黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

右傾化と常識

2012年11月30日 10時32分50秒 | ファンタジー

 ジョセフ・ナイ・ハーバード大教授は、「日本のナショナリズムの高まりは衰弱の兆候」という題名のコラムを最近発表し、現在の日本の世論が右傾化している事態を不安視している。
 右傾化とは何か。右翼的な方向への傾き、つまり体制翼賛的、保守的、民族主義的、国粋的になりつつあるということ。ちなみに左傾化とは、革新的、体制批判的、階級闘争的な傾向をいう。簡潔に言うと、右は現状の利益配分を守る派、左は現状の利益配分を変えようとする派。このような相容れない左右両派の思想は、人とは本来、自分の利益や立場を必ず守ろうとするもの、という固定観念に根ざしている。だから、自分の得になることを嫌う人にとっては、まったく空しい議論だ。
 では、左右の文字の本来の意味とは。右手に神に捧げる祝告の器を持ち、左手に音によってその場を清める呪具の工を携えて、神の声を聞く祭儀が繰り広げられる様子を表したものだろう。時代が下って、天上ばかり見ていると、民の声が聞こえなくなるという戒めの意味に変化した、とはどんな文献にも書かれていない。
 ところで、ナイ氏のコラム全文を読んだのではないが、たぶん外交関係の悪化に伴い、内向きになる日本人の傾向性に言及しているのだろう。
 私たちは日常的に、様々な特性ある人々に囲まれ、苛まれ、かわいがられ、足蹴にされもする。この社会では、理不尽な圧力を加えてくる、もののわからない頑固な人がいるからといって、その人と同じ性格になって対抗しようとは、普通思わない。利口な人は、相手の誤りがどのようなものか、自分はその相手と違い、きわめて常識的なことを主張しているのだと、話の通じる人々に理解してもらおうとするだろう。
 国の周囲にも、人間社会と同様、個性的な飛び跳ねたように見える国があっても驚くには当たらない。ただ、自国もその仲間入りして、自分の側の尺度を押しつけて問題をこじらせるのでは、相手とレベルが同じだと言っているようなものであり、一流(?)国としてあまりにも思想が稚拙すぎる。
 ナイ氏は、「この国が真の大国であり続けようとするなら」と、一応、日本に敬意を払ってくれているが、本当にそうなるには、ちゃんとした大人の思想を持たなくてはならない。国の内側で政争ばかりやっていて、国際社会で積極的な役割を果たすことをすぐ忘れてしまう内弁慶では通用しないのだ。日本人は歴史と時代によって試されている。聞く耳を持たない性格が災いして、外国と時代と国民から見放されるのは愚の骨頂だ。今の時代、年寄りと常識の分からない者が出る幕ではない。(12.11.30了)
 
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老化現象とは

2012年11月29日 11時03分23秒 | ファンタジー

 こんなことしたら老化防止になりますよ、と体操や脳の活性化法などのレシピ(処方箋)が雑誌やなにかにいつも載っているが、そういう記事を私は信用しない。歴史上、老化しないで通せた人は一人もいないのだから。すぐそんな極端なことを言う、とお叱りを受けるかもしれないが、老いた人が若者よりどんなに健康に気を使ったとしても、体調不良、脳内ぼんやりを解消することはできない。だから、自然の摂理に逆らうような行為のために、貴重な時間を使うべきではない。
 数年前までは、やりたくないことに時間を割くのはもったいないという気持ちが、これほど強く切実に起きてこようとは、想像できなかった。やはり残された時間を無意識に数えるようになったからなのか。それとも、束縛された日常生活にあきあきしたからなのか。早く仕事を辞めて、空想と楽しみの世界を駆け巡りたい。そうしたら、たちまち脳内ぼけぼけになるんじゃないかと一抹の不安もある。(12.11.29了)
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同じ土地に住む

2012年11月28日 11時12分16秒 | ファンタジー

 どの土地にも、そこに住まなければ理解できない土地柄というものがある。それについては異論がないと思う。では、同じ土地に、生まれてから死ぬまで住み続けるのは自然の摂理なのか。それとも、忍耐と諦めによって達成されるものなのか。これについては、人それぞれ思うところがあるはずだ。
 北海道に住む者は、比較的地元へのこだわりが淡泊だと言われる。大半の者が、道外のどこかにルーツがあるから、そんな傾向があるのは仕方がないかもしれない。私の場合、祖父母が、大正時代の始め、今から約百年ばかり前のこと、山形県から道北のまったく人の影さえ見えない未開の地へ入植したと言い伝えられている。もう三十年以上前になるが、その地で生まれた叔母や従妹といっしょに、一度だけ迷いながら訪ねたことがある。そのときも人っ子一人いない寂しい土地だった。
 私自身は、この十数年、北海道の中央部の土地に住んでいるが、自分の性格は、一ヶ所に定住して周囲と仲良く暮らすライフスタイルに適さないところがあると、以前から思っていた。とはいえ、家の周りに堀を廻らして、まったく周囲から孤立した生活をしているのでなく、その真逆で、けっこう大勢の方々と情報交換したり、けなし合ったり、だまし合ったり、と緊密な関係性を結んでいる。私にとって、地域社会でそうすることは、確かに生きがいのひとつになっているのだ。しかし、その反動は大きく、この生活からはなはだしいストレスを感じる。やはり今の生活は自分の性に合っていないような気がする。
 私は、子どものころから、外国を紹介するテレビや写真、文章、たとえば「兼高かおる世界の旅」「世界何とか画報」などを見聞きすると、まだ訪れたことのない未知の土地への熱い思いが抑えられなくなったものだ。それらに触発された子どもの私は、自分の意識から抜け出して、尖塔の先に低い雲を巻き付けた○○○○教会の町へ飛んで行き、汚れた古い石造りの建物がひしめく、暗い路地沿いにどこまでも彷徨い歩いていく。それから、ゴーゴーと吹きすさぶ砂まじりの風に打たれながら茫漠とした高原を抜けて、突然豊かな緑に溢れたオアシスのような土地に到着する。別の本を手にすると即座に、今度は古い日本の民家の座敷に上がり込み、奥へ奥へ進むにつれて天井がずんずん低くなり、目の前におしらさまみたいな小人が現れる。私はそこで静かにまどろむ。そういった願望とも妄想ともつかない旅を、長い間意識の中でし続けてきた。
 一方、ここにいる私本体は、実家を出てから三十数年、各地を転々流浪の末、行き倒れそうになりながら、かろうじて生き延びてきた。いずれにしても、私は、土着して地域の発展に尽くすといった甲斐性のある人間ではない。
 私は、同じ土地に長く住むと、たいがいその土地に飽きてしまうのだ。土地に飽きなくても住む家に飽きたり、同居人や猫に飽きることもある。誤解を招かないように付け加えるが、今いっしょにいる人や猫の事を言っているのではない。この飽き性は、たぶん自分の興味のないことにまったく感性が働かない、持って生まれた性分そのものだ。しかし、最近、ひょっとすると違うのではないかと思うことがある。私の性分とは、自分の本来住むべき土地を追い求めてやまない原初的な衝動に由来するのかもしれないと。
 ここ数年、その傾向性が強まり、中でも脈絡なく現れる放浪願望には手こずっている。これがさらに進んでいくとどんなことになるか。つまり、この状態を世間では老化現象の一兆候とも言う。(2012.11.28了)
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嵐でなく大嵐

2012年11月27日 10時48分34秒 | ファンタジー

 今日はこの冬初めての猛吹雪になっている。暴風雪の中、稲妻と雷鳴が交互にやって来て、外へ出るのはそうとう勇気が必要だ。JRや高速道路もあちこち寸断されている模様。こんな日には、不精者はどこへも出ないで、静かに息を潜めて、趣味の合気道でもやるのがいいか。
 それは冗談だが、この世の中の喧騒に嫌気がさして、家の中にじっと隠ってばかりだと、老化現象が進んで、周囲の世話になる時期が早まるといわれている。私のように、一日も早くごろごろできる身分になりたいと切望している者は、確実にそれが足早にやって来るだろう。そうなったらなったで、なんとかなるさ。
 こんな事を書いて一日無駄に過ごしているうちに、JRもバスも停まって、家に帰れなくなりそうな、冗談抜きでとんでもない大嵐だ。(12.11.27了)
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