帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの平中物語(三十四)また、この男、しのびたる ・(その二)

2013-12-05 00:03:06 | 古典

    



               帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた平貞文の詠んだ色好みな歌を中心にして、平中の生きざまと人となりが語られてある。

 歌も地の文も、聞き耳によって意味の異なるほど戯れる女の言葉で綴られてあるので、それを紐解けば、物語の帯は自ずから解ける。



  平中物語(三十四)また、この男、しのびたるものから ・(その二)


 さて(人目忍んで通っている女に、高貴な人が通い始めたと知って、女といさかいして)この男(平中)、時々行く所(別の女の家)があったので、ほのぼのと明ける頃に、帰ったのだった。あの、あんなこと言う女の家の辺りを通り過ぎて行った時に、今は里帰りしているというのは真実だろうかと、なんとなく気配を見ようと、
思ひはなたで(思い放てない……女への思い棄てられない)。見ると・門の内の方に車を停めて、あの、品(身分…人柄)の貴い男の供の者など、大勢立って居たのだった。その時、もの言わないで奥に入って、こっそり見れば、女、しとみ()を押し上げて、彼の貴い人をお出ししていたのだった。この男、こうも現実に見てしまったことの、心うきこと(心憂きことよ……なんと辛いことよ)と思って、よにしらず心うかりけれど(実にこれまでにないほど恨めしかったけれど)、女に・もんくの一言でも言おうと、それでもやはり、今の情況を・見たと思われないでおこうと、板敷きの端に寄って、しばらくして・声高く「あな、おもしろの花や(あゝ、美しい・草の・花だなあ……あゝ、妙な・木の・花だなあ)」と言えば、この女、奥へ入ってしまってはいなかったので、あやしく思って、さし覗いた。顔見合わせて、「いかでかは、ここに、こうは(どうして? ここに! こうして!?)」と言えば、「この前栽の花の目に見す見すうつろふ見はてになむ(この前栽の花が目に見えて散りゆくのを見果てようとしてだよ……この庭の草木の花が目に見えて移ろい果てるのを見とどけようとしてだよ)、まゐりきつる(やって来てしまった……参上して居る)」と言ったのだった。

その家の前に、桜がとっても美しく咲いて、春の果て方だからであろうか、散っていたのだった。それを見て、男、
 あらはなることあらがふな桜花 春はかぎりと散るは見えつつ

(明白なことを、いいわけするな、桜花、春は限りと散るのは見えつづいている……顕わなことを弁解するなよ、男花、春は限りと散らし去るのは見えた、むなしい)。


 言の戯れと言の心

「おもしろの…趣きのある…美しい…隠れていたことが明白になった」「花…草花…女…木の花…男」。

歌「あらはなる…顕わなる…表面に顕れた明白な(面白い)」「桜花…木の花…男花…男…おとこ花」「春…季節の春…春情…張る」「ちる…散る…散会する…はてる」「見…目に見ること…覯…媾…まぐあい」「つつ…つづく…継続を表す…筒…中空…空しい」。


 と言って、さっと出て行ったので、「えこそ、しばしや(できれば、しばしお待ちになってよ)」と言ったけれど、男は・いとかううし(とてもそのように、気が進まない……とても媾する気にならない)と思って、止まらなかったので、しひて(強いて……追っかけて無理やり)、このように、
 色にいでてあだに見ゆとも桜花 風し吹かずはちらじとぞ思ふ

(目に見えて、はかなく見えても、桜花、風さえ吹かなければ、散らないでしょうと思う……色に出て不実に媾しても、おとこ花、男の心に春の風が吹かなければ、散らない・去って行かないと思うけど)。


 言の戯れと言の心

「見ゆ…思える…媾する」「いとかう…いと斯う…いと交…いと媾」「いと…非常に…まったく…たいして」「うし…憂し…ゆううつだ…気が進まない…そんな気になれない」。
 歌「風し吹かずは…春の風さえ吹かなければ…憂しとかけしからんという風さえ君の心に吹かなければ…心に風吹かないように我慢すれば」「ちらじ…花は散らない…男は去らない…女を憂しと思わせない」「思ふ…女は思う…男は多数の女にこき散らしているのにどうしてお怒りになるのかと思う…男の独占欲など矛盾していると思う…梅も桜もこき交ぜてわが中に散ればいいと思う…少し思い様を変えれば風は男の心に吹かないでしょうにと思う・などなど」。


と言ったけれど、「ものへいでぬ(ちょっとその辺へ出かけた)」ということで、返事もしなかった。
 
さて(こうしたことがあって)、あの後に通い住んだ品高き男も、この元の男が、女の家に入るのを見た供の人が語ったので、それでは今も通い住んでいたのだと思って、絶えてしまったのだった。
  

  (第三十四章終わり)

 

このような結果になった。この女が愚かだとか浮気だからなどと思うのは男の思いである。誰も悪くは無い。独占、占有したいと思うのは、男のさがであり、この女から見れば、持続力の無さと共に、男の欠陥かもしれない。何とかできるでしょうと思っている。そのように女の歌は訴えている。

 



  原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。 歌の漢字表記ひらがな表記は、必ずしも同じではない。



 以下は、今の人々を上の空読みから解き放ち、平安時代の物語と歌が恋しいほどのものとして読むための参考に記す。


 古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、歌が恋しくなるだろうとある。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に学ぶ。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることがわかる。これが「歌の様」である。

「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。

 

歌も物語も、今では「色好み」な部分がすべて消えて、清げな姿しか見せていない。その原因は色々あるけれども、一つは、鎌倉時代に和歌が秘伝となって埋もれたことにある。古今伝授として秘密裏に継承されたがそれも消えてしまった。秘伝など論理的に解明することなど不可能であるから見捨てて、原点の貫之・公任の歌論に帰ればいいのである。もう一つは、近世より、古典文芸について、論理実証的考察が始まったことである。この方法は文献学や言語学には有効な方法かもしれない。誰もがこの方法を、和歌や物語の解釈にも有効であると思いたくなる。しかし、和歌と女の言葉の戯れは、論理などで捉えられるような代物ではなかったのである。「聞き耳異なるもの・女の言葉」とか「歌の言葉・浮言綺語の戯れ」ということを、素直に聞けばわかる。言語観は平安時代の清少納言・藤原俊成に帰るべきである。

 

歌の修辞法とする序詞、掛詞、縁語を指摘すれば、歌が解けたように思いたくなるが、それは、歌の表層の清げな衣の紋様の発見にすぎない。公任のいう「心におかしきところ」は、「歌の様を知り言の心を心得る人」の心にだけ、直接伝わるものである。