帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(61)桜花 春くはゝれる年だにも

2016-11-02 19:21:02 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」

                         ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上61

 

弥生にうるふ月ありける年よみける  伊勢

桜花春くはゝれる年だにも 人の心に飽かれやはせぬ
           
(弥生三月に閏月の加わった年に詠んだと思われる・歌……や好いに張るもの一つき加わった利しに詠んだらしい)伊勢

(桜花、春が、一月・加わる年でさえ、人々の心に、なぜか飽き満ち足りない・咲きつづければいい……おとこはなよ、春情・張る、一突き・加わった、疾しでさえ・利しでさえ、女の心に・なぜか飽き満ち足りないものなのよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「桜花…男花…おとこ花」「春…季節の春…春の情…張る」「とし…年…疾し…早過ぎ…利し…するどい…はげしい」「やはせぬ…(咲き続ければ)いいのになあ…(咲き続け)ておくれ」「や…疑問を表す…感嘆・詠嘆を表す」「ぬ…打消しの意を表す…連体形で物などの体言が省略されている…体言止めは余韻・余情が残る」。

 

桜花よ、一月長い春のあいだも、人々の心に、なぜか飽きられない・咲きつづけて欲しい。――歌の清げな姿。

おとこ端よ、張る一つき追加する利しであっても、女の心に、飽き満ち足りないものなのよ。――心におかしきところ。

 

女性の心に思う事を「清げな姿」につけて、言い出した歌。

 

和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視して行われてきた。貫之のいう「歌の様」を知らず「言の心」を心得ない解釈である。歌の「清げな姿」は見えても、「心におかしきところ」は顕れない。江戸の国学と明治の国文学の解釈は、歌の「清げな姿」が見えているだけなので、正岡子規が「古今集はくだらぬ集に有之候」「歌らしき歌は一首も相見え不申候」と述べたのは、国文学の間違った解釈に基ずいたためで、当然の批判であった。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)