塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 74 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-04-21 00:46:03 | Weblog
9 土司の物語二  その3


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


 昔、この発電所の工事現場で働いていた時、ときたま、当地の人から土司の時代の面白い逸話を聞いた。
 その中に、土司の裁判に関する話があった。

 それによると、刑の中で最も軽く最もよく用いられたのは笞杖刑だった。
 ほとんどの土司のもとでは、この刑は鞭によって行われていた。松崗土司の領地で、村人たちがこの地の言葉で言うムチウチノケイとは、漢語に直訳すると、細い枝で打つことだった。

 鞭打ちの刑は、平素は獄吏を務めているラリグワという専門の役職の者が執行する。
 そして、鞭は専用の木から作られ、十数戸しかないローズウという村が請け負っていた。
 当地の人の話では、この枝は十本で一束になっていて、一本は十回しか打てない。一束を打ち終わるとちょうど百になる。

 土司の館では専門に一部屋を設け、人を打つための枝を保管してあったという。

 大金川の公道に通じているこのローズウという村へは何度も行ったことがある。

 ある時村の老人に尋ねた。村人が団結してこの木を切り倒し、土司の賦役に抗議したことがあったのかどうか、と。老人たちはちょっと笑って、酒を客の前に差出したが、答えはなかった。
 もちろん、この山の奥のある決まった種類の木から人を打つための枝が作られている、ということは、誰も教えてくれなかった。まして、土司がどうして他ではなく、この種類の木を選んだのか、教えてくれる人はいなかった。

 一番記憶に残っているのは、ローズウの村のどの家の門の前にも菜園があり、一叢の唐辛子が燃えるように赤く天を指していて、食欲を刺激されたことだ。だが、よく練ったツァンパと一緒に塩漬けの唐辛子を一口かじると、その辛さに、両方の耳がウオンウオンと鳴り始め、まるで巣を追われたすずめ蜂たちが脳の中で飛び回っているかのようになるのだった。

 誰も、どの木が鞭打ちの刑の木なのか教えてくれなかったが、最後に、どのような状況の下で鞭打ちの刑に遭うのかを教えてくれた。

 老人は指を一本折った。
 第一,食糧を納めず賦役に出ない時。館に呼び出され牢に入れられるのだが、その時土司に賂をしないと鞭で打たれることになる。即ち鞭打ち数百の刑である。さらに、賦役に出て食糧を納めることに同意して、やっと放免される。

 老人はもう一本指を折った。
 第二、盗みをした時。鞭打ち数百の刑の後、牢に繋がれる。

 立っている指はまだたくさんあった。だが、老人は三本目の指を折ってしばらく考えてからまたもとに戻し、頭を振って言った。終わりだ。だが、私はまだ何か足りない気がして、老人にもっと教えてくれと迫った。

 老人はぼんやりと周り見回してから言った。
 何を話したらいいのかね。
 彼の表情から、彼が私にではなく、自分自身に、自分の記憶に尋ねているのが分かった。

 その時、彼の目が銃の上に止まった。
 それは壁に掛かった猟銃だった。

 猟銃のそばには牛の角が掛かっていた。
 牛の角の太い方の端には木の底板がはめられている。
 とがった方の端は、小さく口が開けられ、切り口は薄い銀で包まれ、柔らかい皮で作った栓がついている。

 これは猟師が火薬を入れておく道具である。
 狩の時に火薬を詰めるのに便利なように、牛の角の四分の三ほどの所で二つに切り離す。この二つをつなぎ合わせるのはキバノロの革で作った雉の首のような皮袋である。火薬を入れる時は雉の首のように長い皮袋を摘み上げると、先にある角の中が、ちょうど一回撃つのに必要な火薬の量になる。

 もし火薬が多すぎると、猟銃の筒が爆発して、猟師自身を傷つけてしまうかもしれない。この皮の首は開閉装置として、また調節装置として、銃の中の火薬が適量になるように調節することが出来るのである。
 大きな獲物を撃つ時は、火薬を送る手を少し緩めれば、銃の中の火薬が多くなり殺傷力が強まる。
 普通の獲物を撃つ時は手をきつく握っていればいい。

 だが、そのようしても、ある日雉を撃ちに行き、銃声の響いた辺りに目をやると、木の上にぱっと羽が舞い上がり、その美しい羽が辺りに漂って行くのだが、拾い上げた獲物の肉は鉛の玉によって跡形もなかったりするのである。

 火薬を入れた牛の角のほかに、猟銃のそばにはタバコ入れと同じくらいの大きさの皮袋があった。中には砂の鋳型で猟師が自ら鋳造した円形の鉛の弾が入っている。

 これらの物が、猟銃と一緒に壁に掛かっていた。

 老人は壁から猟銃を下ろし、牛の角から火薬を出して手の平に並べた。
 火薬は本来青っぽく、野菜の種のようなものなのだが、今では一塊に固まっていた。

 老人はため息をついた。

 私は知っている。この銃は土司の統治のもと、兵が村で民とともに暮らしていた時代では、土司が武装する重要な武器だったのだ。
 土司制度が終焉した後、これらの銃は獲物を獲るための武器となった。
 5、60年代では、村の農民は秋が来るたびに、猟銃を手に作物が実った畑の畦で見張りをし、猿や熊や猪から一年の収穫を守らなくてはならなかった。

 だが今森林の消失とともに、猟銃はすでに一種の装飾品となり、徐々に薄れていく思い出となってしまったのである。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)










阿来「大地の階段」 73 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-04-06 00:44:21 | Weblog
9 土司の物語二  その2


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 松崗土司の一族は、もともとは雑谷土司の領地の一地方長官だった。
 だが、乾隆16年になると、数百里離れた地に領地を持つ雑谷土司は、リンモ土司とチョクツェ(卓克基)土司の地に侵攻したため、清朝の兵によって制圧された。雑谷土司ツァンワンは殺され、雑谷土司の領地は、土司の統治から清朝の役人による統治へと移った。

 松崗の飛び地はリンモ土司の弟ズーワンホンジョオが管轄地として賜り、松崗長官の印を受けた。
 これが松崗土司の始まりである。

 初代の土司は位を受けて2年で亡くなった。
 12代目のサンランポンツォが土司になると、悪の限りを尽くしたため、民の蜂起によって1928年に殺され、しかもその屍は河に捨てられ、土司を継ぐくものはいなくなった。

 土司の配下の八大部族長が二組に分かれ、交代で15年間土司夫人の執政を助け、末代土司となるソシションに土司の印を伝えることができた。
 7年後、ギャロン全域が解放され、土司の時代は少しずつ遥かな過去の事となっていった。

 あの日、土司の砦の廃墟を望む小さな食堂の窓辺で、数ページの表紙の失われた活版印刷の冊子を目にした。
 その中で、詩のように改行されて並べられた文字は松崗の土司の館を讃えたものだった。

  東側は灰色の虎が踊っているかのようである
  南側では一対の青い龍が天に昇っていく
  北は長寿の亀
  東は視線が遠くまでひらけ
  西は幾重にも山が折り重なる
  南の山は美しい珠で造られたかのごとく
  北の山は天を支える柱のようである
  静かに守られた天嶮の地
  飛ぶかのごとく聳えているのは
  松崗土司の館、その名を日郎木甲牛麦彰措寧という


 私はかつて何度も聞いたことがある。土司がその館を造る時には、専門の絵描きがその全景を描き、そこに賛美の言葉を添える、詩と絵がそろっているものを形勝図という、と。
 そうなら、この文字はどこかで発掘された賛美の詩なのだなのだろうか。

 まだその原文が見つからず、信頼できる翻訳が見つかっていないうちは、この文がそうだとは私には断定できない。
 だが私は、これは確かに伝えられた形勝図の詩句であると考えている。

 ただ、漢語に訳した人は、チベット語には通じているが、漢語の表現、特に詩歌における漢語の表現にあまり通じてなかったのだろう。
 装飾を重んじるチベット語では、韻律はきっともっとなめらかであるべきだし、もっと美しく厳かな言葉を選ぶであろうから。

 この冊子の中に少し興味深い話が載っていた。
 土司の臣下たちの役割と裁判執行の様子である。
 これも記憶のままに書いておこう。

 毎日、土司の館では、土司が領地の民に号令を下し、館および領地のさまざまな事柄を決めるが、その他に、配下の各村の部落長のうち一人が、土司の館の中で輪番の担当部落長となり、土司が日常の努めを行うのを助け、更に、年貢の督促や賦役の手配の責任を負っていた。
 能力があって土司から信頼されている部落長は、土司に代わって大小の争いごとや訴訟の受理も行った。
 更に、文書を送り届ける指示や、罪人の捕獲などの責任も負った。

 部落長の輪番の期間は普通半年くらいだった。
 その果たす役割は執事長に相当していた。

 輪番の部落長の下には小執事がいた。二級の部落長が順番に受け持ち、館の中の燃料や食糧を管理し、倉庫の鍵を掌握していた。

 部落長の中の身分の低い者も輪番で土司の館に来ていた。
 村にいれば長である部落長も、土司の館に入れば、その主な役割は土司の身の回りの世話であり、お茶汲みとまるで変わりがなかった。

 その他に、土司には世襲の書記官がいた。
 世襲の書記官は土司から土地を下賜され、税を納めず、賦役に就かず、任期の間はまた別の報給があった。
 その地位は時には一般の部落長を越えていた。

 松崗土司には、他にチベット語の教師がいた。
 最後に土司のチベット語の教師を務めたのはアッツオといった。土司の館で毎日食事を与えられるほか、別に月に穀物六斗の俸給があった。

 最後のチベット語の教師は、土司が年若く武を尊び、戦いの真似事をすることばかり好んだため、最後には館の執事の地位に就いたという。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)