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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(61)
弥生にうるふ月ありける年よみける 伊勢
桜花春くはゝれる年だにも 人の心に飽かれやはせぬ
(弥生三月に閏月の加わった年に詠んだと思われる・歌……や好いに張るもの一つき加わった利しに詠んだらしい)伊勢
(桜花、春が、一月・加わる年でさえ、人々の心に、なぜか飽き満ち足りない・咲きつづければいい……おとこはなよ、春情・張る、一突き・加わった、疾しでさえ・利しでさえ、女の心に・なぜか飽き満ち足りないものなのよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「桜花…男花…おとこ花」「春…季節の春…春の情…張る」「とし…年…疾し…早過ぎ…利し…するどい…はげしい」「やはせぬ…(咲き続ければ)いいのになあ…(咲き続け)ておくれ」「や…疑問を表す…感嘆・詠嘆を表す」「ぬ…打消しの意を表す…連体形で物などの体言が省略されている…体言止めは余韻・余情が残る」。
桜花よ、一月長い春のあいだも、人々の心に、なぜか飽きられない・咲きつづけて欲しい。――歌の清げな姿。
おとこ端よ、張る一つき追加する利しであっても、女の心に、飽き満ち足りないものなのよ。――心におかしきところ。
女性の心に思う事を「清げな姿」につけて、言い出した歌。
和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視して行われてきた。貫之のいう「歌の様」を知らず「言の心」を心得ない解釈である。歌の「清げな姿」は見えても、「心におかしきところ」は顕れない。江戸の国学と明治の国文学の解釈は、歌の「清げな姿」が見えているだけなので、正岡子規が「古今集はくだらぬ集に有之候」「歌らしき歌は一首も相見え不申候」と述べたのは、国文学の間違った解釈に基ずいたためで、当然の批判であった。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)