黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

ヒト介護

2017年06月28日 11時05分54秒 | ファンタジー
(積丹町入舸 島武意海岸)

 昨日で退職の挨拶回り、机の上下・内外の整理などがほぼ終わったので、日中、何もすることがない。あとは飲み会だけ。
 そろそろ介護を受ける側の勉強が必要なお年頃になるので、暇にまかせて、介護保険の財源がどうなっているかあらあら調べてみた。ネット情報によると、介護保険料の半分は、国と都道府県と市町村が一定割合を負担。残りの半分が、私たち第1号と第2号被保険者の保険料でまかなわれる。
 個人負担の保険料の内訳だが、22%は第1号被保険者(65歳以上)、28%は第2号被保険者(40~64歳)の保険料が充てられる。ちなみに、第1号の65歳以上は体の状態により何段階かの介護認定を受けられるが、第2号の64歳までは特定疾患の場合のみ介護が認められる。
 また保険料は、市町村ごとに介護に係る経費や年齢構成に基づいて算定されるので、数千円もの差がつく。健保は75歳から後期高齢者なのに介護は65歳が転換点。なぜ10歳の開きがあるかここでは追求しない。
 65歳になった実感がわいたのは、この介護保険料の請求書を見たときだった。なんと保険料が3~4倍に跳ね上がっている。保険料を65歳以上の年寄りヒトだけで負担したらどうなるか、介護認定をほとんど受けられない若いヒトに比べれば我慢しなければ、と気持ちの高ぶりを押さえにかかるのだがモヤモヤは晴れない。言いたくないがさらに驚くべきは、保険料はこれまでの世帯から、65歳に達した一人一人に請求される。
 高齢化が飛躍的に進む社会で、年寄りが声を上げるのは至難だ。上の世代がごっそり抜けてしまうまでの辛抱。遠からず自分の辺りまでやって来る。そのころにはいろいろ楽になるかな。(2017.6.28)
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ホルモンの話

2017年06月22日 16時27分26秒 | ファンタジー
 (ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」部分)

 ホルモンと言っても焼肉の話ではない。
 生き物の身体は、本人の好き嫌いや意識するしないにかかわらず、ホルモンと神経によって完全自動制御されている、という話は以前から耳にする。生体とは、ネコバスみたいなものと思えばいいのだろうか。ネコなんて、たいがい寝ているか遊んでいるか、まじめに運転するとは思えない。だがそれでいいのだ。ネコバスはバランスよくちゃんと走る。
 当然だが、この優れものの生体反応装置は、ネコだけでなく、ヒトからアメーバまで、形は違えど幅広く備わっている。 
 それに比べ、ヒトが発明した考える力や精神、意志といったものが、すぐ破綻するのはどうしてなのか。これらは本来、生体にとって不要な、あるいは生体のためになるどころか害をもたらす代物だったりして……。
 ホルモンにも流行がある。最近もてはやされているのは、生体を愛情豊かにするオキシトシンと攻撃的にするテストステロンのふたつ。生き物がペアー、あるいは群を作るとき、平和なつき合いのためにはオキシトシンが欠かせない。闘いのときなど、群を力で統率するにはテストステロンが大きな働きをするという。 
 ところが、アフリカに暮らすヒヒの一種、バブーンに関する調査報告には意表を突かれる。それによると、彼らの性格はきわめて凶暴で、少数の年季の入ったオスたちが力任せに群れを支配し、メンバーを外への攻撃にけしかけているという。あるときのこと、ひとつの群の支配階層の年寄りたちがごっそり病死した。すると、それまで群の中で起きていた日常的なパワハラが一掃され、穏やかな群組織に変貌したという。力によらなくとも群の統一性が維持されたのだ。
 ホルモンコントロールが十分きいているはずの野生動物の社会のおいては、どんな群もほぼ同じような行動様式を取ると考えられてきたが、実際は違った。ほんの少数の強者の入れ替わりが、群に劇的な構造の変化をもたらした。バブーンにできて、ヒトにできないはずはない。ときには平和的な手法で世界を作り替えられるのだ。
 とは言うものの、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会の男女の姿を見れば、ヒトに限らず、生き物をコントロールするのに理屈はいらないように見える。ヒトが、この生体反応に反する思考を頭の中でくり広げようとしても何か得られるものがあるだろうか。生理学的には、思考なんてたかだか脳神経細胞に流れる微々たる電流とか未知のホルモンの作用にすぎないのだから。
 しかし、たとえそうであっても、頭の中まで完全自動制御されたくないという気がする。とくに、この国にもあの国にもいる感じわるい政治家みたいな頭にはなりたかない。(2017.6.22)
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わたし はな≪テレビ鑑賞会≫

2017年06月14日 16時55分19秒 | ファンタジー
≪テレビ鑑賞会≫
 はなは普段、テレビにそれほど関心がないように見える。でも動物番組だけは好きで、幼いころはテレビの前のかぶりつきに陣どって離れなかった。再三、父しゃんから目を悪くすると注意され、いつの間にか、その特等席には行かなくなった。
 最近は、夜が更け、石澤典夫アナの「2355」の重厚なナレーションが流れるころ、はなの身の上に不可解な出来事が起きる。ずっと爆睡していたはずのネコの短い首が音もなく持ちあがり、テレビ画面にすっくと向き合うのだ。細野晴臣の下手くそな歌を聞いているのかいないのかわからないが、日めくりアニメは画面が動くからなのだろう、しっかり見ている。
 はなは、「ねこのうた」がいちばんのお気に入りだ。おれ(わたし)ねこのオープニング映像と音響がスタートすると、すみやかにソファーの所定位置に座りなおし、じっと耳を立てる。
 おやすみソングの「眠れねこねこ」には反応が今ひとつ、自分も眠くなり聞いていられないのかもしれない。ネコなので、その辺りで集中力が切れて静かにおやすみになる。それを見ている父しゃんも酔いが回り、その夜のテレビ鑑賞会はお開き。(2017.6.14)
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後発性騒動

2017年06月09日 15時31分46秒 | ファンタジー
《1ヶ月前の桜》

 今月に入りせわしない日が続いている。退職を控えているとはいえ、やり残した用件がこんなにあるはずないのだが。
 昨日、外回りがキャンセルになり一息ついたときのこと。右眼の状態が白内障手術の前みたいにぼやぼや。いよいよ調子悪い。忍耐のひもが切れた状態で、午後から休みをとって眼科へ行った。あいにく、その日の検眼の担当は男性の検査技師だった。この目をどうしてくれるんだとイライラしているので、彼とは口も聞かない。医師は、後発性白内障が目の中心部まで広がっているのでレーザーで治療しましょうという。それなら4月に来たときやってくれればよかったものを、と喉まで出てきたがこらえた。冷房のせいか、頭の後ろから背中、胸から膝にかけてゾクゾク寒い。瞳孔拡張剤を点眼され、四、五十分の間、極寒に震えた。
 濁った目の皮をはがすレーザー治療はあっという間だった。恐れていた痛みはぜんぜんない。それどころか、何をされたかまったくわからない。カンカンする響きなんて痛みに比べればどうということはなかった。涙目がおさまると、視界が鮮明になったのがまさに一目瞭然。頭の中でブスブスいぶっていた憤懣の煙はすっと消えてなくなった。
 その日の夜は、映画「花戦さ」を見る日だった。治療後すぐ、スクリーンの光に瞳をさらして大丈夫だったのかどうか。多彩な出演者の顔ぶれ。テーマは桜梅桃李、茶や花によるもてなしの心など、じつにシンプル。なので眠気はもよおさなかった。
 暇なネコ せわしいイヌにも 日々文句あり 猫史 (2017.6.9)
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中動態のネコたち

2017年06月01日 14時36分47秒 | ファンタジー

 2年前に白内障の手術をした右眼の調子があまりよくない。視界に薄いもやがかかり、光り物を見ると不規則に閃光が走る。思いがけない乱調に驚き、1か月ほど前になるが、手術を受けた眼科へ行った。検査の結果、視力はほとんど変化なし。人工レンズに汚れはなく、飛蚊症も軽症で落ち着いている。後発性の白内障は、水晶体の縁に多少見られるだけで問題なしだと言う。
 しかし、自覚症状は悪化の一途をたどっている。とくに、近くの事物のぼやぼやがだんだん進行し、本を読むときの顔のゆがみは日に日にひどくなるような気がしてならない。なので、最近、残念ながら本を読むのが苦痛だ。でも文字から離れては生きていけない。スマホのゲームはこりごりだ、目が回る。
 この前、漢文読めるかと聞かれて即座に大丈夫と請け合えなかったのを悔いて、「漢文入門」(前野直彬著、ちくま学芸文庫)を読み始めた。フィリパ・ピアスの処女作「ハヤ号セイ川をいく」(講談社青い鳥文庫)を手に入れて読む気満々だし、数日前は、アイヌと北方民族の熊送りのフィールドワークに関する本を拾い読みした。
 書評だってちゃんと読んでいる。最近のもので目に止まったのは、「中動態の世界・意志と責任の考古学」(國分功一郎著・医学書院)という聞き慣れない題名の本。依存症や言語の探求を通して、意志や責任のレベル(する、されるの範疇)を超えた、中動態の重要性を追求するという内容だという。
 書いている私自身さっぱりわかっていないので、以下話半分に読んでいただきたい。
 原始ヒトの生命が大自然と一体だったころは、能動態でなく、受動或いは中動態の生き方しかなかったいう理屈は、構造主義の理論や狩猟民の生活文化から見ると当たり前に思える。なにせ、紀元前まで、ヒトには自意識がなかったという説がまことしやかに流布しているし、漢字の解読により、紀元前二千年ころのヒトは自己の知覚や意識によって判断したり行動したりすることはなく、自然の声を探し求めそれだけを拠りどころに生きていたことが明らかになったのだから。 
「との」や「はな」の生活を見てきたが、彼らは本能に基づいた行動や選択を除けば、ひたすらダラダラしている。暇や金があったって、ヒトのように、几帳面に1日1月1年のスケジュール管理したり、遊びや酒におぼれたりすることはない。私みたいに物につかれたように日記をつけることなんてぜったいない。なので時間に追われない。何もしなくて十分満足だという顔をしている。これが中動態の世界というのだろうか。
「ヒトはもう、ネコの生活には戻れないのだろうか」
 ふとこう書いて、不可思議な気分に襲われた。ネコは狩猟を生業とした生き物だ。ヒトも原始ではそれが唯一の生きるためのスキルだった。だったら戻れないわけがない。後天的に手にした言葉や祭儀、贈与、収賄、文字・書籍、哲学などを捨て、忘れてしまえば、よけいな意志も責任も脳裏に浮かばず、ヒト同士ぶつかり合うこともなくなると思うのだが。でも本を捨てるなんてできない。困ったものだ。(2017.6.1)
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