海側生活

「今さら」ではなく「今から」

ナマと加工

2014年02月24日 | 感じるまま

2014_02_08_0928

                                          (妙本寺/鎌倉)

炊きたてのご飯に生卵と言うのは美味しいものだ。

あれを美味しいと思うのは日本人だけだろう。しかもそれなりの高齢者に違いない。ヨーロッパ人はもとより、隣の韓国や中国の人達も、きっと不思議がるか、気味悪がる。まともな食べ物とは思わないだろう。

ナマのまま食べるというのが理解出来ないのだ。当然、刺身や酢の物などは、とてもすぐには食べられない。同じアジア人で顔付きが似ていても、食生活がまるっきり違う。彼等には魚は材料であって、それをブチ切りにしただけのものが、どうしてご馳走なのか、料理の手間を省いただけではないのか。
鎌倉では数少ない懐石料理の店で、最近も見かけた。顔付きは日本人と変わらないが、明らかに中国か韓国の人達だ。招かれた食膳に座り、にこやかに説明を聞いている。ヨーロッパ人と違い、箸を持つ手つきは堂に入っている。だが刺身をつまむ手は明らかにぎこちない。全身でたじろいでいる。
口に入れ、一点を見詰め、モグモグとさせ、目を瞑るようにして飲み込んだ。すぐさまに「ベリーグッド」と共通の英語で応じたが、可能ならば一口だけにしたいらしい雰囲気が、アリアリと観て取れる。

中国料理を味わうと解るが、料理に様々な手が加えられてある。加工の質と手続きとで料理を作っていく。この点では多分フランス料理なども同じだろう。これらの店が世界中にあるのは、オーソドックな料理法に基づくからだ。
日本料理は、その点変わっているのかもしれない。材料の良さ、ナマの鮮度を生かして、なるだけ手を加えない。実は目には見えないところで大いに手を加えているのだが、それはさり気なくウラに収め、表に出さない。

もしかしたら政治や外交の分野でも、ナマと加工の料理法に通じるところがあるのではないだろうか。同じ顔付き、同じ肌の色であっても、基本的な事で断絶にも等しい違いがある。日本人には自明の事が、相手には我慢ならないのかもしれない。さらに違いを確かめても、なお理解には遠いのだ。

ソチ・オリンピックの録画を見ながら、全く関係無い事が頭を過った。


友が逝った

2014年02月10日 | 最大の財産

Photo

                                                (侘助/妙本寺・鎌倉)

『うちの人、今朝、心臓が止まりました』
節分の豆を、今年はどんな風に楽しもうかと考えていた昼前に、突然その電話は鳴った。

告別式に向かう車窓からの八ヶ岳連峰は冠雪したそれぞれの頂きを、曇り空に白く大きく聳えさせていた。気持ちが落ち着かない。
今までも、友人の家族の誰かが亡くなると、その家にお悔やみに行くのが急に気重になってしまっていた。思っていることが言えないからだ。儀礼的に行く場合は割合に気が楽だが、遺族の人の気持ちを考えると何一つ言葉にならない。お悔やみの言葉は、人の口から出ると、言葉だけが浮いて空々しくなるものだ。

D,Tさんはまさに無くてはならない友だった。家族ぐるみでお付き合いさせて頂き、ブライベートでも様々な時間を共有した。前職で同じ課に配属になった、まだ駆け出しの頃から、今日までずいぶん時が流れた。高度成長期に彼は仙台、横浜、福岡、大阪などに栄転を重ねた。自分が大阪、名古屋、グアム、オートラリア、横浜などに移動し、お互いに責任ある立場になってからは同じ職場になることは無かった。いつも遠く離れていた。しかし、いつも何処で会っていた。

彼は海のように懐が深く大きな人だった。見識が有り、モノを見る目が確かだった。何事に付け自分は惹かれていた。

弔辞を述べていた時、思い出が蘇り嗚咽が込み上げそうになり弱った。話す間を十分にとり、何とか声が再び出てきた。
『逝ってしまうのは、チョット早過ぎるよ!』、『ユックリ休んで下さい』で閉めた。

法要の後、90歳になると言う道士から「諸行無常」の話を聞いた。一瞬の間にも全ては変化すると。言葉では解っている。でも友の死は辛い。

老いを見つめると言う事は、考えようによっては、残り少なくなった時間を見つめると言う事か!