海側生活

「今さら」ではなく「今から」

お江の霊屋(たまや)

2011年10月31日 | 鎌倉散策

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NHKで「お江 姫たちの戦国」が放映されている。
ドラマのお江は、天真爛漫で好奇心旺盛で行動力があると描かれている。放映が始まった頃は違和感があった。6歳のお江の役を24歳の上野樹里が演じ、10歳の茶々の役を37歳の宮沢りえが演じていた。

この時代は、100年以上続いた戦乱の時代に終止符を打ち、徳川家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制の初期の頃であり、自分も幼い頃より柳生武芸帳や真田十勇士などを少年雑誌で夢中になったものだ。女性は今日でも大奥物語りや春日局と聞いただけでテレビのスイッチを回す人もいるくらいだろう。

何故だか主役のお江の霊屋が仏殿と称され鎌倉・建長寺にある。
建物はもともと霊屋として造られているため、屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっている。屋根は入母屋造でなく寄棟造である。天井は禅宗仏殿では平板な鏡天井とし、龍などの絵を描くことが多いが、この仏殿の天井は和様の格天井である。

お江は二代将軍正室として女の子を続けて4人産み、その後男の子を、兄・家光と弟・忠長を産む。兄は乳母・春日局に預けられ、お江の愛は身近で育てた弟に向けられていく。別の資料によると、父の秀忠や母のお江は、病弱で吃音であった兄よりも容姿端麗・才気煥発な弟を寵愛していたとされ、また弟は江の伯父・織田信長に顔立ちがよく似ていたともある。
兄はお江の寵愛を受ける弟に嫉妬している。ドラマの子役の俳優も演技が上手い。

兄は19歳で第三代将軍に就くが、21歳の時、母・お江は没する。
この葬儀の様子は「---遺骸を増上寺におくり、麻布・我善坊(現在の港区麻布台一丁目)に荼毘(だび)所を設けた。増上寺から荼毘所まで1000間の間筵を敷き、その上に白布10反を布いて1間ごとに竜幡をたて、両側に燭をかかげた?-」と記録がある。
葬儀を仕切ったのは兄だが、その後霊屋を造ったのは弟だった。

兄は30歳になった時、諸説あるが弟を自刃に追い込んだ。
そして13年後、母の霊屋の建て替えに際し、弟が造った霊屋は鎌倉・建長寺に譲渡されている。新しく兄が造った霊屋は昭和20年の東京大空襲により被災し徳川将軍家霊廟と共に廃墟と化した。

謎なのは、お江の死から僅か20年しか経っておらず、まだ痛みもしていないお江の霊屋が、なぜ新しく造り替えられたか、なぜ増上寺から建長寺に移設されたのか、寺に聞いても明確な記録は無いとの事。ただ若い修行僧の一人が「私は家光と忠長の兄弟の確執が絡んでいるのでは--」と言う。

徳川家の威信誇示の為か、弟憎さ余りの行動か、それとも母への慕情か。興味は尽きない。

流されても流されてもその運命を受け入れ生きたお江。気がついたら2代将軍正室で、3代将軍生母。中宮の母で、明正天皇の祖母。こんな生き方もある。


神無月の思い違い

2011年10月24日 | 鎌倉散策

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都心から逗子まで約一時間の電車の道のり、つい眠り込んでしまった。

終点だから良かった。車掌に起こされ、改札口に向かった。寝ぼけ眼でバス停を見ると、すでにバスが止まっている。自分を待っていて呉れたような気がして小走りにバス停まで急いだ。日中は20分間も待つことがある。今日はラッキーだと思った。
バスが出て、何だか窓からの景色がいつもと違う。まだ自分は寝ぼけているのかと思った。次のバス停に着いて眼も覚めた。
同じバス停でも行き先の違うバスに乗ってしまったのだ。

思い違いでこんな事もあった。
散策途中、ある神社で神事が行われていた。10月は一般には神無月(かんなずき・かみなしずき)と呼び、全国の神様が出雲・出雲大社に出向き不在だと言うのに、どうしてこの神社は神事が行えるのかと気になった。夜になって自分の思い違いに気が付いた。

鎌倉の神社や仏閣の約150箇所は歴史散策の途中、この二年間ですべて立ち寄りお参りをした自分だが、今なお伝統行事などでは旧暦を使用する事をその時はスッカリ忘れていた。現代の暦10/1は旧暦の9/5であり、旧暦の10/1は現代の暦の10/27である事が考えから抜けていた。

聞けば、出雲大社では「神議(かみはかり)」がなされる故事に由来し、今年は11/5~11/12にかけて神事が行われると言う。そこでは全国の神様が集まり、全国の人間の運命について話し合い、中でも誰と誰を結婚させるか等という事を打ち合わせすると言う。
出雲以外は神無月と呼び、出雲は神在月(かみありつき)と呼ぶ慣わしだと言う。

また、出雲に神様が出向いてしまっては、その地域を鎮護する者がいなくなるということから、「留守神」と呼ばれる留守番をする神も居て、一般に留守神には恵比須神があてられ、神無月に恵比須を祀る恵比須講を行う地方もあるとの事も改めて知った。

早々に思い違いしたあの神社に失礼を詫びると同時に改めてお参りに行こう。
寝ぼけ眼ではなく、頭もスッキリさせて。


老婆の旅

2011年10月16日 | 鎌倉散策

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どう考えても経験からして理解出来なかった。

成立当初、弘安2年(1279)作者はこの日記に名前をつけておらず、単に『阿仏日記」等と呼ばれて言われていたが、日記が10月16日に始まっていることに由来して、後世に現在の名前が付けられたと言う『十六夜日記』(いざよいにっき)。その道中記の鎌倉までの要した日数の事だ。

阿仏尼の夫・藤原為家は播磨国細川荘を当初は先妻との長男・為氏に譲るとしていたが、後に悔い返して遺言で後妻の阿仏尼の子・為相へ譲るとしていた。ところが為氏が遺言に従わず細川荘を譲らないため阿仏尼は訴訟を決心し、武家法による判決を得るため鎌倉へ向かう。公家法ではいったん譲与した財産・所領を、その譲り主が改めて取り戻すと言う悔い返しは認められないが中世武家法では認められるためだ。

鎌倉への道中記部分は京都から鎌倉までの14日間の旅日記が綴られ10月29日に終わっている。

「東海道五十三次」と呼ばれる江戸時代と違い、鎌倉時代の東海道は、源頼朝によって京都に至るまでの間に宿駅の体制が整えられたと言うものの、京都と鎌倉との間は約480kmあった。
60歳近くという当時としては非常な高齢の言わば老婆が、様々な困難に遭いながら、僅か14日間で鎌倉まで行けるものか理解出来なかった。自分が東海道五十三次を、途中からだったが歩いた時は、約300kmを合計19日間要した、最も道草や寄り道はしたが。単純に一日の歩いた距離を考えると、阿仏尼は自分より二倍以上を歩いている計算だ。

何とか疑問を解き明かしたくて、ヒントを求めて鎌倉・英勝寺の傍の墓(供養塔か?)を訪ね、また阿仏尼が住まいを構えていたと言う場所も訪ねてみた。江ノ電「極楽寺」駅の線路側の住宅地の一隅に、その謂れが書かれた史跡碑だけが佇んでいた。

四年間の鎌倉滞在後、肝心の所領紛争の解決を見ることなく弘安六年(1283)死亡した(帰京後に没したとの説もある)が、折から時代は蒙古襲来の前後のあたり、訴訟は進展せず、阿仏尼の死後30年、ようやく阿仏尼の子・為相が勝訴したらしい。
為相は冷泉家の祖である。為相から現在まで25代、約700年続いている和歌の家だ。

改めて『十六夜日記』を手に取って読み返しているうちに気が付いた。
旅立ち初日の16日に『粟田口といふ所より、車は返しつ』と文があった。都の外れで駕籠を返し、その後は歩いたのだと自分は早合点していたのだ。文中に表現は無いが、ここで馬に乗り換え、しかも数人のお供がいた事が推察できる。

やっと納得した。それにしても老婆には身体にも堪えた旅だっただろう。
支えたのは、歌道家の名誉を守りたい一心だったのか、それとも子を思う母心だったのか。


木立の中のコーヒーと音楽

2011年10月12日 | 最大の財産

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甘ったるい香りがどこからともなく漂ってくる。
葉山の御用邸の前の一色海岸を従弟達と散策した後、隣の公園を通り抜けようとした時の事だ。
この香りは金木犀の花の香りだ。どこに咲いているのか周りを眺めても木の姿は見えない。記憶では、小さいオレンジ色の花を無数に咲かせ、まるで以前に市販されていたトイレの芳香剤のような強い香りを放ち、遠くからでも匂う。自分は好きになれない。

先週の五日間は自分にとって、気持ちが弾み、愉しく、心休まる日々だった。佐賀・唐津に住む従弟夫妻が遊びに来てくれた。
従弟は土木技術者として、社会へのスタートを切った年に横須賀の宅地造成地で思わぬ事故に遭い、半年間も見知らぬ土地の病院で過ごす経験をした。その事故現場と病院も訪ねた。
思い出を手に取るようにして、それに触れた時、改めて明日からの自分が見える事があると言うが、これから従弟は何を見るだろう。

ベタ凪で漣に反射した光りが小さく踊りながら輝き、穏やかな潮騒が心地良く耳に届いていた葉山・一色海岸。雨上がりの雲に周囲の山々は覆われ、まるで自分達だけの世界を演出したような箱根・仙石原の木立の中での音楽とコーヒー。また泊まったホテルの無造作に手入れがされた庭で始めて見た山帽子やナナカマドの赤い実。それらを目にした奥さんは、日常から離れた土地でのひと時に、少しは安らぎを覚えて貰っただろうか。

舞台を変えてみたらどうだろう。人は背景に合わせてまた別の顔をみせるものだ。誰の中にも俳優が一人は住んでいる。と言う自分の勝手な思いから逗子まで来て貰ったが、とんでもない思い違いに気が付かされた。従弟夫妻と共に時間を共有するうちに、いつの間にか和み癒されていたのは自分だった。
不思議な魅力を備えた従弟夫妻だと今更ながら気が付かされた。

金木犀に比べ花の数も少なく、白くて仄かに上品な甘い香りを放ち、自分も好きな銀木犀が待つ自宅への帰途に従弟夫妻は就いた。

近い将来に又、時間を共有したいなと強く思わせる気持ちを自分に残して。