黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

二人の静(しずか)

2009年11月30日 09時48分54秒 | 日記
「二人の静」

 「静(しずか)」という名の男性を私は二人しか知らない。静氏同士に接点はないが、私の人生の転換点において、多くの強烈な示唆をいただいたという点で共通している。残念なことに、お二人ともすでに故人である。
 白川静先生は、中国文学を修め、甲骨文、金文等の中国古代の文献を渉猟し、漢字の起源を究められた大学者である。苦学して立命館大学を卒業し、その後、同大学で教鞭を取りながら研究に没頭された。昭和40年代の学生運動が吹き荒れたころ、先生は学生部長として学生たちとの激烈な団交を経験された。吉本隆明氏の談だと思うが、その最中にあっても先生の研究室の灯は毎夜消えることがなかったという。だが、先生がそのことを否定するのを私は直接耳にしている。大学のキャンパスが封鎖されたときだけは、さすがに私も研究室には入れなかったよ、と。
 先生の研究は、甲骨文などの原資料に基づくもので、中国文学や漢字学の大家の言葉遊びに近い通説に対し、下品な説だ、などと切り捨てた。歯に衣を着せない批判は、肉眼では見えない遠くの地平を見晴るかすように広大で、かつ、誰も究めたことがない深みまで到達しようという意欲的な先生の研究に裏打ちされたものだった。華々しい業績をあげ碩学といわれた学者は過去にも存在したが、「現代最後の」という賛辞を冠するにふさわしい大学者は、先生をおいて他にない。
 私が学業を放棄し各地を流浪していたとき、たまたま「漢字」(昭和45年刊岩波新書)の著者が立命館大学教授と紹介されていた。退屈しのぎに読み進めるにつれ、それまで何の興味もなかった漢字の魅力が、砂漠に置いてきぼりになって乾燥しきった私の体中に、滝の水のように勢いよく流れ込んできた。そして、昭和46年、自分が立命館に入学し、東洋史専攻のクラスに在籍していたころ、この本と出会うか、あるいは中国文学の教室で講義していたであろう先生を知っていたなら、大学を中退しない方途があったのかもしれない、という思いで頭の中が熱くなった。その本を読んだことが復学の直接的な動機にはならなかったが、その後1年以上の放浪の末、京都に戻ることを決意したとき、自分の進むべき方向性はこの本によってすでに指し示されていることを知っていた。
 50年に復学してまもなく、主に龍字などの動物文字の概念が中国古代の祭祀から生まれたことを証明しようという大それたアイデアを思いつき、先生から参考文献のアドバイスをしていただいたが、他のことに気を取られて本気で文献を探さなかった記憶がある。今さらながら、自分が出来そこないの教え子だったことが悔やまれてならない。
 先生は専門分野以外にいろいろな趣味を持ち、幅広い人となりを感じさせた。食への造詣も深かった。研究室の電気コンロが壊れたとき早く直してくれとうるさかった記憶があり、そのころは先生を単なる食いしん坊だと思っていたのだが、その評価は間違いだったのだろうか。
 卒業後、実物の先生にお会いしたことはないが、先生の映像は文化勲章受賞前後のテレビで拝見した。90歳を過ぎたとは思えないほど闊達なしゃべり口の庶民的な先生の姿がまぶしく感じられた。白川先生は、平成18年10月、96歳で逝去された。

 笠原静氏は、北海道の凍てつくオホーツクの大地を本拠地とし、海洋系の重機のオペレーターを生業としながら、名もない一庶民として暮らした。しかし、慎ましやかというわけではなく、酒、博打、女などの分野で人並み以上に名を馳せた。
 私たち夫婦がその地に赴いたのは昭和の最後の年だった。氏は仕事柄、北海道内だけでなく全国をとび歩いていたので、氏と会う前に、近所に住んでいた奥さんとその娘たちと顔見知りになった。当時は母子家庭なのかと思うほど、長期間にわたり氏を見ることがなかった。本人がいない間も家族と様々な人生の問題を議論した。それから数ヶ月後のこと、私たちが氏の家にいたとき、何の前触れもなく帰宅した氏と対面した。初めて会ったとは思えない氏の自然な立ち居振る舞いに、場は一気に盛り上がり、翌朝まで酒場兼賭博場になった。
 氏はあらゆる遊びに精通していた。特に賭け事のためなら遠くまで出かけたが、抜きんでた才能があったとは思えなかった。それでも勝ったときは周りに大判振る舞いする癖があったので、娘や友人たちからは慕われていた。
 氏は博打運など問題にならないほど強い運勢を持っていた。あるときの船舶による作業中、突然の時化に遭い乗っていた船がひっくり返り、氏は船内に取り残されてしまった。大揺れに揺れる船室には徐々に海水が浸入し、どれくらいの時間が経過したか定かではないが、息苦しくなってきて、もうこれまでかとあきらめかけたとき、ドカンという大きな衝撃が来て、船の揺れがおさまったと思ったら、陸地に打ち上げられて助かったのだという。
 その地を離れてからも、折りに触れ氏の家に遊びに行った。そして、数年後のこと、氏が末期の肺ガンで余命数ヶ月と診断されたと聞き、妻とともに駆けつけた。家族は、氏の行動の自由を束縛したくないと考え、ガンの告知をしていなかった。心配した昔の仲間たちが集まり、若かりし時代の出来事をつい昨日のことのように振り返るのだったが、時たま飛んでくる氏の辛辣な冗談に受け答えしているうちに、氏がそんな病を患っていることを忘れ、酒と博打にのめりこんで行った。最後の博打は、氏が勝負に勝つ翌朝まで続いた。そのとき私たちは、疲労の色が濃い氏の様子に我に返り、次に会える日が来るのかどうかと胸がふさがる思いだった。
 笠原氏の悲報は、氏の娘からの電話で函館にいた私たちにもたらされた。その電話の呼出音が鳴る直前、居間の窓ガラスに堅い石がぶつかったような鋭く大きな衝撃音に驚いたことを思い出す。友人の車でオホーツクの沿岸にたどり着いたとき、9月下旬だというのに気温が30度を超え、町は真夏の活気に沸いていた。
 葬儀会場にいち早く着いていた年上の友人が、二人で弔辞を読もう、と声をかけてきた。通夜では、にぎやかなことが好きだった氏の思いを受け、皆陽気に飲み、しゃべり、打った。翌日の告別式で、私は、親の年齢に近い笠原氏から、対等な大人として、人生において重要な位置を占める酒や博打などの享楽と、思い切りのよい生き方について教わり、それによって、自分の偏向した性格を打破できたことに対し、深い感謝の気持ちを伝えた。年上の友人の弔辞が終わり、家族や友人とともに心のおもむくまま駆け抜けた氏の人生を改めて振り返ると、悲しみがこらえきれなかった。笠原氏は、平成11年9月逝去され、享年67歳の生涯だった。(H21.12了)

※ウィキペディアで調べると、「吉本隆明氏」は私の勘違いで、「高橋和巳氏」(故人、小説家、中国文学者、立命館大学講師)だったのかもしれない。高橋和巳氏は、悲の器、邪宗門などの著者で、私が立命館に入学した1971年5月に逝去された。追悼の催しが学内で行われたのを記憶している。



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書-櫻花縁(おうかのえにし)

2009年11月26日 11時37分03秒 | 日記
 先頃、中国の著名な書画家である蔡亜明氏の手になる「櫻花縁」という書を新聞で見た。氏はその文字を利き手ではない左手で、逆方向の左側から書いたという。新聞記事はそのような書き方をした理由については言及していなかったが、その書が醸し出す流麗で力強く、しかも、丸みがあって優しい雰囲気に、思わず心が震えるような感動を覚えた。書を見て感動したことはかつてなかったと思う。楷書や草書より隷書体などの古めかしい書体の方を好む程度のこだわりがあるだけで、書の美しさや醍醐味などには縁がないと思っていた。
 私にとって、そもそも筆字は不得手な分野のひとつで、これまでも練習したことは何度かあったがまったく上達しなかった。高校では3年間書道を専攻したものの、お手本どおりに文字を書くことが生理的に苦手で、筆の付き方とか止め方とかの技術を習得できなかったため、次のレベルに進むことかなわず、とうとう3年生のとき授業をさぼりすぎて単位取得を認めないと教師に怒られた。そこを何とかと泣きを入れ、清書10枚で許してもらった記憶が未だ生々しい。四十代で友人に紹介されて通信教育の仮名文字講座に学んだが、変体仮名のコースに入ったところで力尽きた。ちなみにペン字はどうかというと、昔の自分の字と比べ、これもまた上達の気配が感じられない。たとえば手元に保存している自分の書き物の中で、もっとも古いと思われる大学の卒論の原稿を数十年振りで見たとき、青インクの太い線で書かれた無造作な文字から、一種の熱意というか覚悟というか、今の自分の文字にはない感触がにじみ出ていて、はっとした。
 アルファベットなどの表音文字においても、美しく見せる書体の追求が行われているが、漢字の書のように芸術の地平にまで到達しようという試みはないと思われる。漢字圏に属す人々は、なぜ漢字という文字を表現する作法や書体に魅せられるのか。それは、漢字を見たとき、その姿、形に秘められた記憶、つまり原始社会において自然と渾然一体になって生きていたころの懐かしい記憶が、無意識の深い淵からよみがえるような気持ちになるからではないかと思わずにはいられない。白川静著「字通」によれば、漢字の「字」とは、祖先をまつる空間で子の誕生を慶び報告する儀礼を表す文字であり、そのとき子に幼名(あざな)をつけることから文字の意味になったという。 
 蔡氏の書からは、氏の意思から発するのか、それとも文字自体に由来するのか、悠久の祈りにも似た思いが立ちのぼると感じるのは、私の独断に過ぎるだろうか。蔡氏の右手になる書を想像しつつ、私は再び櫻花縁に目を奪われるのだった。

(注)櫻、花、縁の文字は、いずれも甲骨文や金文(青銅器に刻された文字)になく、後世、音と意味を表す部分の組み合わせにより作られた文字だと思われる。(H21.11了)

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駅裏にて

2009年11月13日 09時24分24秒 | 日記
「駅裏にて」

 E市内のJR線路と並行する東光通を車で東へ走り、E駅裏の跨線橋の近くにさしかかると、ネコが飛び出すのではないかという恐怖感に今でも襲われる。平成17年か18年ころだったと思うが、朝の通勤時に、自転車に乗り駅に向かっていたところ、跨線橋手前の犬小屋がある家の斜め前方の路上に、ネコの横たわった姿があった。その家の人たちは動物好きらしく、大きな犬や首輪をした白黒模様のネコを飼い、他にも首輪がなく毛並みの色が違う幾匹かのネコに餌をやっているようだった。車にひき逃げされたのは、その中の明るい茶色の珍しい毛並みをしたネコに間違いなかった。私が徒歩で通勤する時、その家の前で歩みを遅くし、動物たちに視線を送るのが日課だった。すると、茶色のネコは、私の顔を識別し、必ず足許に寄ってきて挨拶した。
 歩道には3人の小学生高学年の女の子たちがいて、「かわいそう、また、ひかれるわ。」と叫んでいた。私は見かねて自転車を降り、「車が走ってきたら教えて。」と女の子たちに頼み、車道に出た。手前の斜線の真ん中に横たわったネコの体にひかれた跡はなかったが、持ち上げると口か耳からか血がしたたり落ちた。歩道に連れてきたネコはまだ息があった。「生きているよね。」と一人の女の子が私に念を押すように言った。生きてはいたが頭に受けた打撲はかなり重篤なものに思えた。ちょうど道路の真向かいに動物病院があった。女の子たちは医者を呼びに病院に向かった。
 帰宅の道すがら、ネコを横たえた歩道のところで自転車を止め地面を覗いてみたが、すでに辺りは薄暗く、痕跡は何もなかった。病院に入院したのか、あるいは息を引き取ったのか確認したかったが、動物病院にも犬小屋の家にも行く勇気はなかった。その後、毎日気にしていたが、とうとう茶色のネコの姿は現れなかった。
 その家の犬小屋には、レトリバー系の犬種だと思うが、耳が比較的長く動作がゆったりした大きな体の犬がいた。年取った犬だったと思う。こちらから挨拶しても目を合わせることがなく、誰に対しても同じ態度を取っているようだった。犬小屋は、昔、石炭か薪を保存したと思われる木造の物置で、大型犬が数匹入る大きさだった。表側と裏側の両方に出入り口があり、必ずどちらかが開いていた。
 ある徒歩通勤の朝のこと、小屋まで数10メートルくらいの地点に来たとき、小屋の向こう側からこちらに歩いてくる一人の女子高生が見えた。彼女が小屋の前を通り過ぎようとしたとき、小屋から体を半分外に出してうずくまっていたその大きな犬が、突如として体を起こし、ウーワオンと一声だけ低く大きな声で女子高生に吠えかかったではないか。それまでその犬が通行人に向かって吠えるどころか、人に興味を示す姿すら見たことがなかったので、何が起きたのか理解できなかった。
 吠えられてとび退いた女子高生が近づくにつれて、彼女のスカートがかなり短く、その雰囲気が派手気味なことに気がついた。犬に嫌われた原因は服装なのだろうか。いや犬にファッションがわかるはずがない、などと考えているうちに、距離が縮まり、彼女がすぐ横を通り過ぎた瞬間、原因が判明した。何という強烈な香水の匂いだったことか。犬の臭覚をもってしなくとも、耐えられない気持ちがよくわかった。
 その出来事があったからではないと思うが、犬小屋の扉が閉まっていることが多くなった。さぞ退屈だったろうが、犬はその後も私のことをちらりとも見ることはなかった。
 今年の早春、私が転勤先の町から2年ぶりに帰ってくると、その小屋は締められ、中に動物の気配はなかった。寿命だったのだろうと思ったが、もう一度、彼の茫洋とした風貌を見たかったと悔やまれた。その数日後、春の暖かい日射しが本格化した朝、冬の間に冷え切った地面がゆっくり融けはじめ、足許から湯気がゆらゆら立ちのぼっていた。犬小屋の前をいつものようにゆっくり歩いていると、そこに生まれて間もない子ネコがいるのを発見した。私は、毛並みをひと目見て、あのときの愛想が良かった茶色のネコとの血のつながりを確信し、思わず久しぶりだったね、と声をかけた。そのとき小さなネコがかすかにうなずいたように見えた。(H21.11了)

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松中先生

2009年11月09日 10時57分51秒 | 日記
「松中先生」

 苫小牧の高校の3年間、私のクラスの担任だったのが松中先生である。専門は物理学。10年ほど前、私が函館にいたときに人づてに、札幌に住んでいた先生が亡くなったと聞いたので、出札の折、先生の家に電話をかけ弔問に伺った。まだふた七日にはなっていないときだった。先生の奥さんには何度か会っていたが、先生のいる家の中では挨拶程度しか話を交わしたことがなかった。その日はそれまでの無口な印象とは大きく異なっていた。奥さんの口からあふれ出す言葉は、先生の生き方をおおらかに肯定するものであり、先生の幸せな一生を感じ取ることができた。
 先生は東京育ちで、子供のとき二・二六事件があった日の朝、現場近くで検問に止められた経験をし、東京大学の理系の学部で学び、色川大吉と同窓だった。先生は個性的な人で、先生の頭が良すぎるから授業が難しくてわからないとか、十勝沖地震で苫小牧が震度6だったとき、「大丈夫だから逃げなくていい。」と言ったまま教壇から転げ落ちたとか、話題の多い人だった。
 今でいう三者面談が私の家で行われたときのこと、酒好きの先生と聞いていた父は自分も好きな日本酒を強引に勧めた。かなり酩酊した先生は、傍らにいた私に医者になれとしつこいほど繰り返した。先生は医者になりたかったのかもしれないと思う。
 私がやっとのことで大学を卒業し、稚内に赴任する道すがら、苫小牧の教員住宅に先生を訪ねた。先生の従妹が稚内に住んでいるから、会ったらよろしく伝えてくれと言われて着任すると、会社の同じ係に当人がいた。彼女は私の母親と同じ年齢のキャリアウーマンで今でもときどき電話で話をしている。彼女には、初任地での5年間、言い尽くせないほどお世話になった。
 ある時、初めて買った中古の自家用車で先生の家に寄ったら、外まで見送ってくれ、きれいとはいえない私の車を撫でるようにして喜んでくれたことがあった。あまり言葉には出さなかったが、高校時代から挫折を繰り返す私のことを相当心配してくれていたのだと今になって思う。
 定年後、先生は札幌に転居した。親族からの遺産でマンションを買ったんだ、と何のてらいもなく話すのを聞いた。その後、日本一周の自転車旅行や、数ヶ月間のヨーロッパ放浪を決行した。ヨーロッパ旅行記の一部を読ませてもらったことがある。イタリアの田舎で宿を探しながら、片言の伊語で背の高い若い女性に話しかける場面では、夕闇迫る町の高台にあるゴシック風の教会の鐘楼から鳴り響くかん高い鐘の音に、先生の後ろ姿がとけ込んでいく情景が脳裏に浮かぶようだった。
 先生との語らいの中で、文学の話が一番多かったと思う。志賀直哉の暗夜行路の主人公が死ぬときの心境に違和感があることや大江健三郎の文体の変化、安部公房へのガルシア・マルケスの影響、埴谷雄高のドストエフスキー論など、ついていくのが難しい話が多かった。
 先生の趣味は何だったのか、物理学が好きだったのか、日本酒以外のどんな飲食物を好んだのか、私にはわからない。先生と話しているときはそんなことはどうでもよかった。先生が次に何を企てているのか問いただし、自分の知らない世界や話題を追求したいという欲求のままに、奥さんの迷惑を顧みず、時間を忘れ議論した。
 私の想像では、退職してから十数年間の先生の時間はうらやましいほど充実したものだったにちがいないと思っている。(H21.11了)

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カラスたちの浦河

2009年11月04日 09時07分44秒 | 日記
「カラスたちの浦河」

 平成19年、浦河町の2階建のアパートにたどりついた6月のその日は、暖かく晴れ渡っていた。しかし、翌日から夏の終わりまで、早朝晴れ間が見えても、朝8時頃になると海の方から白く濁ったふわふわの霧が内陸に向かって押し寄せる日が続いた。その霧に包まれると、気温が2・3度、急激に下がった。慣れているはずのカラスたちさえ、身を縮めるようにおとなしくなった。
 浦河で一番数が多い生き物はカラスであろうか。浦河では、人間はカラスの縄張りの中に居住を許されていると思っていなければ、危険な目に遭うことがある。新入りはただちにカラスの監視下に置かれ、不穏な行動がないか注意深く観察される。乗ってきた車の屋根は一時的にカラスに占領される。カラスの鋭い視線を嫌がって、何だお前、と追い払おうものなら逆襲される恐れがあるので逆らってはいけない。数日間の我慢である。
 顔なじみのカラスたちと挨拶ができるようになったころのこと、カラスが3羽、アパートの裏庭で遊んでいた。突然そのうちの1羽が他の2羽に対しギャーギャーと鳴きながら攻撃を仕かけた。しかし、仕かけられた2羽はあきれたようにそっぽを向き、一定の距離を置いて相手にもしない。しばらく観察していると、うるさいカラスの体が2羽に比べ少し小さいことに気がついた。つまり、つがいの親ガラスに子ガラスがエサをねだるのだが、両親は頑として受けつけないのだ。浦河のカラスの家族は、理想的な子離れの振る舞いを演じていた。
 これは妻の目撃談。突然何羽ものカラスのけたたましい鳴き声がしたのでベランダに出てみると、アパートの横を走る幹線道路の真ん中に黒い固まりが見えた。たった今、車に轢かれたのだろう、腹がつぶれ白っぽい腸のような内臓がはみ出たカラスの無惨な姿があった。そのとき1羽のカラスが急降下して道路に舞い降りた。 そのカラスは、道路に横たわった仲間を何度かくちばしで起こそうとした後、そのままにはしておけないというように、道路脇に必死に引きずっていくのだった。耳が痛いほどのカラスの鳴き声があたりを覆いつくす中、歩道の人間や道路を走ってくる車は、野生の存在感に圧倒されたかのように凍りつき、彼らの作業が終わるまでの時間をじっとうつむきながら待った。
 浦河港に小さな漁船が帰ってくる夕方、カモメとカラスが遠巻きに待機している光景に何度も遭遇した。漁師たちは、荷下ろしが終わると、船の底に散らばっている売り物にならない雑魚をバケツですくって岸壁にまき散らすのだった。鳥たちはそれを目がけて一斉に突進するので、岸壁は毎日お祭り騒ぎだ。だから、海の近くの野外でものを食べる場合は必ず相当量のおすそ分けが必要だ。一度だけ、岸壁で昼食の弁当を食べたことがあった。カモメとカラスが15羽、30羽と音も立てずに飛んできて周りを囲まれたときは、ヒッチコックの映画より背筋がゾッとした。
 浦河の生活が2年目になったころ、うちの「はな」はベランダで紫外線の薄い日光浴を楽しみながら、ようやく浦河のカラス語や野鳥語が理解できるようになったが、ネコなので彼らと仲良くなるまでには至らなかった。
 妻が知り合いになった地元の方々からは旬の魚や野菜の差し入れをいただいた。顔に小さなちょうちんやお腹に吸盤がある調理したことがない魚たちもいた。妻は、「お前、深海魚なの?」と恐る恐る話しかけていたが、それがたいそう美味なのだった。
 そんな対話ができるようになったころには、約2年間の浦河生活が終わろうとしていた。(H21.11了)

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