海側生活

「今さら」ではなく「今から」

予定が狂った年だった

2011年12月28日 | その時を覚悟した

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当たり前のように思っていた日常が、大きく姿を変えた2011年も間もなく大晦日を迎える。


自分も節目の年だった。節目と言うよりも大きく予定が狂い、これからどう生きるかと迷っている。


五年前に思わぬ病気の発見があり手術を受けた。
膵臓でも部位が膵頭だと言う事で、十二指腸も同時に切除してしまった。ウエブサイトでこの病気の5年生存率は9%の文字を目にした時はココロが乱れた。


ノンビリ生きなさい!と、何かの啓示なのかとも考えた。そして覚悟した、自分の寿命は後三年と。
そして周囲の皆に我がままを言い、走り続けてきたビジネス人生も中締めして海側生活を始めた。


海側での生活を通じて改めて自然に感謝し、多くの友からの善意を頂いた。また「何をするか」ではなく、更に「何をしないか」を求めた。この間、万が一の覚悟はとうの昔にしているはずなのに、体のチョットした変化に敏感に反応し「その時が来たか!」と身構える事も度々だった。


今、五年間が過ぎようとしている。主治医も異常は無いと言う。
当初の予定では、今頃はとっくに皆に「さらば!」と言っていた筈だった。
そして欲が出た。五年生存し、その後をどう生きるか、さらにどこに向かうか。


迷った末に、遠い昔の忘れ物を取りに行くと同時に、自分の現在の気力と体力の言わば残高確認をしたくて、この初夏に東海道五十三次の歩き旅をした。そして目的地の京都・三条大橋に着けた。その間改めて様々な想いが湧き上がった。


予定には無かった「これから」を、どう生きるのか、まだ文字としてはまとめきれない。まだ迷っている。
取りあえず三年間を記載できる一冊の新しい日誌を買った。


「生まれ変わる」と言う言葉があるが、想うほど単純な感情ではない。
いずれにしても従来とは全く違う覚悟が必要だ、行動も伴う事になるだろう。


でも分る。人生の素晴らしさは、この今の時にあるに違いない。


友へ!明るい新年をお迎え下さい


人肌の酒

2011年12月21日 | 季節は巡る

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人肌の酒が恋しくなる。

陽が伊豆半島に落ち始める頃、相模湾全体の海が橙色に輝く。遠く天城山辺りに半分も沈むと、目に入るもの全てが茜色に染まる。途端に気温も下がり、エアコンのリモコンに思わず手が伸びる年の瀬、ふっと人肌の酒が欲しくなる。寒さに弱い体質がそんな気にさせるのか、酒を飲みたいと言うよりも人を恋しくなる。遠ざかった思い出話を誰かとしたくなる。

机の上に置いたままにしていた一通の案内状を手に取った。
阿久 悠さんの小説でタイトルは忘れたが、その一部のような、まるで演歌を地で行く内容の閉店挨拶状だ。
 

わずか一年余りのお付き合いでしたが、
バー「愛子」は年内で締めさせて頂きます。

酔いどれて申し訳ありません。
しなだれかかってご迷惑を掛けました。
はしゃぎ過ぎてお疲れになったでしょう。
泣いて泣いて済みませんでした。
 
たとえ短い月日でも、一杯二杯の水割りを中にして、
その日、その時の人の姿を見せてくださったことを感謝します。

有難うございました

彼女はこれから何をするのか、どこに帰るのかは何も言わなかったし、自分も聞かなかった。

古いビルの二階の店から外に出ると空気が冷たい。思わずブルゾンのジッパーを引き上げた。

路地を歩き始めたら、どこからか♪♪人生いろいろーー女だっていろいろ 咲き乱れるの-- ♪♪と、聞こえたような気がした。


アップに耐えられない 

2011年12月15日 | 感じるまま

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ピンポーンとドアーチャイムが鳴る。
「はあーい」
「お母さんは居ますか」
地域の回覧板を持って来た人も、家には娘は居ないのに、娘と間違うのよと、声の若々しさを自慢していた姉。
色は白くて小柄だが背筋は伸びているし、声も高いためか、姉が言う通り歳相当には感じられない。

法事の後、姉の家に寄ったときの事だ。帰り際、玄関を出て庭を背景に姉を記念にと一枚撮った。
その後、自宅に戻り、そのときの写真をハガキ大にして送った。その写真は姉の特徴が上手く出ていて笑顔が良い。手入れを自慢していた庭もキレイに写っている。特に脚立を使った剪定が大変だったと言っていた柊も存在感がある。

数日後、写真のお礼のメールが来た。
『ハガキ大の写真を眺めている内に、私は恥ずかしくなった。まだまだ自分は若いと心ひそかに思っていた、人からも若いと言われていたが、こうして写真をしみじみと見ると、やはり年相応なのが良くわかる。見ているうちに破り捨てたくなったが、勿体無いから写真をケイタイで撮り保存した。ケイタイの画面だったら小さくてアラが見えないから。そして写真はタンスの奥深く仕舞った』

「お母さん」や「オバアチャン」等と呼び方は、子供や孫と比較して言う言葉であって、姉は少しも老人だとは思っていない。

常に何事にも質素を信条としている姉が、目尻のシワをしみじみと見て恥ずかしいと感じるその感性を可愛い女だと思う。

法事のついでに立ち寄った雲仙の普賢岳・妙見岳で始めて見た凛とした霧氷を思い出す。
姉を少しだけ見直した。


喪中挨拶状

2011年12月07日 | 海側生活

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何の変哲も無い一通の喪中挨拶状を受け取った。

これまでは今年も早、師走を迎えたかと一人感慨に耽けながら、静かに目を通していた。この瞬間だけは謙虚になる。
彼のお父さんは長生きしたな、彼女のお母さんは100歳になっての大往生だった等と故人を偲ぶ。兄弟姉妹など近親者を亡くすほど辛い出来事は他には無い。
仕事を通じての付き合いで、その両親や兄弟姉妹にはお会いしたことが無くても、知人の人柄からして亡くなった方を偲ぶことは出来る。ただ冥福を祈る事と残された身内の方々の自愛を祈るだけだ。

そのH,Tさんからの一通には衝撃を受けた。春以来、気にしていた事が現実だったのだ。
他の喪中挨拶状と同じように薄色の墨で縁取りがあり、文面も淡々と短く事実だけが書き並べてある。
自分は読み間違いをしていないか、一字一字をまた前後の文を何度も読み返した。どこかに説明書きがないかと狭い葉書の表と裏も繰り返し見た、何も書き加えられてはいない。

「本年三月十一日に発生した東日本大震災で、父八十二歳、母七十六歳にて永眠いたしました」

そうだ、彼の奥さんは宮城・東松島の出身だった。後で聞くと、その日の津波でご両親は長い間行方が知れなかったらしい。やっと11月になり葬儀も営まれたと言う。
幼い頃からの思い出と共に全てを失くした奥さんの心情には、「なぜ、どうして」と、答えの無い自問とやり場の無い無念さが付いて回っているだろう。

奥さんは、これからいつもとは大きく違う年の瀬と正月を家族と共に迎えるが、自分には何も出来ない。慰めの言葉なんて見つからない。
ただ自分の身体だけは留意してとしか言えない。それ以上、言おうとしたら何かが溢れ出しそうだ。そして遠くからご両親のご冥福を改めて祈りたい。

人の死は時間の経過と共に、その想いを薄める事も可能だ。しかし、この未曾有の震災はこれからを生きる人のために生かされなければならない。