黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

ネコの手ネコのもの 六周年

2015年08月26日 15時21分39秒 | ファンタジー

 来週でブログ開設六周年を迎えるので、お祝いの言葉をネコたちへ贈ろう。

  ネコの手どこ行った ネコの手どこ行った
  ちょっとだけ貸してと頭下げても知らんぷり
  しつこくすると仲良しネコのパンチがうなる
  ネコの手ネコのもの ネコの手ネコのもの 
 
  ネコと仲良くしても いいことあるわけじゃない
  ため込んだじゃらじゃら小判のおすそ分けもない
  ぶつぶつケンカしながら二十六年暮らしてる
  ネコの手どこ行った ネコの手ネコのもの

 おっちょこちょい節の「猫じゃ」の振りでいってみよう。(2015.8.26)
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駄文を洗い流す

2015年08月25日 14時32分39秒 | ファンタジー

「猫じゃ」を書くのに精力を使いすぎたためか、この一週間以上、文章が何も思い浮かばない。ひと言ふた言なら頭に浮かぶので、時間かけてなんとか言葉をつなぎ合わせている。
 谷川俊太郎さんによれば、自身の言葉、いわゆる上っ面の言葉という意味だと思うが、それをはぎ取ってしまわないと、詩に使える本物の言葉はやって来ないのだという。彼のように、言葉によってこの世の事物すべてを表現しようとする方なら、言葉に絡んだ塵芥を徹底して洗い流すだけでなく砥石やヤスリに何度もかけて、研ぎすました言語の力というものが必要になるのだろう。
 散文派の私としては、言葉の質にこだわることより、見た目の斬新さとか、落語ではないのに落ちたかどうかとか、文字の分量とかの方にこだわる。あんまり下品な汚れた言葉だけは慎重に排除する。つまり、鋭敏な言語感覚も文章感覚もない私は、不要な言葉を削っていくと、肝心な物は何も残らないのではといつも不安になってしまう。なので、ついつい書きすぎてしまう。こうして、私の世界は駄文によって埋め尽くされる。この世に起きる出来事と同じだ。
 そうならないように、たとえば、差別だとか、見せしめだとか、力の誇示だとか、安全保障だとか、まじめなテーマを選ぼうとする。しかしそれらは内容が重すぎてぜんぜん私の手に負えない。行き詰まりを感じて、校正半ばで放り出した「ブタたちの陰謀」シリーズは、はたして完成するのだろうか。よしんば出来上がっても、時代をなめたような鈍重な文章をどなたが読むというのだ。
 こんなふうにしていては、しまいに世の中に汚物を吐き出すクレーマーとかデマゴーグになってしまう。そんなことを心配する前に、この文章を終わらせた方が喜ばれるに決まっている。(2015.8.25)
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猫じゃ猫じゃとおっしゃいますが

2015年08月14日 15時50分33秒 | ファンタジー

 猫ぢや猫ぢやとおしやますが
  猫が、猫が下駄はいて
  絞りゆかたで來るものか
  オツチヨコチヨイノチヨイ
 下戸ぢや下戸ぢやとおしやますが
  下戸が、下戸が一升樽かついで
  前後も知らずに酔ふものか
  オツチヨコチヨイノチヨイ 
 蝶々蜻蛉や きりぎりす 
  山で 山でさえずるのは
  松虫 鈴虫 くつわ虫
  オツチヨコチヨイノチヨイ
                                   
 つい最近こんな歌を見つけた。これは、江戸末期から明治期にかけて流行った「おっちょこちょい節」という端歌らしい。らしい、と疑問を呈するのは、元歌と替え歌がゴチャゴチャになっているような気がするから。
三番の「蝶々蜻蛉」が元歌で、一番は「猫」に置きかえた替え歌か? 
二番はネコの歌詞を作ったついでに、ゲコと語呂合わせしたもの?
いずれも酒宴での戯れ歌のひとつで、たいした内容の歌ではない。そうなのだが、この歌詞を見てふっと第六感がくすぐられたのだ。漱石が猫に踊らせた猫じゃ猫じゃとは、この歌に合わせた踊りなのかもしれないと。
 もともと優雅な猫が、下世話なというか艶っぽいというか、まさかこんな歌に合わせて踊るものか、などと半信半疑でさらにネットを探ってみると、この六月に出た「吾輩は猫画家である ルイス・ウェイン伝」(集英社新書、南條竹則著)という本に出くわしてしまった。その表紙には、猫三匹が行儀よく椅子に腰かけて机に向かうカラフルな絵が印刷されていた。以下、ネット記事から引用して概略を載せる。 
「吾輩が主人(苦沙弥先生)の膝の上で眼をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の絵端書を持って来た。見ると活版で舶来の猫が四五疋ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をしている、その内の一疋は席を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを躍っている。」 
 ※( )書き、下線はブログ筆者の加筆
 これは、漱石の「吾輩は猫である」の有名な一節。物好きな人がいるもので、林丈二さんという方は、イギリスの画家ルイス・ウェインが描いた絵葉書を手に入れ、吾輩のこの一節に登場する絵葉書とはこれを言うのではないか、そして漱石はその絵葉書を実際に持っていたのではないかと推測した。ルイス・ウェインは、ちょうど漱石がロンドンへ留学していた一九〇〇年から一九〇二年にかけて、人間的でユーモラスな猫たちの絵を描いて人気絶頂だった。 
 
 漱石は本の中で猫じゃ猫じゃの振りまでは書いていない。そのこともあって、私(ブログ筆者)はずいぶん前(四十数年前)から、漱石の猫じゃ猫じゃが喉にしっかり刺さった鱈の骨のように気にかかって仕方がなかった。手をこまねいていたのではない。長きにわたってぼんやりと、私なりに様々なイメージを追求してきた。たとえば、猫のしぐさのうちのひとつ、耳の上に手を回して顔を洗う猫独特のポーズや、あるいは北斎漫画のような猫の超絶運動機能のポーズなど。
 憎らしいことに、ネットの本の表紙に机の角で踊る猫の姿はなかった。漱石ゆかりの猫の絵付き絵葉書が実際にあるのなら、何としてもその絵を見なくては、と私は久しぶりに奮い立った。こうなると物好きの行動は林さんにまさるとも劣らない。さっそく近所の本屋で猫の絵だらけの立派な新書本を見つけた。ページをめくるとすぐ、猫じゃを踊る猫が目に飛び込んできた。
 予想に反して? その猫は顔をしかめて片目をつぶり、器用に片足立ちして、両腕を所在なげに前方に差し出している。こんな不安定な姿勢を誰でもできるわけではない。大人の男ならひっくり返らないまでも、恥ずかしがってやらないだろう。しかし、猫と芸妓さんにはお似合いなのだ。と瞬時に私は感じ取った。漱石はきっと、その絵を見たとき、頭の隅からおっちょこちょい節の猫じゃの振り付けがよみがえったのだと思う。漱石の「猫じゃ」の語源は、この辺りにあると断定して大丈夫だろう。それくらい絵の猫の振りは愛嬌があった。私は見るだけで気持ちが収まらず、一千二百円のお買い物をしてしまった。
 しかし本の筆者によると、絵の中の猫はほんとうは踊っていたのではなかった。すぐ隣の教師に叱られて、しょぼくれた猫の姿なのだという。
 まだ本の数ページしか読んでいないので、この本の筆者がおっちょこちょい節に言及しているかどうか確認できていない。もしもこのことに誰も気づいてないとすれば、私が第一発見者なので、取りあえず証拠としてこのブログに書いておく。(2015.8.14)




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今日は父しゃんをいじめない

2015年08月12日 14時10分40秒 | ファンタジー

 そろそろとお盆がやってきた。盆という漢字は、仏教でいう盂蘭盆会の一字を取ったもの。先祖の好物をお盆に盛って供養したんじゃない? というトレイ起源論はまったく当たっていない。盂蘭盆とは、そもそもサンスクリット語で精霊を表すという。おそらく中国において翻訳するついでに、会座の会を付け足したものだろう。
 お盆になるとこの世とあの世との障壁がはずれ、行き来自由になるというのは仏教的な教えで、原始にはそのような境目はなかったろう。
 お盆にやってくる人々のことをマレ・ビトと言い、彼らはケーキなどのお祝いを持ってやってくる。住む世界が違う者同士が集まると、たちまち酒盛りが始まる。そのときしか会えないからお互いに喜びはひとしおなのだ。ただ度が過ぎると疲れるので、心の中にはいつも来られてはたまらないという気持ちも若干ある。

 つい最近、お盆休みを活用して、姪と小学生の息子が我が家に泊まり込みに来た。来訪から三日目、彼らは母さんに連れられて、親戚の家にお泊まりに行った。この家は、連夜の歓迎会で疲れ切った、はなと父さんだけの楽園になった。
 はなは、まだ小さかったときのように、久しぶりに父さんとサッカーのストライカーとキーパー役を三回ずつ交代でやった。はなは、猫じゃらしにすっかり飽きたはずなのに、父さんの手で激しく動く猫じゃらしに何度も飛びついた。そして、興奮の度合いがぐんぐんエスカレートし、いつもなら背中の毛を逆立て、鋭い牙で父さんの手をかみ砕こうかと思いきや、はなは遊びに満足したのか、床に寝転がった。
 はなは、父さんと二人っきりのときは、父さんをいじめない。気のせい? 

 彼らといっしょに近くの水族館へ行ったときのこと。デパートの中にあるので、小ぶりの水槽が多い。水槽の魚類は、めいめい好き勝手に泳いだり、なびいたり、歩いたりしていた。ふと気がついた。水槽の顔ぶれの中に、一匹だけこちらを眺めている魚類がいる。魚類と書いたのは、ゴマフアザラシのような大きなのも泳ぎを止めて、水面に顔を出し、私の顔の方に鼻をすりつけてくるのだ。ガラス越しに見つめ合う目と目。決して交わることのないあちらとこちら。そのうち、どっちがマレビトなのかわからなくなった。(2015.8.12)

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急に暑くなりました

2015年08月06日 09時26分45秒 | ファンタジー

数日前、今秋に予定している同窓会の案内を出したのですが、枕詞に「私が住む土地以外はそうとう暑そうですね」と書いたとたん、この地も暑くなりました。人が苦しむのを見て、からかったりふざけたり、おちゃらかしたり、おちょくったりするのは非人道的な行為だと痛感しました。心より暑中お見舞いを申し上げます。(2015.8.6)
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