寺はなぜか風雨を防ぐ屋根を失っていて、そのため、残っている壁画は雨水に浸食されてぼろぼろになっていた。

 同僚は切れ切れになった壁画を模写し、私は廃墟が醸しだす特別な美しさに心を震わせていた。

 この美しさが私に、詩への最初の衝動を与えてくれた。
 私が初めて発表した詩は、後日この寺の廃墟を想って書いたものなのである。

 それは、中国中が過去の過ちを改めていた時代だった。
 そこで政府の金と人民の寄進を使って破壊された寺の修復が始まった。だが、寺に大地のすべての精髄を集められる時代ではなかった。そのため、寺の屋根が鉄の板で葺かれたのは至極当然のことだったのだ。

 この寺の修復が開始され、私と私の同僚はここを訪ねる楽しみを失ってしまった。
 私はと言えば、廃墟特有の美しさを味わうことが出来なくなったからである。
 彼女にすれば、気の向くままにあたりを歩き回り、筆遣いの息づく壁画を思いのままに模写できなくなったからだ。

 それほどの時間がたたないうちに、私も絵を描く同僚も相次いでこの地を去った。

 80年代の中頃、有名なアメリカ人がギャロンにやって来た。『長征、語られざる真実』を書いたソールズベリーである。

 その時私はすでに文化部で仕事をしていた。
 私たち若者は、ソールズベリーというアメリカ人が、多くの役人を従えて、中国人には秘密の史料を自由に閲覧し、望むところどこへでも訪ねて行くのを目にして、いささか憤りを感じていた。
 同時に、得意げにアメリカ人に纏わり付いて世話を焼く輩に恥ずかしさを覚えてもいた。

 その中の一人は、このアメリカの作家に付き添って戻って来ると、得意満々に、アメリカの作家はああだったこったうだと、繰り返し説明するのだった。
 更に奇妙なのは、ある時、この人物が私たちにひけらかすように、なんと、アメリカの作家が長征の道をたどった時重大な発見をした、と語ったことである。

 私は、何の発見かと尋ねた。

 彼は、張コクトウが長征の途中で中央と紅軍を分裂させる有名な会議を開いた場所だ、と言った。

 彼が行って発見する必要はなかったのだ、と私は言った。
 何故なら、張コクトウが会議を開いたその小さな寺とはここなのだから。地方史を少しばかり知っているものなら皆、この寺とは、目の前にある白杉村の寺であると知っている。

 その年、一、四方面軍は合流した後、ギャロンの谷で糧秣を集め、それから青蔵高原の階段を上って行き、再編された一、四方面軍は左、右の二つの路軍に分けられ、四川、甘粛両省に跨るゾルゲ草原に入って行った。
 だが、途中まで来て戦力旺盛な張コクトウは、損傷甚だしい党中央から困難な指令を押し付けられるのを嫌い、部隊に命令を下して、四川、甘粛が境を接する大草原から再び大渡河流域のギャロン地区へと引き返した。四川盆地を取り戻し、豊かに開けた平野に根拠地を築こうと考えたのである。

 張コクトウの部隊が岩の上に残したスローガンを見たことがある。
 そのものずばり、「成都に戻って米を食べよう」、と書かれていた。

 草原からギャロンに戻った後、張コクトウは白衫の地で会議を開き、第二中央を作ると宣言した。
 長征の途上で有名な、いわゆる「タクギチョウ会議」である。

 その時、寺は修復の最中で、張コクトウが本殿の中でモーゼル銃を背負った一群による大会を開いたという話は伝わっているが、寺の中、または、周囲にこの会議が確かにここで開かれたと証明できる手がかりはなかった。

 その後、張コクトウは大群を率いて広野に現れ、四川盆地に向って攻撃、前進し、現在茶の産地として知られる蒙頂山の下で四川の軍閥部隊に強硬に阻まれ、重い代価を支払った。
 やむなく、雪山と草原を越えて再び北上し、毛沢東率いる中央紅軍の一部と合流するのである。

 太陽が山の後ろに落ち、寺の屋根のから時折放たれていた光が消えた後、夕風に吹かれながら、私はこの村を後にした。

 村を去る時、若い画家は住所を尋ね、絵が出来上がったら送ります、と言った。私は住所を書いて渡したが、絵が送られてくるのを期待してはいなかった。

 熱足で車を降り、もう一度、ここを通る車に私の行き先を選んでもらおうと考えた。
 上に向って行けばマルカムに戻り、リンモ河の源流へと遡っていく。この旅を始める時、必ず一本の河の源流を遡り、山に登ろうと決心していた。
 下に向って行けばその昔のギャロンの中心だったツーチン、現在の金川県に行く。

 熱足の橋で2時間ほど待ったが、行き来するトラックも車も、私のあげた手を見て見ぬ振りをした。
 これでは、哀願をこめて立てた親指に気付いてくれるのは望むべくもなかった。
 
 最後に、長距離バスがやって来て、私が手を上げるのを待たず、ぎいっと音をたててすぐそばでブレーキを踏んだ。

 私はバスに乗った。目的地は70キロ離れた地、金川である。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)