黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

なにものでもない

2014年01月28日 16時31分27秒 | ファンタジー

「無数の生」へのこだわりがなかなか晴れないのは、病み上がりの体につき合っていると、ついつい生死について敏感になってしまうから?
 それとも、この国に生まれ育ち、習わなくても自然に身に染み込んだ仏教的感受性というものがあって、それが刺激されるから?
 そうではなく、現在、構想を練っている「ブタたち」第三部の主要テーマに通じるなにかを感じ取ったから?
 とにかく、「一個の生命体は、過去から未来永劫にわたって無数の生を生きる」という論理によって、私は、深遠な宇宙に関する知識に触れた、幼いころの感動を呼び覚まされるのだ。
 その宇宙の知識とはきわめて茫漠としていて、「無限に広がる宇宙の空間と時間の中で、地球をはじめとする天体は、どこからともなく旅してきたチリを集めてでき上がっている」というもの。このとき即座に、そこに付着した自分は、宇宙のチリ以外のなにものでもないことを悟った。自己とはなんなのかを生まれて初めて認識した私は、危うく卒倒しそうになった。 
 その後、勉強した甲斐あって、自分自身は、母親から生まれたのは単なる物理的現象であって、なにかの縁に触れて、たまたまここにいるのであり、生涯を終えて、次の縁に引っ張られたら、たちまちどこかへ飛んでいって別の姿形に変化する。仮に、木星の内側の小惑星帯で水蒸気を吹き上げる準惑星ケレスに行ったなら、水の膜に覆われた単細胞の生物か、ゴツゴツした氷の塊に閉ざされたチリなどの違った形をとるのだろう。というところまで考えることができるようになった。
 しかし、今ここにいる自分はなにものなのか、という出自の記録はなかなか探し出せなかった。「無数の生」の触発によって、一切の存在は、なにものでもないというのが、いちばん正解に近い答えかもしれないと思う。なにものでもないからこそ、本来的な可能性と自由を備えているのであり、それらのことは、子どもの自分にはなんとなくわかっていたような気がする。いずれファンタジーとして、このことはを再び取り上げるだろう。(2014.1.28)
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時代のぬかるみ

2014年01月27日 16時13分36秒 | ファンタジー

 時代の制約から自由であることは、ほんとうにむずかしいのだと思う。よく言われるのは、時代に先駆けて、先進的なものを生み出そうとしても、時代の制約に抗うことができず、なかなか実現までに至らないというもの。例を引くと、天才ダビンチは飛行機の卓抜な構想を立てたのだが、それを作って飛ばすことはできなかった。
 しかし、ヒトは必ずしも時代に縛られるばかりではない。彼の場合のように、発想力・思惟力・想像力は、時代を超えて発揮されることがある。そのためには、自分の思想というものに、先見性や自由度、そして客観性や論理性がどこまで備わっているか、日々、検証する必要があると思う。そうしなければ、自身が何者なのか、という基本原理さえわからなくなる。
 蛇足だが、今の時代、そんなことさえ理解できない一国の総理大臣の、時代のぬかるみに浸かったパフォーマンスを見ていると、がっかりを通り越してぞっとする。
 ところで、ダビンチは、五百年ばかり未来、つまり二十世紀の出来事を予言しているとかいないとか。時間旅行をしてあの時代にやって来たことを示すゆかりの品が、ある教会にひっそり眠っているという極秘情報もある。(2014.1.27)
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二十日の写真

2014年01月23日 13時26分51秒 | ファンタジー
<同居イヌの「もも」>

 一月二十日の記事に添付した写真について。
 初登場のネコたちの写真を見て、とまどった方がいらっしゃったかな、と思う。この家には、十数年前まで、ヴァロンという名のネコが住んでいた。彼のネコ生は、とののそれの大部分と重なり合っていた。私が、とのを思い出すとき、必ずと言っていいほど、ヴァロンの姿も浮かぶ。それくらい、二匹は私の心の中でかけがえのない存在なのだ。彼らのネコ生に興味のある方は、本ブログ掲載の「黒猫とのの冒険」を参照されたい。
 ヴァロンは、自分の家にやって来た二匹の子ネコの面倒をかいがいしく見た。その二匹というのが、この写真の「どん」と「ひめ」なのだ。いずれも拾われネコで、どんはノルウェージャンの捨てネコ、ひめは近所の飲食店の周りを徘徊していた日本ネコだ。現在、どんは二十歳近い年齢。毎日ストーブの周りで過ごしている。一方のひめも、もう少しで十五才になる。
 どんは女の子だ。ドンとは、一般的に実力者の男イメージなのだが、彼女の名の場合、どん兵衛の「どん」の意味に取るのが正しい。なぜこんなダサい名前になったのか。この家のまだ小学生だった娘たちが、子ネコのために、面白がって名前募集ゲームをした。そのゲームで「どんべえ」と書かれた応募の札が引き当てられてしまった。娘たちは「どんべえ」を女の子につけるのは、いくらなんでもかわいそうだと思った。そこで、べえを削除して「どん」にしたのだ。
 そんなに詳しく知っているのは、このゲームに私も参加していたから。子どもやネコたちとたわいない遊びに熱中するのは、私の特技のひとつ。そんなとき、私は彼女たちの世界に入り込んで自分を見失ってしまう。(2014.1.23)

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細氷(ささめこおり)

2014年01月21日 14時46分24秒 | ファンタジー

 二年前、ダイアモンドダスト(細氷)の記事を書いた。今日の大気の状態はあのときによく似ていた。快晴の明るい大気中に川霧がもくもくと上がっていて、極端な気温の低下が感じられた。後で早朝の気温を確かめたところ、マイナス21℃だった。辺り一面霧に覆われている。行き交う車の半数はライトを点けている。圧雪の路面がライトに照らされて、ぬめっと光る。路面に川霧が舞い降りてきて、薄い氷の膜をコーティングするため、普段の圧雪路と違い、タイヤがスルスルとあらぬ方向に滑っていく。気持ち悪くて仕様がない。
 ダイアモンドダストと氷霧の違いがよくわからない。
 ダストは細かい氷が漂う現象で降水に分類され、氷霧は快晴のとき低温の大気に舞う霧なのだという。また、サンピラー(氷柱)というのは、大気中にごく薄い氷が重なり合って、そこに陽が射して、空と地上をつなぐ光の柱ができる状態をいうそうだ。同じ氷を突き抜ける光なのに、反射の仕方によって、まったく異なる様相を見せる。
 今日の大気中にも、細かい針のような氷がうようよ泳いでいた。ときどき薄日が差すとき、その針がキラキラ輝いて見える。この景観というのはダストとミストの両方が混じり合っているのだ。ここにピラーが立ち上がったなら言うことなしなのだが、と思っているうちに、また写真を撮り損なってしまった。(2014.1.21)
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多生の縁

2014年01月20日 14時09分44秒 | ファンタジー
<はなのお姉ちゃんたち 「どん」(手前)と「ひめ」>
 リルケの無数の生という言葉が載っている「巴里の手紙」は、市販の文庫本などには見当たらない。目録にある全集や選集はことごとく絶版になっていて探しようがない。図書館の蔵書を検索してもピタッとヒットしない。探しに行ってみようにも暇がない。時間と視力と根気があれば、好奇心のおもむくまま、ずいぶんと楽しい生活ができそうだと想像して毎日を送っているが、当分そうはならないだろう。
 それはそれとして、彼の本は、いまどきの人々にとって、あまり読む気がそそられない類に入っているのだろうか。それとも電子書籍の登場で、紙の本は売れ筋から外れたとたん、裁断される憂き目に遭うのか。やはりこれからは営利を目的としない、儲からなくても続けられる個人出版社の役割がますます大きくなっていくだろう。出版したい方はユメミテ書房へどうぞ。ただし実費・実働負担です。
 ところで、私には、リルケが「無数の生がある」と言った意識の置きどころに関して、一片たりとも知見を持っていない。私の頭になんの脈絡もなく浮かんだのは、いわゆる「多生の縁」という仏教的イメージだ。それは、自身の命に刻まれた多くの生の痕跡へのこだわりといったもの。
「子どもの時代を持つということは、ひとつの生を生きる前に」という彼の前置きに気がついたのはその後だ。考えてみると、子どもたちには、大人の理解を超えた多くの可能性が備わっているという捉え方も、私にとってひじょうに示唆的なものだ。すぐ、納得いってなかった「憂鬱な子どもたち」の最終章の文言、それは塾教師の言い残した言葉なのだが、それを書き換えようと思った。「君たちには限りのない自由と多くの生が備わっているのだ」と。(2014.1.20)
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危うい心

2014年01月17日 13時37分00秒 | ファンタジー

 ブタナベ国の危うい政治家の話。
 国民から選ばれ、内閣を統べる総理大臣の信じられないような行動の裏側が、大手メディアによって報じられた。
「もし我がブタナベ国とネコジャン国との同盟が揺らぐようなことがあれば、私の失政だ」
 これは、昨年末、彼がある有名な神社を参拝する二日前、当メディアの入手した首相の極秘発言だという。メディアは慎重に検討した結果、失政の危険を犯してまで参拝を強行するのは得策ではないと首相サイドは判断した、と解釈し翌日の朝刊に「首相参拝なし」とすっぱ抜いた。ところが、彼は意表を突いた行動を取った。私としては、そこまで参拝にこだわる首相の心に言いしれない違和感を抱くのだがどうなのだろう。
 それはともかく、政治家の心得に、自身の思想・心情・性癖にこだわるあまり、国の立場を不安定にし、国民を危険に陥れていいとはぜったい書いてないはずだ。今からでも参拝自体を撤回すべきである。(2014.1.17)
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無数の生

2014年01月08日 10時58分08秒 | ファンタジー

 昨日までとはうって変わり、今朝の雪は柔らかなシルエットを描いて、ぽつりぽつりと降っていた。本来なら町の大気に充満する鈍い騒音がない。雪粒は白い地面に触れると、たちまち形をなくしてしまう。久しぶりに頬が凍えない朝だ。溶けかかった雪のじっとりとした感触が、私の体に染み込んでくる。雪の少ない土地で過ごした子どものころ、たまに降る雪の原っぱを転がり回った記憶が、さっと頭をよぎる。無数の生を経てここにいる、と言ったリルケの言葉をふと思い出す。(2014.1.8)
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ネコの返事

2014年01月07日 16時08分09秒 | ファンタジー

 詩という形をとった言語表現について、不可解さをぬぐえないのは、私一人なのだろうか。えん曲な修辞や韻などは、相手に用件を伝えるためには必要ない。とすれば、相手の心を揺さぶろうという策略めいた文章作法ということになろうか。
 不特定の相手に公表される詩文もたくさんある。それらも感情に訴えようとするのだとしたら、アジとかデマとかいった性質の言論と大きく違わないことになる。
 中には、自然界の生きとし生けるものすべてに向かって呼びかけているものがある。さらに、伝えようという目的ではなく、自己の内なる声を表現してみただけのものもあるだろう。
 それならネコに向かって話しかける言葉も詩と言えるかもしれない。ネコは、呼びかけられてもその気にならなければ、返事どころか振り向きさえしない。
 決して返答しようとしない相手なのに、なんとか興味を引き出すため、最大限の言辞を弄するネコ撫で声の詩文の数々。それを詠じる努力は並大抵ではない。理屈でものを考えがちな者には耐えられない。やはり、詩は、感受性の豊かで辛抱強い者にしかできない仕業なのだ。たとえばネコとか。(2014.1.7)

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はな 年賀2014

2014年01月01日 14時49分48秒 | ファンタジー
あけまして おめでとうございます
 はなは、今年10才の大台に乗り、還暦を過ぎた父さん母さんの年齢に追いつきます。年相応の振る舞いを身につけた"はな"は、壁を伝って走るような、子どものころのおてんばはしなくなったけど、父さん、たまに遊んでよと、相変わらずうるさく鳴いてます。
 父さん母さんがこの家に越してきて早や13年。野中の一軒家みたいだった眺望は、今や密集した住宅に阻まれ、セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山と見まごうばかりの手稲の山並みは、半分以上隠れてしまいました。でも、はなは、日向ぼっこできる玄関フードと2階の小さなベランダがあれば幸せ。主寝室の外、昼寝用の籐椅子やソファーもあるんです。そんなふうにゴロゴロしている"はな"を見ているだけで、父さん母さんは十分満足し、おもてなしされている気分なのだそうです。本年もどうぞよろしくお願いします。
 2014年元旦
                            は な
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