黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

夢便り ネコ語喪失

2013年02月27日 09時05分44秒 | ファンタジー
 ブログの整理をしていたら、とのから、昨年五月に届いていた手紙を発見した。ちょっと長くて堅い内容だが、行方不明にならないよう掲載させていただく。

 とのの手紙には、また夢のような変な話が書かれていた。
 慣れ親しんだネコ語をしゃべったり、その言語を表記したり、表記された文章を読誦したりする自由を奪われるようなことになったら、はたしてネコはどういった反応をするのだろう? こんな問いを投げかけるのだが、冷酷無惨な牢獄に入れられた死刑囚ネコだってネコ語を使えるし、ネコの本だって差し入れてもらえるのに、「まさかそんなことあるわけニャい」と、ネコ一匹信用しようとしない。
 ところが、ヒト国では実際に類似事例があったのだ。太平洋戦争の終結直後、志賀直哉は「国語問題」という提言で、戦争で負けた日本ヒトは日本語の使用を止め、地上でもっとも美しい言語のフランス語を採用すべきだと主張した。その趣旨を簡単に記すと、日本語は不完全な言語で、このまま使い続けるなら文化国家としての日本の将来はない、明治時代に唱えられた自国語の英語化が実現していたらこの戦争も避けられただろうというもの。自他国のヒト権を蹂躙し尽くすような戦争をあえて選択し推進した、無責任で判断力のない戦争実行責任者や、あの無謀無惨な戦争を止められなかったヒト国民たちは、みんなまとめてその報いを受けてしかるべきであり、その罪は死刑より重いという意味で、彼の提案は的を射ていたと思う。それにしても、ヒト語より歴史が古く、音楽的な響きや詩的な趣きに秀でたネコ語を使おうという発想がなかったのはどうしてなのだろう。
 戦争の敗者自ら、母国語を差し出そうというのはきわめて珍しい例だが、勝者が敗者から母国語を取り上げ、自国語を押しつけようとした史実は多いだろうと思う。旧く、紀元前のバビロン捕囚では、エルサレムにいたユダヤヒトが、バビロニアによって、バビロンの地へ強制移住させられた。半世紀にも及ぶ捕囚の間に、ユダヤ教の教義が変貌しその中身が確固たるものになったことと引き替えに、使用する文字がへブル文字からアラム文字へ変化し、名前の付け方にもアラム化が進んだ。
 同じ事は最近の日本近隣でも起きている。その一例としては、一九一〇年(明治四十三年)の朝鮮(日韓)併合がある。日本によって行われた朝鮮の併合は、隣国の中国との関係や、ヨーロッパ列強の思惑という微妙な問題があって、日本が武力を行使して、一方的に実行したのではないという解釈がなされているが、一国の主権を崩壊させ、他国を領有したのは確かな事実だ。朝鮮のヒトは、改姓を強いられ、日本語教育を受けさせられ、日本式の君主制への移行を強行された。併合から少し時代を下って、一九二三年(大正十二年)の関東大震災の時、朝鮮ヒトを始め、暴動のあらぬ疑いをかけられたヒトたちは、なんらかの差別を受け自由を奪われたヒトたちだったと考えられる。
 朝鮮半島と日本列島との間に、いにしえの先史時代からネコやヒトや文物の往来があったことは、考古学、ネコ・ヒト類学等の研究成果からはっきりしている。古代の九州、大和地方や列島各所に勃興した地域政権の起源についても、各種の説があるが、朝鮮半島や大陸からの影響なくして成立することはありえなかった。それなのに、いつのころからか日本ヒトの心の中に、朝鮮半島に住むヒトへの根強い差別感が居つき、今でも、朝鮮ヒトという呼称に差別の気配を感じ取って、使いたがらない日本ヒトがいるが、ここではその事実を思い起こすためにあえて朝鮮という呼称を使う。一日も早く、日本ヒト全体が韓流ブームにフィーバーするヒトたちの意識を共有できればいいのだが。私たちネコも、毛並みの違う毛皮を脱ぐような気持ちで、対話に心がけなければと思う。
 話が大幅に逸れてしまった。死刑囚ネコの話に戻すと、もしも不自由極まりない監獄で、さらにネコ語を取り上げられるような仕打ちを受けたとしたら、ネコの精神はたちまち極限状態に追い込まれるだろう。自国語を取り上げられるというのは、むりやり信念を剥奪されること、つまり魂の死を意味することなのだ。もっとも、そのような、ネコやヒトの精神を平然と踏みにじるような者がいるとしても、彼らは最後に、自国語喪失ならぬ、自語相違を起こして破綻するのは間違いないニャ。(手紙の日付 2012.5.17)

  
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シモーヌ・ヴェイユという人

2013年02月22日 11時32分40秒 | ファンタジー

 シモーヌ・ヴェイユはフランスの哲学者。以下、ウィキペディアの記述の要約。一九〇九年二月三日パリに生まれ、一九四三年八月二十四日ロンドンで没。父はユダヤ系の医師、兄は数学者のアンドレ・ヴェイユ。リセ(日本の高校)時代、哲学者アランの教えを受け、パリの女子高等師範学校を優秀な成績で卒業し、リセの教員となる。その間、労働階級の境遇を分かち合おうと工場や農場で働き、まもなく政治活動に身を投じた。一九三六年、スペイン内戦に際して、スペイン無政府主義者と一緒にスペインナショナリストと戦った。一九四二年アメリカへ移住、その後、ロンドンに移り、フランスレジスタンス運動に参加した。戦争の悲惨さ、残酷さに抗議してハンストを行い、一九四三年、三十四歳でその生涯を閉じる。著書はすべて、アルベール・カミュらにより死後出版された。
 私は若いころから彼女の名前を耳にしていたが、彼女の著書を読んだことはない。つい最近、新聞の読書欄に、「シモーヌ・ヴェイユ 犠牲の思想」(鈴木順子著、藤原書店)という本の書評が載ったとき、日曜日の午前の時間に余裕があったので、たまたまそれを読んだ。二度三度と読んだ。私の目が釘付けになったのは、人格についての彼女の捉え方。
「人格とは、恵まれた境遇の人間だけに現れるある種の特権であって、レ・ミゼラブル(悲惨な人々)は人格など持ち得ない」また、「人格の尊重とは、社会においてその人が他者から優越する部分を尊敬すること」だと言う。いわゆる知識人たちの格好付けた、人格主義、道徳観念を木っ端微塵にうち破る言動だ。
 では社会のもっとも基本となるものとは。彼女は、「人間の中の非人格的部分、いわゆる子どもの純真な感受性、願望などの部分」だとする。言いかえると、「大きな苦しみを受けたときの悲鳴といったもの」と主張する。
 これを読むと、私たちは、環境や他者によってその大部分を作られた自分の人格から、本来の自身を解放しなければならないことを自覚する。こうして取り出された非人格的部分とは、生き物たちがあまねく共有する、きわめて原初的な意識だと感じる。きっとこれは、様々なしがらみによってがんじがらめにされた個の意識なのでなく、個のレベルを超越し、広大な宇宙に遍満する大きな思想に合致するものなのだ。彼女はそれを「善」あるいは「美」を希求する観念とも言っている。
 この後、彼女は権利と義務、そして犠牲について言及する。「権利とは、特権を有する者の専有物であり、義務に従属し依存すべきもの」とする。そして、「人は本来、苦しむ者をそのまま放っておけないという義務を無意識に自覚している」と考える。だからこそ、ジャン・ヴァルジャンの犠牲に心打たれるのだ。このことを自覚した者は、この永遠の義務を履行するため、自身のなにがしかを犠牲にせざるをえない。
 大筋では私も同意である。しかし、これを突き詰めると、それこそ凡人と違う特権的な人々を新たに作り出しそうな気がしないわけではない。しかし、観点を変えると、彼女の言っていることは衝撃的でも何でもなく、至極当然のことなのかもしれない。
 たとえば、上記の「目の前で苦しむ人を見て、何の葛藤もなく、黙ったまま通り過ぎることができるか?」というテーゼを突きつけられたとする。「できることなら、可能な範囲で、その人に寄り添い、心配し、手を尽くしたい」と思うのが、私たちの自然な心の動きであろう。そうしなければ、そのことをすっかり忘れられるまで、人によっては死ぬまで、悔やむ気持ちが持続するのだ。
 本音を言うと、私のような意気地なしには、犠牲とか権利とか義務とか、固いことなんて言いっこなしにして、あのときは色々障害があって、レ・ミゼラブルに手を差しのべられなかったと、自分の至らなさをひとつふたつ言い合えるオープンな人社会がいい。とくに私が気を付けなければならないこと。それは、強い者にはできないくせに、家などでふと気を抜いたとき、誰から受け継いだのか、古くさい小さな思想、つまり人格の癖へ回帰することだ。この年齢になってまで、相手に寄り添うどころか、相手の気持ちを無視して無神経に自説を押しつけたり、ごくまれだが問答無用で服従させたり犠牲を強いたりといったことは誓って止めよう。これで、社会は大きく変貌するはずだ。(2013.2.22)
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はなの毛皮の中身と

2013年02月19日 10時57分47秒 | ファンタジー

 今まさにIPS細胞を使った医療が始まろうとしている。まったくの素人が、IPS細胞について素朴な疑問をひとつ。
 猫の毛皮の模様にはひとつとして同じものはない。もちろん人の姿形もそうだ。当たり前だが、遺伝子がまったく同じかと思うくらい外形がよく似た双子でさえ、寸部も違わぬ生命体なのではない。今、IPS細胞を培養して、卵子や精子の元となる生殖細胞を作り出せることが話題になっている。すでにヒトの細胞で。これはとんでもない大逆転の発見なのだ。評論家立花隆氏の言では、光より早く飛ぶ物質を発見する前に、生物学的タイムマシンが作られてしまった。突き詰めると、生物発生前の世界に、ヒトは帰還できるかもしれない。
 ここで疑問。自然界ではあり得ないのだが、同一のIPS細胞によって作られた細胞というのは、同一のDNAを持つまったく同じ生体になるのだろうか?
 仮にそういう複数の同じ生命体に遭遇したら、何と感想を述べたらいいのだろう。もっと有り体に言うと、他人だったらまだいいが、我と同じ我にあちこちで出くわしたり、我と区別できない生命体が我の周囲に浮遊していたりといった世界をイメージするのは、はなはだ気持ちが悪い。
 ところで、我は我であると認識できるのは、やはり意識によるところが大きいのだと思う。意識がなければ、肉体は夢も見ない昏睡状態になったようにピクリとも動かない。すると意識とは、目覚めているとき肉体に宿り、昏睡のとき無になっているのだろうか。そんな重要な働きをしているのに、その意識は単体の状態では存在が確かめられず、肉体と一体のときのみ姿を現す。微生物にも意識があるのだろうか? こんなアホなことさえおおっぴらに言えるくらい、意識とは何だろうね、という疑問は、思想哲学、心理学、宗教、歴史、政治体制が違う古今東西の人々の間で、あまねく共有されてきた。そして未だにぜんぜん解明されていない難解な問題なのだ。
 IPSからどんどん離れていくが、この意識がどうなっているのかという問題は、ほとんどのヒトは、あんたとおれが違うのは当たり前じゃないの、と議論を終わらせようとする。しかし、現時点だけでも何十億人分もあるヒトの我の違いは、その数だけある意識によって個別に認識されている、という事実を前にしたとき、これだけの数の意識があることに感極まるのは、私の意識に問題があるからなのだろうか。なかでも、自分の我と、自分以外の我とを司る意識の違いはどうして醸成されたのか?という疑問を持つことは、ひじょうに重要なことだと思っている。なぜなら、ヒトは、個の意識がなければヒトにはなれないから。科学はこれに明快な回答を得る前に、生命を作り出そうとしている。単なる手続の順番をやり繰りしただけで、それを間違った行為とまで言い切れないのだろうか。
 東洋思想では、個々の意識が大宇宙から発生し、最後に溶け込んでいくメカニズムを経験的に説いているものがあるそうだ。最新の脳科学でも、ヒトの個の意識はそれほど昔から存在するものではなく、今でも、高次霊長類(ヒトはみなここに分類されている?)以外の動物の意識は、あまり個というものを持っていない、つまり自然の一部という感覚に近いと思った方がいいとする説が唱えられている。個は個のように見えて個ではなく、自然の力によってゆっくり醸成されて、未だに未完成のもの、というのは、私にとって耳慣れしたきわめてわかりやすい回答だ。
 とすれば、高次霊長類になり切れていない私なら、実験的に自らのDNAを放棄して、真っさらなIPS細胞と入れ替わり、まったく異なる生命体になれるような気がする。手始めに、はなの毛皮の中身とチェンジしたら、意識はどんな我を認識するのだろう。(2013.2.19)
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「黒猫とのの帰還 第五 エピローグ」

2013年02月14日 09時04分57秒 | ファンタジー
第五 エピローグ

 熊祭が行われた日の夜明け前、大男が集落の手前で遭遇した出来事の詳細は、次のようなものだった。
 大男は、山林の前方で猟師が待ち伏せしていることも、すぐ傍に熊がいることも知らずに歩いていた。猟師たちは、男の足音を聞き、すぐさまライフル銃のねらいを定めた。彼らのひとりは、闇の中に動く物体を見つけた瞬間、躊躇することなく、というより恐怖のあまり、ライフル銃を発射した。大男は、すぐ耳元でドカンと暗闇をつん裂く轟音を聞いた。と同時に、猛スピードで飛んできた大きな岩みたいなものによって、はじき飛ばされ、そのまま意識を失った。
 猟師たちは、大きな影が倒れた場所に銃をかざしながら近づくと、まさしく巨大な熊が絶命していた。ところが数メートル離れたところに、熊の返り血で全身真っ赤に染まった小柄な熊のような男を発見したのだ。猟師たちは動揺を抑えることができなかった。
 事の真相はよくわからない。大男が猟師のライフル銃の射程距離に達したとき、そこで静かにしていた熊が、突然大男の進行方向に割って入った。熊は猟師たちが近くにいることに気がつかなかったのだろうか。熊の臭覚の鋭さからして、わからなかったとは考えにくいが、風向きによってはあり得ないことではない。そのとき、熊が警戒してその場にじっとしていたなら、いや、たとえ動いたとしても大男の方が熊より一歩でも早く猟師の視界に到達していたなら、撃ち殺されたのは大男のはずだった。銃弾を受けた熊に追突されて吹っ飛んだ衝撃で、虫の息だった大男は、集落に運ばれてしばらくして息をふき返した。
 なんの根拠もないのだが、熊は、大男と猟師との鉢合わせをあらかじめ予感して、ちょうどその場にやってきたのではなかったか。その熊の行動によって、大男の命が救われたような気がしてならない。それにしても、猟師たちがあの場所まで出張って来なかったら、昔なじみの大男と熊はひそかに再会を喜び合えたと思うと残念だ。
 とのとヴァロンたちがあの集落で見た熊祭りは、そのようなてん末を経て巨大な熊が仕留められたため、急きょ行われた。大男も、きわめてまれにしか行われない熊祭りがあることを知り、不本意だったが祭りに参加することにした。そこで、熊祭の前に処分されそうになっていたヴァロンを見つけ、村人たちに頼み込んで引き取ったのだ。こうしてヴァロンの命が救われた。
 憎しみと怒りの感情に支配されたとのが、龍の剣を持って襲ったあの集落はどうなったのか。白い雪をいただいた龍高岳連峰のずっと手前の窪地に位置する集落は、突然の嵐に見舞われ、土石流や火の手が発生し、大半の家屋が流されたり、埋もれたり、焼け落ちたりして大きな被害を受けた。集落の住人たちは土石流などの襲来前に指定された避難場所の方に迅速に待避したので、数人の怪我人を出しただけで済んだ。この災害の原因については、海から押し寄せ、龍高岳連峰に衝突した大型の低気圧が、まさに集落をねらったように、集中的に大雨を降らせ、雷をいくつも落としたためだった。不思議なことに、猛烈な低気圧はなんの予兆もなく発生し、この集落を襲ってすぐ消滅したという。落ち着きを取り戻した人々の多くは、嵐が来たとき、鋭く長い剣のような稲光が何度となく集落を突き刺し、集落の真上を真っ黒な雲が行ったり来たりした様子を思い出し、恐怖感をなかなか忘れることができなかった。
 最後まで集落に取り残された子どもと母親が見た光景も、実に奇妙なものだった。土石流が間近に迫ってきたとき、母親は逃げ場を見失い、恐怖のために地面に倒れ込んだ。すると背中にくくりつけられた子が、襲いかかってくる土石流を目の前にして、突然笑い声を立てたのだ。その瞬間、二人は、地面から吹き上がる猛烈な風にあおられて、鍋底のような集落から裏山の森林まで一気に飛ばされた。一瞬のことだったので、母親は周囲を見るような余裕はまったくなく、樹木の大きなしっかりした枝に引っかかって、我に返った。母子とも怪我ひとつなかった。
 とのは、いったいどこへ行ったのだろうか。大男とヴァロンは、数ヶ月かけて、龍高岳連峰全域をくまなく探したのだが、とのを見つけることはできなかった。その地域の住人たちからも、とのに関する情報はまったく届かなかった。大男は山奥の自分の家で、とのを何年も待ち続けた。ヴァロンは、とのが広大な龍高岳連峰のどこかにいると思うと、頭の中に山脈の姿を描くことができなくなった。暁彦と奈月に、とのといっしょにかけ巡った冒険の話を一度だけした後、自分の家に閉じこもりがちになった。(黒猫とのの帰還 了)




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「黒猫とのの帰還 第四」

2013年02月13日 11時24分51秒 | ファンタジー

写真:ストレッチ続き たくましい腕
「第四 闘いの終わり 1」

 とのたちは、大男が歩いたと思われる道筋をたどり、彼が倒れた地点まで行ってみた。眼下には、周囲を針葉樹と広葉樹の混交林に囲まれた、すり鉢のようにくぼんだ地形が広がり、そのすり鉢の底には、十数軒のこじんまりとした集落が沈み込んでいた。よく見ると、すり鉢の上部にはいくつもの朽ちた家屋の骨組みが散らばっており、昔はそのくぼみいっぱいに人家が営まれていたことを示していた。その集落の脇には幅の狭い急な流れの川があって、十数キロメートル先の海へ注いでいた。とのは、その川の上流の山中に目を向けたとき、龍高岳連峰の中でもひときわ目立って白い峰を見つけた。
「そうか、ここは二頭の子馬が拉致されていた小屋の下流なのか。」
 斜面のけもの道を下って小さな集落に近づくと、村のすべての住人が戸外に出ているようなにぎやかさだった。住人たちはほぼ全員が何年もの間、タンスの奥にしまわれていたと思われる衣装で正装しており、まもなく何か盛大な催しが始まるのか、彼らは、斜面ばかりの狭い集落内のそこかしこを落ち着きなく行き来していた。そのにぎやかさは決して楽しそうなものではなく、なにか得体のしれない興奮に包まれていた。集落の建物の外周付近で、目を尖らせた何人かの男たちが斜面を見上げていた。
 とのと馬たちはただならぬ雰囲気を察して、集落のはずれの、とっくの昔に誰も住まなくなった廃屋に身を潜めた。夕方になり、空気が冷たくなってきたころ、人々の大きな歓声が上がり、同時に動物の声に似たキーキーという叫び声が聞こえた。しばらくの間、人とも動物ともつかない興奮した鋭い声が入り交じり、辺りの緊張が次第に高まるのが感じ取れたが、その廃屋からはその光景は見えなかった。
「何が始まるんだろう?」
 とのたちはうかつには外に出られないような気がして顔を見合わせたが、ヴァロンはもうじっとしていられなかった。
「薄暗くなってきたから大丈夫だよ。」
 ヴァロンは、目立たないように一匹で戸外に出て、草むらや小さな土水路の段差の陰に隠れながら、声がする方にじわじわと忍び足で近づいた。ヴァロンの身体には、地面を踏みならす人々の足音が間断なく伝わってきた。こんなに人々が興奮する様子を見たことはなかった。これ以上近づくと踏みつぶされそうだと思い、草むらの中に平べったくなり、遠くに目を凝らした。すると、人の群のすき間から、真っ黒な家のように大きい動物の姿がはっきり見えた。ヴァロンは恐ろしさのため身体が凍りついた。そこには、きれいな敷物の上に四本の脚を大きく広げて仰向けになったヒグマの巨体が寝ていたのだ。ヴァロンは、家にあった動物図鑑やテレビで何度も見ていたのだが、実物のヒグマの大きさは想像をはるかに超えていた。
 群衆が、きれいに磨かれてつやつや光るヒグマの巨体の周囲を取り囲むと、そこは人垣で作られた洞穴のような特別な場所になった。手に刀のようなマキリを握った数人の男たちが、緊張した面もちで、ヒグマの腹を喉元から縦に真一文字に割き、肉と内臓と脂などを慎重に取りよけた後、堅く太い骨格を丁寧に切り取って、巨大な頭蓋とそれにつながった皮だけをその場に残した。ヴァロンは、美しい皮の衣装をつけたヒグマの顔がまるで生きているように見えて、涙が止めどなくあふれた。
 そのとき、ヴァロンはふいに首を捕まれ身体を持ち上げられた。
「こんなところに見慣れない猫がいるぞ。」
 人々の視線がいっせいにこちらに注がれた。
「離してよ。」とヴァロンは身体を揺すったが、ますます強い力が首に食い込んだ。
「こいつは、祭りを邪魔しにきた悪い猫だ。」
「ちがうよ、ちがうよ。」と鳴いてみたが、抵抗しても無駄なことがわかった。
「こいつはさっさと処分してしまおう。」
「処分って?」
 そのとき広場に夕闇が下りてきて、何本ものたいまつに火が灯された。ばちばちと弾けるたいまつの火に赤々と照らし出された広場には、メタンガスのような異様な熱気が充満していた。ヴァロンは、周囲の家屋や木々や土煙りまでもが、熱に浮かされた人々の発するゆらゆらとしたエネルギーに感化されて、自分の登場を苦々しく思っていることを感じ取った。もう一度鳴いてはみたものの、突き刺さってくる殺気によって、次の展開がどうなるのかはっきり予測できた。自分はそこに寝ているヒグマに次いで、この祭りの準主役になったんだと思った。
 広場には、人の背丈ほどもある木の棒が皮をきれいにはがされて、何本も用意されていた。ヴァロンの身体は、地面に立てられたその棒に首のところを結いつけられた。そのときのヴァロンには、怖いとか首が痛いとかの感覚を通り越して、自分の五官に、今起きている現象をくまなく刻み込もうという開き直った気持ちしかなかった。群衆より高い位置から、今にも燃え上がりそうな広場の眺望を見渡す気分は、震えがくるほど最高だった。

 ヒグマの頭蓋と皮は、屋根をかけた祭壇の中央部にていねいに安置された。人々は、祭壇の前に車座になり、酒を飲み、ヒグマからたった今切り取った肉を食い、脂を飲んだ。すると、彼らはキーキーと人のものとは思えない奇声を上げながら立ち上がって、羽ばたきをしたり、ぴょんぴょんと跳び始めた。今、人の仮面をはずした人々は、この山々にいる鳥やカエルや様々な動物に変身してしまいたいという、全身からほとばしるような興奮に取りつかれていた。人々の奇声と跳躍はだんだん激しくなり、何人かが地面にどっと音を立てて倒れた。このままだと全員が昏倒するのではないかという間際になって、あわてて年取った男が踊りの輪を大声で制止したので、やっと人々の興奮にブレーキがかかった。
 飾り立てられた祭壇にゆったりと座ったヒグマは、入れかわり立ちかわりやってくる人々から、次々と酌を受け感謝の言葉を聞き、広場の様子を眺め回しながら、満足そうにさかづきを飲みほしていた。
 広場の端の暗い場所に縛られて、見向きもされなくなったヴァロンは、誰かが語りかけてくる声を感じた。
「あんたは、昨日近くの山の中で熊の格好をしていた男の友達かい?」
 その穏やかな声は、ヒグマの頭蓋の上あたりから聞こえた。
「そうだよ。龍高岳連峰をあちこちいっしょに歩き回ったんだ。でも、どうして知っているの?」
 ヴァロンは、ヒグマが自分たちを知っていることに驚いた。
「あの男とは、昔から顔見知りだったんだ。わしはそろそろ人間に捕まりたくて、うろうろしていたんだが、今朝、山で偶然出くわすとは、わしたちの深い縁に感じ入ったよ。今日は、国への旅立ちのはなむけに、あの男ともさかづきを交わしたかったな。」とヒグマはちょっと残念そうに言った。最近この近くに出没していた熊は、このヒグマだった。
 ヴァロンが、この集落にいる密猟者を知っているかどうかヒグマに聞いてみると、ヒグマはこう言った。
「密猟者たちは、趣味や金儲けのためだけに動物を狩猟したり捕獲したりしているのではなく、自分たちの行為が、自然界のバランスを守り、種を長く保存することに役立っていると言っている。彼らの言い分に一理もないとはいえないだろう。」
「たとえそうだとしても、動物たちにとってはつらいことだよ。」
「そのとおりだ。だから、今夜わしがこうして祭られて、人間たちにほんとうに大切なこととはなにか教えてやろうと思うのだ。自然界を無防備なまま生きる者たちから、いたずらに恨みや怒りを買ってはいけないことを。」 
 続けてヒグマが言った。
「あんたもえらく過酷なとばっちりを食ったもんだ。」
「ここで死んだらもう遊べなくなるから、ものすごく残念だよ。でも………」
 ヴァロンは、歯を食いしばってそう言ったとき、暗い茂みの中を、広場に向かってゆっくり近づいてくる黒い小さな物体を見つけた。その物体は、暗闇に赤々と浮かび上がった広場の端に、あと数歩で届きそうな地点まで来ていた。

 廃屋にひそんでいたとのたちは、ヴァロンの帰りが遅いことに不安を募らせていた。とのは、ヴァロンが戻って来られないのはどうしてなんだろう?とじりじりしながら、辺りが真っ暗になるまで待つ間、時間が止まったように長く感じられた。やっと外に出ると、にぎやかな音がする方へ急ぎ足で向かった。広場の空気に混じった得体の知れない匂いが、とのの鼻に触れた。その匂いは、とのにとって未知の動物のものだった。広場の奥まった中央部の屋根の下に、木の櫓のような祭壇が作られており、そのいちばん高いところに、信じられないくらい大きい真っ黒な動物の頭があって、長いマントのようなものをまとっていた。初めて見たのに、それが有名なヒグマだと、とのにはすぐわかった。
 ヒグマはぴくりともせず明らかに死んでいるのだが、その顔には何とも言えない笑みが浮かんでいた。そして、熊の目がとのの方を見ているような気がした。
 突然、とのの耳に「との、との」と呼ぶヴァロンの声が飛び込んできた。声がする方向に目を凝らすと、にぎにぎしく飾られたヒグマの祭壇の奥の暗がりに、細い一本の木にだらりとぶら下がったヴァロンの身体が見えた。とのはびっくりして草むらを飛び出そうとした。
「との! それ以上、来ちゃいけない!」ヴァロンが鋭い語調で言った。
「われわれ猫族は、他の動物や虫を、有無を言わさず制裁してきたんだ。だから、こんなふうになっても、猫は、恨んだり怒ったりしないで受け入れるべきなんだよ。」
 とのにはヴァロンの言葉の意味が理解できなかった。
「だめだよ、ヴァロン! 今、助けに行くから。」
 ヴァロンはさらに強い調子でとのを制した。
「との、よく考えろ。猫は地球上でいちばん自立した生き物だ。おれにかまわず、お前はどこまでもお前らしく生き抜くんだ。」
 祭の参加者は次第に増え、ヒグマの祭壇前から屋外まであふれるほどの人数になった。その中の一部は、身動き取れないヴァロンの周りに輪を作って、抑揚のない歌ともお囃しともつかない奇声を上げながら、身体を激しく動かし地面を踏み鳴らし始めた。そしてヴァロンに近づくと、いやな者を見るような目つきをして、口々にヴァロンに悪態をついた。
「おれは魔猫じゃないぞ。」ヴァロンの威勢のいい声が広場に響き渡った。
 人々はヴァロンを縛りつけた長い木をかつぎ、裏山に向かった。そこは、海から押し寄せる霧が年中とぐろを巻いている、じめじめした居心地の悪い湿地帯で、邪悪な動物を葬る場所だった。
「との、また会おう。」
 それが、とのが聞いたヴァロンの最後の言葉だった。
 とのは、人々がヴァロンをなぶり殺しにする場面を想像すらしたくなかったが、頭の中身すべてがその映像によって占領された。何もできない自分が悔しくて嗚咽さえできなかった。人々への憎しみが、身体の毛穴という毛穴から虫のように次々とわいてきた。抑えられない激烈な感情に支配され、とのはその場に硬直して卒倒した。

 とのが意識を取り戻したとき、馬の背中の柔らかな毛に埋まり、真っ暗闇の中にいた。一日目の祭りが終わり、人々が短時間の仮眠を取っている隙に、馬たちはとのを救出したのだ。とのは、それから何日間もひと言もしゃべらず、馬の背で泣き続けた。馬たちは、背中のとのにかける言葉を探し出せなかった。とのの心は、ヴァロンの思い出と尽きない悲しさ、そして下手人たちへの激しい怒りと憎しみに支配されていた。悲しさに押し潰され、憎しみに張り裂けそうになる自分の心と向き合っているだけで精いっぱいだった。
 馬たちは、とのの様子を窺いながら話しかけた。
「どこへ行こうか?」
「どうしていいかわからないんだ。」とのは力のない声で言った。
「とのが見たことのない珍しいところに案内しようか。」
 馬たちは、伝説の武将の記念碑がある場所に向かった。
 道々、馬たちはその伝説について教えてくれた。およそ千年も前、武将は南の土地からこの大きな島へやって来た。上陸した地点は、渡島半島を縦断する険しい山脈が、半島の最南端で海に切れ落ちる付近とされていた。そこから陸路を北上し、四百キロメートルばかり進んだところで、大きな川に行く手をさえぎられたためなのか、川の上流部へおよそ三十キロメートル遡上し、記念碑が今に残る土地へ至ったと伝えられている。彼がなぜその地に足を踏み入れたのか、そこが最終目的地だったのか、今では誰にもわからないが、当時もその土地は気候が良く、山の幸や海から遡上する魚が豊富なところで、比較的多くの人々が住んでいた。時代が下って江戸時代の初めころ、その周辺に住んでいた先住民の有力な部族が、成りあがりの松前氏の侵攻を阻止しようと激しく抵抗したという。
「その武将が生きた時代のこの島のイメージには、ずいぶん誤解があると思うよ。」と馬たちは言った。そこは、狩猟採集民の原始的で穏やかな居住地だったのではなく、内地との行き来が頻繁で、大陸や北方の島々との交易も盛んに行われていて、想像をはるかに超えたにぎわいを見せていたそうだ。
 注目すべきは、その付近一帯には金の鉱脈があり、武将がやって来た当時、かなりの産出量があったとされている。東北地方の藤原氏が建造し、現存する有名な寺院には、ここの金が相当量使われていることがわかっている。考えようによっては、この地の金がなければ、その寺院のみでなく藤原氏自体、歴史上に出現しなかったという解釈もないわけではない。
「人間たちの知らないことなんだが、武将は数々の闘いの間、ある由緒正しい守り刀を肌身離さず持っていた。その短剣は龍の剣とも呼ばれていて、今でも記念碑周辺に隠されているという言い伝えがあるんだ。」
 馬たちがとのにそう語った。とのの耳は、あの事件以来、何も聞こえないも同然だったのだが、「龍の剣」という言葉の響きによって久しぶりに感覚を取り戻した。言い伝えでは、その剣には勇敢な武将の力が封じこめられていて、その剣を持つ者はこの島のみでなく、広く世界を制覇できるとされていた。
 とのは、以前馬たちが言った彼らの闘いのことを頭の隅に記憶していた。
「昔、きみたちの先祖が闘いを起こしたとき、剣を振るったと言ってたよね?」 
 馬たちは、彼らが生まれる前の遠い昔の記憶を語り始めた。
 人間たちによる大がかりな馬の囲い込みが各地で行われたとき、体格のひときわ大きい一頭の雄馬が、この地で自由に生きる野馬の滅亡を憂えて、龍の剣を探し出し、戦闘を起こしたとされている。結果的に力は及ばなかったが、その雄馬の卓越した身体能力と行動力は、人々に驚きと感動さえ与えるところとなり、野馬が根絶やしにされることは回避された。
「闘いの勝敗とは関係なく、その馬の勇気が称賛されたんだよ。」
 それ以来、その剣は誰の目にも触れることはなかった。
「どんな形をした剣なんだろう?」
 とのの目が、以前のように光り輝いた。
「言い伝えでは、馬の尻尾に隠れるくらい短く、稲妻のように光り輝いていたそうだ。」
「じゃあ、ぼくにも持てそうだね。」
 とのは心の底から龍の剣を手にしたいと思った。その剣で悪い奴らを徹底的に懲らしめてやりたかった。
「龍の剣を探しに行こう!」
 とのの身体中に、あの集落の人間たちへの憎しみが激烈なエネルギーとなってわき上がった。ヴァロンが受けた仕打ちをあの人間たちにも同じように味わわせてやらなければ、この憎しみは永遠に消えないと思った。
「その剣にはある魔力が秘められていて、目的を遂げる勇気のない者が手にしたときは、その剣によって必ず身を引き裂かれると言われている。」馬の目は恐怖に震えていた。
「ぼくは怖くなんかない!」とのは憎しみと恐怖でぶるぶる震えながら、振り絞るように大きな声で言った。
「お願いだ。そこへ連れて行ってくれないか?」
「何があっても後悔しないと誓うのなら、連れて行ってあげよう。しかし、わしらもそのありかを探し出せる自信がないんだ。」
「どういうことなの?」
「今の記念碑は、もともとあった場所から今のところに移されたと言われているんだ。龍の剣のありかを誰にも悟られないために。」

 馬たちは、山奥に向かって歩き出した。龍高岳連峰の深い山懐に入ってしまったため、どの方向に進んでいるのか、とのにはまったくわからなかった。彼らは、はるか下方に見える谷間の底に吸い込まれてしまいそうな細いけもの道を、幾日も登ったり下ったりした。細く背の高い樹木が密集した山々に足を踏み入れると、樹木の梢にさえぎられて陽の光が届かない暗い地面の上に、何年も前の山の空気が厚く充満していた。その空気を吸いながら静寂の中をゆっくり歩いていくうちに、どのくらいの時間が経過したか数えることができなくなった。朝晩の気温から推定すると、春はとっくに過ぎ、夏に差しかかっていると思われた。
 ふわふわした霧が低い土地から切れ切れに吹き上がってきて、行く手がだんだん見えなくなった。その霧が本格的に厚く垂れ込めてきて、とのたちは全身ずぶぬれになった。すると、ちょうど霧の向こうにかすかに建物らしい影が見えた。近づいていくと、庇が外側に突き出した大きな瓦屋根が現れ、その重厚な屋根の下に、相当古びているものの、思いのほか堅牢な土壁があった。庇の下に入り、建物の周囲を巡ってみると、武道場のような雰囲気の四角い建物で、窓がなく中がどうなっているか、のぞき込むことができなかった。山奥にこんな立派な建物が何のために建てられたんだろう、と思いながら壁に沿って正面に回ると、そこには厚い板がばってんに打ち付けられた一枚板の開き戸があった。その開き戸の脇の壁に表札のような板が貼り付けられていたが、表面にはなにも刻まれていなかった。開き戸とそこに打ちつけられた板、表札のような小さな板は、長い年月、風雨、風雪にさらされて、今にも厚い土壁と一体になり見分けがつかなくなりそうだった。
「この建物はもう使われていないんだね?」
「わしらがはるか昔に来たときとまったく変わっていないな。」
 馬たちは、落ちつかない様子ではあったが、懐かしそうにその建物を眺めていた。
「実はここが元々の場所なんだよ。」
 とのはしばらく馬を見つめたままでいたが、ようやくその意味がわかった。
「じゃあ、龍の剣はこの辺りにあるんだね?」
 とのが勢い込んで言った。
「あれ以来、剣を探そうとした勇者はいなかったんだよ。」
 とのの気持ちはすでに決まっていた。
「ぼくはここに残って探してみるよ。」
 とのは、これまでつき合ってくれた馬たちに抱きついて、深く感謝した。
 一匹になったとのは、建物の周囲の草むらや森林の中をくまなく探したが、それらしいものをなにも見つけることができず、疲れ果てて建物の正面の庇の下にうずくまった。しばらくうとうとしたのだろう、草むらの露を何滴か顔に受けて眠りから覚めると、辺りはすっかり陽が落ちていた。でも、とのの開けたばかりの目には、月の光が昼間とそれほど変わらないくらい明るく射していた。ふと建物を見ると、閉じられた開き戸の横の壁に、まるで猫のくぐり抜けのために開けられたような小さな穴があった。確かさっき見回ったときは開いていなかったはずなのに、と思いながら、とのはもう一度辺りを確認した。すると、扉の横の小さな木札に、強い月光に照らされてくっきりと文字が浮かんでいた。
「龍剣堂」
 とのはそれ以上深く考えないようにして、小さなくぐり穴から建物の中に入り込んだ。建物の分厚い床板は、天井からしたたる雨水などに晒されて、ところどころ朽ちて小さな穴がいくつも開いていた。建物の奥まったところに来たとき、床板の穴から木箱のようなものが床下に見えた。短い手を伸ばし、箱の上面をひっかいてみたが、頑丈に作られたその木箱はびくともしなかった。とのは仕方なく、自分がもぐり込めそうな穴を探して床下に下りた。
 木箱はぴったりとふたが閉まっていた。とのは、全身の力を振り絞って、その重いふたを少しずつ持ち上げると、かたんとふたのはずれる音がした。とのは、息を詰めながら、ふたを少しずつずらしていった。すると、箱の中には、波打つようにくねった鞘に収まった短剣があった。とのは、緊張と恐怖のために自分の毛が逆立つのを感じて、いかにも年代物に見える黒ずんだその短剣をしばらく見下ろしていた。しかし、もう引き返す道はないと意を決すると、指の肉球を思い切り開いて剣の柄を握った。その瞬間、静電気の数十倍もの刺激が体内を駆けめぐった。その強烈な刺激に突き動かされたとのの身体は、青白い光を放ちながら、はじけるように床板を突き破り、建物の中に充満した。
「との!逃げろ!」
 突然、なにかがとのの身体にものすごい勢いでぶつかった。突き飛ばされたとのは土壁に激突した。
「怪物が、とのの背中に襲いかかろうとしたんだ。」
 どこから現れたのか、ヴァロンがぜいぜい息を切らして、とののすぐ傍にいた。
「長いヒゲがある龍のような恐ろしいやつだったよ。」
 とのは、ぶつけた身体の痛さ、そしてヴァロンに再会できた喜びの感情がぐちゃぐちやに入り交じって、ヴァロンの懐に飛び込んで泣いた。とのはヴァロンに、馬たちから聞いた龍の剣のことと、それを今見つけたことを話した。すると、顔色が蒼白になったヴァロンは、いきなり床下の剣をわしづかみにして、建物の外に飛び出した。
「とのにはこの龍の剣は必要ないんだ!」
 ヴァロンはそう言うと、建物の裏側の切り立った崖の上から谷底目がけて、その剣を投げ落とした。
「せっかく見つけたのにどうして! ヴァロンはあいつらが憎くないのかい!」と、とのは叫んだが、そのときすでにヴァロンの姿はかき消えていた。

 とのは、朝の柔らかな光を受けて輝く、草むらの中で目を覚ました。昨夜、目の前の建物の中で起きた痕跡は、なにも残っていなかった。
「やっぱり夢だったんだ。」
 夢に現れたヴァロンのことを思うと、悲しさがよみがえって涙があふれた。しばらく泣いてから、どうしてヴァロンが龍の剣を嫌ったのか考えてみた。きっと龍の剣は、殺された者たちの恨みを晴らすために絶大な力を発揮するのだろう、事実、夢の中で剣を握ったとき、突然激烈な怒りの力がわいてきて、自分の身体から青白い光が立ちのぼり、同時に身体が何倍にもふくれあがったような気持ちがした。ヴァロンが見た怪物とはきっと、との自身だったのだ。もし、とのがあの剣を握ったら、怒りに囚われて前後の見境なく自分が破滅するまで闘うだろう。
「とのには必要ない」というヴァロンの言葉を思い返した。とのは、自分がその闘いを望むのかどうか、自分の心に改めて確認してみた。
「仕返しをしないで自分の気持ちが収まることがあるだろうか?」
 それは絶対にない。大男と違って力がない自分には、どうしても龍の剣が必要なのだと、とのは心に決めた。
 建物の正面にあった夢の扉は見当たらず、堅牢な土壁のどこにも猫一匹すら侵入する破れはなかった。夢の中でヴァロンが剣を投げ込んだ建物の裏手に回ってみた。崖下の谷底からは、鋭い勢いで流れる渓流の水音がこだましていた。しかし、その渓谷は木々の梢のなん百万、なん千万枚もの葉っぱに覆い隠されていて、深く切れ込んでいるはずの谷底を見渡すことができなかった。とのは、木々の葉っぱをかき分け梢を伝って、深い谷底に下りていった。梢のささくれ立ちに引っかかって傷ついた肉球からは血がにじんだ。痛みに耐えかねて濡れそぼった梢をつかみ損なったら、たちまち一直線に谷底に落ち、岩に激突するか、渓流に呑み込まれるだろう。とのは、何時間もかかってへとへとになり、ようやく湿った谷底に到達した。木々の葉に覆われ深緑に染まった地面は、まだ誰一人歩いたことがない柔らかさだった。すると、とのの足許には、夢に見た剣が無造作に転がっていた。まるで、とのが探しに来るのを待っていたように。まだ夢の中なのかと両頬を肉球でたたいてみたが、目はちゃんと覚めていた。
 とのは、片手で鞘を押さえ、もう一方の手で剣の柄をしっかりと握り、力を込めて剣を抜いた。抜き身の剣は、流れる水のようにしなやかに曲がりくねり、稲妻のように鋭い光を放った。それは短剣ではなかった。谷底から切り立った崖の上まで淀んだぶ厚い空気を、ひと振りで切り裂ける長大な剣だった。
 銀色の両の目をらんらんと燃え上がらせた真っ黒な巨大な猫が、いくつもの深い渓谷を空を飛ぶように大股で横断し、またたく間に敵の集落へ押し寄せた。外敵から集落を防御するための呪文がかけられた門の前に仁王立ちになると、龍の剣を振るって、その門を粉々に破壊し、集落内に侵入した。そして、疾風のように縦横に駆けめぐり、あらゆるものを切り倒し踏みつぶした。黒猫は、剣の威力によって人々を蹂躙する憎しみの機械になっていた。
 集落の住人たちは、憎しみに満ちた猫に恐れおののいて、多くが集落の外の山林へ逃げ込んだ。それを見た黒猫が、大きく裂けた口から熱い息を吐くと、山林は一瞬にして燃え上がり、そこにいた生き物の大半が焼き尽くされた。集落の傍を流れる小さな沢の上流の斜面には砂防ダムが散在していて、そのダムを破壊するとその上流の土石が沢づたいに砕け落ち、確実に集落を埋め尽くすことが見て取れた。巨大な黒猫は沢の斜面を上流に向かってジャンプしながら駆け上った。すると、地響きが一帯を襲い、上流からどろどろの土砂や岩石、泥水が押し寄せてきた。
 黒猫は、ひと蹴りで吹っ飛びそうな家の床下に、子どもとその母親が逃げ込んでいるのを見つけた。恐怖に青ざめた母親を見た黒猫は、残虐な気持ちをかき立てられて、大空を舞う鷹のように急降下して襲いかかろうとした。そのとき、母親の背中の後ろからこちらを見つめている幼い子どもと目が合った。その子どもの目には、意外にも恐れの色はまったくなく、無邪気にたわむれようとする好奇心だけが浮かんでいた。
「この目はどこかで見たことがある。」
 黒猫は一瞬そう思った。そして、すぐそれがヴァロンのいたずらっぽい目であることに気がついて、雷鳴に撃たれたようにその場に凍りついた。いや、それは少し前の自分の目でもあったのだ。
「おれは誰を憎んでいるんだ。この小さな子どもを憎んでいるのか。」
 とのは、自分の行為の残忍さに驚愕を覚え、その場にしゃがみ込んだ。すると、突然、龍の剣はぼろぼろに錆びついて、手の中に柄を残したまま、地面に崩れ落ちた。泥流はもうすぐそこまで迫っていた。その場から即刻逃げなければ泥流に巻き込まれるのは確実だった。とっさにとのは、母親と子ども両腕に抱え、その場からあっという間に斜面の上まで駈け上がった。

 とのは、山中に入り込み、ふらふらとあてもなくさまよった。大虐殺を犯した自分が、未来永劫にわたって昔の自分の心を回復することができるとは思いもよらなかった。何日も何週間も何ヶ月も歩き回った末、とのは地面に突っ伏したまま動かなくなった。(第4 闘いの終わり 了)

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「黒猫とのの帰還 第三」

2013年02月10日 10時24分06秒 | ファンタジー
  今朝のこの町の気温は、マイナス20℃くらいまで下がったのではないかと思います。家の外へ出たら、凍り付いた空気に射しこむまばゆい日の光の中で、繊細なガラス細工のようなダイアモンドダストがきらきら揺れていました。

第3 馬たちの行方
 
 一ヶ月間の蓄積疲労がやっと癒えたとのは、ヴァロンとゆっくり話をしようと、久しぶりに隣町の彼の家に遊びに行くことにした。その日は暁彦運転の車に乗った。お土産にニワトリの有精卵を買っていくことになり、国道の長い登り坂の途中を右に折れて脇道に入り、さらに登り傾斜がきつい、狭い農道に入り込んだ。そこは車一台かろうじて通れる幅しかなく、相当前に舗装されたまま補修された形跡がない、穴ぼこだらけの走りにくい道だった。それが幸いした。車のすぐ前を鹿が走ったと思ったら、その鹿は道の真ん中に立ちつくしたのだ。スピードが出ていたら、鹿目がけて突っ込んでいただろう。
 驚いたことに、とのはその鹿に見覚えがあった。崖の上から子鹿を見下ろしていた鹿たちの中で、ひときわ大きな角をとのたちに向かって振るったあの鹿だった。
「との、いっしょに行ってもらえないだろうか?」その鹿はとのをのぞき込むようにして言った。
「君らが馬と別れたトンネルの向こう側で、我々の仲間と馬たちが大変な目に遭っているんだ。」 
 最近、気候の温暖化がひとつの要因になっているのだろうが、鹿が増えすぎてあちこちの地域で甚大な農業被害が出ていた。このままにしておくと、その地域の生態系への悪影響も危ぶまれるため、できる限り多くの鹿を処分する必要があった。これには銃による狩猟だけでなく、わなで生け捕りにした鹿を一定期間養育し、良質の肉を得る「養鹿(ようろく)」も試みられていた。こうした、人々の地道な努力が原因で、鹿たちの居住環境は日増しに悪化の一途をたどっていた。
「どんな劣悪な環境でも、生き抜こうとするのが野生の本能さ。」
 鹿は、人間の大義名分を笠に着たもっともらしいやり方に対し、それほど批判的ではなかった。
「許せないのは、鹿といっしょに野生の馬たちまで捕まえていることなんだ。」
 この山脈一帯に、どれくらいの数の野生の馬が住んでいるのだろう。三桁どころか百頭を下回るくらいの微々たるものかもしれない。馬の囲い込みは今始まったものではなく何十年もさかのぼるのだが、これ以上続けられれば、いずれ近いうちに群ごと消滅することは間違いなかった。
「ぼくはオーケーだよ。でもヴァロンといっしょでなければ、父さんたちが心配するから、ヴァロンに相談してみるよ。」
 とのは、子どものように輝く目をして、そう言った。
 ヴァロンはその話を聞くなり、あきらめたように言った。
「とのを止めることは誰にもできないよ。」
 そして、彼はもう少し寝かせて、と言って寝床にもぐり込んだ。
 ついに、とのとヴァロンは、鹿に連れられて旅立つ日が近づいた。しっかり者のヴァロンは昨夜から二匹分の荷造りに余念がなかった。猫には下着や服はいらないが、身だしなみは大切なので、毛並みを整えるブラシや、爪切りと歯ブラシと小さなタオルは必需品だ。食あたりや便秘、下痢に備えて胃腸薬をそろえ、道に迷わないようにコンパスを磨いた。それらを小さな風呂敷に包んで首に巻けば、旅猫スタイルの完成だ。
 一方のとのは、母さんと心ゆくまで取っ組み合いをし、父さんの手や腕を噛みまくって遊んだ。二匹は、今度は早めに帰ってくるよ、と言い残して出立したが、当てにはならなかった。

 トンネルまでの道すがら、大男の家の付近にやってきた二匹は、やはり素通りすることはできなかった。どっしりした古めかしい家は小さな集落から離れて山際にぽつんとたたずんでいた。重い玄関の戸をこじ開けると、高い窓から差し込む淡い光の中に人の姿が見えたが、あの大男とは比べようもなく小柄だった。
「親父はしばらく帰ってないよ。」すでに中年にさしかかった男は、気のない返事をした。
「近くの藪の中にでも寝転がっているんじゃないかな。」
 この男は大男の一人息子で、実家から離れ海沿いの町に住んで、そこで定職に就いていたが、父親から、家、土地、カネなど全財産を譲るから、仕事を辞めて実家に戻ってこい、と無理難題を言われていた。
 実家は、町から数十キロメートルも山奥に入り、それより奥には動物しか棲んでいない場所にあった。携帯電話や地上デジタル放送の電波も届かなかった。このことを妻や子どもたちに相談する気持ちにはなれなかった。しかし、それは息子自身の言い訳であり、ほんとうは彼自身が父親と住むことを生理的に拒絶していたのだ。
 彼は、父親から暴力や差別などのつらい仕打ちを受けたわけではなかった。個人的なことに意見されたり、指図されたりという記憶もなく、ほとんど自由気まま、ほったらかしで育った。
 困ったのは、体が弱かった母親が長期入院したときだ。父親は自分の食するものを山中で調達し、家にいる子どもの食事には無頓着だった。大男は、空腹のあまりぐったり横になった息子の姿を見ても気がつかなかった。小さな子どもが自分で食べ物を見つけるのは至難なことだ。母親が二週間ぶりに帰宅したとき、息子は餓死寸前のことさえあった。
 息子は物心ついて、父親と自分との違いがだんだんわかってきた。父親は、いつも自分の世界に閉じこもりがちで、特定の物事には粘着質的にこだわるが、その他のことにはまったく興味を示さないといった、マイペース型の典型だった。普段はもの静かで気にならないが、気分が高揚したときは子どものようにはしゃぎ回った。子どもにも、父親の性格は手に取るようにわかった。
 息子は、そんな単純な人間になるのは嫌だと思った。意識して父親と違う考え方をし、別の行動様式を取ろうと心がけた。その甲斐あって、大きくなるにつれて、父親には似ても似つかない、よくできた子どもだ、と言われるようになった。それがうれしくてたまらなかった。と同時に父親への疎ましさが増幅していった。
 高校の生物学の授業で、生物発生の起源の勉強をした後、息子が言ったこと。
「生物は、たった一本の遺伝子の紐を持ったままで分裂を繰り返した方が効率的に完璧な複製を作れるのに、両親から遺伝子を受け継いで、どんな形になるかわからない不確実な方向へ進化したのはなぜなんだろう? 僕の考えでは、生物には本来、親と違う生命体になろうとする意志が備わっているからだと思う。もしも親と自分とが瓜二つだったら、気持ち悪くてぶっ倒れてしまうよ。」
 彼は、真剣な顔をして同級生にそう洩らした。
 息子は、大学進学のとき、海を渡りなるべく遠い土地の学校を選んだ。入学後ほどなく、学校から彼の姿が消えた。数年して、母親が深刻な病気を発症したことを人づてに知り、実家の近くの町に戻り、母親とは音信を再会した。しかし、父親との関係を修復するつもりはまったくなかった。数年して母親が病死した後も、たまに実家を訪れたのは、父親を心配したのではなく、父親の不審な挙動を監視しなければと思ったからだ。

 大男は意外に近くにいた。一キロメートルほど川沿いを下ったところの隣家の庭に、彼は仁王立ちしていた。とのとヴァロンを見つけ懐かしそうな顔になった大男は、来訪の理由を聞くと、暗い表情で考え込んだ。
「用事ができたから、今日のところは帰る。」
 大男は、隣家の初老の男に大声で言い放って、のっしのっしと自分の家に向かった。
「あいつは、わしのおかげで補償金をたんまり手にしたくせに。」
 大男は、数年前に家の傍を流れる河川の改修工事の話が持ち上がったとき、隣家と手を組んで土地の収用に反対した。大男は、昔ながらの景観を保全したいと思ってその行動に出たのだが、国や町は、隣家の男に金銭をちらつかせて、大男の説得を依頼した。カネと引き替えなら、すぐにでも反対意見を取り下げたかった隣家の男は、ただちに応諾した。
 ちょうどそのころ、大男の妻の容態が思わしくなく、専門病院で高度な医療を受けるようアドバイスがあったのだが、その治療には莫大な費用がかかった。大男は金融機関から必要な金を借りるため、近所の男に保証人の依頼をしていた。
 近所の男は、大男に対し、保証人探しを止めて、河川工事へのクレームを取り下げ、国からカネを受け取った方がいいに決まっていると説得した。大男は妻の治療が緊急を要したため、やむなくその言葉に従った。補償金は予想以上に高額なものだった。
 世間は、大男のことを、カネに目がくらんで、それまでの主義主張を簡単に覆したと、面白おかしく噂し合った。彼は、妻が病気でなかったら、という言い訳が思い浮かぶたびに心が痛んだ。このことがあってから、近所の男とはことごとく反目するようになった。

 彼が帰宅すると、家にいた息子は町へ帰っていった。
 大男は子どもに去られ妻を亡くしてから、あまり人と関わらない生活をしていたが、七十才に手が届くころになったここ数年は、自給自足の生活を維持する軽作業と山歩きに、日々の大半を費やしていた。この生活を続けていると、自然界の深い霧に埋没したような気持ちの良さに浸れる反面、気持ちの張りが緩んでいった。そのうち山野の奥の菌糸類がびっしり覆う土の上で、人知れずたおれるような気がしていた。大男が、ただひとつ逡巡していたのは、例の埋蔵物のことを息子に伝えるべきかどうかだった。

 二匹は、鹿から聞いた馬と鹿たちの災難を、大男に詳しく語った。彼にとって、馬たちは昔からつき合いがあり、自分を理解してくれる数少ない仲間だった。
「よし、行くぞ。自分が誰かに必要とされていると思うと、実に気分がいいなあ。久しぶりに身体の中から力がわいてきたぞ。」
 大男が大きなかけ声をかけて立ち上がると、床板がみしみしと音を立てて揺れ、二匹の身体が数回跳ね上がった。
 TNKトンネルは、龍高岳連峰の腹の中をほぼ直角に貫いていた。トンネルに飲み込まれた二匹は、千メートル以上もの厚さの岩石や土や木や草が頭上に積み重なっていることを想像すると、暗闇から少しでも早く抜け出したいというせっぱ詰まった気持ちになった。できる限り早足で走ったのだが出口の光はなかなか見えてこなかった。確かに徒歩で入るには長すぎるトンネルだった。と同時に、このトンネルを抜けた先の情景がどうなっているのか、不安でたまらなかった。
 トンネルをくぐり抜けると、下り勾配のきついどろどろの雪解け道が延々と続いた。道沿いのぼうぼうに伸びた雑草の中に、人から見捨てられて年数を経た小さな集落や畑だった土地がときどき現れては消えた。平地に近づくと、雪解け後の湿った表土を起こした真っ平らな畑が見えてきた。牛を飼い、その飼料を栽培する農家の建物は決して美しくはなかったが、生き物の住む感触がそれらの景観に活気を与えているように感じられた。一方で、鹿や馬たちがさえぎるものがないこの平地をどうやって突っ切ったのか、ますます心配になった。
「あの防風林の陰に建っている大きな畜舎の中に、みんなつながれているんだ。」と鹿は言った。そこは観光牧場で、ポニー種の馬やヒツジ、ヤギ、ウサギなどの各種の動物を飼い、客に見せていた。
「ここなら馬や鹿たちは楽しく暮らせるんじゃないの?」とヴァロンが言うと、鹿は怒った様子で言った。
「俺たちは人から餌をもらわなくても生きていけるんだぞ。」
「ごめんなさい、冗談でした。」ヴァロンがしょげ返った。
 彼らは丈の高い草原にかくれ、暗くなるのを待つことにした。力ずくで奪い返せば、必ず恨みを買ってしまうから、暗闇に紛れ、牧場の人に気づかれないうちに逃がそうということになった。

 ちょうど、ほぼ新月に近い真っ暗な夜だった。見つかっても疑られたり捕まえられたりしない猫二匹が斥候に出された。二匹は、防風林の根元に身を隠しながら進み、観光客が大勢入場できる倉庫のような畜舎にたどり着いた。道路をはさんで向かい側に、五つ六つ並んだプレハブの建物のひとつには灯りがついていて、その前に車が一台止まっていた。少人数が常駐しているのだろう。畜舎には猫がくぐり抜けられるくらいの小さな穴がいくつも開いていたので、二匹はこそこそと畜舎の中に入り込んだ。すると、たくさんの種類の息づかいがあっちからもこっちからも聞こえてきた。その中には、間違いなく馬のものと思われるブルブルという鼻息が混じっていた。
 とのは、小さな声で馬の名前を呼んだ。そのとき二匹は、突然淡い色の不思議なサーチライトを全身に浴びたのだ。よく見ると、そのやさしい光は、畜舎に収容されたたくさんの動物たちの目から発する光だった。二匹はお芝居の舞台に上がったような気持ちになって、観客に向かってうやうやしくお辞儀をすると、あの知り合いの馬たちと鹿の家族が二匹の前に現れた。こうして待機していた男たちにそっと畜舎の扉を開けてもらい、無事に彼らを解放することができた。
 この場所まで案内してくれた大きな鹿は、仲間たちとともに山脈へ帰っていった。大鹿は、別れ際に馬たちとしっかり握手して、馬の群に紛れ込んで猟師の鉄砲から何度も身を守られたことを感謝していると告げた。
 馬たちが捕まったいきさつはこうだった。トンネルを北上していたとき、中間点を過ぎ、下り坂に入って並足から早足に加速した矢先、車のヘッドライトが前方から突然矢のように飛んできた。人間たちは、トンネル内でライトを消して待ち伏せしていたのだ。先頭を行く若い馬が目がくらんだ拍子に、両脚で車のフロントガラスを突き破って停止した。双方に怪我はなかったが、危険な待ち伏せだった。捕まった馬たちのうち、年寄り馬は食肉用に、壮年の馬は「ばん馬」用に、子どもは観光牧場用にと分類され、売り払われようとしていたところだった。
「わしたちは、自由気ままな生活を、もう、あきらめなければならないんだろうか。」「無理に持ちこたえる意味があるんだろうか。」馬たちは意気消沈した様子で口々に言った。大男はいても立ってもいられないという様子で、地団駄を踏んだ。
「人間には、他の生物の種を滅ぼす権利なんかないんだ。もしこの行為をやめないなら、この俺が人間たちに鉄槌を下してやるぞ。」大男は辺りをはばからない、びんびんと響く声で言った。
「鉄槌って、丸ごと鉄でできているの?」とのがおずおずと聞いた。
「ぼくたちには持てそうにないな。」ヴァロンが言った。

 夜の深い闇の中を、人と猫と馬の集団は、怒りを押し殺しながら無言でさまよった。野生の動物たちは、地平線か星しか見えない荒野のただ中にあっても、彼らの鋭い方向センサーによって目的地に到達できるはずなのに、この夜は、自分たちがどこへ向かっているのかルートを見失うことが再三起きた。それほど、彼らははっきりとした行き先のイメージを持てなくなっていた。彼らの姿は、人が住んでいない世界のありかを探し求める夢遊病者のように、うなされているとしか見えなかった。
「ぼくたちがこんな酷い目に遭っていることを、みんなは知っているんだろうか?」
 とのは、この馬たちの惨状を放っておけなかった。
「人が住まないこの広大な土地は、ほんとうは人の手によって外界から隔離された人工的な自然なのだ。やつらは、この空間に残った生き物が自滅する様子を意地悪くじっくり観察しているんだよ。」
 大男は平静を装って言った。
「馬や鹿たちを解放する方法はあるんだろうか?」と二匹は同時に言った。
「あぁ、あるさ。この山脈の奥深くに棲んでいる龍の力を借りるのだ!」
 男は確信ありげにこう言うと、急にスピードをあげて歩き始めた。彼は、まず自分の家に馬たちを避難させ、そこで前後策を練ることにした。

「ちょうどここだったよね?」
 とのがヴァロンに同意を求めるように言った。そこは以前、鹿の群が子鹿を置き去りにした斜面の近くだった。
「見に行ってこよう。」
 ヴァロンは走り出そうとするとのをさえぎった。
「現場を見てどうするんだ。」ヴァロンは語気を強めて言った。
「うん、あのときの印象が薄まらないように、勇気を出して見に行くんだよ。」
 とのは、子鹿を目の前にして何もできなかった自分が情けなかった。今度は目を背けるような意気地のないことをしないと、改めて誓うためにも見ておきたかった。とのの気持ちを察したヴァロンは黙ったまま後に続いた。崖の下の子鹿が座り込んでいた付近には、雪解け水を十分含んで、きらきらと芽吹き始めた淡い緑色の雑草が、南から吹く海風を受けて、同じ方向にさらさらと揺れていた。草丈は短く、そこに何か物体があれば、すぐ目につくはずだった。
「そんなことがあったのか。」大男は大きなため息をついた。
「力のない者は群の足を引っ張るから、いっしょに連れて行くわけにはいかなかったんだろう。」
「力の弱い者は必要ないということなの?」とのは納得できなかった。
「あのとき子鹿は静かにうずくまっていたね。」ヴァロンが言った。
「そこにじっとしていることが大きな意味を持つことを、つまり、自分が果たすべき役割を小さいながらに自覚していたんだろうね。」馬たちが低くいなないた。
「誰もそれを望んだわけじゃないが、仕方なかったんだろうな。」とヴァロンがしんみり言った。
「みんなを危険な目に遭わせないため、犠牲になったってこと?」と、とのは目を真っ赤にして言った。
「自ら望んで犠牲になるのは悲惨なことじゃない。英雄的行為として永くほめたたえられるんだよ」と馬たちは自らを奮い立たせるように、大きな声で言った。しかし、とのは、仮にヴァロンが犠牲になろうと言い出したら、彼をほっといて逃げることなんて考えられなかった。
「それなら、いけにえを差し出して助かろうとするのと、まったく同じことじゃないか!」
「我々の運命を左右するような、強大な力を持つ者の前では、そうするしかないんだよ。」馬たちの声は震えていた。
「そんな上等なヤツなら、いけにえをほしがらないで、みんなのためにボランティアでもしろ!」
 とのは、自然の摂理だとか、みんなのためには仕方がないと納得しようとしている周囲の雰囲気に、いらだたしさがこみ上げた。
 大男がまあまあというように、話に入ってきた。
「わしの知ってる熊祭は、いけにえとはまったく無縁の祭だ。祭る者も祭られる者も互いの心の中に、喜びと感謝の気持ちが満ちあふれているんだ。」
「でもお祭りされたって、死ぬのはいやだ。」と、との。
「そうだ。死は必ず来るが、自ら望んではいけない。ましてや他の者の死を要求するのは最低だ。」

 一行が大男の家に着くころには、全員くたくたに疲れていた。とのとヴァロンはネコなので、縄張りの確認のため大男の家の中をくまなく探索することにした。玄関先の広い土間から部屋に上がると、そこは一度入ったことがある黒光りする頑丈な板敷きの部屋で、今は使われていない囲炉裏に蓋をして、大きな鋳物のストーブが置かれていた。奥のガラス戸の向こうには台所があって、そこは十人もの大人が立ち働くことができるくらい広く、流し台の付近に手押しポンプの柄が見えた。板の間の左手は畳敷きの二十畳もあろうかという薄暗い居間だった。ぴったり閉じた障子の向こうの縁側には強い光が差し込んでいたのだが、ほこりが分厚くついて茶色に変色した障子紙は、ほとんど光を通していなかった。居間の奥のふすまを開けるとそこはいちだんと暗い仏間になっており、その暗がりの中に人の背丈ほどもある仏壇が息を詰めて黙りこくっていた。
 玄関の土間から、居間と仏間の横を通って、まっすぐ奥に伸びる廊下があった。その廊下を行くと、居間と仏間の向かいに小さめの和室が三間続き、いちばん奥の広い和室に突き当たった。今は無人となったこれらの和室には、大昔、三代にわたる家族が住んでいた名残のタンスや卓袱台、コタツなどの古めかしい家具がそのころのまま残されていた。押入のふすまはぴったり閉まっていて、中に布団が入っているかどうかわからなかったが、長年のほこりさえ掃除すればすぐにでも住めそうな気がした。
 二匹は、板の間の端から狭い階段を伝って、天井の低い二階に上がることができた。そこは物置代わりのスペースになっていて、彼らは、ほこりまみれの長びつ、茶箱、小さな化粧箱や、なんのために使われたかわからない調度品などがびっしり並ぶ板敷きのすき間に落ち着いた。馬たちは、母屋の裏にある大きな納屋の藁の上に陣取ってくつろいだ。
 とのとヴァロンがいる二階の奥には小さな明かり取りの窓があり、薄汚れたガラスを通して下流にある隣家が見えた。ちょうど大男が隣家の主人らしき男と、またなにか言い争いをしている様子だった。
「何回も言うようだが、跡継ぎがいない家は、早いとこ、見切りをつけなきゃならんだろ。家屋敷と田畑、山林全部引き取ってやるから、息子がいる町にでも落ち着いたらどうだ。」と隣家の男が大男に言い放った。
「もう一度言ってみろ。お前の悪事をみんなにばらしてやるからな。」と大男は大きな顔を真っ赤にして怒鳴った。
「何を言ってやがる。最後まで、環境破壊はダメだ、動物の住処を破壊してはダメだと押し通せばよかったんだ。きさまだって、カネに目が眩んだんだろ」
 互いに一歩も引く気がない勢いだった。悪事というのは、大男の弱みにつけ込んで公共事業に賛同させ、大金を手にしたことだった。
「お前の息子がここから早く出て行ったのは、実に賢かったよな。お前と関わりを持つくらいなら、カネも家土地も何にもいらねぇ、と言っているそうだぞ。それにしても、お前のかかあは、ほんとに苦労のしっぱなしで可哀想だったな。お前が殺したようなもんだわ、ほんとに。」
 隣家の男の言葉には大男を逆上させるのに十分すぎるトゲがあった。
「なにぃ!」
 大男は大声を上げた次の瞬間、力の加減をすっかり忘れ、熊のように頑丈な握り拳を、隣家の男の顔面に思いっきりたたきつけた。砂袋のような丈夫なものが一気に潰れるドスンという鈍い音がして、木の切り株で作った椅子に座っていた隣家の男の身体は、一メートル以上吹っ飛んで地面に横倒しになった。倒れた男の片目と鼻は潰れ、そこからどくどくと血が吹き出した。
 それを見た大男はすぐ興奮からさめ、おい、おいと声をかけたが、ぐったりした男は反応がなかった。横たわった男の作業着の胸ぐらをつかみ激しく揺すったがダメだった。
「やってしまった!」
 大男は頭を抱えしばらく旧知の隣人を見下ろしていたが、急に体の向きを変えると、川と反対側の山林の中へ飛び込んだ。
 とのとヴァロンは、目の前で繰り広げられた惨劇の一部始終を見て、転がるように隣家へ向かった。二匹が到着したとき、隣家の男は息を吹き返して咳き込んでいた。片目が潰れ鼻がぶらぶらして顔中真っ赤だったが、命にかかわることはないようだ。二匹は自業自得の男をほったらかし、大男の後を追って、山林の奥へ続く道を走った。辺りが真っ暗になり、猫の目でも探しにくくなったころ、あきらめて大男の家に戻った。馬たちも心配してその夜はみんなでかたまって寝た。

 大男は山林の中をやみくもに歩くうち、殺人者として捕まる前に、馬たちを密猟した人間をなんとしても探し出して、制裁を加えたいと強く思った。彼は、密猟者をなん人か知っていた。なかでも悪質な密猟を繰り返している男を思い浮かべると、全身からその男への憎しみが沸いてきた。
「よし、あいつを殺ってやるぞ。」
 大男は、熊のように吠えながら、闇の中に横たわる険しい谷を幾筋も横断した。夜の寒気を防ぐため、熊の皮を頭からかぶって歩く男が近づくと、山の動物たちはおびえたようにじっと動きを止めた。山林の中には、大男が踏みつける草や枯れ木や土塊や凍った雪塊の潰れる音と、彼の苦しそうな息づかいだけが聞こえた。
 大男は、夜明け前に最後の谷を横断し、目的の場所近くの東に開けた山の斜面に出た。ちょうどはるか遠くの空がわずかに明るさを帯び、その下に空と同じ色をした海面が広がっていた。去年から葉を落としたままの木々の梢が、その明かりの中に黒々と浮かび上がった。幾羽かの鳥たちがかすれた声を上げた。大男は、かすかな明かりを感じて、目を覚まし始めた辺りの透明な情景に、心を奪われて見入った。
 そのときだった。空気が一瞬にして裂けたかのような、激しい爆発音が鳴り響いた。鳥たちが、羽音ともうめき声ともつかない音を発して、一斉に飛び立った。爆発音は、鳥たちがたてる音によって瞬く間にかき消され、その音がどれくらい大きかったか、すぐにわからなくなった。大男は、ほんのり赤くなった海に向かって、次から次と飛び立つ無数の鳥たちの躍動感あふれる姿を感動の面もちで見たが、その瞬間、頭に大きな衝撃を受けて一切の感覚を失った。彼の頑丈な体は、その場から数メートルもの空間をはじけ飛んだ。
 昨夜、この近くの民家の畑に熊が現れたため、数人の猟師が、熊の狩猟用のライフル銃をかついで早朝から山に入っていた。熊皮を身につけた大男は、薄暗い山林の中では、熊と見分けがつくはずがなかった。猟師たちが恐る恐る大男に近づいたとき、すでに彼の反応はなかった。

 翌朝、空が白み始めるとすぐに、とのとヴァロンと馬たちは山野に入り、日が暮れるまで大男を探し歩いたが見つけることはできなかった。夜になって、大男の息子が慌てた様子でやって来て、遠くの山中で狩猟中に事故があったことを語った。それは熊撃ちの猟師が、熊といっしょに誤って人を撃ってしまったらしいという知らせだった。
「撃たれた男の風貌が、親父にそっくりなんだ。」
 とのは、昨夜大男を探しに行かなかったことを泣いて悔やんだ。しかし、猫の暗闇をはっきり透視する目、匂いと方向性を鋭敏に感知する鼻、そして他の動物より秀でた繊細な聴覚をもってしても、真っ暗闇の中、行方をくらました熊のように俊敏な大男を追跡することは不可能だったのだ。
「ぼくらには探し出せなかったんだ。できなかったことを後悔しても仕方がないよ。」
 ヴァロンは、悲しみに打ちひしがれた自分の気持ちを押し殺してそう言った。
 大男の息子は、父親の唯一の友達と言っていいとのたちには、いつまでも大きな古い家に滞在してもかまわない、自分たち家族もいつかこの家に戻って来たいと言った。主人が不在になった大男の家と田畑と山林は、数年も経たずに周囲の自然にとけ込んで、野生の動物や虫たちの遊び場になることだろう。定住動物ではない馬たちは、一年を通じてそこに住むことはないのだろうが、年に数ヶ月、ゆっくりと休養できる場所ができた。それが大男の望みでもあったはずだと、とのは思った。(第3 馬たちの行方 了)





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「黒猫とのの帰還 第二」

2013年02月09日 15時17分21秒 | ファンタジー
第二 とのの帰還
  
 暁彦と奈月が、とのから聞き出した話をこれから紹介する。なにしろとのの話は、突拍子がなかったり、つじつまが合わないところが多かったりして、彼らは整理するのにずいぶん難儀したようだ。それはともかく、とのの話はこんな感じだった。

 とのとヴァロンは、海の見える町の背後から狭い沢を登り、冬の終わりの山脈に入り込んだ。雪だらけの山には、猫にとってそれほどおもしろいものはないだろうと思っていたのだが、さまざまな生き物たちの、それぞれの習性のおもむくまま、たくましく活動する姿を目の当たりにした。とにかく鹿の群れとはいたるところで出くわした。彼らは、皆一様に疲れた様子で、お腹が大きい雌たちをかばいながら餌を求めて移動していた。
「今年は雪が多くて大変だ。こういう年は、餓死する仲間が多いんだ。」
 リーダー格と思われるひときわ身体の大きな雄鹿が、前足のひづめで雪をかいた。と思ったら、彼は雪の中から動物の骨格らしきものを掘り出して、「これだよ」と、とのたちに見せた。
「この雪が溶けたら、おれたちの仲間の死骸の、るいるいと横たわる光景が見られるはずだよ。」と、雄鹿は静かな口調で言った。とのとヴァロンは、足許に骨がたくさん埋もれていると思うといい気持ちはしなかったが、雄鹿の威厳が感じられる低い声の響きに圧倒され、無言で彼らの後ろ姿を見送った。
 一面真っ白な山脈の中に入り込むと、頂上へのルートがさっぱりわからなくなり、人間が作った歩きやすい雪道を登っていくことにした。両側から迫る山の斜面はだんだん険しくなり、その斜面に作られた頑丈な防雪柵から、少し溶けた雪が盛り上がって、とのたちの頭の上にこぼれ落ちそうになっていた。その光景はとても怖かったが、雪はソフトクリームのように美味しそうに見えた。山奥の道路に沿って、ヘビのようにうねりながら伸びるコンクリートの橋が見えてきた。どうやって作ったのか想像できないくらい背の高い橋を見上げると、後ろにひっくり返ってしまいそうだった。橋の向こう側は、雪煙がかかったようにぼんやりとしていて、橋の長さがどれくらいあるのか見当がつかなかった。
「あの橋の上から、はるか下を流れる沢を見てみたいな。」と、とのが言うと、
「おれは行かない。アパートのベランダからすべり落ちてから、高いところは嫌いになったんだ。」と、ヴァロンがめずらしく弱気なことを言った。しかし、ここまで来て橋を渡らないのは、フレンチのメイン料理を食べないのと同じだと、とのが執拗に主張したので、ヴァロンはしぶしぶついていくことにした。
 道路から橋げたの取りつけ部に足を踏み入れると、圧雪状態の路面はツルツルに凍りついていて、爪を出さないと、左右にうねる橋から滑り落ちてしまいそうになった。
「ひぇー、ジェットコースターみたいだ。」
 とのは、爪を出したり引っ込めたりして、楽しそうにすいすいと路面を滑った。南国系の血統のヴァロンには、こんなところで遊ぶとのの神経が理解できなかった。
 とのの後ろをよちよち歩いていたヴァロンが、十数メートル前方の下り勾配付近に、急カーブを見つけて叫んだ。
「との、気をつけろ!」
 スピードに乗ったとのは、急カーブに向かってまっすぐ突っ込んでいき、舞い上がる雪煙の中に姿を消した。その橋には車止め用の丈夫な鋼鉄の欄干があり、そこに吹きつけた大量の雪がまだ残っていて、とのの身体はその雪のクッションの中にすっぽり埋もれていた。自力で脱出できず、ヴァロンに引っ張り出されたとのは、「えへへ」と照れ笑いするしかなかった。
 カーブを曲がると、前方に立ちはだかった山脈の斜面にトンネルの入り口が見えた。
 トンネルの穴の上には、
『TNKトンネル』(注意:とてつもなく長く暗いトンネルにつき、徒歩で入るべからず)
と、アーチ型に大きく表示されていた。入り口まで近づくと、省エネのためか、トンネルの中は灯りひとつなく真っ暗だった。
「どこに通じているんだろうね?」
 二匹は互いに顔を見合わせた。
「入ってもいいのかな。」
 とのが、真っ暗で何も見えないトンネルの中を、怖い物見たさにのぞき込むようにして言った。
「こんな不気味なトンネルに入る物好きはおらんだろう。」
 ヴァロンは、入りたそうにしているとのに向かって、きつい口調で言った。
 そのとき、真っ黒な穴の中から、二匹が吹き飛ばされそうになるくらい、強い風が吹いてきた。気温が急に下がり始め、山から低地に向かって風が吹き降りてくる時間だった。すると、穴の奥から風の音に混じって、かすかにカツカツカツという音が聞こえた。ごく小さな音だったが、二匹の耳は、その音がどれくらい離れたところから聞こえてくるか推測できた。
「十キロメートル先から、硬い靴をはいた大勢の足が走ってくるよ!」
 好奇心旺盛なとのも、さすがに穴に入ろうという気にはなれなかった。どれくらいの時間が経っただろうか。ずっと耳をそばだてていた二匹の頭の中は、トンネル内をこだまするごうごうという騒音ではち切れそうになっていた。
「どうしよう。すぐそこまで来ているよ。」
 とのとヴァロンは、しっかりと抱き合ってその場に凍りついた。すると、ぴたっとそのごう音が止んだと思ったら、トンネルの開口部のすぐ間際から、ヒューヒューブルブルといくつもの荒い息づかいが聞こえた。得体の知れない生き物が、真っ暗な中から少しずつ近づいてきた。夕方の淡い光に照らされて見えたのは、ふさふさとしたたてがみを持つ顔の長い生き物だった。十頭ほどの馬の一群がそこから姿を現した。山のように大きな馬たちの足許には、小柄な背丈の二頭の子馬がいた。子馬たちの細長い四本の脚は、丸々と太ったとのが背中に飛び乗ったら、よろめいてしまうのではと思うくらいきゃしゃだった。
「ここで何してるの?」
 互いにびっくりしてそう言った。
「わたしらは、ここの山野をねぐらにして自力で生活しているのさ。」
 南の土地に住んでいた彼らの祖先は、人によって無理やり連れてこられたのだが、厳しい風土に適合し、春から秋まで人の仕事に従事し、冬になると原始の自然が残るこの深い山脈に放たれた。その後、機械の登場によって、昭和五十年代には馬たちの仕事は完全になくなった。人に使役されたことがある仲間は、今では三十才前後のほんの数頭のみになった。現在、彼らは人の手から離れ、仲間の数を減らしはしたが、年中、笹などの食べ物がある山野を駆け巡りながら、野生の生き方をする自由を得た。
「冬の自由を待ち望みながら、人のために仕事をしたころを懐かしく思い出すことがある。」
 彼らは、今も、ときどき人と会って情報交換したり、牧場のサラブレッドなどを誘い出して新しい血を入れたりしていた。他の家畜化された動物や野生動物には、まねができないしなやかな生き方だ。
「ぼくらはあるものを探しに来たんだ。知っていたら教えてもらえないかな?」
 二匹はおずおずと聞いた。
「わたしらが知っているものなら、教えてあげるよ。」
 馬たちは思ったより気さくだった。
「この地方に、龍に似た怪物が住んでいるというのは、ほんとうなの?」
「あぁ、ここは龍高岳連峰と呼ばれているところで、このあたりを住処にしている者は、よく知っているよ。そいつは大地の奥深くにひそむ巨大な怪物で、ときどき身体を動かすことがある。すると、大地がその怪物のパワーに耐えきれなくなり、ぐにゃりとうねるのだそうだが、誰もその実物の姿がどうなっているのか見たことはないよ。」
「そうか、君たちも見たことがないのか。」
「この山脈の最も高い峰に登り、この島を見まわしてごらん。海に水没する岬の尻尾、いくつものこぶが際限なく連なる背中のような山並み、ごつごつした両翼をいっぱいに広げた半島、二つの大きなギョロッとした目みたいな浮き島、それらを見たら、君たちはなにかを感じとれるかもしれない。」
「案内してあげよう。この山脈最高峰の山へ。」
 馬たちの案内で、山奥にどんどん分け入っていくと、そこは陽射しが届かない鬱蒼とした原始林の迷路だった。
「ぼくたちだけでは戻れないね。」
 とのとヴァロンは身体を寄せ合って歩いた。
 急な斜面を下りていくと、突然森林が切れ、周囲が見渡せるくらいの小さな沼の縁にたどり着いた。周囲一キロメートルほどだろう。その丸い水たまりには数え切れないたくさんの渓流が流れ込み、一本の川となって海に流れていく。雪解けが始まると、ごうごうと流れる水音がずっと先の海岸まで届くのだった。
 以前、水量がもっとも多くなる時期に、渓流をカヌーで下ってきた冒険者が、小さな沼に沈んだまま浮かんでこなかったことがあったそうだ。
「この渓流沿いに登っていくと、この山脈最高峰のP岳の頂に行くことができる。私らは海岸で魚を捕まえているから、またあとで会おう。」
 馬たちとはそこでいったん別れた。

 二匹は、頂上にやっとのことで到着。北北西の方角を仰ぎ見ると、前方にだらだらとうねって続く稜線ははるかかなたの白い雲の中に消えていた。その雲の向こう、数百キロメートル先には、旭岳や黒岳といった険峻な山々を擁す大雪山系が連なっているはずだった。 後ろを振り向くと、やはり尖った稜線の長さに圧倒されたが、峰々は徐々に高度を下げていき、確かに山脈の尻尾は海の中へ吸い込まれていた。
 とのとヴァロンがへばりついた稜線から広がる左右両翼の様相は全く異なっていた。左手には日を受けて魚の鱗のようにぎらぎら輝き、細かく波打つ海面が見えた。右手には低く垂れこめた厚い雲から、水蒸気のような薄い雲が切れ切れに吹き上げてくる様子が見えた。二匹はテレビで見た戦争映画の登場人物のように、凍りついた狭い尾根道を腹這いでそろそろと前進した。
 そのとき、山の底の方から力づくで、ぐいっと上に持ち上げるような震動があった。縦揺れに加え、大きく波打つような横揺れが始まり、とのとヴァロンは、自分たちの身体が尾根から振り落とされるのではないかという恐怖に襲われて、急いで雪渓の狭いくぼみに飛び込んだ。体のバランスが安定すると、今度はゴォーという低い音の地鳴りが、腹這いになっている彼らの身体に伝わってきた。その大きな揺れと細かい震動の感触は、これから何か大変なことが起きる兆しのように感じられ、気持ちが悪くてたまらなかった。
「あれぇ、尻尾が動いてる!」
 ヴァロンのうわずった声が聞こえた。とのが思わず後方を見ると、岬の向こうの海に、白く泡立つ波が沖の方に何百メートルも筋を引き、その筋が左右に大きく揺れ動くのが見えた。まるで海の中に潜んでいた岬の尻尾が、眠りから覚めて泳ぎだしたかのような光景だった。
「龍が何かをしようとしている。」と、とのは思った。
 大きな揺れと地響きはどれくらいの時間続いただろう。収まったところを見計らって、安全が保証されるわけでもないのに、二匹は転げるように見通しのよい海側の斜面を下り、背の高いダケカンバの山林の中に逃げ込んだ。
 馬たちがいる海岸に向かった。津波はだいじょうぶだろうか。切り立った海岸段丘の上に出たが、そこからは馬たちの姿は見えなかった。
 岩場ばかりの海岸沿いに、木柵に囲まれた小さな展望台があり、その片隅に大きな石が置かれていた。波に洗われて角が丸くなったようにずんぐりしたその石は、近くの海岸に転がっている石の群と形がそっくりで、それらの中からひとつだけ選ばれたものであることは間違いなかった。
 周囲には人が作った舗装道路と段丘をくぐり抜ける短いトンネルがあったが、集落は見あたらず、人の気配はまったくなかった。その辺りは日当たりがよく、冬の間積もったはずの雪はすっかり消えていた。展望台に上がってみると、そこに置かれた石は、人を飲み込むほど大きく、二匹の目線からは石のてっぺんが空と同じ高さに見えるくらい背が高かった。巨石の一面だけがていねいにつるつるにみがかれていて、大きな字が横書きに刻んであった。
「龍尾岬海道」
 石碑があるこの場所は、岬から何十キロも離れているはずだ。この石碑は何のために建てられたんだろう?
 急に、海岸の岩場にうち寄せる波の音が大きくなり、その音は、大勢の人々が一斉にはやし立てる声のように聞こえた。ふと、正面にいるヴァロンの身体のまわりに、黒い小さな紙の切れ端のようなものが何枚もふわふわと舞っていることに、とのは気がついた。それらは下に落ちてくるでもなく、強い風に吹かれて飛んでいくでもなく、辺りの景観と切り離されたまったく別の物体のように見えた。まるで海岸線の荒々しい自然のスクリーンに映る異次元の映像だった。
「気持ち悪いよ。」
 ヴァロンがとのの頭上を指さして叫んだ。とのの顔の前にもそのゴミは漂ってきていた。
「とのは黒いから大丈夫だけど、そんな黒いゴミが身体についたらせっかくの男前が台無しだよ。」
 ヴァロンは、自分の顔や身体や尻尾をしきりに短い手足で払った。
 そのとき、遠くから、いくつもの蹄の音が聞こえてきた。さっき会った馬たちが段丘からかけ下りてきたのだ。すると、人声にそっくりな波音の喧噪がぴたっとおさまった。たった今まで激しく押し寄せていた波は、馬たちの勢いによってかき消されてしまった。ヴァロンを見ると、顔や身体の毛に張り付いたと思われた黒いゴミも、どこにもその痕跡が残っていなかった。
 二匹は、周囲を気にしながら息をつめて、今見聞きしたことを馬たちに話すと、彼らは平然として言った。
「この辺りの海では、船の事故で、大勢の人が亡くなっているからね。」
 でも、とのには、そのことが何かの警告を意味しているように思えて、身体の震えがなかなか止まらなかった。
 とのとヴァロンは、馬たちの背中に乗せてもらった。馬たちの身体には冬毛がまだ生えていて、肉球でしっかりとつかむことができたので、振り落とされる心配はなかった。馬たちの歩みは思ったほど速くなかった。というより遅かった。振り返ると、最後尾からついてくる馬の歩みに他の馬たちが合わせていたのだ。
 その馬は身体全体に張りがなく、かなり年取って見えた。足が遅いとのを置いてきぼりにするヴァロンに、馬たちのやさしさを見習ってほしかった。
「おれを馬と比べるなよ。猫は気が短いんだから。」
 ヴァロンは、自分を見るとのの厳しい目つきに気がついて、先手を打った。
「やっぱりヴァロンは後ろめたく思っているんだろ。」
 二匹の言い争いを、馬たちは笑って聞いていた。
「ところで、外敵に襲われそうになったときは、どうするの?」ヴァロンがとのにかまわず、馬たちに話しかけた。
「オオカミが姿を消した今、敵はどこにもいないさ。」
「銃を持った人間や熊が怖くないの?」
「狩人に遭ったときは、必ずいなないて間違って撃たれないように気をつけている。」
 馬は、無差別に撃たれる鹿たちのことを思い、目を伏せながら言った。
「熊たちとは昔から気が合う仲間だよ。」
 馬たちは、熊とのつき合いを話してくれた。
「私らの祖先が南方からこの土地に連れてこられたころから、熊たちは、私らには掘り出せない地中の草の根やいも類を分けてくれた。」
 馬たちは、遠い過去の記憶を振り返って、懐かしそうに言った。
「新天地をめざして、いっしょに旅したこともあるよ。渡島半島を出発し、後志山や樽前山を仰ぎ見ながら勇払の湿原をわたり、この深い山脈をたどって北の大雪山系に行った者や、山脈を横切って東側の十勝平野を抜け釧路まで到達したつわものもいた。今では、森林があちこちで寸断されてしまったから、そんな大冒険はできなくなったが。」
 ヴァロンはしつこく食い下がった。
「じゃあ、オオカミがまだ元気だったころ、君たちが闘った記録があるんだね?」
 馬は言いにくそうだった。
「どうやって闘ったの?」とヴァロンは追い打ちをかけた。
「剣を振るって闘ったという言い伝えがあるよ。」と馬たちはおずおずと言った。
「うわぁ、龍みたいだ。龍は尻尾から剣を抜いたんだよね?」と、ヴァロンが興奮ぎみに言った。
「ちょっと違うね。」とのが話に割って入ってきた。
「父さんから聞いた話だけど、身体の中に剣をしまっていたのはヤマタノオロチといって、出雲の国の神話に出てくる大蛇だよ。」
 とのは知ったかぶりの顔をして、その神話は、古代ヤマトの勢力が、そのころ日本列島唯一の出雲製鉄所を襲撃して、鉄の武器と製鉄の技術者を奪った話だと言った。続けて、そのときのヤマト軍の指揮官スサノオの作戦は、内地の人々が後年、この土地の先住民の頭領を謀殺したやり方と同じで、八頭の大蛇においしい酒をたくさん飲ませて、酔っぱらって眠ったところを襲ったという話をした。
「出雲の人たちは怒っただろうね。」
 神妙な顔をして馬たちが言った。
「出雲の勢力はヤマトによって制圧されたけど、出雲のお祭りは日本全国津々浦々まで広まったんだって。」
 とのが得意そうに言った。
「そうか、出雲の人たちは剣の力でなく、思想によってヤマトに立ち向かったんだ。」
 馬たちは感心したように大きな息をついた。
「出雲の人たちの思想って、龍の神話となにか関係があるのかな。」とのは、ふとそう思った。
 とのたちは、山に登る前に通りすぎた沼の近くまで戻ってきた。山頂で遭遇した地震のせいなのか、さっきまで穏やかだった沼は、荒々しい勢いで流れ込む渓流の水によって泡立ち、盛り上がった沼の水が一本の川めがけて押し寄せていた。このままでは、沼から流れ出している川は、まもなくあふれてしまうだろう。
「沼の下流の集落が危ない!」
 馬たちの群れの中から頑丈そうな二頭が走り出した。とのとヴァロンも馬たちの背中に乗った。数キロ先の沢づたいには、農業者の住む小さな集落があり、四、五軒の民家と十棟程度のビニールハウスが散在していた。一軒の古びてはいたが、他の家の倍ほどもある民家の前庭に走り込み、馬たちは大きくいなないた。民家からすぐ人が飛び出した。
「何か大変なことがあったんだな。」
 馬の体格に負けないくらい大きな身体の男が、馬たちの真正面に仁王立ちした。その男が両腕を振り上げたとき、大鷲が羽を広げたようにばさばさと大きな音がした。

「よし、わかった。みんなを避難させよう。」
 大きな男は、そう言って声を張り上げた。
「村のみんな!山へ逃げろ!」
 とのとヴァロンは思わず両手で耳をふさいだ。男が発したごう音は、二匹の身体を馬の背中から吹き飛ばすかと思われるほど強烈だった。
「鼓膜が破れるかと思ったよ。」
 とのは、両耳に突っ込んだ肉球を恐る恐る引き抜いて、ヴァロンに言った。馬たちも、集落の人たちといっしょに高台に向かって走った。数分後、川岸からあふれ出した濁水は、低い土地に建ち並ぶビニールハウス群に襲いかかった。あらかたのビニールハウスは、水の勢いによってもみくちゃにされ、ハウスの中の大きく育ったトマトの苗もろとも、またたく間に下流に押し流された。
「住む家が残ってよかったと思うしかないなぁ。」
 大男は、馬たちに向かって家に寄っていけと言いながら、馬の背中にへばりついた二匹の猫に初めて気が付いた。男は、こんなところにどうして猫が?という目をして絶句した。
 とのたちは、大男に誘われるまま、その辺りでも珍しい茅葺き屋根の大きな民家の前に戻った。落ち着いてその家を見ると、こんもりとした小山のように重厚な威容に圧倒された。なんの必要があってこんなに大きな家を建てたのか不思議だった。玄関口の重い引き戸を開けて中に入ると、相撲の土俵を作れそうなだだっ広い土間があり、その奥に、高い天井に向かって太い木が幾重にも組み上げられた、洞穴のように暗い室内が見えた。そこは、昔使っていた囲炉裏の煙にいぶられて、炭を練りこんだように黒々としていた。その二十畳もありそうな囲炉裏部屋の床には、獣の毛皮が一面に敷きつめられていた。とのとヴァロンは性癖にしたがって、なめらかな光沢を放つ毛皮の匂いをしつこくかいでみたが、長い間煙にさらされ、人や動物の足に踏まれたためか、その毛皮の主を判別することはできなかった。
「この辺りは、熊の巣と言われたくらい、熊が多い土地だった。この毛皮は、ずっと昔、わしの父親が三年がかりで捕らえた熊の皮だ。六百キロもの大物だったそうだ。」

 体重が六百キログラムもある動物とは、鯨、ゾウやカバなどの別格を除けば、哺乳動物たちの中でもっとも重い部類だ。
「図体だって、馬より一回り大きかったんだ。」
 無精ひげを生やした年齢不詳の大男は、薄暗い部屋の真ん中にどかっと座ったまま、得意そうな顔で言った。すると、彼の身体は、にわかに黒々とした壁や調度品、そして床の毛皮の色にとけ込んで、輪郭が不鮮明になった。とのとヴァロンのこわばった顔を見た男は、にやにやしながら言った。
「怖がることはない。こんな山奥に住んでいても熊の害はほとんどない。山は人間のものではなく彼らのものだから、わしらは、必要なとき以外、むやみに山に入って彼らを驚かすようなことはしない。」
 現代よりはるかに熊の数が多かった時代、内地や外国からやって来た人たちの旅行記に熊を恐れる記述がほとんどないのは、現地に昔から住むこの大男のような人々に従って行動したからにちがいない。しかし、とのたちが恐れたのは、まだ見たことがない本物の熊ではなく、目の前にいる熊のような男に対してだった。
 大男はどんどん熊の皮に埋もれていった。いつのまにか身体が真っ黒な巨大な塊になり、頭に大きな耳が突き出し、黒い顔の真ん中には黒光りする大きな鼻がひくひくと動いた。
「こうして熊の皮に包まれていると、昔々なめとこ山でまたぎをしていた小十郎という男のように、熊の言葉を聞き分けられそうな気分になるよ。きっと小十郎は向こう側の世界で熊だったんだな。」
 目の前の不気味な光景は、二匹の逞しい想像力のせいではなかった。実際に大男は本物のクマの姿に変身していった。とのはこの家からすぐにでも退散したかったが、その前に聞いておきたいことがあった。
「おじさんは、馬や鹿やぼくらの言葉もわかるの?」
「あぁ、耳を澄ませば、この山の生き物たちはそれぞれ固い意志を持って、なにかを伝え合っていることがよくわかる。わしもその中に入れてもらいたいよ。」
 大男は、できるだけ人里離れた山奥で自給自足の生活を続けて、人の醜い怒りとか憎しみといった感情をきれいに洗い流してしまいたい、人間たちは気が狂ったと思うだろうがね、と言った。
「人と動植物との違いなんてものはもともとなかったし、そればかりか、山や川や海といった自然界の意志さえ、そこにいる生き物たちの意志と同じものだったんだ。」
 男の口調は、自分自身に言い聞かせているようだった。
「それにしても暑苦しいなぁ。」
 自分の顔の前に突き出した大男の両手は、曲がった鉄釘のような爪が生え、長い密集した毛が垂れ下がり、剣先スコップのように巨大だった。その両手で、自分の頭を鷲づかみにしたかと思うと、上方にそれを持ち上げ始めた。すると、ずるずるという音がして人の顔が現れた。
「びっくりしたかい? 熊の頭蓋骨をかぶってみたんだ。五十年以上も前のことになるが、この家には熊祭りの祭壇が何度も作られたんだ。」
 とのは思わず身震いして、大男のすぐ後ろの暗がりから、もう一頭、熊が現れやしないかと部屋の中をくまなく見渡した。
「熊祭りを知ってるかい? 熊は、彼らが住む世界では人と同じ姿をした生き物なのだ。彼らがこの世に、肉や皮などの貴重な贈り物を持ってきてくれるので、人は最大の感謝の気持ちをこめて熊を祭り、魂を彼らの本拠地に送るのだ。熊は礼儀正しい生き物だから、彼らの世界に遊びにやってくる人を、同じ方法でもてなしているんだよ。」
 大男の目は、古びた薄暗い家の境界をすり抜け、はるかかなたの宇宙を見つめる青い光を湛えた。そして、深い眠りに落ちたように、しばらく黙りこくってしまった。とのや馬たちも、大男のまどろみに引き込まれ、時間のゆっくりした流れの中でうとうとした。すると、大男は我に返って、人の世界はもう飽き飽きだが、人としての記憶がなくなる前に、話しておきたいことがある、と次のような話を始めた。

 大男の両親は、先祖から受け継いだ、平地の少ない山奥のわずかばかりの土地で、細々と農業をやっていた。それだけでは暮らせないので、山に入って、炭を焼いたり、動物を獲って食い物に充てていた。世の中が経済的にどんどん豊かになっても、彼らだけは違う国に住んでいるかのように、生活の改善するきざしはまったくなかった。
 大男は、両親に対し、なんのためにこの土地に執着して農業を続けているのか、何度か議論をふっかけたことがあった。その度に、両親はここにこだわる理由について言葉を濁した。その曖昧さに男はイライラを募らせ、両親を大声で責め立てた。高校を卒業したらすぐにでも、家を飛び出そうと考えていた。
 その矢先、父親が山へ入ったきり姿を消してしまった。行方不明になって半年ほど経ってから、山脈の奥へ入り込んだ登山者によって、偶然、白骨死体が発見された。DNA鑑定の結果、その骨は父親であることが確定した。死亡原因の調査のため、警察が辺りを探ってみると、もうひとつ、人の三倍もある白骨が転がっていた。専門家に見せると熊の骨だとすぐわかった。熊を撃ちそこなって逆襲を受け、相討ちしたのではないかと推理する者もいたが、父親の銃には発砲の痕跡がなく、二体の骨に争った傷が付いていたわけでもなかった。両方の骨の配置を見るとなんだか並んで寝ていたようにも感じられた。真相はわからずじまいだった。
 残された母親と大男は生活の術を失って途方に暮れた。大男は体が大きいだけで、斜面だらけの農地を耕すことも、山に入ることも、ほとんど経験がなかった。この地を飛び出したいと思っていたのに、母親を置き去りにして、自分だけ逃げ出すことはできなかった。自立することとは、父親がいるからできることであって、今となっては、どうして子どもの甘えから脱したらいいのだろうと悩んだ。
 
 大男は、近所の人たちのアドバイスを受け、見よう見まねで農業を始めたのだが、次第に農地も山も荒れていき、生活の困窮も深まっていった。そのころ、農業政策の変化に伴い、周囲の集落からも離農者が相次ぐようになった。彼らに代わり、大資本や農家集団による経営が導入され、跡地は広大な牧場と数え切れない牛と馬の群によって占領された。山々の木々はぼろぼろに切り刻まれた。しかし、男は相変わらず、山裾にへばりついたわずかな農地を耕し貧乏していた。ほどなく母親が亡くなった。母親が死の床で苦しい息をしながら振り絞るように語った言葉が、男の記憶にいつまでも残った。母が話したのは、生前の父の言葉だった。父親はこう言ったという。
「ここ一帯は、はるか昔の人々が俺たちに預けていった土地なのだ。自分のものと思って処分することはまかりならない。」
 一人取り残された大男は、定住する覚悟をしたわけではなかったが、当面、土地から離れられなくなり、自給的な農業を続けた。あるとき、所有地内で河川や道路の改修工事の計画が持ち上がった。
 土地の人たちの多くは、災害から土地を守り、交通の便が良くなる工事を歓迎した。一方、大男は、自然豊かな環境と地域の資源を守りたいという気持ちから、公共工事に対し許しがたい暴挙だと抗議した。このため、工事は無理な計画変更を余儀なくされたり、中止に追い込まれたりした。大男は、始めから地域の人たちを怒らせようと思ったのではなかったが、古いムラ社会では、意見が食い違うと人間関係自体がぎくしゃくし、ついには険悪になった。大男と世間とのつき合いはほぼ皆無になった。
 その土地の数十キロメートル南には海が広がっていた。秋になるとはるか南方からわき上がる低気圧が海岸付近をかすめていくことがあった。その年は例年になく、低気圧が北上して、大男の農地の裏山を激しく襲ったため、斜面の数ヶ所で土砂崩れが起こった。その崩れた斜面の中でも酷くやられた現場で、奇妙な木柵の一部を発見した。相当古いものだったが、ずいぶん頑丈に作られていて、柵そのものにはそれほど被害はなかった。好奇心をかき立てられた男は、数枚の板を切り取って、そこから柵の内側にもぐり込んでみた。真っ暗闇の中に、懐中電灯の光に照らされて浮かび上がったのは、二十畳ほどの広さの空間だった。数歩足を進めたとき、長靴が地面を突き破り、膝までめり込んでしまった。足を抜こうとして伸ばした手が、重みのある固い板のようなものに触れた。それを拾い上げ、電灯のまばゆい光を泥だらけの板状のものに当てたとき、大男は驚きのあまりその場にしゃがみこんでしまった。泥の流れた部分が明らかに金色に輝いていたのだ。この日から、父親が崖っぷちの奥に金塊が埋まっていることを知っていたのだろうか、という疑念が頭から離れなかった。
 その後の生活は、以前にも増して、ほとんど周囲とつき合いのない孤立したものになった。たった一人で、百年ほど前の先住の人たちの生活を習って、山や川からの恵みと小さな畑で採れるわずかな作物だけの不自由な生活を自分に課した。その生活に慣れてきた彼にとって、それは困難なことではなかったが、世間の人々には到底受け入れられる試みではなかった。
「人の寿命なんて、おおかたの動物とそれほど変わらないのだ。彼らのように自分の基礎代謝に見合う分だけの食料と、人に危害を加える生き物が侵入できないくらいの住居を持ち、たまに遊びに来てくれるやさしい動物たちがいれば、それ以上望むべきではない。人は孤独の中で死ぬことはあっても、孤立した生活に耐えられないわけがない。」
 彼が本気で言っているのかどうか誰にもわからなかった。
「この熊の装束を着て山野をうろつくうちに、自分が人だか熊だかわからなくなる。そんなとき、猟師にズドンと殺られるのも悪くはないな。」
 彼は、人社会からなんと言われようと、今の生活を貫こうと考えていた。
「誰一人知る者はないが、この土地は世にもまれな黄金郷なのだ。」

 そのとき、戸外に地面を踏みつける大きな音が響き、何者かが引き戸を壊れるような音を立てて開けた。「大変だ! 子どもたちが人間にさらわれた。」
 まだ若々しい一頭の雄馬が、大きな息を吐きながら叫んだ。彼の慌てた話の中から理解できた内容とは次のようなものだった。
 木立の陰に馬たちがたたずんでいたら、鉄砲の発射音がすぐ近くで聞こえた。数人の鹿撃ちの人間たちが、自分たちをねらっている気配がしたので、数頭が一斉にいなないて獲物でないことを知らせた。慎重に近づいてきた人間たちは、馬たちが逃げないのを見て、なにやら相談すると、群の中に押し入り、生まれたばかりの無抵抗の二頭の子馬を無理やり抱きかかえ、連れて行ってしまった。男たちの口から、カネ、カネという言葉が何度も発せられた。不意をつかれたこともあったが、人間と争いを起こすことが嫌いな馬たちは、そのまま見送るしかなかったという。
「どこへ連れて行ったんだ!」と、とのたちを乗せてくれた二頭の馬は、怒りに震える声で言った。
「この辺に狩りに来る人間たちの居場所は、きっと西の沢の上流にある山小屋のはずだ。」
 大男が確信ありげに言った。
 馬たちが駆け出そうとしたとき、大男は両腕を上げて押しとどめた。
「わしもいっしょに行くぞ。野生の馬を捕獲するやつらを許してはおけない。」
 二匹の猫と男は、三頭の馬の背につかまり、一斉にかけだした。
 とのたちを乗せた馬は、テレビなどで見慣れたサラブレッドに比べ、背丈は多少低いが横幅は倍くらいあって、熊のように大きな男さえ、馬の背中ではこぢんまり見えた。その馬たちが道らしきもののない山中を自在に早足でかけていくと、細めの灌木などは、馬たちの頭や盛り上がった両肩にぶつかってたちまちはじけ飛んだ。その残骸が、とのたちの頭上に紙吹雪のようにバラバラと降ってくるのでちょっと閉口した。馬たちは目的地の方向をどうやって確かめているのかわからなかったが、まるで連れ去られた子馬の声が聞こえるように、歩みに逡巡するところはまったくなかった。
「野生の感覚を持った生き物は、自然の中で迷うことなんかないんだ。」
 大男が得意げに言い放った。
「自然界の意志がわかるということなんだろうか?」
 ヴァロンが恐る恐る尋ねた。
「あぁ、意志を共有しているというか、互いに共感しているというか、なにしろ、もともと同じものなんだから、わかり合って当然なんだよ。」と男が言ったが、とのには理解できなかった。
「焦ることはない。そのへっぴり腰がしゃんとするころには、なにかじわっとくるものがあるさ。」と大男はとのとヴァロンの乗馬の姿勢を見て笑った。
「ぼくら猫族は、弱い動物をいたぶるのが大好きで、おまけに仲間同士で群れない性質の動物なんだよ。だから、周囲の自然は、ぼくらを警戒して話しかけてくれることはないと思う。」とヴァロンが真面目な顔をして言った。
「群を作る動物だって、雄は必ず自分の生まれ育った群を出て、長い年月一人さまよい、運のいい者だけが別の群に受け入れてもらえる。彼らはたとえ野たれ死にしようと、元の群には絶対戻らないのだ。」と男は神妙に言った。
「彼らは何を考えながら一人っきりでさまようんだろう?」とヴァロンが独り言のように尋ねると、とのがちょっとうわずった声で恥ずかしそうに言った。
「ぼくはいつも父さんと母さんのことを考えているよ。」
 小一時間後には、西の沢の上流の高台に出た。その高台から、傾きかけた狩猟者用の山小屋を見下ろすことができた。山小屋の前には、ロープにつながれた二頭の子馬がいた。怪我などはしていない様子だ。そこには小型トラックが止まっており、小屋の中に明らかに人の気配があった。馬たちははやる気持ちを抑え、息を殺して様子を見守った。とのとヴァロンは、彼らの張りつめた気持ちに圧倒されて、身じろぎひとつできなかった。
 そのとき、小屋から数人の人間が出てきた。三頭の馬たちは、どの馬が声をかけるでもなく、一斉に急斜面を駆け下った。下界の人間たちは何が起きたのかしばらく理解できず、猛烈な勢いで迫ってくる黒い固まりを恐れおののいた表情で見つめて凍りついた。その物体が間近に迫ってから、彼らはやっと正気に戻ったようだった。馬の蹄に蹴散らされないため、小屋の中にあわてふためいて逃げ込むのがせいいっぱいだった。
 馬たちが子馬のロープを丈夫な歯で食いちぎると、申し合わせたように、馬上の大男が子馬を両腋に抱え上げた。三頭の馬はその場をあっという間に立ち去った。
 彼らは仲間の馬たちと合流し、とのたちと初めて出会ったトンネルの入り口まで一目散に走った。
「なんと感謝していいか、とても言葉では言い表せない。」
 馬たちはそう言って、とのとヴァロンと大男に向かって何度もお辞儀をした。このトンネルを抜け、北か東の方の土地に移動して、しばらくここには戻らない、と彼らは言い残し、黒い蓋をしたようなトンネルの中に次々と消えて行った。
 トンネルからの帰り道、大男は幾度となく熊祭りという言葉を口にした。熊祭りはすっかり絶えてしまったが、仮に今、祭りを実行しても、実生活から切り離された形ばかりの祭りに、あのころの魂が宿ることはない。今の世で、祭りから神話を読みとれるのは、わしらのような自然人や猫や馬たちだけになってしまった。
 彼はそのようなことをぶつぶつとしゃべり続け、別れの時、身体にかけていた大きな熊皮をスピーカーのように広げ、大音声を発した。耳を覆うばかりのその声は、雪深い山々の斜面を大風になって吹き抜け、黒々とした針葉樹の尖った葉々と枯れ木のような広葉樹の枝先を振るわせて、さらに音量を増幅し、とのとヴァロンの方に向かってはね返ってきた。
「わしは熊になるぞ!」
 その響きは、先ほどの地震の再来のようにも聞こえ、とのとヴァロンは震え上がった。

 とのとヴァロンは、帰り道の途中、海岸段丘の上から断崖の下を見つめる数頭の鹿たちに出会った。断崖の急な斜面は、淡い陽射しを受けて解けかかった雪と、雪の下からわずかに見える枯れ草によって一面覆われていた。鹿たちの足許から数メートル下の斜面の途中には、四つの足を折って腹這いになった一頭の小柄な鹿がいた。雪原に半分埋もれた小さな鹿は首をうなだれたままで、斜面を登ることはとうていできる様子ではなかった。
 そのとき、見下ろしていた鹿たちが一斉に踵を返したので、すぐ後ろにいたとのとヴァロンは鹿たちと目を合わせてしまった。すると、いちばん背の高い一頭がとのたち目がけて、大きな角を数回振るった。明らかに、「何を見ているんだ、あっちへ行け。」と、二匹を威嚇する行為だった。二匹はびっくりして飛び退いたが、鹿たちはそれ以上なにもせず、その場から黙ったまま走り去った。鹿たちが威嚇したのは、本能的に狩猟動物を嫌うからなのだろうか。それとも子どもの鹿を置き去りにする姿を見られたくなかったからそうしたのだろうか。
 とのたちは家路をたどりながら、互いに顔を見合わせることもなく、うつむいたまま一目散に駆けた。二匹は同じ想像をしていた。あの小さな鹿はほどなく肉食の動物たちに身体を引き裂かれ、ついばまれるだろう。しかし、それは仕方がないことであり、誰にも止められないのだ。猫だって危害を加える側の動物であり、自分より力がない動物を見ると、狩猟本能がくすぐられ、恨みも怒りもないまま、つい飛びかかってしまう。
 育児に参加することがない雄猫はとくに冷酷だ。函館にいた「ヒゲ」は、発情期が来たとき、母猫にまだ甘えてくっついていた子猫をかみ殺したという。理由は明快だ。子孫繁栄を邪魔する親離れできない者を、自然の掟は容赦しないのだ。
「そんなことないよ。」突然ヴァロンが独り言を言った。
 確かに例外があった。ヴァロンは、自分の家の三匹の雌猫にとのを加え、四匹の子猫の世話をかいがいしく焼いて、雄猫にも育児能力があることを証明した。
 我に返った二匹は、急に胸につかえていたことを話し出した。
「鹿たちは冷酷な気持ちで子鹿を置き去りにしたんじゃないよね?」「胸が張り裂けそうだったかもしれないよね?」「ぼくたちにはどうすることもできないけど、ひょっとしたら助けてくれる人がいるかもしれないよね?」(第2 とのの帰還 了)






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「黒猫とのの帰還 第一」を掲載

2013年02月08日 15時05分00秒 | ファンタジー
「黒猫とのとヴァロンの過酷な冒険」を書いて、あっという間に二年にもなってしまった。この間、夜も寝ないで昼寝しながら推敲を重ね、少し見栄えが良くなったかと思うので、再掲させていただく。改題した上に、章を入れ替えたり、後半部分をだいぶ直しているので、乞うご期待。
 

「黒猫とのと龍の住む山」

 黒猫「との」と盟友猫「ヴァロン」がまだ雪の残る山脈に入って、およそ一ヶ月が過ぎようとするころ、自宅の玄関先にどたばたと子どもの足音のようなうるさい音が響き渡ったと思ったら、彼らが颯爽と舞い戻ってきた。その日、暁彦は、書斎の机の上に置いた、祈る人と名づけられた埴輪のレプリカを見るともなく見ていた。暁彦の頭に、二匹が遭難したのではという心配がをよぎっていたところだった。暁彦の肩の辺りまでジャンプしてきたとのの身体は少しほっそりとし、表情は以前に比べ大人っぽくなったように見えた。
「どこまで行って来たんだい?」
 元気なとのを見て安心した暁彦は、さっそく話を聞かせろと迫った。とのは、ちょっと待って、母さんとハグしてくるから、と居間にいる奈月の方へ飛んでいった。きゃはは、ぎゃははと笑う声がしばらく続き、とのが好物のボイルエビをあわてて食べる気配がした。暁彦と奈月は、大食漢のとのがお椀一杯平らげるまで、辛抱強く待った。ヴァロンはキャットフードをちょっと食べ、背中の荷物を縛り直して、隣町の自分の家に戻った。満腹したとのは、うとうとしそうになるのを我慢しながらやっと話し始めた。
 しかし、その話の紹介は後にしよう。先に、二匹の帰還と、とのの話の奇抜さに感極まった暁彦が、なにかがのりうつったように饒舌に語った話を披露した方が、このちぐはぐな物語の全体を理解するうえで都合がいいだろう。

第一 龍をめぐる一考察

「その男は熊の頭蓋や皮をかぶって、熊になると言ったのか。」と暁彦は感慨深げに言った。
「人や猫、木や石、虫や魚、その他、生物無生物を問わず、この世の中のあらゆるものに精霊(せいれい)が宿り、その精霊たちの意思が相互に通じ合う世界に住むことができれば、彼の希望は叶えられるだろうね。そこでは、私たちが、皮やお面を被って精神を統一すると、たちまち熊になったり、猫や木や石にも変身できるんだ。これはお伽話なんかじゃなく、あたりまえの感覚だったんだよ。たとえば、人の身体の一部が蛇に変身したり、生き物が石の中に閉じこめられたり、人や動物の身体から植物が生えたり、クラーク・ケントが異星人用のスーツを着たらスーパーマンになったり、おとなしい猫が虎に変身したりするのを、みんな知っているだろ?」
 暁彦の話は、脇道にそれて迷子になることが度たびあった。
「それじゃ、その男の人が変身できるのは熊だけじゃないんだね?」
 奈月が珍しく興奮気味に言った。
「そうだよ、その気になったら猫にだってなれるさ。」
 とのは、男の体ほど大きな猫といっしょに、とうてい一般家庭には住めないだろうと思った。
「昔々、狩猟採集を主な生業にしていた人々は、恵みを授けてくれる身のまわりの自然に対し、心から感謝の念を抱いた。大地、天空、川、海は言うに及ばず、人が食したり壊したりして形がなくなってしまう動植物や生活用品にも深く感謝し、それらの精霊が元々住んでいた世界へ帰り、再び復活して戻ってきてくれることを願った。その魂送りの祭りと併せて、自分たちの先祖を祭る儀式も行ったそうだ。つまり、彼らは、人や動物などの間にまったく隔たりがないと考えていたんだ。その万物を尊ぶ精神性の高さには、眩しいくらいの神々しさを感じるよ。」
 暁彦は、自分の話に感動したように声を震わせた。彼の理屈は彼の頭の中では完結しているのだが、他の人を説得する力にいつも欠けていた。しかし、このときの暁彦は、三十数年前から考えてきた自説の発表の場と聴衆をむざむざ逃がしてなるものかと、すぐ平静な様子に戻り、いつになく慎重に話し始めた。
「熊の頭蓋や皮に対する男の執着心は、相当強いようだね。確かに頭蓋自体からは理屈抜きに威力を感じる。その動物の精霊が頭蓋の額のあたりに鎮座しているのをなんとなく感じとれるからなのかな。」
 暁彦は、家の中だというのに周りを警戒するように声を落とした。
「動物愛護団体の方々の耳に入るとややっこしくなるんだが、動物の皮は、昔の人々にとってたくさんの使い道があったんだ。たとえば乳製品や酒を発酵させ保存する入れ物、船の浮き袋、楽器、金属加工用のふいご、などにね。とりわけ祭りの儀式にはなにものにも代えがたい役割があった。皮には本来の持ち主の強い霊が宿っていると考えられていたから、幼子を皮で包んで霊力を憑けたり、皮をかぶったシャーマンを聖なる者に変身させたりなど、生と再生・復活の儀式に不可欠なものだった。」
 続けて言った。
「それにつけても、人の文明がそのころの時代から変化しなかったなら、地球環境は平和な状態で永遠に守られただろうに。もっとも、そういう世界で私たちが生きられるかどうか心許ないがね。」
 ぼやきの暁彦が、ため息をつきながらその話題を締めくくった。
「ところで、とのたちが日本列島の下に龍がいるのを見つけたのは大スクープだね。」
 とのは、ヴァロンといっしょに龍高岳連峰のてっぺんで見たものがはたして龍だったんだろうか、と自問していると、しがみついていた山脈が大きく羽ばたくように身体を揺らしたあのときの興奮がよみがえって、上唇と鼻の穴が自然に膨らんだ。ごつごつとうねる山脈の下で、何者かが手や足や首や尻尾を動かしたにちがいないと思った。
「中国の龍の文化が日本列島に伝わり、日本の古代社会の形成に大きな影響があったことはほぼ確実なんだよ。」
 暁彦は、日本への龍の伝播についてこと細かにしゃべったのだが、煩雑すぎるので省略する。
「文化が伝わったという程度のものではなく、龍をはじめ、中国大陸の動物たちを引き連れた人々が、日本を支配したという考えさえあるくらいだ。」
 暁彦は、自分の先祖が北方系の渡来民だと思っているふしがあり、はるか昔、シベリア方面から中国大陸を通って、未開の日本を侵略する様子を思い描いているようだった。
 龍形の霊獣のイメージは、中国や日本だけでなく、地域により違いはあるが世界中の民族文化にあまねくその記憶が刻まれている。蛇のイメージとの混同もそこかしこに見受けられる。有名なのはインドのナーガだ。中国では、仏教とともに伝来したナーガを龍と翻訳したが、ナーガは蛇のイメージが強く、中国固有の龍の観念とは明らかに印象が異なる。また、ドラゴン系の動物は大半が人に災いをもたらす悪神であって、全能の龍のようなイメージではない。では、中国からやって来て、日本人の意識に植えつけられた龍とはどんなものなのだろうか。
 龍は猫族の間でも有名な動物で、「えっ、なに?」なんて言おうものなら白い目で見られた。とのは子どものころから、龍好きの、というより龍とそれにまつわること以外にあまり興味を示さない暁彦から、龍の話を何度も聞いた。そのうち、自分なりの龍のイメージを思い描けるようになったのだが、そのたびに、猫の心の中にある情念と響き合うためなのか、なんとなく気味悪くて背筋がぞくっとした。
「龍っていうのは、えーと、ヘビを太くしたような胴体に四本足をつけた、頭のでかいヤツでしょ?」と、とのに代わって、奈月が答えた。
「ぼくのイメージもおおざっぱに言うとそんなところだね。龍は知らない者がいないくらい有名なのに、なぜそんなアバウトなイメージなのか、残念ながらその理由をきちんと説明できた人はいないんだ。」
 暁彦は続けた。
「龍に蛇形のイメージがつきまとうのは、おそらく、人々の心の奥底に、超自然的な生命力を持つ生き物の代表として、蛇のイメージが刻まれているからだと思う。しかし、中国の殷代以前の龍形に描かれた伝説の王様たちの図像を見ると、その下半身は蛇にしては短く、動物や魚の尻尾のようにも見える。中国の龍の図象や文様は、蛇よりも、馬とか鹿とかの大型ほ乳類との関係が深いとする説が有力だ。」
 とのも奈月も、学校の先生のようなしゃべり方になった暁彦が何を言っているのかぜんぜんわからなかったが、誰も彼の弁舌を止められなくなってしまった。その要旨は次のとおり。
「中国古代には、四神、あるいは四霊と言われる霊獣がいて、龍は鳳凰、白虎、玄武、麒麟と並び称されている。そもそも中国古代の人々は、東西南北の方位をつかさどる方神という強力な神が、人々の住居に強風などの災いを送ってよこすと考えて、その神をなだめるため集落の四方向の門に動物などのいけにえを架けたそうだ。その風習のなごりが方位を司る霊獣を生んだと推論することもできる。」
「四神、四霊の中でも、龍はいちばんわかりにくい形をしている。そもそも龍には九龍の姿があると言われるように、蛇形をベースに、虎や鹿、熊、鳥、牛、羊、馬、魚などの多くの動物の特徴をまんべんなく兼ね備えている。恵みと災いをもたらすスーパーアニマルの龍には、抽象的なイメージがいちばん似合っていたということだろうか。」
「中国では、龍という文字が、地名や姓名にもずいぶん取り入れられている。」
 中国の殷代には、都の周辺に多くの氏族がいた。甲骨文(亀甲、獣骨に彫られた漢字の起源となる文字)などには、龍(龍方)という族名や瀧という地名が刻されていて、瀧という川のほとりの土地に、龍人と呼ばれた人々が住んでいたと推測される。龍が実在することを記述した文献もある。拳龍(かんりゅう)氏、御龍(ぎょりゅう)氏と呼ばれた人たちは龍を上手に飼い慣らし、祭儀を行っていたという。一族の者が、龍を死なせたため、あるいは皇帝に龍肉を献上できなかったため、他国に逃亡したという記述もある。
「じゃあ、やっぱり龍は実在したんじゃない?」
「理屈ではあり得ないことだけど、ひょっとしたら、そうかもしれないな。」
 古代社会では、それぞれの氏族の成り立ちは、野生の動植物や自然物のなにかに由来していると考えていたという。それはトーテムと呼ばれ、信仰の対象にもなった。いくつかの氏族が何らかの要因で合体し、大きな国を形成しようとするとき、ばらばらだった神々の統合も行われた。それをきっかけに、野生の動物たちが統合され、龍をはじめとする霊獣に姿を変えたという考え方もできるだろう。事実、殷は他の氏族の祭儀(たとえば河神や岳神などの祭儀)の場とその執行権を握ることによって、国を拡大したと言われている。
 龍形の神をいただく人々の末裔は魯や范の国へ継承されたとされるが、今となっては、龍の祭儀がどんなものだったか確かめようもない。しかし、ひょっとしたら中国の奥深い土地で、未知の霊獣の龍を使い、秘儀を行っている人々が今でもいるのかもしれない。

 暁彦は、少し前のテレビ番組で、中国四川省茂県(もけん)の高地に住むチャン族の一集落の映像を見た。彼らは、外敵の侵入に対抗し辺境の山地に石造りの家を建てたのだが、その家に背の高い角張ったサイロ風の塔を併設し、敵兵が押しかけるとそこに籠城し、最上部の見張り台から矢を射かけたという。彼らこそがまさに、甲骨文に「羌人(きょうじん)三人を川に流す。」などと記された羌の末裔の人々だった。彼らはいけにえを求め狩りをする殷人から逃れ、その地で三千年もの年月を生き延びていた。
 一説に、羌の人たちは、殷の前の時代に栄えたとされる夏王朝の建国に深い関わりがあったと言われているが、真偽のほどは定かでない。また、夏王朝の始祖の禹は竜形の姿をしていたと伝えられている。とすると、殷の人々は龍の国を倒して建国したことになる。殷人が、龍に対し豊かさをもたらす霊獣のイメージを認めるとともに、祟りを恐れる気持ちを持ったのはこのためかもしれない。
 羌人を狩った殷国はとっくに消滅したが、羌人は、あの高台の塔に閉じこもり、同族意識を失わないで現代までの長大な時間を過ごしてきた。もともと中国北西部の遊牧の民だったはずの彼らにとって、異国の地に閉じこもる生活とはどんなものだったのか。暁彦は自分の先祖かもしれない羌の人たちへの郷愁のため、身を焦がす思いでテレビを観ていたのだが、晴れ晴れとした彼らの表情に、曇りや悲壮感のようなものはかいま見られなかった。暁彦は、心にいらだたしさのようなものを残したまま番組を見終わって、ふとあることに気が付いた。彼らの計りしれないしぶとさは、彼らの精神に住みついている祖先の神話、つまり龍からのたまものに違いないと。
「龍のイメージって、いけにえとか他の民族の征服とかにつながっていて、やっぱり血生臭いんだね。」と奈月が言った。
「龍には確かにいけにえの気配が濃厚に漂っている。石田英一郎氏は新説河童駒引考で、馬をいけにえとして河神に捧げた習俗を紹介しているが、その伝説が残る地方では龍の文様のついた遺物がいくつも発見されていて、水の神へのいけにえの儀式に、龍が深く関わっていたことがうかがわれるんだ。」と暁彦がまた話し始めた。
「いけにえって、自分たちにとって相当大事なものを捧げる儀式なんでしょう? ということは、よっぽどそこにいる神様はわがままで、逆らうと君のように怖い顔で怒ったんだね。」と奈月が暁彦を指さして言った。
「殷の時代には、占いをして王様によくないことが起きるとされたら、大概いけにえを捧げているね。たとえば王様の旅行の行く手に災いがありそうなら、生首をつり下げて、悪神をなだめながら行進したそうだ。こうして安全に通行できる通路を、道筋を表す辶に首を加えた道という文字で表現したのだよ。」
 暁彦はわざとらしく声を震わせて言った。
「ヒェー、怖くて道路を歩けないよ。」とのと奈月が思わず叫んだ。
「いけにえの習俗を示す文字はほかにもたくさん伝えられている。たとえば、河神の祭儀を表す「流」という甲骨文には、逆さにした『子』を川に流す場面が描かれている。白川静氏は、河神に子(人)をいけにえに捧げる意味だと解釈している。昔から世界各地には乳飲み子を川の水で清めて、すこやかな成長を祈る習俗が伝えられているが、その儀礼がいけにえの意味にも通じるのはなぜなのか、血が嫌いなぼくとしては勉強すればするほど卒倒しそうになるよ。」 
「子どもの清めの儀式が、いけにえと紙一重とはね。」と奈月は顔をしかめた。血が嫌いだと言いながら、暁彦の目はらんらんと輝きを増してきた。
「なんと言っても、最高のいけにえは人なのだよ。」と暁彦はこともなげに言った。
「甲骨文の世界には、いけにえを表す文字がたくさんある。たとえば、後ろ手に縛られて跪いた人の形は、今にもいけにえにされそうな女の姿にそっくりだ。史書にも、殷の祭の残虐な人身供犠が他の民族の反感を買い、殷の滅亡につながったとされているんだ。」
「でも、最近、紀元前数百年ころの西周時代のお墓の遺跡から、馬に似た動物のいけにえが発見された。ということは、いけにえの風習は殷特有のものだったのではなく、どの民族もやっていた一般的な儀礼だったんだね。その風習はなかなか根強く、後世の人々にまで受け継がれ、遠くまで広く伝わった。日本にも、若い女性をいけにえに差し出す昔話があったり、さらし首だとか殉死だとか玉砕だとか、なにかいけにえの気配を感じさせるものが残っているだろう?」暁彦は、神妙な顔になって続けた。
「人の弱い心には、神に対していけにえを差し出す代わりに、聖なる力を借りて人々を治め支配したい、残虐な行いを許してもらいたい、という根強い欲望みたいなものがあるんじゃないのかな。」
 暁彦は、余計な話になってしまったと独り言を言いながら、甲骨文についてもう少し踏み込んでもいいかな?、と奈月たちに伺いを立て、次のような話を始めた。
 彼は若いころ、甲骨文や金文(青銅器に鋳られた文字)の動物文字をまじまじと見たとき、ほとんどの文字が生きた動物の象形ではなく、どんな動物の姿を表すのかわからなくなるまで細かく分解されていることに、大きな衝撃を受けた。
 たとえば、鹿のもともとの文字は、頭蓋と心臓と皮と骨に切り分けられた形をしている。鹿に夂(足)を加えた慶は、シカを用いた占いで良い結果が得られて『よろこばしい』という意味を持ち、祝い事の贈り物に使われたシカ皮のイメージに通じる文字である。牛や羊の文字はそれらの動物の価値がりっぱな角の形にこめられている。馬字などのように、屈強な体躯の全体骨格を地面に横たえたものもある。
 注目したいのは、熊や未知の生き物の龍の文字。両字とも頭や内臓を、棒に載せたりぶら下げたりした形なのだが、そのいわれはまだ解き明かされていない。贏字などもよくわからない文字で、熊龍字と同様、解体した動物の内臓をぶら下げるか並べるかした文字だろう。
 なかには一目見て、動物の種類を言い当てられるものもある。たとえば鳥は、解体の仕方が大型ほ乳類と異なるためか、その文字には生きた姿がかなり保存されている。鳥字の中には、体の中央部に横棒が通った文字があって、これは動物などを棒に載せたり架けたりしたことを表すものだろう。ちなみに方角、方神などの方の文字にも横棒があり、人の死骸を棒に架けた形、つまり人をいけにえにした祭儀を表すとされている。鳥字とはいけにえにされた鳥の姿を表したものという解釈が妥当だろう。その後、鳥は天空の神、風神に使える霊鳥と見なされ、鳳凰にまでのぼり詰めることになる。
 では、解体された動物文字を見ても、実物のイメージを思い浮かべられないのに、なぜ鹿の文字が動物のシカの意味に、熊字がクマの意味になるのか。
 動物文字を見れば、動物の部位がどんなところに置かれたのか、どのように扱われたのか想定できる。たとえば广のついた文字は庇のある建物の中にあることを意味し、灬を加えた文字は火で焚かれたか、あるいは火の神と同座したことを示すのかもしれない。解体されて、草の上や林の中に置かれたものもある。
 このように見ていくと、氏族がトーテムとした動物それぞれに、祭儀のパターンがあったのだろう。動物のシカをトーテムとした氏族には鹿祭の、クマをトーテムとした氏族には熊祭の、祭壇の作り方と祭儀の進め方があったのだ。殷人は、その祭儀の様子を見て、あるいはその祭祀権を奪いとって、文字に写した。そのことが、解体され屍の姿で表現された動物文字の多くが、個別の動物の意味を持つ理由なのだと暁彦は確信していた。
 ところで、殷の人々がこのような動物の形を多くの文字にとどめたのは、彼らも狩猟民として、動物祭儀をしていたことがある証拠と考えるのが自然なのではないか。しかし、祭儀を執り行っていたとはいえ、殷の文明に浴した人々の多くは、狩猟民の神話を忠実に受け継ぎ、生身の動物に感謝する狩猟民本来の気持ちを保ち続けていたとは到底言えない。詳しくは後述するが、彼らは、すでに動物たちを隣人として遇することはなく、いけにえとして怒れる神々に差し出していたのだから。
 暁彦はふと思いついて、とのに向かってこう言った。
「中国ではなぜか猫の文字がずっと後世までなかったんだって。つまり猫はいけにえにされた形跡がないんだ、よかったね。」
 とのは、人というのは薄情な動物だと思った。人のためではなかったけれど、猫がどれだけ骨身を削ってネズミ捕りしたことか。その波及効果の大きさがわからない人々から害獣の扱いを受け、虐められたり殺されたりしたそうだ。後世、人はその誤りに気がついて、ようやく猫の字を作った。

 暁彦はひと通り動物文字の解釈を話した後で、椅子に座りなおして次のように続けた。
「漢字の起源の甲骨文や金文の時代から、龍字には簡単な竜と四角い龍の二文字があるっていうのは、実に興味深いね。簡単な竜の文字には尻尾のようなものがあって、いわゆる竜形に見えるけど、四角張った龍はどんな動物の姿かぜんぜんわからない。」
 暁彦は、ますます自分の世界に入り込んだ。
「簡単な竜字は、霊獣であることを示す冠、あるいは『辛』の文字を戴いた頭蓋があり、その首の部分から曲線が伸びている文字だ。この曲線には、先が内側に丸くなったものと、外側にはねているものとがある。これまでこの曲線は蛇あるいは虫の胴体の形と解釈されてきたが、これは鹿や慶などの、動物の皮を愛でる文字に描かれている曲線と同じで、動物の皮だとぼくは推定しているんだ。」
 暁彦は、いったん言葉を切り、遠くを見つめる目になった。
「動物を解体するとき、頭蓋に全身の皮をつけたまま胴体を切り離すのが一般的なやり方だ。頭蓋には動物の精霊が宿り、皮はその聖なる動物が人の世界に残していくたいへん貴重な衣(襲)で、強い生命力を宿している。聖なる頭蓋はやぐらに組まれた祭壇の最上部に安置され、大きな皮は頭蓋からだらりと垂れ下がっている。その前で、人々は動物の精霊に感謝しながらその肉を食す。これが、ある北方狩猟民の熊祭りの一日目に、屋内で行われる祭儀の様子だ。」
 暁彦の言葉が途切れた。
「との、よく聞くんだぞ! この熊の頭蓋と垂れ下がった皮を載せた櫓を横から見たら、どんな姿が目に飛び込んでくるか、想像してみてくれ。まさに冠をつけ尾を巻いたような、甲骨文の竜字そのものなのだ!」
 力が入りすぎた暁彦の体は、今にも後ろにひっくり返らんばかりになった。
「一方、四角い龍字には、鳥や方の文字と同様、一本の横棒があるんだよ。」
 暁彦はふぅと大きく息を吐いて続けた。
「龍字の場合、横棒、つまり祭壇の上部に書かれた『ム』あるいは『云』は、死んだ動物の頭蓋に宿る精霊を表したものだと思う。棒の左下の『月』は、つり下げられた動物の内臓であり、棒の右下にうねる一本の線で描かれているのが肉や内臓をはぎ取られた皮なのだ。金文などには皮の横に三本の線が描かれている龍字があるが、これは額の入れ墨を表す彦の文字と同じで、さんさんと光り輝く様子を表しているんだ。龍関連の文字にはその皮を『兄(シャーマン)』が手にとろうとしているものもある。」
 次に暁彦は、熊字と龍字との類似性について話し始めた。
「熊の字の場合、火を加えた字は後からできており、古い字形は能とされている。左側の偏は龍とまったく同じで、右側の旁は動物の骨が二つ配置されている。熊の骨は、他の動物と扱いがまったく違って食用にされることはなく、頭蓋を置いた場所のすぐ下の地面にていねいに埋められて、再生の祈りを捧げられる。」
「龍字や熊字は、熊祭りの二日目以降に戸外で執り行われる、魂送りの祭壇の様子と瓜二つと言っていい。つまり、架空の動物の龍も、動物祭祀の中の最大の祭りである熊祭と、同じ方法で祭られた動物だということなのだよ。」
 暁彦はとうとう言ってしまったというように身体の力が抜けて、椅子にはまりこんでしまった。
 では、構造上、きわめて近い関係にある文字の一方が実在する動物の熊を指し、他方が架空の霊獣の龍を表す理由はなんなのだろうか。
 熊祭の時代、人は、偉大な精霊である熊をはじめとして、あらゆる動物に素朴な感謝の念をもって祭儀を行った。龍祭の起源は、昔々龍人が瀧という地方の祭儀場で執行していた動物祭儀だったと思われる。当時の龍祭は熊祭と同じ性格の祭で、おそらく熊あるいは熊に似た動物の祭儀だったと推定して間違いないだろう。後に殷人がその執行権を奪い取った、つまり龍人を征服したとされている。
 ところが、文字ができた殷の時代・社会には、一定地域の氏族たちを支配する王の統治が始まっていて、天上の世界にも、世俗の社会を反映して帝という絶大な神を頂点に、風神、河神、岳神などを配置した階層構造ができた。つまり、狩猟生活から牧畜や農耕へと社会構造が変化する過程で、熊という文字で表された原初の動物祭儀が、龍といういけにえを伴う高度な祭儀体系に変貌を遂げたということではないだろうか。つまり、熊とは王権が成立する前の狩猟民の熊祭、龍とは殷代に成立した最高神の帝にいけにえを捧げるクマ祭を表す文字だと推定される。
「龍の威力が絶大だとは言っても、その後何千年ものあいだ、影響力が衰えることなく続いているのは不思議よね。」と奈月。
「きっと、龍の神話というのは、社会の盛衰、国の興亡などの次元をはるかに超えて、人々の原初的な意識の深層に、しっかり刷り込まれているとしか考えられないね。」と暁彦は言いながら、はるか昔に生きていたことを思い出そうとしていた。

 殷の祭りは、血生臭さと火にあふれ返っていたと言い伝えられている。神聖国家の殷にとって、制圧した他の氏族を前にして、祭祀権の掌握を大々的に宣言するのは最重要の政のひとつだった。そのため、他の氏族の心を震撼させるような、きわめて華やかな大スペクタクルの祭を演出したことだろう。そのかつてない大仕掛けは、多くの動物たちと神官たちが動員され、いけにえの血でむせかえるような生々しいものになっただろう。そしてこの祭に参加し、あまりの感動と恐怖に打ちのめされた人々は、その祭を通して、実在の動物が姿を替え、龍などの超自然の動物に変じるのを目の当たりにしたのだ。
「こうして神に捧げられ、神とこの世をつなぐ使者となった龍は、帝の威力を借りて、空を飛び地に潜り大地を潤し大災厄を起こすような能力を持つ、猛々しい霊獣に姿を変えていったのだよ。」
 暁彦は、こう言うとしばらくじっと動かなくなった。本物の龍祭を思い描いて、少しの間、失神していたのだ。やっと彼の長い話が終わりに近づいた。

 これら殷代の人々が全身全霊で神々に祈りを捧げ、その判断を仰いだ秘儀は、甲骨文や金文に生々しく克明に描かれている。その当時、亀甲や獣骨に刻された文字は朱に塗られ、ていねいに磨かれた青銅器は黄金色に輝き、それらはこの世のものとは思えないくらいきらびやかで、神聖なものとして扱われていた。つまり、殷人の生み出した文字とは、儀式のあり様を記録する手段といった役割を超えて、人の口から流れ出て虚空にただよう祈りを目に見える形に刻印して、それを神に捧げる秘儀そのものであった。そのことは、殷の祭儀の正当性といけにえの威力を、具体的に証明することにつながった。
 だが、人の叡智の結晶ともいえる文字の可能性は、王の祭儀や神話といった閉鎖的な世界にいつまでも収まってはいなかった。歴史が証明するとおり、文字に込められた様々な知識、文化は、人間社会へあふれ出し、人間の知性、理性、そして精神性を高める役割を果たし、無謀な闘いやいけにえを必要としない社会の出現を促した。
「それにしても、自然界の圧倒的な力を克服し、神の力さえ限定的なものと考える人々が多くなった今でも、よりによって人間同士が、いけにえを求めて闘い続けている理由はなんなのだろうね?」
 彼は大きな頭を左に右に傾げてぶつぶつ自問自答していたが、急になにかに気づいたように言葉を呑んだ。
「もしかすると、せっかくの文字がなんでこの世に存在するのか、本当の意味に人々は気が付いていないのか……」
 とのは頭が混乱状態だったが、猫も、熊や龍に変身できることをなんとかして確かめてみたいと強く思った。(第1 龍をめぐる一考察 了)



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ノラ、クルスそして、との

2013年02月06日 14時52分43秒 | ファンタジー

 内田百(ひゃっけん)の随筆に登場する猫たちの中に、クルスという猫がいる。ノラが行方不明になってしばらくしたころ、クルスはぶらりと百の家にやって来た。少し年のいった猫で、そうとう闘いに強かったようだ。でも、百たち家族には子どものように懐いた。数年後、クルスは闘病の末、家の中で死んだ。最期を看取るのは辛いけれど、外で死なれるよりどれほど諦めがつくことか。その夜、クルスは以前とまったく同じように、百夫婦の蒲団に上がってきた。
 私も同じ経験をした。昔、我が家にいた黒猫「との」が十五才になる直前に死んで、それからしばらく、甘えたグルグルという声を枕もとで聞かせてくれた。一年近く経ったころだろうか、その声は聞こえなくなった。私たちが「との」の死を納得したのもそのころだった。(了) 

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とのの画像

2013年02月06日 09時28分27秒 | ファンタジー

 数日前、グーグルで検索していると、「黒猫とのべいの画像検索結果」というキーワードが立ち上がり、そこに、このブログに掲載した「はな」の写真が二枚だけ出ていた。その横に黒猫が写っていたが、その猫はブログに登場する黒猫「との」ではない。たまたま「との」という名の猫なのか、「とのべ」というのか、「のべい」なのか、「べい」なのか、それとも黒猫というだけで、検索エンジンに引っかかったのか。
 とのの写真は、初めて授かった子どもの写真が多いのと同じで、はなの写真よりたくさんある。しかし、写真の「との」は過去の映像であって、それを公開する気持ちにはならない。とのは、私の思い出とブログの文章世界の中で自由奔放に振る舞いながら、きっと私よりずっと長生きするはずだ。(了)
 
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